出発準備 (1)
真子の自宅。
リビングは、緊迫した空気が漂っていた。
ぺんこうは拳を握りしめ、今にも殴りかかりそうな雰囲気が!
そのぺんこうを、むかいんが必死になって羽交い締め。
くまはちが、いつになく必死の形相で、誰かを引き留めていた。
「ぺんこう、落ち着けって」
むかいんが静かに言う。
「離せっ、むかいんっ!」
じたばたするものの、むかいんの腕から逃れられないぺんこうは、足を振り上げる。 しかし、
「!!! 甘い…」
ぺんこうが振り上げた足は、くまはちの右手で阻止されていた。
「じゃかましぃ。離せよ、真子をぉぉっ」
「今、離したら、どうなるか、想像付くやろがっ」
「停めるのは、俺やっ」
「一緒になって、真北さんを責めるやろっ」
「その通りやっ」
「だからやっ!!」
「二人、五月蠅いっ」
真子の一喝が入った。
「すみませんっ!」
くまはちとぺんこうは、同時に応えた。
「でも、離しませんから」
くまはちが付け加える。
「離せっ」
「離しませんっ!!」
「だって、真北さん…」
「何度も申し上げているではありませんか!!」
「解ってる。解ってるけど、全て伝えてくる約束だろ!!」
「もう、済んだことです。それに、無事だったんですから」
「………それなら、まさちんに逢うっ」
「それは駄目ですっ!」
ぺんこうの方が先に口にした。
「まさちんが須藤に強く頼んだのは、真子の事が解るからでしょう?
今になって、盛り返すのは、まさちんだって…」
「…それでも……まさちんに…」
真子の勢いが殺げた。
「真子ちゃん?」
「組長?!」
「真子っ!!!!!」
真子の部屋。
真子はベッドで静かに寝ていた。 側には、美玖とぺんこうが付き添っていた。
「…ママ……びょうき?」
「無理してたみたいだね」
「……ママ……はしせんせいに…おこられるね…」
「そうだね」
「ママよりも…まきたんかな…」
「その方が良いんだけどなぁ」
ぺんこうの本音。
ここ数日、真北の動きは、いつも以上に激しかった。 ほんの二週間前の出来事。 『向こう』の世界で幸せに暮らしているはずの男にまで、襲撃した組織に対して、真北の怒りが爆発。キルが停めようとしても、無理だった。 その時、またしても『真子には内緒』の怪我を負う。 それが真子に知れ、内緒にしていた『向こう』の世界で過ごす男の行動も同時に耳に入ってしまったのが、運の尽き。
真子が怒るのは仕方がない。
その覚悟をしての帰宅だったが、真子の怒りは、想像以上に激しかったらしく…。
いつも以上に高熱を出してしまった。
「ふぅ……」
やれやれ、と言った感じのため息を吐くぺんこうは、美玖を抱き上げ、
「今日は、くまはちと一緒に寝ること。いい?」
美玖は、コクッと頷き、ぺんこうにしがみついた。
「ママに、おやすみする」
ぺんこうは美玖を下ろし、美玖は真子にお休みのチュをする。
「おやすみ、ママ。むりしちゃ、だめだからね」
そう言って、美玖は真子の頭を優しく撫でて、ぺんこうに振り返る。
「おやすみ、パパ」
「くまはちの所まで…」
「ひとりでいけるもん。だから、パパ…」
ウルウルとした眼差しで、美玖はぺんこうを見上げた。 ぺんこうは美玖を抱き上げて、頬にチュッ…。
「お休み、美玖ぅ。良い子にしてるんだぞぉ」
「はい!」
小さな声で元気よく返事をする美玖は、床に着地した後、真子の部屋を出て行った。 向かいにある くまはちの部屋の前に立ち、美玖はノックした。
「くまひゃちぃ、いっしょにねよ!」
美玖の声と同時にドアが開き、
「はい、どうぞ」
「おじゃまします」
しっかりと挨拶をして、くまはちの部屋に入っていった。 ぺんこうは、しぃっかりと聞き耳を立てて、くまはちと美玖のやり取りを聞いていた。 暫くの間、物語を語るくまはちの声が聞こえ、やがて静かになる。
……って、仕事残ってたんかよ…。
美玖が眠ったのを確認して、くまはちが何かに集中するオーラを感じたぺんこうは、呆れたような表情をして、くまはちの部屋の方を見つめていた。
「し……ん…」
「真子…ごめん」
真子は首を横に振る。
「くまはちに…悪いことしちゃったね…」
「くまはちが自ら言ったんですから、この際、甘えていいんですよ。
どうですか?」
「気持ち悪い…」
そう言いながら、真子は、ぺんこうに両手を伸ばしてきた。 ぺんこうは、真子の仕草に応えるかのように真子を抱きしめ、隣に寝転んだ。
「いつも以上に熱いですよ。どれだけ無理をしていたんですか?
