摩訶不思議 朝。 良い香りが漂う真子の自宅。 まだ、朝焼けの時間。真子は、既に目を覚ましてはしゃいでいる愛娘・美玖(みく・一歳)を抱きかかえる。 「パパは、まだ寝てるからねぇ〜。起こさないようにぃ」 ベッドの上では、真子の夫・ぺんこう(山本芯/やまもとしん。寝屋里高校・体育教師の仕事をしている)が眠っていた。ベッドに潜ったのは、ほんの一時間前。今頃は熟睡してるはず…。 真子は、美玖を抱きかかえて部屋を出て行った。 階段を下り、リビングに顔を出す。リビングと通じているキッチンでは、すでに、むかいん(向井涼/むかいりょう。AYビルにある料理店の料理長として仕事をしている)が朝食の準備をしていた。足下には、むかいんの息子・光一(こういち・一歳)が座っていた。 「おっはよぉ」 その声に振り返るむかいん。 「おはようございます。…まだ、夜が明けてないんですが…」 「美玖が起きてたし、芯は、寝てるから」 真子は、むかいんの側まで歩き出す。 「そういえば、一時間前まで電気付いてましたね」 「そろそろ受験シーズンだから。また問題を作らされてるみたいだよ」 「体育教師なんですけどね」 「そだよね。…光ちゃぁん、おはよぉ」 真子に振り返る光一に笑顔で挨拶をする。光一は、無邪気に笑っていた。 「…理子は、まだ寝てるん?」 「調子が悪そうなので…」 「そう言えば、この香りは、特製だね。熱でも出た?」 「えぇ」 「風邪かな? それとも疲れてるかな?」 すごく心配そうな表情で、キッチンの横から離れに向かう廊下を見つめている真子。 「疲れているのは、組長ではありませんか? このところ、忙しかったでしょう?」 「まぁ、そうだけど、いつものことだし…」 「今日のご予定は?」 「昨日と一緒で、会議かな…」 むかいんの質問に応えながら、真子は、理子の居る方を見つめていた。 「一緒に、行きますか?」 「うん…」 そう言って、真子は、むかいんの足下に居る光一も抱きかかえた。 「腕を痛めますよ?」 「大丈夫だって。まだ、軽いから。それ持っていくでしょ? 光ちゃんに危険だから」 「ありがとうございます」 真子とむかいんは、離れの方へと歩いていった。 奥の部屋のドアを開けると、そこは寝室。ベッドの上には、理子(りこ/むかいんの妻。真子と親友。)が眠っていた。ドアが開いたことで目を覚まし、顔を向けた。 「真子?」 「調子悪いって聞いたから。…風邪?」 「うん…」 いつも元気な理子。本当に体調が悪いようで、いつもの元気さが無かった。 「熱計ったか?」 むかいんが、特製料理をのせたお盆をサイドテーブルに置きながら、理子に優しく尋ねた。 「八度五分…」 「更に上がったね。…これ、飲んで」 「ありがとぉ、涼ぅ〜」 むかいんに支えられながら起きあがり、特製料理を口にする理子。少し赤い顔をしていた。 「橋先生に連絡しとくよ。くまはちに頼んでおくから」 「組長、それは…」 「今日一日くらい、私に任せておいて!」 「真子…」 「だって、理子にお世話になってるし…」 「だからぁ、真子、それは、気にしなくていいって。真子の方が忙しいのに。 私は、専業なんだよぉ」 「だからだよぉ。今日くらい…。それに…光ちゃん、離れない…」 真子に抱っこされている光一を見つめる夫妻。光一は、真子の服をしぃっかりと握りしめていた。 「早めの方がいいから…」 「くまはちなら、トレーニングに出掛けてますよ」 「…………はや……」 噂のくまはち(猪熊八造/いのくまはちぞう。真子のボディーガード。真面目な二枚目。)は、河川敷に向かって走っている所だった。楽しいメロディーが聞こえてきた。くまはちが持っている携帯の着信音。くまはちは、立ち止まり、携帯電話の表示画面を確認する。 「…組長?」 受話器の上がったマークが付いたボタンを押す。 「くまはちです」 『くまはちぃ、理子を病院に連れてって。