第十部 『動き出す闇編』
第十一話 過ぎゆく時に…
この日も、阿山組の隣にある高級料亭・笹川は、賑やかだった。
真子の誕生日会である。
たくさんの料理に馴染みの男達、そして、部屋に隅には猫柄の包装紙に包まれた箱が山積み。
「真子お嬢様のように、洋子にも大人びた雰囲気に
なって欲しいなぁ…。お嬢様は益々素敵に…」
「………飛鳥……」
慶造が感慨にふける飛鳥を静かに呼ぶ。
「聞き飽きておりますよ」
飛鳥がやんわりと応えた。
「いくら何でも、それは…やりすぎ」
「よろしいじゃありませんか。そろそろ替え時でしょう?」
「そりゃ、そうだが……一体、どこで見つけるんだよ…」
「特注品です。御存知でしょう?」
「………だからか……」
そう言って、慶造は懐から小さな箱を取りだした。それには、猫柄の包装紙が巻かれていた。
「四代目からですか?」
珍しい…と言いたげな表情で飛鳥が尋ねると、
「成沢(なるさわ)革工芸社の成沢社長…」
「……そうでしたか…それで、しつこいくらいに
お嬢様の誕生日は、いつなのか…と……」
「飛鳥……あまり、広めるな…」
「心得ておきます」
「そりゃ、あんな特注品を頼んでたら、そうなるよな…」
「今までで一番、高価でしたねぇ…」
「これ以上は、やめておけ」
「次は、窓際のテーブルですね」
飛鳥は乗り気……。それには、慶造は項垂れた。 二人が話している間、真子は他の男達からのプレゼントに夢中になっていた。 もちろん、その男達の中には……。
「それにしても、あの二人は…恒例ですね」
飛鳥が笑いを堪えながら言った。
「山本は嫉妬だろうな。真北に対しても、あぁだし…」
「地島……変わりましたね」
「あれが、本来の姿や」
「格闘技駄目、女駄目……偽りでしたか…」
「あぁ」
「でも、お嬢様に対する思いは、真実だった」
「だから、奴の兄貴にあたる地島攻(おさむ)は、奴を薦めたんだろうな」
「……砂山組の連中は?」
「記憶を失うほどの恐怖に、未だ起きていないらしい」
「真北さん…ですか…」
「……らしいな」
「本当に、あの人こそ、怒らせたら……」
ちらりと春樹に目をやると、芯と政樹の睨み合いの間に割り込み、胸ぐらを掴み上げていた。
「いい加減にせぇよ…お前ら。今日は何の日や?」
春樹がドスを利かせて言うと、
「お嬢様の誕生日です」
芯と政樹は同時に応える。 それが、二人の怒りを増すことに……。 二人は素早く蹴り合ったが、政樹が腹部を抑えて前のめりに。
「…………」
春樹の行動に、芯は目が点に……。
「ええ加減にせぇや。真子ちゃんの居ない所でやれ」
芯に言った。
「心得ました」
芯は、そう応えて、真子に目をやる。 幸いにも、真子はプレゼントを見つめて感動していた為、二人…いや、三人のやり取りは見ていなかった様子。
「次は、飛鳥さん?」
真子に呼ばれて、飛鳥は振り返る。
「はい。今回は、こちらですよ」
真子に負けないくらいの笑顔で差し出したのは、ソファ。 猫柄のシートに、猫の足を形取ったソファの足と取っ手。 真子の表情が更に綻んだのは、言うまでもない。
「飛鳥さん、ありがとうございます!! すごい!!」
「後で部屋に運びますよ」
「まさちんとくまはちが居るから!!」
真子は嬉しそうに腰を掛けた。
「気持ちいいぃ〜!! ぺんこうも座る?」
なぜか、芯を誘う真子。
「よろしいんですか?」
遠慮がちに言った割には顔は綻び、心は弾んでいる。 芯が真子の隣に座る……と同時に、春樹も座った。
「おぉ、三人も座ることができるんだなぁ。
飛鳥ぁ、ありがとなぁ」
春樹が言うと、
「は、はぁ……どうも…」
なぜ、真北さんが…???
