笑顔心良薬 とある街にある商店街。 一人の男が、休憩所の椅子に腰を掛け、商店街を行き来する人々を見つめていた。その男が、一組の親子をじぃっと見つめる。 「だから、お母さん、それは…」 「たまには、いいでしょぉ」 「…あの……、組長は兎も角、美玖ちゃんまで、猫グッズが好きとは 限りませんよ」 「真子ちゃんが喜ぶなら、何でもいいんでしょ?」 そう言って、猫がプリントされている子供服を手に取る、まさちんの母。 「……こっちの方が…」 猫の着ぐるみを手に取るまさちん。 母は、目が点に…。 「…やっぱり、政樹の性格、変わったわ…」 「ほへ?!」 「そんなおとぼけは、してなかった」 「お、おとぼけ?!」 まさちんは、自分が手にしている着ぐるみを見つめる。 「おとぼけ………って、お母さん!!」 母は、子供服を手に、店の奥へと入っていった。慌てて追いかけて行くまさちん。 「…変わらんな…」 まさちんと母のやり取りを見つめていた男は、そう呟いて、笑みを浮かべた。 その男に、やくざな男が近づいてきた。 「須藤親分…。やはり、そうでしたか」 そう呼ばれ、男を睨み上げる…須藤。 「……奥村…」 「うちの子分が、須藤親分の車を見かけたと連絡してきたので…。 その…やはり、例の男を御自分の目で確かめようと…」 「隠れろ」 須藤の言葉で、男は、身を隠す。まさちんと母が、店から出てきた所だった。二人は、そのまま須藤の居る休憩所の前を通り過ぎ、映画館の前で立ち止まった。館長が、まさちんに気が付き駆け寄ってきた。 「今夜、来館されますか?」 「そうですね…。二つ、新作ですか?」 「えぇ」 「では、お伺いします。…それと、これも、もう一度観たいので」 「いつもの通り、用意しておきますから」 「息子がいつも、お世話になります」 「いいえ、お気になさらずに。私としても、このように来ていただけるだけで、 嬉しいですよ。やはり、テレビ画面より、大画面で観る方が迫力ありますからね」 「そうですね」 まさちんは、笑顔で返事をした。 「あっ、そうだ。北島さんの提案、通りましたよ。なので、来月から、始めます」 「提案?」 母は、首を傾げる。 「過去の映画を一週間毎に放映する話ですよ。まぁ、放映する会場は 小さくなりますが、大画面で観る迫力は変わりませんからねぇ」 「過去の映画?」 「まぁ、一年前からの分になりますけど、ランダムに」 「……政樹…あんた、まさかと思うけど…」 母の鋭い目つきが、まさちんを捉える。 「では、今夜。お世話になります! では、これにて」 慌てるように、母の手を引き、まさちんは、その場を去っていった。館長は、二人を笑顔で見送っていた。 「政樹、過去の映画って、あんた……DVDで観てたでしょ」 「やはり、大画面で観たいですから…」 「何のために、あんな大きな画面のテレビを買ったんよ…ったく」 「館長にお話したのは、テレビを買う前ですから。まさか、まだ考えておられたとは…」 「あんたの意見は、みんな真面目に受け取るんだからね。まだ気づいてないんかい? 真面目なオーラを放ってるってこと」 「真面目…ですか…」 荷物を持ちながら、腕を組み、悩んだような雰囲気で歩いていくまさちん。 「これ、どうかなぁ」 母は、猫グッズの店の前に立ち止まり、目に入ったグッズを手に取った。 「って、お母さん、あのね…」 どうやら、真子と美玖たちに逢ってから、母にまで、まさちんの癖が移ったようで……。 須藤が立ち上がる。先ほど声を掛けてきたやくざの奥村が、須藤の側に立った。 「あの男ですよ。どうですか?」 「よく…似てるよな」 「顔は似てますが、その…噂される雰囲気は、全くなく…」 「暴れ好き…か。独特の鋭さもないよな」 須藤は、大きく息を吐く。 「奥村」 「はっ」 「俺は、プライベイトで来てるんだ。…そんなに、付けるな」 「あっ、いや、その…須藤親分が、お一人で…とのお話で、うちの親分が…」 奥村の後ろには、組員が、ずらりと並んでいた。 