この様子だと、三日ほど、内緒にしてましたね?」
「そうでもしないと、真北さんに負担が…」
「真子が気にすればするほど、兄さんは無理をするんですよ。
本当に…忘れないでくださいね」
「ごめん〜っ」
ぺんこうの胸に顔を埋める真子だった。
「真北さん…どうなの?」
「怪我は仕方ありませんよ。だけど、まさちんの件は、終わりです」
「…知らなかったのが……悔しくて…」
「ったく…」
ぺんこうは、真子の頭をそっと撫でた。
「今夜は側に居ますから、安心してお休みください」
「…芯〜」
「あっ、すみません。つい、昔の癖で…」
真子は眠っていた。
「…どうしても…抜けませんね…」
やれやれといった表情をし、そっと微笑んだぺんこうは、真子の肩に布団を掛け直し、大切な何かを守るかのように、真子を抱きしめながら、眠りに就いた。
その頃……。
真北は、真子が倒れた後、くまはちに促されて、橋総合病院へ来ていた。 緊急手術中の橋が戻るまで、橋の事務室でのんびりと高級茶を飲んでいた。
「…っつぅ…」
少し動くだけで、激しい痛みが身体を走る。
今回ばかりは、ほんまに…。
橋が戻ってきた。
「すまんなぁ………って、ほんまにお前はぁ…」
真北はソファで熟睡中。
「ったく、寝るなら奥の部屋にしとけよ…」
と言いながら、真北の診察は忘れない。 治療をし終え、奥の部屋から毛布を持って来て、真北の身体にそっと掛けた。 デスクに着き、真北のカルテに記入。側にある棚から、一冊のキングファイルを取り出し、それに挟み込む。背表紙には、『真北専用36』と書かれてあった。 棚に納め、ジッと見つめる橋は、フッと笑みを浮かべた。
「増える一方やなぁ。…ここ数年、目まぐるしく増えとるわ…。
……まぁ、しゃぁないか。守る者が増えたもんな……真北」
そっと名前を呼んで、ソファに振り返る。 その声にも反応できないほど弱っている真北だった。
くまはちの部屋。 一通り仕事を終えたくまはちは、デスクの灯りを消し、美玖が寝る布団へとやって来た。美玖を起こさないようにと気を遣いながら、美玖の隣に寝転ぶ。 美玖が、寝返りを打ち、くまはちにしがみついてきた。
「…くま…ひゃち…おつかれ…さまぁ…」
「美玖ちゃん???」
美玖は眠ったまま、嬉しそうに微笑んでいた。
「ありがとう、美玖ちゃん。…お休み」
くまはちは、美玖の額にチュッ…と……。
!!! しまった…思わず…。
誰かにばれては…と思うと、焦ってしまう くまはちだった。
その誰かさんは、真子と一緒に熟睡中。 何事もなく、その夜は更けていった…………。
次の日の朝。
美玖と光一が通う幼稚園では、園児を連れて来る親の姿があった。 その中に……。
「あっ!」
「わぁ!!」
突然、園児達が騒ぎ出した。その声に釣られて母親や幼稚園の先生達が振り返る。
「くまはっちゃんだぁ!!」
「くまひゃぁ!!」
口々に叫びながら、駆け出す園児達。
「おはようございます!」
園児達の言葉にあったように、そこには、くまはちと美玖、そして光一の姿があった。 三人は声を揃えて元気よく挨拶をする。
「おはよぉございます!」
園児達も元気よく挨拶をした。
「くまひゃっちゃぁ、おやすみなのぉ??」
園児達が、くまはちに尋ねてくる。
「今日はお迎えだけですよ」
素敵な笑顔で園児に応えたくまはちは、美玖と光一の手を離した。
「くまひゃちぃ、おしぎょとだもん…ねぇ!」
美玖が言うと、くまはちは、
「えぇ」
優しく応えた。 と、その時、熱い視線を感じ、振り向いた。 母親たち、先生達が、くまはちに熱い目線を送っていた。くまはちは、更に素敵な笑顔で会釈をする。