と思いながらも返事をする飛鳥。 しかし………、
「どうして、あなたが座るんですかっ。誘われたのは
私だけですよ!」
「もう一人分空いてるから、座っただけや」
「一緒に座りたいなら、部屋でどうぞ」
「ここでもええやろが」
「嫌です」
「あのなぁぁ」
ったく、お前らはぁ。
慶造は再び項垂れるが、
「いい加減にしてくださいね、お二人とも」
八造が芯と春樹の襟首を掴み上げていた。
「って、こらっ、くまはちっ!」
芯と春樹の声が重なる。
なんやかんやと…声が揃うんだからなぁ。
こみ上げる笑いを堪えながら、慶造は、そう思っていた。
真子の部屋に、飛鳥からのプレゼントであるソファが運ばれ、部屋の中央に置かれた。少し遅れて真子が両手一杯に荷物を持って入ってくる。前がほとんど見えていない真子は、ちょっぴり足取りもおぼつかない。 八造が真子の荷物を手にすると、
「ありがと、くまはち」
「無事の到着、安心しました」
優しく八造が言う。
「くまはちも座る?」
「いいえ、私は…」
「いいからぁ、ほら」
八造の荷物をテーブルに置き、強引に八造を座らせた。
座り心地はとても良く…。
「素敵ですね」
「そうでしょ? まさちんも!」
「あっ、その…私は…」
「三人で座ること出来るだよぉ」
「しかし……」
八造さんが、怒る…。
と思っても既に遅し。 真子を挟む形で、八造と政樹は、ソファに腰を掛けていた。
「あれ? ……狭い……」
真子が言った。
「真北さんとぺんこうと座った時は、こんなに
窮屈じゃなかったんだよ?」
「趣味のように体を鍛える男が原因ですよ、真子ちゃん」
真子の残りの荷物を持って春樹がやって来る。
「まさちんは、私やぺんこうと同じ体格ですが、
くまはちは、もう一回り大きいですからねぇ」
「……くまはち、もしかして…」
「はい?」
「また、背が伸びたの??????」
「は、まぁ……そのようです」
「すごぉい!!! このまま伸びたら、やっぱり
二メートル越しちゃうよ???」
「そこまでは伸びませんよ」
「解らないって。ねぇ、まさちん」
「そうですね」
と応えた途端、政樹は鋭い眼差しが突き刺さった事に気が付いた。 真子は政樹の方を向いている。 八造には背を向けた形……ということで、八造は、政樹に向かって、鋭い眼差しを向けていた。
「ねぇ、くまはち」
真子が八造に振り返った途端、鋭く突き刺さる物は消えた。
「はい」
「明日…出発なの?」
「えぇ、帰りはお盆の頃になります」
「…忙しいのに…今日は、ありがとう!」
八造が大阪での仕事で忙しいことは解っていた。 誕生日には来ないと思っていた真子だが、八造は前の日に帰ってきた。 誕生日に合わせて、仕事を切り上げ、三日の余裕を持たせてある。 その分、須藤達に思いっきり負担が掛かっているが、それは、真子は知らないこと。
「この日は、毎年、楽しみにしておりますから」
素敵な笑顔で真子に言った。
「ありがとう」
真子も八造に負けないくらいの笑顔で応える。
うっ…その…お嬢様、その笑顔は……。
今回は、八造の負け。
その日の夜。
いつものところで、いつものように、いつもの二人が語り合う。
「……ありゃ、女性なら、イチコロだな」
慶造が言った。
「そうだよな。…男の俺でも、ドキッとした」
春樹は失笑する。
「俺もだ」
慶造も失笑した。
「猪熊さんで慣れてるんじゃないのか?」
「それ以上や」
「なるほどなぁ」
春樹は夜空を見上げた。
「明日……俺も行くからな」
春樹が呟くと、
「……意外やな」
慶造が静かに口を開き、
「もう…行きたくなかったんじゃないのか?」
と、尋ねた。
「仕事は終わりや。気になることがあるしなぁ」