体調悪いって』 「すぐ戻ります」 『ごめんよぉ』 「お気になさらずに。では、すぐに」 『宜しくぅ』 電話を切ったくまはちは、真子の自宅に向かって走り出した。 空が白々とし始めた頃、くまはちが、自宅の玄関を通り、家へ入っていった。玄関で靴を脱いでいる時、二階から、ぺんこうが下りてきた。 「お帰り」 「おはよ。もう起きたんか?」 「いつもの時間」 「そうやけど、大丈夫か?」 「真子…知らんか?」 「リビング」 「んー」 ボォッとした雰囲気で、リビングへ行くぺんこう。続いてくまはちも向かっていく。 「お帰りぃ…。おはよ、芯…大丈夫? なんか寝ぼけてるよ……ったくぅ」 話しかける真子を抱きしめるぺんこう。 「おはよぉ。…早起きぃ…」 「…ほんと、大丈夫?」 「真子の顔を見たら、元気になった。美玖ぅ、おはよぉ〜。光ちゃん、おはよ!」 素敵な笑顔で挨拶をするぺんこうだった。 「理子の調子が悪くてね」 「それで、くまはちが、この時間に帰宅か…。風邪?」 「かもしれない。だから、今日一日、私が光ちゃんを見るから、くまはち、ごめん。 組関係、やっててくれる?」 「解りました。その前に、橋先生の所ですね」 「うん。ごめんよ。連絡はしておいたから。直ぐに連れてこいって」 そう話している間に、むかいんが、理子を抱きかかえてリビングへやって来た。理子は、眠っていた。 「くまはち、悪いな」 「気にするな。三分後な」 「あぁ」 くまはちは、リビングを出て自分の部屋へ向かっていく。 「お昼には戻ってきます」 「むかいん、休むん?」 「理子が心配ですから」 「もし、無理だったら、明日もいいよ。くまはちが居るから」 「しかし…」 「大丈夫だって」 「では、暫く、お願いします」 「まっかせなさぁい。気を付けてね。くまはち、よろしく」 「はい」 リビングのソファに座ったまま、真子は、くまはちたちを見送っていた。ぺんこうが、玄関までやって来る。 「俺もそろそろ出掛けるぞ」 「途中で、あいつに連絡しとく」 「いいのか?」 「こういう時は、遠慮しない」 「解った。頼んだよ。…真子が気にするから」 「解ってるって。じゃぁな」 くまはちは、軽く手を挙げて出て行った。 ぺんこうがリビングに戻ってくると、真子がキッチンに立っていた。 その足下には、美玖と光一が居る。真子の右足には美玖が、左足には光一がしっかりとしがみついている…。 「真子、代わるよ」 「どっち?」 「自分の食事」 「いいのにぃ」 「大丈夫ですよ。慣れてますから」 「たまにはぁ〜」 「私より、真子の方が疲れてるでしょうがぁ」 「もぉ〜。みんなして、私をそういう扱いするんだからぁ」 「いいんですよ」 「はぁい」 そう言って、真子は、美玖と光一を軽々抱きかかえた。 「おっ、力持ち」 「まだ、軽いからね。…でも、どんどん重くなるんだよね」 「まぁ、その頃は、自分の足で立って、そして、歩き回ってるでしょうから」 「そうだね」 真子とぺんこうは、笑顔で話していた。二人の和やかな雰囲気は、子供達にも伝わっているのか、無邪気な笑顔で真子を見つめていた。 朝食が並ぶ食卓に真子とぺんこうは座っていた。そして、側にいる美玖と光一に食事を食べさせていた。 「今日一日、一人って、大丈夫か?」 「うん」 「寂しくないか?」 「うん」 「…休もうか?」 ぺんこうの言葉に真子は、目をやった。 「いつまでも子供扱いせんといてやぁ」 真子は、ふくれっ面になった。 「心配だから…」 そう言ったぺんこうの目は真剣…。その目の奥には、優しさが溢れていた。 「ったくぅ。ありがと。大丈夫だよ、庭で遊んでるから。天気も良いし、 日光に当たるのもいいでしょ?」 「まだ、寒さがありますから、一枚多めに着て下さいね」 「はぁい。…明け方近くまで起きてたのに、大丈夫なん?」 