「おはようございます、猪熊さん」
「おはようございます。今日も宜しくお願いいたします」
「真子さん、体調を?」
「えぇ、いつも以上に張り切り過ぎまして…」
恐縮そうに、くまはちは応えた。
「お正月に、実家へ行かれるんですよね。その為に
張り切っていては、行く直前に倒れたら大変でしょう?」
「そうならないように、大事を取っておりますので、
いつも御心配をお掛けいたします」
「いえいえ、お気になさらずに。…???」
「????」
先生とくまはちは、足下に目をやった。 くまはちの周りに園児達が集まっていた。なぜか身動きが取れないくまはちは、困ったように頭を掻く。
「みんな、離れなさい。猪熊兄ちゃんが動けないでしょう?」
「くまひゃっちゃんとあそぶぅ」
「あそぶぅ!」
「せんせい、だめ?」
園児達は、うるうるとした眼差しで先生にお願いし始める。
「猪熊さん、少しの間…よろしいですか?」
「そうですね…」
くまはちは、時計で時間を確認し、
「三十分ほどなら、時間は大丈夫ですよ」
「ということで、みんな、猪熊兄ちゃんの許可を頂きましたよぉ!」
「やったぁ!!!」
喜ぶ園児達。……と、なぜか、園児以上に喜んでいるのは、母親たちだった。
美玖と光一は、ベンチに腰を掛けて、二人揃って何かを眺めていた。
「こうちゃん」
「なぁに? みくちゃん」
「…くまひゃち…にんきものだね」
「うん」
「…でも、くまひゃちは、ママのおにいさんで、ママのことが
たいせつなんだよね」
「くまひゃちが、いったもんね」
「…みんながたのしいのは、わかるんだけど…どうして…」
「ママたちとせんせいが…いちばん……はしゃいでるん?」
美玖と光一が言うように、園児よりもはしゃいでいる母親達と先生達だった。
「美玖ちゃんと光ちゃんは、遊ばなくてもいいのかなぁ?」
「ももかんせんせい!!」
「も・も・か…です。…どぉして、いっつも、そう言うのかなぁ」
「さくらねぇちゃんから」
「…あんの……やろぉ〜」
桃華は思わず拳を握りしめる。
「…っと、危ない危ない。…くまはっちゃんと遊ばないの?」
「うん。おうちで、いつもあそんでるから、いいの」
「いいのぉ」
美玖の言葉を真似る光一。
「そっか。でも、そろそろ帰らないと、真子ママに怒られないかなぁ」
「だいじょうぶだもん。ママ…はしせんせとこだもん」
「身体が弱いのに、仕事頑張ってるもんね、真子ママ」
「うん。みくね、ママみたいに、はたらくママになるんだ!」
「だから、時々真子ママの仕事を観てたんだね」
「うん」
「こうちゃんは、パパみたいに、おりょうりするんだもん!」
「光ちゃんのパパは、笑顔の料理長だもんねぇ」
「うん! じまんの、パパだもん!」
「みくのパパも、えがおの、せんせいだもん!」
二人の親自慢合戦。 桃華は、楽しんでいた。
「あっ、くまひゃち!」
美玖が呼ぶ。
「すみません。お騒がせしました」
くまはちは恐縮そうに桃華に言う。
「気にしない、気にしない。こっちこそ、いつもありがとね」
そう言って、桃華はくまはちの耳元で、
「今度、個人的に、どうや?」
そっと呟いた。
「お断りしますよ。これ以上、組長に怒られたくありませんから」
やんわりと断ったくまはちは、美玖と光一の目線までしゃがみ込み、
「夕方も来るからね。桃華先生のお話をしっかりと聞くように」
「はいっ!」
「おうちに帰ったら、桃華先生のお話を聞かせてね」
「はいっ!!」
「では、桃華先生、宜しくお願いします」
「お気を付けて。真子ちゃんに、お大事にと伝えてくださいね」
「伝言、承りました。では」