「そうか…」
「あぁ。…慶造一人にさせるわけには、いかんやろ。お前、無茶するし」
「お前に言われたぁないわ」
「おっ、大阪に染まってきたな…」
「ほっとけ」
「そりゃ、益々、大阪弁が増えるわなぁ、本部内」
「そういや、そうやな。…すまんな」
「まぁ、ええやろ、それくらい」
「……ええか……」
慶造は寝転び、
「今日は、煙に紛らわさないんだな」
春樹に言った。
「禁煙…続いてるんでな」
「そうかいな」
「そういう慶造もだろ?」
「まぁ、一応な」
沈黙が訪れた。 二人は何話すことなく、ただ、のんびりと時を過ごしていた。
八造と春樹が大阪へと旅立った。 真子は予定の宿題を終え、政樹を呼ぶ。 政樹は慶造に予定通りだと伝え、いつものように拳と蹴りをもらってから、真子と一緒にドライブへ出掛けていった。
はぁ…やれやれ…。
慶造は大きく息を吐いて、寝転んだ。 ドアがノックされ、
『山中です』
勝司の声が聞こえてくる。
「入れ」
と応えながら体を起こし、勝司に目をやった。
「そっちも予定通りか?」
「はっ。報告書です」
勝司が差し出した書類。それこそ………。
世間では、御先祖様への感謝の意を込めて、お墓参り…というより、お盆がやってきた。 芯は、出掛ける準備をし、車で何処かへ出掛けていった。
芯の車が、寺の駐車場に入ってきた。駐車場には、他にも家族が来ているのか、たくさんの車が停まっていた。空いてる場所を見つけ車を停める芯。そして、車を降りた。
ほとんどの家族は既に墓参りを終えたのか、帰る準備をしていた。その中、芯は、父と母が眠る墓へと足を運んだ。
『真北家』
墓前に、一人の男が立っていた。 芯は警戒するが……、
「…遅いぞ」
男が言った。 芯は、男の言葉の意味を理解する。
「いつものことですよ」
やんわりと応えた芯は、声を掛けた男を見つめていた。
「ところで…どうして、あなたがこちらに? 関係は…」
「大いにあるだろが」
そう応えた男こそ、慶造だった。
「しかし…」
「厄介な兄弟を預かってるんだから、その報告くらいは
必要だろ?」
「それでも……!!! って、お一人ですか?!」
芯は、周りに警護の気配を感じない事に気付き、驚いたように声を張り上げた。
「ここへは、いつも一人や」
「えっ?」
「ん? それより、真北に先を越されるとはなぁ」
「あの人の行動は、把握できませんから」
「そりゃ、そっか」
「月命日には、必ずですよ。私より先に来るんです」
「…自分の墓参りだから、張り切ってるんだろうな」
「ぷっ……四代目ぇ……」
そう言って、芯は笑い出した。
「いや、俺、何も面白いことは言ってへんけどなぁ」
照れたように慶造は言った。
寺にある展望台のベンチに、芯と慶造は腰を掛けていた。 目の前に広がる光景に、二人は我を忘れている様子。
「四代目…毎月…来てくださっていたんですか?」
「時間のある時はな。…真子から聞いて、ここの景色を
観ようと思っただけだ。そのついで」
「ありがとうございます。いつまでも……」
芯は、慶造が『ついで』と誤魔化した言葉の裏に隠された思いを感じていた。 真北の代わり。そして、この世界に引き込んでしまった事への謝罪とその報告。 あの日、栄三が調べた真北の謎の行動の一つを知ってから…。
慶造は、フゥッと息を吐いた。
「なぁ、ぺんこう」
静かに芯を呼ぶ。
「はい」
「真子のこと……本当に頼んでも良いのか?」
「私の思いでもありますから」
「真子には、家族は俺だけだ。…もしものときは…」
「慶造さん」
芯は慶造の言葉を遮るように呼んだ。
「もしものとき…だと言ってるだろが」
「それでも、そういう話は…」