「ったく…それじゃぁ、顔を出さな、あかんやろが…」 面倒くさそうに、須藤は言って、まさちんが向かった方向とは反対方向へ、奥村と歩き出す。その後ろを組員達が付いていく…。 来生会(きすぎかい)の事務所へ足を運んだ須藤。来生会会長・来生が須藤の前に腰を下ろした。 「須藤親分、来られるのなら、連絡を下されば…」 「プライベイトだと言ったろが。ったく…。なんで、解るんだよ」 「オーラですよ。まぁ、この街に、高級車で乗り付けるのは、その筋の人間。 あぁ、そう言えば、例の男は、かなりの車で来ますね。その…どうでした? 例の男…ご覧になられたんでしょう?」 「まぁ、な。似てるよな」 「組長には、お伝えに?」 「……いいや。伝える前に、自分の目で確かめようと思ってな…」 須藤は、差し出されたお茶を飲む。 どうしても……納得いかなくてな…。 AYビル・会議室。 真子は、会議室に集まっている幹部達を一人一人見つめていた。 「……人違いだった」 真子が小さく言った。その言葉に、須藤は立ち上がる。 「組長、それなのに、どうして、二日も…」 「…その……あまりにも、私が寂しそうな哀しそうな…そんな表情を していたらしくて…。その…北島さんがね…」 「でも、まさちんは、生きている…そうおっしゃったじゃありませんか」 「生きているよ…だけどね、連絡…ないのはさぁ、やはり…」 「探します。探して、六代目を…」 「もういいって、須藤さん」 「しかし、組長……」 須藤は、口を噤んだ。 真子は、柔らかい表情で、微笑んでいる……。 「須藤さん」 「は…い」 「ありがとう。…私、もう少し…頑張ってみるから。だから…」 「…組長……」 「…さてと。今日の話題に入りますよぉ」 真子は、書類に目を向ける。そして、その日の課題について、話し合い始めた。 須藤は、上の空……。 珍しいな…こいつ。…何か企んでるな…。 須藤をちらりと観た水木は、そう思いながら、真子の言葉に耳を傾けていた。 須藤は、たばこに火を付け、そして、煙を吐き出した。 「で、来生」 「はっ」 「あの話…だがな…。もう少し、細かくできないか?」 「あれ…以上ですか?」 「あぁ」 「…って、あの…その…あれ以上、細かく…ですか?」 「組長がな、最近、うるさくてさ」 「その地島の時は、そこまで…」 その言葉で、須藤は、来生を睨み上げる。 「お前、それが、嫌だから、この話を強く推したのか?」 「そ、それも…ありますよ…ですが…その…」 「他にあるのか?」 「は、はぁ…」 「今の地位を上げたいなら、それを頑張ることだな。それと、銃器類。 それに対しての事件は、絶対に未然に防いでおけ。真北さんに 知られたら、それこそ、俺の手も届かなくなるからな」 「それは、重々承知……」 「…なら、何も言わない」 「これから、どうされますか?」 「ん? この街をぶらぶらするよ」 「では、数名…」 「いや、いい。一人でいいよ。あまり大勢だと目立つやろが。それでなくても 商店街の連中が、すごい目で見ていたやろが」 「はぁ、まぁ、そうですが…それは、須藤親分のお姿を初めて観ただけで…」 「……普通の人と同じような雰囲気だと思ったが…」 須藤は、目立たないような服装、それも一般市民のサラリーマンと同じような雰囲気のものを選んで着てきたのだが、どうやら、普通の人の目には、そう映っていなかったようで、そして、醸し出す雰囲気も違っていたようで…。 まぁ、高級車を乗って、その街にやって来たのも、正体がばれてしまうようなもんだが…。 来生会の事務所を出た須藤は、組員が見送る中、とある場所へ向かって車を走らせた。 それこそ、まさちんの住む場所。 「長年、荒れていた場所でした。持ち主は、北島から、一度、別の人物に 変わりましたね。…その人物は…」 来生が、とある資料を須藤に見せながら説明する。 「青柳翔平…だろ?」 「はい。青柳です。それが、十年前いいえ、それ以上前ですね。