くまはちは、桃華に深々と頭を下げ、美玖と光一の頭を優しく撫でてから、幼稚園を……母親達と一緒に出て行った。
「ったく、ママさんたちはぁ…」
「だって、くまひゃち、かっこいいもん! にんまいめだもん!」
「だもん!」
それを言うなら、二枚目なんだけどなぁ…。…ん??
「美玖ちゃん、それ…誰から?? …二枚目って言葉…」
「えいぞうしゃん!」
美玖の応えに、ずっこける桃華だった。
「では、これで」
「失礼します」
自宅に一番近い母親と丁寧に挨拶を交わしたくまはちは、駆け足になる。
やばい…二十分ロスだ…。
と足を速めた時だった。 クラクションが鳴り、くまはちは振り返った。
「真北さん」
「すまんな、間に合わなかった」
「組長の診察結果を聞いてからだと思いましたので」
「その通りだけどなぁ。…で、五十分…何してた?」
「あっ、いや………」
「約束してないよな?」
「してません」
「それならええわ。…乗るか?」
「いいえ、走ります。すぐそこですから………もしかして…」
「ほんま、悪いなぁ」
「そちらは、真北さんでお願いします。これ以上、組長に
無理させたくありませんから」
「だからこその行動やねんけどなぁ」
「解りましたよっ」
思わず口調が荒くなる。
「…なんか、とげのある言い方やないか…」
「夕べのことをお忘れなんですか?」
「橋んとこでリフレッシュしたから、忘れてた…」
「…ったく……」
と話ながら、自宅に到着。 くまはちは、真北運転の車の徐行と同じ速さで併走していた……。
橋総合病院・橋の事務室。
真子の診察を終え、カルテに記入しながら、橋は真子と話し込んでいた。
「真北には、きつぅ言っといたから」
「あの表情を見たら、解った。…真北さんの方は、どうなんですか?」
「いつもと変わらず…だけど、今回は、二割り増し程度やけどなぁ。
真子ちゃんの疲労も二割り増し。トントンってとこやな」
「…同じか…。もっと動かないと、あかんってことか…」
「真子ちゃん〜。真子ちゃんの動きが激しいと、あいつも更に倍やで」
「解ってるよぉ。…でも、真北さんには、これ以上…」
「落ち着いたはずやのにな。…何が起こってるんやろ」
カルテを書く手が止まる。
「…橋先生?」
橋の行動が気になったのか、真子が声を掛けた。
「ん? …あっ、すまん。…それで、真子ちゃん」
「はい」
「キルに送らせるけど…」
「仕事は?」
「真子ちゃんに仕える身やから、気にせんでええ」
腕も上達してるし、患者やその家族からの評判もええし。
ほんま、真子ちゃんには感謝しとるで」
「キルさんの力量やって。元々備わってたんやろうなぁ」
しみじみと語る真子に、橋は微笑んだ。
「…原田…」
「駄目」
「…ケチ…」
何度もやり取りが行われている為、ほんの二言三言で、お互いの言いたい事は解る。 やはり、橋は、諦めていないらしい。
「もう諦めてよぉ」
「諦めへん〜っ。原田の腕は、わし以上やもん」
「まささんは、橋先生には及ばないって言ってるで」
「それは、原田が得意とする謙遜や」
ドアがノックされた。
『キルです』
「終わったんか?」
キルが入ってきた。
「問題ありません。真子様、お待たせしました」
「大丈夫なのにぃ」
「真北さんとくまはちは、一緒に行動、ぺんこう先生は仕事、
栄三さんと健ちゃんは、別件で動いてますし…お送りする方は
誰も居ませんよ?」
「夕方までここに居るつもりなの」
「それでしたら、御一緒致します」
「キルさんの仕事っぷりを見たいのに…駄目なん?」
「えっ、いや……その……」
真子の質問に、すぐに応えられないキルは、助けを請うように、橋を見た。 橋は、目を反らし、笑いを堪えている。
橋院長ぅ〜っ…!!