「この世界には、必要なことだろが。先のことを考える。
家族を失った時、慌てる事のないように…考えておく」
「解っております。…私も、母から嫌と言うほど言われてました。
でも…失った時は、やはり、どうすることも出来ませんでしたよ。
怒り任せに、あの事件の後、本部まで足を運びましたから。
兄貴は、きっと、監禁されてる……そう思って…」
「監禁に近かったけどな」
「えぇ。……本当に、厄介な者を拾いましたね、慶造さんは」
「厄介だけど…それで良かったと思ってる」
静かに言った慶造は、遠くを見ていた。
「もしものときは…」
慶造は、芯にそっと語り始めた。
芯と慶造は、駐車場へとやって来る。
「本当に、気をつけてくださいね」
「大丈夫や」
「では、私は、これで」
そう言って、車のキーを開けた芯は、
「ぺんこう」
慶造の呼ばれ、振り返る。
「空いてる時間、教えてくれよ」
慶造の言葉に首を傾げた。
「また、時間作ってやるから」
慶造の言葉の意味を把握したのか、芯は笑顔を見せた。
「ありがとうございます。でも、職場で…」
「なるほどな。…でも、話せないだろ?」
「猫電話で」
「それで充分なのか?」
「そうでないと、私が大変ですから」
「真子は寂しがってるけどなぁ」
慶造が言うと、芯は苦笑い。
「あの人にも怒られたくありませんからね」
そう言って、芯は車に乗り、慶造に一礼してから去っていった。
「理性を抑えるので必死…ということか…ったく」
あの兄弟はぁ…。
怒って良いのか喜んで良いのか。 慶造は、悩みながら車に乗り、そして、帰路に付いた。
慶造の車が本部の門をくぐる。 組員が出迎える声が本部内に響き渡った。
くつろぎの場所に真子と八造の姿があった。 組員達の声が聞こえてくると、八造の表情が少し凛々しく変わる。 慶造の姿が回廊に見えた途端、八造は姿勢を正し、一礼する。 慶造は、来なくて良いという合図を送り、勝司と部屋へ向かっていった…と思ったら、直ぐに戻ってきた。
「くまはち、真北は?」
「二時間ほど前に出掛けました」
ん??? 戻ってきて出掛けた?
「行き先は?」
「仕事だと仰って……」
そこまで言った八造は、ちらりと真子を見た。 その眼差しで解る。 春樹は、真子の機嫌を損ねて出掛けたのだということが。 真子は、ちょっぴりふくれっ面…?
「こういう時期こそ、休めと言ってるのになぁ、あいつは」
「仕事好きですから…真北さんは」
「…何か掛けるか、部屋に連れて行くかにしろ」
「えっ? あっ! すみません!! 部屋に」
慶造は再び部屋に向かって行った。
「いつの間に、眠っておられたんですか、お嬢様」
少し離れた所に居た慶造は、真子が寝入っている事に気付いていた。一番近くに居るというのに、八造は、全く気付かなかった様子。
疲れが取れてないな…俺…。
八造は、真子を抱きかかえる。直ぐに、真子の腕が八造の首に回された。
「くまはちぃ〜…」
「はい……プッ……お嬢様…」
真子に呼ばれて腕の中にいる真子に目をやった八造だが、なぜか、真子の表情を見て笑ってしまった。
「笑うなぁ…」
と言いながら、真子は八造の胸に顔を埋めて再び眠りに就いた。
「すみません。あまりにも……」
かわいすぎです…。
八造は真子の部屋へ入っていった。 真子をベッドに寝かしつけ、そっと布団を掛ける。窓を少しだけ開けて風を通し、自分はソファに腰を掛けた。テーブルの上に置かれている本に手を伸ばす。 昨夜、八造が帰ってきて、真子に帰宅の挨拶をした時………。
「只今戻りました」
真子の部屋の前で、そう告げた八造。真子の返事が無いが……
「お帰り、くまはち! お疲れ様でした!」