北島に戻りました」 「そうだろうな」 須藤は、その話を聞いて、自分の考えに確信を持った。 「少し離れた場所に、倉庫があります。その土地に車を停めても 大丈夫でしょう。無断駐車が多いですからね。そこでなら、 様子をうかがえるかと…」 来生に説明された場所に、倉庫があった。その駐車場に車を停めると、とある家が良く見えた。 その家こそ、まさちんが住む家だった。 須藤は、エンジンを切って座席を下げる。そして、まさちんの家を見つめていた。 まさちんは、作業着に着替えて玄関で靴を履いていた。 「政樹、今から?」 「えぇ。少しでも顔を合わさなかったら、拗ねますから」 そう言って、微笑みながら家を出て行くまさちん。母は、少し呆れたような嬉しいような表情をする。 「ったく、あの子ったら…。荒れ地同然の土地が、そこまで生き返るなんてね。 …売る事…出来なかったから…。あの人が大切にしていた土地…そして、 政樹が取り返した土地。……だからか…」 母は、潤む目を誤魔化すかのように手で覆って、キッチンへと戻っていった。 自宅から、まさちんが出てきた。須藤は、それを見つめていた。 「…ほんまに、見えないな…。似合わないって」 須藤は、思わず微笑んでいた。 まさちんは、育ち始めた野菜達に優しく声を掛けていた。一時間ほど、畑で過ごした後、自宅に戻っていく。 まさちんは、着替えた後、再び車に乗り、街へと向かって行った。 時刻は、夜の八時。 須藤は、少し遅れて車のエンジンを掛け、街へと戻っていった。 商店街の駐車場。そこに一台の車が停まっていた。その横に、車を停める須藤。窓を開けて、横の車を見つめる。 「…どう見ても、真北さん仕様の車だよな。…発信器…外したか…」 須藤は、車から降りてくる。そして、商店街にある映画館へ向かって歩き出した。 須藤は、映画館の前で、上映時間を確認していた。館長が須藤の姿に気が付き近づいてくる。 「…須藤親分…ですよね?」 「ん? あぁ」 「その…来生親分から連絡ありまして…」 「あの…お節介が…」 須藤が呟いた。 「…その…例の男…どれを観てる?」 「北島さんですか?」 「あぁ」 「これと、これ…そして、最後は、これですね」 須藤は、上映時間を観て、肩の力を落とす。 「…ぶっ通しか…相変わらずだな」 「毎回、オールナイトの時は、そうなります。でも、今日は、 この作品を観た後は、ございませんね」 「…案内してくれ」 「はい。どうぞ、こちらです」 館長は、須藤を裏口へと案内する。 まさちんは、二つ目の映画を見終わり、場内が明るくなると同時に背伸びをして、立ち上がった。そして、他の客と一緒に廊下へと出て行った。 自動販売機の前で、ポケットから小銭を取り出し、アップルジュースのボタンを押すまさちん。取り出し口から缶を手に、側にあるソファに腰を掛け、一気に飲み干す。時計で時刻を確認したあと、次の作品へと足を運んだ。 館内が暗くなり、上映が始まった。 まさちんは、画面に集中していた。 まさちんが座る席から、五つ隣の席に腰を掛ける人物が居た。しかし、まさちんは、気が付かず、画面に釘付けだった。 エンドロールが流れ終わり、そして、場内が明るくなった。まさちんは、時計を観ながら立ち上がる。五つ隣の人物は、まだ座っていた。そして、まさちんを見つめている。 「気づかないほど、集中するのか? まさちん」 須藤だった。しかし、まさちんは、動揺せず、首を傾げている。 「あの……どちら様ですか?」 「…記憶…喪失か?」 「ん?」 「…まぁいい。兄ちゃん、時間あるなら、ちょっと付き合ってもらいたいなぁ。 そこまで、映画に集中する、兄ちゃんの事を、詳しく知りたくてな」 「すみません…その…。失礼します」 まさちんは、須藤の前を横切った。しかし、須藤に腕を掴まれる。その腕の力は、尋常ではないものだった。振り解きたいが、掴まれている腕は、右腕。力が入らない…。 「放してください」 「付き合うなら、放してやるが…」 その声と目に、まさちんは、渋々承知した。 