「どなたが迎えに来られるんですか?」
「芯」
「う〜ん。…橋先生、仕事…」
「今のところ、急患は居らんし、回診も終わったとこやし…。
カルテの整理は、終わったやろ……そうやなぁ」
結局、真子とキルは、橋総合病院の庭で、のんびりと時間を過ごすことになった。 いつものベンチに腰を掛け、真子とキルは、キルの仕事の話しに花を咲かせていた。二人の様子を橋は、事務室の窓から眺め、お茶をすする。 橋にとっても、珍しく、暇な時間だった。
……まさかと思うが…。
橋の脳裏に過ぎる恐ろしい考え。 橋がカルテを記入していた時に、ふと手を止めたのは、その考えが過ぎったからだった。それを口にすると、本当になりそうで、橋は思わず動きを止めてしまった。その考えだけは、絶対、あって欲しくない事。 目の当たりにしたことがあるだけに……。
「私は遠慮致しますよ」
キルが、即答した。 年末年始、真子達は、やっと本部へ帰宅することにした。 今の生活を、大切な人たちに教えたい。 伝えたい人も居る。 大切な家族。その中に、キルも入っているのだが、キルは敵の立場だったため、キル自身、遠慮したいことでもある。だけど、自分が仕える真子の言葉には逆らいたくはないのだが…。
自分の思いは、しっかりと声に表すこと。
真子に言われていることでもある。 だから、強く応えたのだが、
「駄目。ちゃぁんと橋先生には、休みをもらうように
しといてやぁ」
「真子様。私の立場、御存知でしょう?」
「うん」
「今は、こうして、医者として生きていますが、本部の人間にとっては
私は、阿山真子を狙った殺し屋ですよ?」
「まさちんも、敵対する組の人間だったよ? それに…天地山のまささんも
敵対する組の殺し屋だったんだけど……」
「存じてますが…」
「みんな、そんなに心は狭くないんだけどなぁ。どうみても、医者だよ?
それに……殺し屋キルは、すでに、この世に居ないのに」
「それでも、初めて逢うみなさんは…」
「本部にも、結構居るのになぁ。敵対する組の息子…とか…」
真子が語り出す組員達の事。 出てくる組員の素性は、本当に、敵対する組関係の者ばかり。
「だから、大丈夫だよ?」
「本部へ帰った後、そのまま天地山へ行く予定なのでしょう?