真子が飛びっきりの笑顔で部屋から出てきた。 その手には、一冊の本が…。
「お嬢様、読書中でしたか…すみません、お時間を…」
「違うよぉ。くまはちに読んであげたくて、借りてきたの!」
「借りてきた…?」
「学校の図書室で。…本当は、ぺんこうに借りたかったけど、
ぺんこうの本は、くまはちは、全部読んだでしょう?」
「えぇ、まぁ…」
足を運んでいたついでに、勉強がてら……。
「家でジッとしてるくまはちじゃないでしょう? だからね……」
八造は、昨夜の真子の言葉を思い出しながら、本の表紙を捲った。 中学一年生が好むような内容ではない。なのに、学校の図書室で借りてきたと言った。 八造は不思議に思いながらも、本を読み始めた。
しばらくして、政樹が真子の部屋をノックして、静かに入ってきた…ら、八造にドアの所で阻止されてしまった。
「お嬢様はお休み中だ」
「八造さんっ! すみません!!」
「それに、俺が居る時は、必要ないと言っただろが」
「しかし…」
「自分の時間を過ごしておけ」
ちょっぴり威嚇する八造に、
「すみません…お願いします」
政樹は静かに告げて、ドアを閉め、隣の自分の部屋に入っていく。
「ふぅ……」
八造は気を引き締めた。 政樹が来るまで、抑え込んでいる自分の思いが表に出そうだった。 政樹が来た途端、その思いが表に出てしまった。しかし、直ぐに我に返り、立場を優先した。 ドアが閉まった途端……。
ほんまに、このままやったら…俺……。
八造はグッと拳を握りしめた。 背後で何かが動いた。 八造は振り返る。 真子が寝返りを打っていた。腕がベッドからはみ出していることに気付いた八造は、すぐに側に寄った。真子を楽な姿勢に動かそうと手を伸ばしたら、
…!! って、…えっ!?!????
八造の視界に天井が映った。 八造の腕に、真子がしがみついてきた。
「お嬢様、あの……」
八造の体は、真子の隣に寝転んでいた。 寝ぼけているのか、故意なのか解らないが、八造は真子に腕を引っ張られ、ベッドに寝転ぶ形になってしまった。 一瞬の出来事。 流石、格闘技マスターに習っただけある。 不意を突かれたとはいえ、真子の突然の行動に……。
真子が何かを呟いた。
…お嬢様……。
八造が、真子の体を腕の中に包み込むと、真子は八造の胸に顔を埋めてきた。
勇気を…どうぞ…。
八造は、大事な何かを守るかのような表情をして、そっと目を瞑った。 真子は一体、何を呟いたのか……。
その頃、春樹は大阪に到着した。 ふと、空を見上げると、あいにくの曇り空。
「雨は…降らんやろ…」
そう呟いて、改札を出ていった。 ロータリーに待機していた車に、迷うことなく乗り込んだ。
「悪いな。休み中に呼び出して」
運転手に話しかけると、
「お気になさらずに。しかし、急にこちらでお仕事とは、
驚きました」
やんわりと応えてくる。この運転手こそ、大阪での例の仕事の時に、春樹が目を付け、推奨した原という男。いつの間にか、原は春樹を尊敬していた。その為、どんな状態であろうとも、急な呼び出しに応じてしまう。 そして、目指すのは……。
「ところで、…どうだった?」
「先程、外から様子を伺ったのですが、夏期休暇に入ったのでしょう。
守勢の姿はありましたが、人の気配はありませんでした」
「それでも、中には居るだろうな」
「真北さん」
「ん?」
「本当に………」
原が、そっと呟いた。
「…この目で確かめるまでは、何も言えない」
静かに応える春樹だった。
原の運転する車が、竜次の製薬会社の前に停まった。 春樹は、ゆっくりと車を降り、慣れた感じで門をくぐっていった。 守衛が春樹の姿に気付き、歩み寄り、一礼した。