商店街から少し離れた場所にあるバー。 そこは、来生お奨めのバーだった。そこに、まさちんと須藤が座っていた。 「アルコール、駄目なのか?」 アップルジュースを頼んだまさちんに、須藤が尋ねる。 「えぇ。その…長い間、体を壊していたので、医者に停められてます」 「体、悪いのか?」 「はい。暫く空気の良いところで過ごせば、治るだろうと言われました」 「…名前、まだ、言ってなかったな。俺は、阿山組系須藤組の須藤という者だ。 兄ちゃんは、北島…政樹だったよな」 「はい。…どうして、私の名前を?」 「うちの組長が、先日世話になったらしいからな」 「真子さん…ですか。…その…私が、ある人に似ているから、確かめに来たと…。 だけど、逢いたい人では無かったからと、すごく寂しそうな表情を…」 組長が言った通りだな…。 須藤は、アルコールを口に含む。 「その…お礼でしたら、夫である方と、父親である人に、たっぷりと 頂きましたよ。なのに、須藤さんから…どうされたんですか?」 「いいや、な。あんたが、その男に似てるという情報を流したのは、俺なんだよ。 組長は、人違いだと言って、帰ってきた。先日の幹部会で、そう話したんだよ。 俺は、納得いかなくてな。それで、自分の目で確かめに来ただけだ」 須藤は、まさちんを見つめる。まさちんは、須藤の目線に気が付き、振り向いた。 「似てるでしょうね…」 まさちんが言った。 「あぁ、そっくりや。その顔、目、表情…趣味に、行動…」 「ずっと観ておられたんですか?」 「今日一日の行動はな」 「そうですか…」 アップルジュースを一口飲むまさちん。 なるほど、感じていた目線は、須藤さんか…。 まさちんは、須藤に目をやった。 「その真子さんもおっしゃってましたね」 「そうだろうな。…でもな、一つだけ、違うものがある」 「違うもの?」 「オーラだ」 「オーラ?」 「あいつは…まさちん…地島政樹は、組長以外には、近寄りにくいものを 醸し出してる。…常に…だ。…組長を守るためにな。だけどな、組長の 前でだけは、違っていた。…優しい笑顔、雰囲気。大切なものを壊したくない…。 そんな雰囲気になる。組長にとって、かけがえのない者…」 須藤は、フッと息を漏らす。 「なぁ、あんた。そいつの代わりに…なってくれへんか?」 「その…地島政樹…に…ですか? …無理です。私は、その極道の世界とは 程遠い世界で生きてるんです。あなたがおっしゃるような雰囲気なんて、 醸し出す事は、できません。…それに、私には無理です」 「無理?」 「この右手…。かなり動くようになったんですが…。病気のせいで…。 こんな半端な体だと、守る者も守れませんから…」 寂しそうに言うまさちんは、自分の右手を見つめていた。 「…そういう…ことか」 須藤は、グラスのアルコールを飲み干し、グラスをテーブルに置いた。 「動くようになったら、戻ってくるってことか?」 「戻るとは?」 「…いいや、悪い。思わず、まさちんのつもりで話してしまった」 「そうですか…」 まさちんは、グラスの中の氷を見つめていた。 「なぁ、あんた」 「はい」 「組長を観て、どう思った?」 「真子さん…ですか?」 「あぁ。あんたに二日ほど世話になったと言っていた。その間、組長と話したろ?」 「少しばかり」 「どう…思った?」 「素敵な…笑顔でした。その…やくざの親分さんとは思えない程…優しくて…。 心が和む笑顔…」 「それを守りたいと…思わないか?」 「どういうことでしょう…」 「…あの笑顔をいつまでも、大切に守っていきたい。俺の思いだ。 こんなやくざな俺に、命の大切さを教えてくださった。それも自分の夢を 犠牲にしてまで。組員一人一人のことを考えてくださる。それだけじゃない。 敵である奴にまで、優しく接してしまう。その接し方で、何人もの敵を 味方にしてしまった程だ」 そうですね…。 まさちんは、一点を見つめたまま、思い出していた。 須藤は、話を続ける。 