「いつものことですよ」 「歳…考えてや」 真子の言葉に、ぺんこうは、目をやった。 「まだまだ、元気ですよ。…兄さんだって、三日連続なんですから。 今日くらいは、帰ってくると思いますけどね。禁断症状が出てるでしょうから」 「そうだけどさぁ。…ほんと真北さんは、疲れ知らずだなぁ」 一点を見つめながら、真子が嘆くように言った。 噂の真北(真北春樹/まきたはるき。真子の育ての親であり、ぺんこうの兄。特殊任務に就く刑事)は、明け方に署に戻ってきた。 「お疲れ様でした」 デスクに座った真北の前にお茶を差し出したのは、原刑事(はら。真北の後輩刑事)。 「ありがと。…ったく、困ったもんだよなぁ」 「まぁ、そうですけど…」 真北さんの場合は、真子ちゃんが絡むと張り切ってるだけなんですけどぉ。 という言葉を口にしたかった原は、ぐぅっと堪えていた。その言葉を発すれば、真北のこと。 怒るに決まってる……。 「久しぶりに自宅に戻るとするかぁ」 「真子ちゃん、心配してるでしょうね」 「真子ちゃんも忙しかったからなぁ。俺のことは、忘れてるって」 「そんなことありませんよ。真北さんが忘れてないので、真子ちゃんだって……」 原は、口を開けたまま、硬直していた。 真北が睨んでいた…。 「すみません…」 「……ちっ……。さぁてと!」 立ち上がった真北に、無情にも言葉が掛かる…。 「真北さん、事件発生です。阿山組と懇意にいている飲食店で、 暴れているそうです」 「…解った。原、行くぞ」 「はっ」 声を掛けた刑事を追いかけるように、真北と原は、走っていった。 真子の自宅。 真子は、出勤するぺんこうを見送った後、くまはちの手入れが行き届いている庭で、美玖と光一の三人と楽しく遊んでいた。たどたどしく歩く二人を見つめる真子の目は、とても柔らかく、そして、真子を見つめる子供達も、無垢な表情をしていた。 一台の車が、真子の自宅にある駐車場に停まった。そこから下りてきた一人の男・えいぞう(小島栄三/こじまえいぞう。駅前の喫茶店の店長を務める真子のボディーガード。くまはちと違って、不真面目さを売りにしている。)だった。庭から声が聞こえていた為、直接、庭に足を運んでいった。 人の気配で真子が振り返る。 「えいぞうさん。…くまはちから?」 「えぇ。朝早くに起こされましたぁ」 「大丈夫だと言ったのになぁ」 困ったような表情で頭を掻く真子。 「おっはよぉ、美玖ちゃんに、光ちゃぁん」 元気に声を掛けるえいぞうに、美玖と光一は、嬉しそうにはしゃいでいた。 「ほぉんと、組長の幼い頃を思い出しますね。ぺんこうに似たところが 多いのに、このようなちょっとした表情は、組長そのものですよ」 「親子だもん」 「光ちゃんも、むかいんに似た表情をしますよね」 「だから、親子だって」 「それより、組長」 「ん?」 「お一人で、二人の面倒をって、お疲れでしょう? 代わりますよ」 「ったくぅ〜〜、みんなして、そう言うんだからぁ。確かに、ここ数日、組関係で どたばたしてましたけど、私は、元気が有り余ってるんだからぁ」 「子育てと、仕事は、使う神経と体力が違いますよ。どぉっと疲れます」 「まだ朝なのに、そんなこと、言わんといてや」 「すみません」 「あれ、健は?」 「仕事ですよ」 「そっか。後でメールチェックしようっと」 「そうしてやってください。健のやつ、ふてくされてますから」 「いつものことだね」 「えぇ。……こちょこちょこちょこちょ!!!!!」 えいぞうは、急に、子供達の脇をこしょばしていた。いきなりの事に驚きながらも、大笑いする美玖と光一。 「……ほんと、えいぞうさんって、子供好きだね…。それなのに…」 「いいんですよ。それどころじゃありませんからね」 「ったくぅ、何人の女性を泣かしたら気が済むん?」 「星の数ですね」 「……はいはい」 「つめたぃ……」 ちょっぴりふてくされるえいぞうだった。 