「真北さん、こんな時期にお出でとは…」
「すまんな、居るのか?」
「はい。研究室の方に閉じこもっておられるはずです」
「逢うこと…できないのか?」
「お話は無理でしょうが、部屋の外からなら大丈夫でしょう」
「…いや、話があるんだが…」
そう話している時だった。 守衛の表情が更に引き締まり、何かに深々と頭を下げた。 春樹は目をやった。
「顔色…悪いなぁ、竜次。そんなんじゃ、人助けにもならんやろ」
「うるさい。二週間、日に当たらないと、こうなるだけだ。
中で話すか? …例の……事だろう?」
竜次は春樹が来た理由を解ってるかのように、尋ねてきた。
「あぁ。それもある」
「他にもあるのかよ。…俺…忙しいんやけどなぁ〜」
「ずっと付きっきりというものでも、ないだろが」
「まぁなぁ。…あぁ〜やだやだ。何でも解ってる男が
こう足を運ぶと…」
「何も起こらん」
阿吽の呼吸? 二人は、仲の良い友人のように語りながら、研究室の建物へと向かって歩き出した。
「本当に解らない二人だな…」
そう呟いて、守衛は仕事に戻る。
『真北春樹。午後五時訪問』
応接室に入った二人は、すぐにソファに腰を掛けた。 竜次が差し出す書類に目を通す春樹。
「何度来ても、同じ事しか書いてないんだが…」
「そう言いながら、どれだけ新たな医薬品を開発してるんだ?」
「まぁ…それが仕事だからなぁ」
得意満面に話す竜次に、ちらりと目をやる春樹。
「だけど、自分の体で試すのだけは、もう辞めとけ」
竜次の顔色の悪さを気にする春樹は、心配げに言った。
「俺の体だと、言ってるだろが」
「逢うたびに、やつれていくのを観るのは、こっちが辛いぞ」
「その方が、阿山も安心するだろが」
「………。なぜ、戻ってきた?」
「戻る? 俺が? どこに?」
「こっちの世界だよ。……慶造は何も言わなかったが、
報告は来てる。周りも知ってることだぞ」
「猪熊…あたりかな?」
知ったような口振りに、春樹の表情が曇った。
「竜次。…お前…何を考えている?」
「薬の事しか考えないんだが…他に、何か?」
いつも、心が掴みにくい言い方しかしない竜次に、春樹はイライラしてしまう。しかし、それを表に出さずに、冷静に、竜次と会話を交わしていた。
「桜島組(おうとうくみ)の手引き、そして、桜島組への指示、撤退。
それらに関与していたよな」
「まぁねぇ」
あっけらかんと応えた竜次。
「黒崎組の復活の土台にしていたとは…流石の俺も
気付かなかったよ」
「そりゃぁ、ばれないようにと、動いていたもんねぇ」
「はぁ……」
春樹は大きく息を吐いた。
「医療の世界だけを生きる…それが契約なんだが…」
「そんな契約……おしまいにしてもらえないか?」
先程まで、ふざけた口調だった竜次が、急に真面目な表情で、尋ねてきた。
「それは、無理だ」
春樹は即答する。
「そう言われても…もう、復活してるしぃ〜。だから、阿山への
宣戦布告だったけど……、あれ…通じなかった?」
「この目で確かめるまで……信じることが出来なかったんでな」
「じゃぁ、…信じた?」
「…………あぁ」
春樹は静かに応えた。 その途端、竜次はソファにふんぞり返った。
「それでこそ、やりがいがあるってこった!! あっはっはっは!!!」
高笑いする竜次に、春樹は違和感を感じていた。 それが何か、流石の春樹も解らない。 …解らないまま、春樹は竜次の研究室を後にした。
守衛に一礼し、外で待機していた原の車に乗り込んだ春樹。 その耳に、去り際に言った、竜次の言葉がこびり付いていた。
まぁ、せいぜい、阿山の本能が出ないように
気をつけるんだなぁ、真北警部〜!!