「阿山組五代目組長…今までに無い素敵な親分だ。その親分の為に…俺たちは、 頑張っている。もう、いいだろう…そう思った矢先、あんたの存在を知った。 代われるものなら、代わって欲しい。…それが俺の思い、俺たちの思い」 須藤は、まさちんの襟首を掴み挙げる。 「なぁ、まさちん。解ってるんだろう? 組長だってな、お前の思いを大切にして 長い間、無理ばかりしていた。お前の感覚を失いたくないと言ってだな、 しばらくの間、誰とも触れたがらなかったんや。組長をかっさらった、 ぺんこうともな…。組長の思いを一番知っているお前が、なんで…」 須藤は、手を放す。 「組長、何も言わなかったんだろ。…自分の幸せを見せつけるだけ、見せつけて、 まさちん、お前に何も伝えずに、…六代目を継いでくれと言わずに去ったんだろ? ……どうして、そこまで、お前の事を考えてるんだよ…組長は…どうして…。 自分の幸せより、お前の幸せの方を大切にするのか? なんでだよ…」 「須藤さん…酔っておられるとか?」 優しく声を掛けるまさちんに、振り向く須藤。その目は、潤んでいた。 「これだけの量で酔うわけないだろが」 「は、はぁ。…その、須藤さんのおっしゃるお話は、初めて聞きます。あの時、 真子さんは、私をその地島さんを重ねて観ておられたようなので、 その地島さんに伝えたい事を…私を地島さんだと思って、おっしゃってくださいと そう言ったんです。…お別れの時は、すごく、落ち着いた感じでしたけど…」 「……あくまでも、まさちんとは別人だと言いたいんだな…」 そう言った途端、須藤は立ち上がり、まさちんの胸ぐらを掴み挙げ壁に押しやった。そして、服をめくり挙げ、腹部の傷を確認する。 「この傷が…何よりの証拠……」 須藤は、まさちんの腹部に目をやった。しかし、そこには、傷一つなく…。 「……無い…」 須藤は、手を放した。まさちんは、驚いたような表情をして、服を整える。 「傷?」 「…まさちんの腹部には、撃たれた時の傷が残ってるんだよ…。 あんたには、無いというこは…やはり、似てるだけか…」 「…そう言えば、猪熊って人にも同じ事を言われましたよ」 「フッ」 呆れたように言った須藤は、新たに注がれたアルコールに口を付ける。 「……記憶喪失…。医者に言われなかったか?」 「いいえ…」 「…ほんの数年前な、組長も記憶喪失になったんだよ。その時は、誰もが そのまま、記憶を取り戻さず、普通の暮らしをして欲しい。そう望んだ。 だけどな、組長は、記憶を失っていても、俺たちを大切にしてくれた。 そんな組長に、応えてやりたいだろ? …お前、記憶を失っているなら…、 取り戻せ。そして、戻ってこいよ……」 須藤の声は震えていた。 その時だった。 バーの隅に座っていた客の一人が立ち上がり、須藤とまさちんに銃口を向けていた。 「もらったっ!」 そう言って、その客は、引き金を引いた。 しかし、須藤の方が、一歩早かった。 まさちんの体を自分の後ろへ回し、そして、懐から銃を取りだし、男の銃を弾いていた。銃を弾かれて驚く男は、床に落ちた銃を拾おうと身をかがめる。 男の視野に飛び込んできたのは、人の足。その足先が、目の前に迫ってきた。 男は、真後ろに吹っ飛び、床に倒れ気を失った。 「……来生の野郎…。未だに残ってるじゃないかよ…」 その男は、来生会と敵対する組の組員だった。 奥村が、バーにやって来た。そして、須藤が抑え込んでいる組員を連れ出す。 「遅い」 須藤が、ドスの利いた声で言った。 「すんません。…先ほど連絡が入ったので…」 「狙いは、俺か?」 「その…事務所に須藤親分が顔を出している所を見られたようで…」 「いいや、組の者を一掃しろ。二人ほど、ほこりとして出てくるぞ」 知ったような口調で須藤が言った。 「やはり、あいつらか…」 「組内のことは、てめぇらでせぇよ」 「はっ。その…お怪我は?」 「無い」 「失礼します!」 奥村は去っていった。 須藤は、振り返る。