橋総合病院。 橋(はし。橋総合病院の院長兼外科医。外科医の腕は、右に出る者は居ないと言われる程の凄腕。真北の親友)の事務室で診察結果を聞いているむかいん。理子は、別室の病室でベッドに寝かされ、点滴をされていた。 「例の心配は、ない。ただの風邪。まぁ、一日、ゆっくりしといたら、大丈夫やろ」 「ありがとうございます」 「で、真子ちゃんが、一人でお守りか?」 「今頃、えいぞうが着いてるでしょうから」 「それなら、大丈夫やな。あぁ見えても、えいぞうって、子供好きだもんなぁ」 「そうじゃなかったら、幼い組長の心を射止めてませんよ」 「それもそっか。…で、むかいんは、休むんか?」 「理子の側に。…組長の言葉でもありますから。…久しぶりに二人っきりでぇって」 「…真子ちゃん、何か遭ったのか?」 「はい?」 「なんか、珍しい…疲れてるんかな…」 「それもあるかもしれませんが…いつも、心配して下さりますから。ご自分のことよりも 周りのことばかり。今の状況だって…」 「そうだよな。真北が張り切ってるからな」 「真北さんは、大丈夫なんですか?」 「連絡は入るけど、怪我の治療には来ないな」 「それなら、無理はしてないって事ですね」 「あぁ。まぁ、あいつのことだから、心配だけどなぁ」 「そうですね」 笑い合う二人だった。 「では、くまはちが、夕方に迎えに来るそうなので、それまで、お世話になります」 「おう。飯はどうする?」 「何か買いに行きますよ。ありがとうございます。では」 そう言ってむかいんは、橋の事務室を出て行った。 橋は、カルテを書き始める。そして、目の前にある写真立てを見つめた。 「あれから一年…か。何事もなく過ごしていたのにな。何も起こらず、 終結すればいいのにな…。真北、がんばれよぉ」 写真立てには、二枚の写真が飾られていた。 一つは、真子のウェディングドレス姿、もう一つは、真子と生まれて三ヶ月の美玖が写っているもの。二人が写っているものは、真子が退院する日に撮ったもの。 美玖が未だ、真子のお腹に居る頃に起こった悲劇。 八ヶ月の検診を終えた真子を襲った銃弾は、美玖が居るお腹に当たった。自然分娩を望んでいた真子のお腹から帝王切開で、この世に生まれた美玖。もちろん、真子が目を覚ましたのは、美玖が生まれて一ヶ月半経った頃。早産になるため、保育器で一ヶ月半育てられた美玖。そして、元気に退院した二人の記念として、撮った写真。 橋は、デスクに着くと必ず目にする写真。 それは、親友の真北が、強引に飾っていったものだった。その写真の横には、猫グッズのペン立てが置いてある。そのペン立てに、ペンを入れた橋は、立ち上がり、書棚に歩み寄る。 阿山真子カルテファイル60 これ以上、増やしたくないからな…真子ちゃん…。 真子が橋の世話になり始めたから出来た書棚。そこには、真子の治療日誌として、カルテファイルがぎっしりと詰まっていた。数字の『60』が意味するように、キングファイルが60冊並んでいる。それらは、全て、真子のもの。まだ、60冊目は、半分しか挟まれていない。 そのファイルを手に取り、広げた。 一番上にあるのは、ほんの一ヶ月前の治療記録。 銃弾による怪我。 そう書かれてあった。 真子の自宅。 真子は昼ご飯の用意をしていた。キッチンに立ち、慣れた手つきでフライパンを扱っていた。リビングでは、えいぞうが、二人の子供を寝かしつけていた。 「眠った…か」 優しい眼差しで、子供達の頭をそっと撫でて、キッチンへ足を向ける。 「できたよぉ」 「いただきます」 えいぞうは、食卓に着き、箸を手に取り、運ぶ。 「なんだか、こうしていると夫婦みたいですね」 えいぞうが言った。 「それ、芯に言ったら、ボッコボコのギッタギタにされるよ」 「解ってますよぉ。だから、絶対に言いません」 「私は、気にしないんだけどね」 「ぺんこうの奴、更に独占欲が強くなってますからね。