あと少しで達成するのが、沫となって消えるぞぉ。
「……たさん? …真北さん」
「ん?」
「どうされたんですか、先程から深く考えて…」
「すまん、呼んでいたか?」
「えぇ。今日は帰られますか?」
「最終に間に合うだろ」
「そうですが、例の事もまだ…」
「どれくらいになる?」
「そうですね……早くて二日…」
「……仕方ないな。そうしてくれ」
「かしこまりました」
「よろしく」
原の車は、大阪にある特殊任務の建物へと静かに入っていった。
次の日。
阿山組本部・慶造の部屋。 春樹が二日ほど帰らないと連絡を受けた慶造は、することがない。 こういう時は、いつもは縁側に足を運ぶのだが、一人で縁側に居てもつまらないと思ったのか、自分の部屋の中央に、仰向けになって寝転んでいた。
たいくつ。
こういう時に必ず足を運んできた男は、もう、来ない。 来るなと言った手前、誘うことはできない。 もう一人のいい加減な男は、更に無理をしてしまい、またしても家の中から出ることが出来なくなったらしい。 まぁ、それは、影で動きやすくするための小島家独特の『嘘』なのだが…。 慶造は解っているが、敢えて触れないようにしていた。
たいくつ。
本部内の気配に集中した。 誰もがくつろいでいるのか、緊迫した雰囲気は微塵も感じない。 それもそう。 今日は好きなことをしろ。 勝司に組員達に伝えるようにと命令した。 勝司たちは、自分たちの時間を作って、出掛けていた。 里帰り、墓参り、そして、楽しい時間。 それぞれが、それぞれの時間を楽しんでいる。
ふぅ……。
大きく息を吐き、そして、スッと目を瞑った。 夏の音が、聞こえてくる。 それを楽しむかのように、耳を澄ませていた。
暫くして、足音が二つ聞こえてきた。 その足音は時々留まり、鈍い音が聞こえてくる。
『すみません!! お嬢様っ!』
『もぉっ!!』
今日も、真子と政樹のやり取りが、楽しい。 政樹の敬う行動に、真子が怒る。 それを待っていたかのように、政樹は真子の攻撃を受け止めていた。 反撃に出る様子は無い。
『あっ、お嬢様っ!』 『付いてくるなぁ!!』
その声が響いた途端、ドアが勢い良く閉まった。 そして……。 慶造の部屋がノックされる。
『地島です。只今戻りました』
「あぁ。報告」
そう応えながら体を起こし、静かに入ってきた政樹を迎えた。
「予定通り、本日は……」
真子との行動を事細かく報告する政樹。 慶造は静かに耳を傾けていた。
真子、今日も楽しんで来たんだな。
慶造の思いは、自分の部屋に入って着替えを済ませた真子に聞こえていた。 本部の落ち着いた雰囲気に、真子は気を緩めていた。 いつも聞こえてくる恐ろしいまでの声。 それが、この日は聞こえてこない。 政樹との時間が、そうさせていたのかもしれない。 組員達のオーラも感じない。
里帰り?
そう思いながら、ふと気を緩めた途端、慶造の声が聞こえてきた。
楽しかったもん。
真子は心で応えて、猫ソファに腰を掛けた。
真子の部屋をノックする政樹は、返事が無いことを不思議に思い、そっとドアを開けた。
「お嬢様、そのような格好で寝ると…疲れますよぉ」
優しく語りかけながら、ソファに座ったまま寝入っている真子に近づく政樹。 真子の顔を覗き込んだ途端、政樹の表情が綻んだ。 それは、やくざとは思えないほど、穏やかで、優しくて、心が温まるものだった。
真子の寝顔が、そうさせた。
政樹は、真子を抱きかかえ、ベッドへと寝かしつけた。 布団を掛けようとした途端……、
「!!!! ……起きて……眠っておられる…」
真子の素早い蹴りが、政樹の腹部に突き出された。 しかし、政樹は軽々と避け、真子を見つめる。
「足癖…悪くなりますよ、お嬢様。…レディですからね…。
そろそろ自覚…してください」
優しく語りかけ、真子の体に布団を掛ける。 部屋のカーテンを閉めた後、真子の部屋の灯りを落とし、出て行った。
ドス………。
廊下で鈍い音が聞こえた。
「……手ぇ……」
「出してませんっ!!!」
慶造から、強烈な拳を腹部に頂いた政樹だった。
夏休みも終わる頃、八造は慶造と共に大阪へ、春樹は真子の側から離れず、政樹は春樹と真子に翻弄されながら、日々を過ごしていった。 そして、二学期が始まり、真っ赤な紅葉を楽しんだ後、待ちに待った時期がやって来た。
(2006.3.28 第十部 第十一話 改訂版2014.12.22 UP)
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