そこには、まさちんが驚いたような表情で、立ちつくしているだけだった。 姿、形は、まさちんでも、…記憶は……。 須藤は、諦めたような表情で、服を整え、まさちんに近づいた。 「すまんな。これが、俺の生きている世界だ。…そして、お前が生きていた 世界でもある。…あの状況だと、かつてのお前なら、直ぐに攻撃に出ていた。 だけど、その表情が、物語ってるよ。…すまない。…俺の考えは間違っていた」 「須藤さん…」 「お前は、別人だ。…阿山組の地島政樹ではない。…奴は、自分で頭を撃って この世を去ったと思われた。だけどな、生きている。…組長が、そう言った。 生きているのに、なぜ、連絡をよこさないのか。…それは、この世界の掟に 怯えていると思っていた。……組長の想いなんだよな…。その地島政樹が 居なくなって数年。その間に、色々と変わったからな…」 須藤は、再び椅子に腰を掛ける。 「そのまさちんと、いっつも睨み合い、殴り合いしていたぺんこう…。 そのぺんこうと結ばれたんだよな…。それを考えたら、組長も、 遠慮してしまうってな…」 須藤は、わざとそう言って、まさちんの反応を確かめる。 しかし、まさちんは、その話を楽しむかのような表情をしていた。 「その…まさちんとぺんこうというお二人は、真子さんと?」 「さぁな。よく解らないな。組長を守る。その思いがいつの間にか、愛に 変わっていたようだからな。…複雑なんだよなぁ〜」 グラスを口に運ぶ須藤。 「それを見てるのって、結構楽しかったさ」 アルコールを飲み干す。 「あんたにも、見せてやりたいな。…阿山トリオって言われていたよ。 まさちんとぺんこうの二人を停めに、組長が入ってなぁ、二人の勢いに 巻き込まれて、三人で大暴れ。それを停めに入るのは真北さん。 カルテットになるんだよ。……わしら、そのやり取りを楽しみにしていた。 その時だけ、…自分が極道だということを忘れてしまうんだよ…」 須藤は、遠くを見つめる。 「…今思えば、組長の優しさ…だったのかもな…」 「真子さん、幸せですか?」 「ん?」 「私が別人だと解った後、すごく寂しそうな表情をしていました。でも、 帰る頃には、落ち着いていた。…その後が気になりまして…」 「あんたに逢って帰ってきた後は、更に輝いているよ…その笑顔がな。 そうや。もし、時間があるんやったら、大阪に遊びに来いや。歓迎するで」 「…でも、私をその…地島って人と間違う人がたくさん居られるんじゃ…」 「そうだな。…俺でさえ、…来生たちでさえ、間違ったくらいだもんな…。 まさちんと逢ったのって、二、三度だと思うけどなぁ…」 「私は、こちらで、ひっそりと暮らしておきます」 「そうだな。…何か遭ったら、来生に言え。直ぐに飛んでくるよ」 「ありがとうございます」 まさちんは、深々と頭を下げた。 「じゃぁ、帰るよ」 いつの間にか朝日が昇る時間になっていた。 須藤とまさちんは、バーから出て、外の明るさに目を細める。 「朝…か」 「今日も良い天気になりますよ。…須藤さん、お酒が抜けるまで、どうですか?」 まさちんが指さす方向、そこは、映画館。 「いいや、車で寝ておくよ。悪かったな」 「…いつでも、遊びに来てください。次は、自宅に招待致します。そして、 私の育てた野菜で、料理を致しますから」 「あぁ」 まさちんと須藤は、駐車場へとやって来る。そして、それぞれの車に乗り込んだ。まさちんは、エンジンを掛けた時、須藤の方を見つめる。須藤が、窓を開けるように合図していた。 助手席の窓を開けるまさちん。 「なんでしょう?」 まさちんが尋ねる。 「思いは……大切にしろよ。…いつでも待っとるから」 須藤は、そう言って、窓を閉め、アクセルを踏んだ。まさちんは、去っていく須藤の車を見つめていた。 いつでも戻って来い。組長の…為にな…。 須藤は、ルームミラーに小さくなっていくまさちんの車を見つめていた。そして、左折する。 「あくまで、俺を地島政樹と扱う…か」 まさちんは、助手席の窓を閉め、アクセルを踏んだ。 