いつも側に居るのに。 健…また、嘆きそうだなぁ」 「いつまで続くんだろ…健の癖…」 「一生治らないでしょうね。まさか、ここまで酷くなるとは思いませんでしたよ」 「…初めに停めてたら、こうならなかったんちゃうん?」 「そうかもしれませんね。…っと、失礼します」 えいぞうの胸ポケットに入れている携帯電話が震えていた。 「もっしぃ。……はいな。大丈夫だよぉん。…………。……まっかせなさい」 そう言って、電話を切るえいぞうは、胸ポケットに入れながら、真子に言う。 「くまはちからでした。遅めの昼休みに入ったみたいですね。 まぁ、進展なしとのことと、真北さんが新たな事件に向かったと」 「新たな事件?」 「ミナミの飲食店で事件。まぁ、既に治まったようですけどね」 「水木さんが嘆くよぉ」 「そう言いながら、事細かく指示を出しているのは、誰ですかぁ?」 静かに挙手する真子。 「いいのいいの。その方が、水木さんが活き活きしてるからね。…で?」 「昼も続きを行って、三時頃に理子ちゃんを迎えに行ってから、夕方には 戻ってくるそうですよ」 「はぁい。じゃぁ、それまで、えいぞうさんが?」 「そうですね」 「ありがとぉ」 「お気になさらずぅ〜」 微笑み合う二人は、食べ終わる。 「ごちそうさまでした」 AYビル。 ここは、阿山組が経営する三十八階建てのビル。しかし、このビルは、一般企業が占めている。一階にある受付、そして、一階から三階までは、たくさんの店舗があり、その中の二階には、むかいんの店がある。四階から六階は、大きな会場があった。七階から三十五階までは、たくさんの一般企業が入っていた。そして、三十六階から三十八階には、阿山組の組事務所があった。三十八階に事務所を構える須藤組、そして、幹部会が開かれている会議室、それから、真子の事務室がある。 その会議室は、賑わっていた。 「あのなぁ〜」 「うるさい」 「俺は知らん」 「お前の失態」 「たった、これっぽっちで失態なんて、言われたくないっ!」 「これっぽっちが命取りや! それくらい解ってるやろが、水木」 「いちいち、俺のやることに文句たれるな、須藤!」 「たれたくなるわい」 「うるさいっ!」 「……!!! しめたる!!」 「望むところや!」 そうやって言い争うのは、阿山組系水木組組長の水木と、同じく阿山組系須藤組組長の須藤だった。この二人は、幼なじみのわりには、犬猿の仲。何かあれば、こうして、言い争っていた。 この光景は、いつものこと。同じように会議室に居る阿山組系谷川組組長の谷川、藤組組長の藤、川原組組長の川原の三人は、デスクに肘を突いて、水木と須藤のやり合いを眺めていた。 「…くまはち…まだかな…」 藤が呟いた。 「もう少しかかるやろ」 川原が言った。 「それにしても、話……進まん…」 谷川が嘆く。 「はぁ〜ぁ」 大きなため息を吐く藤、川原、そして、谷川だった。 会議室のドアが開いた。 「お待たせ……って、あのねぇ、お二人とも…」 遅れて入ってきたくまはちが、いつもの光景を目の当たりにして、胸ぐらを掴み合っている二人の腕を簡単に解き、巧みに椅子に座らせた。 「午前の続き、始めますよ。今、入った情報は……」 何事も無かったように会議を進めていくくまはち。手渡された資料に目を通しながら、谷川が呟いた。 「いつもながら、くまはちの早さには、関心するよな。たった三十分で ここまで調べて、まとめるんやから…」 「そら、そういう教育されてんだろ」 「ベイジー貿易会社社長の猪熊さんを見ていたら、解るよ。 …それに、本部でも凄いらしいな」 川原が応えた。川原には、甥っ子が居て、その甥っ子は、阿山組本部の組員として過ごしている。本部への連絡も兼ねているのだった。 