長い間、休むと、橋院長に怒られますから…」
「そっか……。でも、キルさん」
「はい」
「ちゃんと休んでる? 休みなしでしょう? 医者が倒れたら…」
「ご安心下さい。確かに、医師不足、看護師不足は深刻な問題ですし、
休み無し労働も、当たり前のようになってます。しかし、私が、この仕事を
選んだんです。……この手で奪った分、この手で救っていきたい。
そして、色々な人と関わりたい……」
キルは、自分の両手を見つめながら、真子に言った。
「真子様から頂いた、大切なもの……もう、失いたくありませんよ」
「キルさん……」
キルの言葉に感極まった真子は、それ以上、言葉が出てこなかった。
それでも、自分の身体は大切だよ。
無茶はしないでね。
キルさんは、私だけじゃなく、みんなにも大切な人なんだから。
「ありがとうございます、真子様」
真子の言いたいことは解っている。 敢えて、言葉にしなくても……。 キルは、優しく微笑み、真子に言った。
「うん」
真子も素敵な笑顔で、応えていた。
「……でも、一緒に行くこと」
その場の素敵な雰囲気を、がらりと変えるように真子が言った。
「だから、その……真子様ぁ…」
「いいやんかぁ。美玖と光ちゃんが楽しみにしてるのに」
「………そ、その……」
美玖と光一の名前を出されては、キルは、弱い。
「…かしこまりました……。でも、仕事が入ったら、無理ですから」
「チケット、用意しとくよぉ」
「あっ、それは…」
「ちゃぁんと、乗り物に乗って移動するのっ!」
「すみませんっ!!!」
移動は、足で。 屋根を飛び越え、窓から侵入する。人とは思えない程の素早い動きは、キルにとって朝飯前。今まで、色々と調べるのに、長距離移動は、足で行っていた。まさちんの危機に駆け付けた時も、そうだった。 だからこそ、真子は、キルが言う前に、そう言った。
キルは時間を確認する。
「お昼は、どうされますか?」
お昼時。真子のお腹が鳴る前に、キルが気を遣う。
「橋先生に時間があるなら、一緒にどうだろ…」
「そうですね…」
キルは真上を見つめ………。
「暇そうですよ」
真子も見上げた。 橋は、ずっと真子とキルを見ていたらしい。
「ほんとだ」
そう言って、真子は橋に手を振り、『ご飯、一緒に食べよぉ』と、ジェスチャーする。 橋は、大きく丸を作り、下に降りると合図を送ってきた。
「あの様子だと……橋院長の手作りかも…」
キルが、そっと呟いた。
「……えっ??? …橋先生って、料理も……できるん?」
「結構……上手いんですよ…」
「食べたことあるんや」
「えぇ。こうして、急患が居ない時は、自宅に…」
「自宅???? 橋先生って、あの事務室が家…」
「そんな訳ないやろが」
二人の会話に素早く入ってくる橋。
「……知らんかった……」
真子が呟く。
「そりゃぁ、そうやろ。わし、真子ちゃんとは、院内がほとんどやし。
案内したるわ、こっちやでぇ」
「お世話になります…」
驚きながらも、真子は、そう言った。 そして、真子、キル、橋の三人は、橋総合病院の裏手にある橋の自宅へと向かって歩いていく。
「そや。ぺんこうから電話があってんけど…」
「急な仕事が入ったんでしょう?」
「その通り」
「まぁ、仕方ないかなぁ。芯も、休む分、張り切ってるもんなぁ」
「ほんま、似た者同士やなぁ」
「育ての親が一緒やもん。橋先生ぃ、キルさんの休暇ぁ」
「ちゃぁんと予定しとるから、安心しときぃ。キルが断っても
無理矢理取らせるし」
「…って、橋院長…あの…」
「年末年始は、一時帰宅する患者も多いからさ。その間は
大丈夫やで。一緒に行かな、美玖ちゃんと光ちゃんが怒るでぇ」
流石は橋。真子の家庭を良く知っている…というか、誰かさんが、ここに足を運ぶ度、細かく細かく話して去っていくものだから、詳しくなるのは、当たり前。
「それでは、お言葉に甘えます」