「組長と話していて良かったよ…」 真子と話したあの日。真子は、この日の事を予知していたのか、まさちんと話を合わせていた。 もし、北島政樹を地島政樹として訪ねてくる者が居たら、 地島政樹は、病気で記憶を失ったということにする。 まさちんは、自宅の駐車場に車を停めた後、玄関を開ける。部屋で作業着に着替えた後、畑へと出て行った。 組長、本当に……ありがとうございます…! 真子の思いを大切に…。 須藤は、そう言いたかったのだろう。 須藤は、まさちんは、記憶を失ったと思って帰っていった。 しかし、それは、須藤自身の優しさかもしれない。 まさちんは、自分を大切にしてくれる者達に感謝しながら、日々を暮らし始める。 須藤が、大阪に戻ってきた。一日、自宅で過ごした後、ビルへと足を運んだ。 エレベータホールには、真子とくまはちが居た。 「おはようございます」 「須藤さん、おはよ。どう、体調は」 「おかげさまで、この通り」 「心配したよぉ。滅多に病気にならないのに、倒れたって聞いたから」 よしの…そう伝えたんかい…。 エレベータが到着し、真子とくまはち、そして、須藤が乗り込んだ。 上昇する中、何も話さない三人。 三十八階に到着する。 「おはようございます」 エレベータの所で待機している須藤組の組員が、真子達に元気よく挨拶する。 「おはよ。今日もよろしく!」 真子は、笑顔で組員に言った。そして、事務所に向かって歩き出す。 須藤組組事務所の前に来たときだった。 「須藤さん」 「はい」 真子に呼ばれ、須藤は振り返る。 真子は、笑顔で須藤を見つめていた。 「なんでしょうか……!!!!」 鈍い音がする。 「次、逢いに言ったら…これだけじゃ済みませんからね」 「く、組長……」 「じゃっ、幹部会で」 真子は、後ろ手に手を振りながら、自分の事務室へ向かって歩いていった。 須藤は、腹部を抑えて座り込む。 「おやっさん!!」 一部始終を見ていた組員が駆け寄った。 「不意打ちやから、構えてなかった…。組長…御存知だったんだな…」 「あっ、その…」 焦ったように言い出した組員。その雰囲気に、須藤は、慌てて事務所のドアを開けた。 「おはようございます」 組員達の声。いつもの元気な挨拶では無かった。 須藤は、自分の目を疑った。 「お前ら…」 「すんません!!! 水木親分の二の舞になるかと思って…その…」 ふと事務室の隅に目を遣る須藤。そこには、よしのの痛々しい姿が…。 「よしの…お前…」 「おやっさぁ〜ん!!」 思わず泣き出すよしの…。 ま、まさか……な……。 須藤の顔が引きつった……。 真子の事務室。 デスクに腰を掛けた真子の前に、オレンジジュースが差し出される。 「ありがと」 「…組長、やはり、私が…」 「あれ以上、怪我人が出たら困るでしょぉ」 真子は、くまはちを睨んで、ふくれっ面になっていた。 「そりゃぁ、そうしたいのは、解るけど、あの時、私が停めなかったら、 よしのさんたち、病院行きだったでしょ?」 「すみません…。ただ、よしの達の態度に…」 「親分を思うんだから、当たり前の態度やんか」 「それでも…」 「須藤さんも反省するって」 「そうでしょうか…」 「確かに、来生会の敵が、襲ったって話しも聞いたけど、無事だったんだし、 まさちんも、あの話を通したみたいだから」 「そうですね」 「もう、大丈夫だよね…」 真子の声は、すごく心配そうなものだった。くまはちは、真子の思いが解っていた。 「大丈夫ですよ。…相手は、まさちんですから」 くまはちの強い言葉。真子の心を安心させるような…そんな雰囲気だった。 「…うん」 真子の笑顔は、くまはちの心配事を吹き飛ばす薬。 「ほな、今日の仕事っ!」 「こちらです!」 ドサッ……。 真子の目の前に、書類が山積み……。 「くまはち………張り切りすぎ……」 真子が呟いた。 (2003.12.18 『極』編・笑顔心良薬 改訂版2014.12.23 UP) |