「須藤が以前逢ったらしいけど、ベイジーの猪熊さんが、くまはちの代わりだったら さらに凄かったかも……」 そこまで言った藤は、慌てて口を閉じた。 くまはちの耳に、三人の会話が入っていた様子。 「…一般市民に何の用だ? …まぁ、確かに、兄貴の方が、何につけても 俺より上だよ。俺は、頭が上がらない。だけどな、兄貴は、一般市民だ。 組関係の話題に、出てくるとは思えないんだけどなぁ」 くまはちの醸し出す雰囲気が変わる。 怒りのオーラ。 「…くまはち、続き」 オーラを断ち切るように須藤が言う。 「…すみません」 「ったく、猪熊さんの事言われて、そう躍起だつな。お前はお前だろが。 それに、俺たちは、ちゃんと肝に銘じてるから、安心しろ。迷惑は掛けない」 「ありがたい言葉です。……では続けます。私語は慎んで下さい」 「すみません…」 阿山組幹部でもある須藤達を手玉に取るくまはちだった。 話題に出ていたベイジー貿易会社社長の猪熊とは、くまはちが言うように、くまはちの兄貴、猪熊家の長男・剛一のこと。くまはちは、名前にあるように、猪熊家の八男。その猪熊家には、家訓があった。 阿山家を守ること。 その昔、阿山家に助けられた猪熊家は、代々、阿山家を守るようにと教育されているのだった。現代、阿山家を守る役に当たっているのは、くまはち。八男のくまはちが、その役目に当たっているのには、訳があり…。 ベイジー貿易会社。 AYビルに事務所を構えるこの会社。東京で会社を興し、軌道に乗り始めた頃、移転を決し、移転先をこのAYビルに選んだのは、弟思いから…。 その思いは、内緒…。 「はい。そうですね、…う〜ん。その件に関しては後ほど、詳しくお話致します。 では、これで」 受話器を置いた剛一は、ふと時計を見た。 午後三時を指そうとしている。 「三時の休憩かなぁ」 そう呟いて背伸びをしたところへ女性社員が声を掛けてくる。 「社長、そろそろお店に!」 「そうだなっと」 立ち上がり、服を整える剛一は、女性社員と共に事務所を出て行った。向かう先は、むかいんの店。そこで、毎日行われている三時のサービスタイム。 それは、三時のおやつということで…。 二階にあるむかいん店の前までやって来た剛一と女性社員は、店から出てきたくまはちを見つけた。 「くまはちさん!!」 女性社員が手を振った。その姿に気が付いたくまはちは、店長に会釈をして女性社員の側まで駆けてきた。 「むかいんは、休みですよ」 「えっ?」 女性社員のお目当ては、どうやら、むかいんのようで…。それを知っているくまはちは、優しく声を掛けた。 「理子ちゃんの体調が思わしくなくて、看病のためにお休みしてるんですよ」 「そうだったんですか…」 「申し訳ございません」 「…って、なんで、お前が謝ってるんや」 剛一が言う。 「……なんとなく……」 「…それで、五代目に付いて無くていいのか?」 「えいぞうが付いてますよ」 「ったく、人に任せるな」 「私は、組長の代理ですよ」 「本来の仕事は?」 「組長命令」 「それでもなぁ〜」 まさに何かが始まりそうな時だった。 「もぉ〜社長ぅ〜! どうして、いつもくまはちさんには、突っかかるんですか!」 「弟だからだよ」 「今は関係ありませんよ!! こっちの世界から離れたのに、どうして、いつも」 「うるさい。ほら、行くぞ」 冷たく言って、店に入るよう促す剛一。 「あっ、はぁい。では、むかいんさんによろしく伝えてくださいね!」 慌てたように剛一に付いていく女性社員は、くまはちに挨拶をする。 「はい」 丁寧に頭を下げたくまはちは、ちらりと剛一に目をやった。 剛一の目には、弟を心配するかのような優しさが含まれていた。それに気づいているくまはちは、フッと笑って、そして、エレベータホールへと向かっていった。 「今からなら、夕方には、帰れるか…」 時計を見て、時間を計算しながら、くまはちは、地下駐車場へとやって来る。 