キルが応えると、真子は喜びの表情に変わり、
「橋先生、ありがと! キルさん、よろしく!!」
元気よく言った。
「ここが、わしの自宅ぅ。ようこそ!」
「お邪魔します!!」
三人は、橋の自宅へと入っていった。
キル運転の車に、真子は…
「ほんと、橋先生って、なんでもこなすんだねぇ、びっくりした。
おいしかったしぃ。…むかいんが知ったら、対決したがるかも」
「そうですね…って、真子様、それ、七回目ですよ」
「数えてた?」
「えぇ。……って、本当に、後ろに座らないんですね」
「キルさんも、それ、五回目」
「数えておられたんですか…」
「うん」
キルが気にしているのは、真子を送る車の中でのこと。 真子は後部座席に座るかと思ったキル。しかし、話は聞いていた。
絶対、助手席に座るから。
その通り。
助手席の方が安全だし…。
この話の意味は、未だに理解していない。 なぜ、助手席の方が安全なのか。後部座席の方が、身を隠すのに丁度いいはず。キルは、不思議に思っていた。
「…本当に…って、どういうこと? キルさん、誰かに
何かを吹き込まれたん?」
「真子様は、二人っきりの時は助手席に座るということです」
「だって、後ろだと、寂しいやんかぁ。それに、広すぎるもん」
「しかし、安全なのですが…。もし、何か遭ったとき…」
「無いって。もぉ〜。心配症なんだからぁ」
いや、その…今は……。
焦るキル。 真子を狙う組織が増えている事は、真子には内緒…。
「それと…」
キルは話し続ける。
「助手席の方が、安全だと、みなさん仰るんですが…。
その意味が、解らないんです」
「ふ〜ん。……それって、まさちんから? それとも、くまはち?
まさか…健ってことないよねぇ? どうなのぉ、キルさぁぁん〜」
ちょっと脅しに掛かる真子。 思わず焦るキルは、
「……えいぞうさんも含まれます…」
素直に応えてしまった。
「助手席の方が…安全……ねぇ、…確かに、そうかも」
真子は、クスッと笑いながら応えた。
「狙われやすいのですが…どうして、そう仰るのか…。
ガーディアンのプロなのに…」
「ガーディアンの身の安全のことだよ」
「へ?!????」
真子の言葉に、突拍子もない声を張り上げるキルだった。
くまはちと真北が、幼稚園の門をくぐっていった。
「あっ、まきたぁん!!」
迎えに来るのを待っていた美玖と光一が、同時に声を挙げた。
「美玖ちゃん、光ちゃん、楽しかったかぁ?」
そう言いながら、二人を抱き上げる真北。
……真北さん、御自分の身体のことは、本当に…。
忘れていたらしい。二人を抱き上げた途端、傷が疼いたのか、顔をしかめた。
「まきたん、はしせんせいに、おこられるよ?」
「そうでした。でも、大丈夫だよぉ。しっかり治療してもらったから」
「うん! ねぇ、ねぇ、ママは?」
「まこママは?」
美玖と光一は同時に尋ねる。
「キルに送ってもらうってさ」
「キルくるんだ!」
二人の眼差しが輝いた。
「でも、少しだけですよ。キルはお仕事だからね」
「うん。………パパ……おしぎょと、おわらないんだね」
ちょっぴり寂しげに言う美玖に、真北は美玖の額に自分の額をぴったり付けて、優しく微笑んだ。
「お休みいただくから、その分、張り切ってるだけだよ」
「うん」
「むかいんと理子ママも、張り切ってるもんなぁ、光ちゃん」
今度は、光一に同じような仕草をして、優しく微笑みながら、そう言った。
「ママもパパも、おしょうがついそがしいもんねぇ!」
「ねぇ」
ほのぼのとしている三人を余所に、くまはちは……。
「まきたん」
「ん?」
「くまひゃち…」
「ママたちと…はなしてる…」
「いいの?」
いいの?と二人同時に尋ねるものだから、真北は、いつもの通りに怒れずに居た。
「ほんと、くまはちは、みんなに人気だよなぁ」
うわぁ、すんごく嫌味に聞こえてくる…。
他の園児と、その母親達と楽しく話し込んでいる、くまはちは、背中に突き刺さってくる何かが、すごく、すごく怖くなり、振り返られずに居た。
「くまひゃちぃ、かえるよぉ。きるさん、くるって!」
美玖が真北の代わりに言うと、
「では、これで」
くまはちは、素敵な笑顔で母親達に挨拶をして、真北のところへと急いで駆けていく。 真北の代わりに二人を抱きかかえ、その途端、誰にも気付かれないほどの素早さで、真北から蹴りを三発……。四人は門を出て行った。 歩いて帰る四人が、公園を通り過ぎ、そして、家の近くを歩いている時だった。 自宅前に一台の車が停まった。
「あっ、ママとキルさんだ!」
美玖と光一は、車から降りる二人へと駆け出した。
「おかえりぃ、美玖、光ちゃん」
「ママ、げんきになったの??」
「まこママ、げんきになったの?」
二人が同時に尋ねてくる。
「大丈夫だよぉ。ありがとぉ」
美玖と光一を腕に包み込む真子だった。
「キル、時間あるのか?」
真北が言った。
「橋院長から頂いておりますので、暫くは大丈夫です」
「やった! ねぇ、キルさん、あのね、あのね」
美玖と光一は、キルに近づいて、色々と語り始めた。
「お話は、車を停めてから、お聞きしますよ」
「車は俺が停めとくから、ほら」
キルに家の鍵を放り投げるくまはち。 キルは受け取った途端、慣れた感じで真子の自宅へと入っていった。
「まるで、自分家のように入っていったな…」
真北が感心するように言うと、
「美玖と光ちゃんの相手をしながらだから、我を忘れてるね…あれは」
真子が、やんわりと応えた。 真子と真北は顔を見合わせる。 なんとなく、気まずい雰囲気が……。
「…橋先生に、怒られた…」
「橋に怒られた…」
同時に口にする同じ言葉。 それには、思わず笑い出す。
「これ以上、心配掛けないでくださいね、真子ちゃん」
「真北さんもだよ。…無理しないでね」
「…この言葉、何度言ったことやら」
「私もぉ」
「…明日は一日、休み取りましたから。自宅に居ますよ」
「……美玖と光ちゃんもお休みだから、四人で…」
「……そうなると…芯の怒りが見えるんだけど…」
「いいんちゃう? 明日も仕事しそうだよ…」
「そうですね。そこまで、仕事好きとは、思いませんでしたよ」
「それは、真北さんの為でしょぉ」
真子の言葉に、真北は何も応えず、ただ、笑顔を見せるだけだった。
「お二人とも、早く入ってくださいね。キル一人で大変そうですよ」
中々入ってこない二人に業を煮やしたのか、くまはちが、声を掛けてきた。
「大丈夫だって。キルさん、楽しみにしてたみたいだもん。あっ、そうだ。
くまはちぃ、キルさんに、何を吹き込んだぁ?」
「えっ?? な、なんでしょうか?!」
突然の真子の言葉に、思い当たる節が無いのか、くまはちは、首を傾げる。
「助手席の方が、安全だって、言ったでしょぉ!!」
真子のふくれっ面。それには、
「その通りですよ。キルには、無理ですから」
「身体のあちこちにセンサーが付いてそうなのに???」
「運転中は別です!」
「まさちんも、くまはちも、大丈夫やんかぁ」
「それは、慣れですから!!」
「それでも、キルさんに言わなくてもぉ!!」
「言っておいた方が、安全ですよ!」
「いつになく…反抗的……。…くまはち…怒ってるでしょ?」
「いいえ」
「それなら、いいや。…でも、キルさんに……」
「仕方ありませんよ!!」
と言い合いながら、真子とくまはちは、自宅へと入っていった。
やれやれ…。
取り残された真北は、ちょっぴり寂しさを感じながら、自宅へと入っていく。 ドアが静かに閉まった。
(2007.10.21 『極』編・出発準備 (1) 改訂版2014.12.23 UP)
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