車に乗り、そして、出発した。 橋総合病院。 理子は、すっかり元気になって、ベッドに腰を掛けていた。 「真子、寝てるんちゃうかなぁ」 「光一に寝かしてもらえないかもな」 「そうやなぁ。光一って、真子が寝てたら、起こすもんね。なんでかな…」 「悪戯したいんだろな」 「真子って、怒らないよね。私なら怒るのに」 「そう言えば、組長が怒鳴る声、聞かないなぁ。ぺんこうは、時々怒ってるけど」 「なんか、先生見てたら、高校の時を思い出すよぉ。いっつも怒られてたもん。 下校途中に寄り道しなぁい!! ってね」 「そう言いながら、ぺんこうの目は、組長しか見てなかったけどね」 「そうそう! いっつも真子を追ってた」 「俺と話してても、組長の姿を見かけたら、必ず目線はそっち…」 「先生って、昔っから、真子のことが好きだったんだ…」 「ずぅっと隠してたけど…」 「知ってたんだぁ、涼はぁ」 「マブ達だからね。俺には色々と話してくれた。内緒だぞって。…それを言ったら 絶対、怒るからねぇ」 「短気なんだ」 「見たまんまだと思うけどなぁ」 理子の居る病室のドアが開き、くまはちが入ってきた。 「遅くなった。…理子ちゃん、調子は?」 「バッチグー!!!」 理子らしさが戻っていた。 「では、帰りますよ」 「ありがとな」 むかいんが言った。 「気にしない気にしない」 くまはち運転の車の後部座席に座った二人は、他愛もない話をしていた。 「ほんま、不思議やんなぁ、くまはちさん」 理子がくまはちに話しかける。 「そうですね。ぺんこう、強気に出ながらも、組長には弱いから。不思議ですよ。 真北さんも、そうですけどね。むかいんもだよな」 「そりゃぁ、そうだよ。なんせ、俺にとっては親なんだから」 「親…ねぇ」 くまはちは、ウインカーを左に出して、ハンドルを切る。 「うちは、真子と親友やろ。その親友であるうちの夫にとって、真子は親…。なんか複雑…」 理子は考え込む。 「理子の親友の夫は、親友の育ての親の弟」 むかいんが言うと、益々理子は、考え込んだ。 「……摩訶不思議な関係?」 呟く理子に、むかいんが応える。 「摩訶不思議って、あってるような、あってないような表現だなぁ」 「そうだなぁ」 「組長…、不思議な世界を築き上げたってことなのか?」 くまはちが、そう言うと同時に、真子の自宅に到着した。 「到着です」 「ありがとぉ、くまはちさん。…これから、どこかに?」 くまはちは、ちらりと駐車場を見る。そこには、えいぞうの車が停まっていた。 「…健が迎えに来いと言いそうだなぁ。待機しとこぉ」 「二人分、追加か?」 むかいんが尋ねる。 「そうなるだろな。真北さんは?」 「今日も無理らしい。……明日が大変だなぁ」 「想像できる…」 理子とむかいんが同時に呟いた。そして、二人は、玄関に美玖と光一を抱きかかえて出て来たえいぞうに気づき、車から降りた。光一は、理子の姿を見て、嬉しそうにはしゃいでいた。 「ただいまぁ、光一ぃ。…って、真子は?」 「まぁ、想像できると思うけど…。それより、くまはち、健が迎えに来てくれって」 「解ったよ。いつもんとこやな?」 「そゆこと。で、むかいん…」 「二人分追加くらいは、ある。心配するな」 「良かった。買い出しかと思った」 「食費はもらう」 冷たく言って、むかいんと理子は、自宅へ入っていった。 「想像通りでっか…。ねぇ、美玖ちゃん」 誰も居なくなった玄関先で、えいぞうは、美玖に声を掛けていた。 楽しそうに笑っている美玖。 「う〜ん、ほんまに、組長の幼い頃にそっくりや…」 遠い昔を懐かしむような表情をしながら、えいぞうは、自宅へ入っていった。 真子は、リビングのソファで、気持ちよさそうに眠っていた。 まるで、この一時を楽しんでいるかのように……。 (2003.10.22 『極』編・摩訶不思議 改訂版2014.12.23 UP) |