第六部 『交錯編』
第三十話 驚愕の事実
「そろそろ到着してる頃だな…」
ふと呟いた慶造の言葉に、会議室に集まっている幹部達が顔を上げた。 しかし、慶造は、書類を見つめたままだった。そして、
「これを見る限り、相手の誤解は解けそうにないな。
ふ〜ぅ〜。仕方ない。全員、厳戒態勢を敷け」
「はっ」
「但し、これだけは忘れるな。こっちから手を出さない事。いいな」
「御意」
ドスの利いた声が響き渡る。 またしても、阿山組に危機が迫っている。新年を迎える前に、一波乱ありそうな雰囲気だった。
真北の行動……あれ程気をつけろと言ったのになぁ。
慶造は眉間にしわを寄せて、大きく息を吐いた。 要因になった春樹は………。
一面真っ白な世界に降り立った真子、春樹、そして、八造と芯、向井の五人は、長旅の疲れを癒すかのように背伸びをする。
「ぺんこうは、スキーも出来るの?」
「えぇ。道場での合宿で、何度か雪国に行きました」
「天地山?」
「いいえ、長野県辺りですね。あの辺りも雪が降りますから」
「むかいんは?」
「私は、料理一筋に生きてましたので、スキーは初めてです」
「それなら、くまはちに教えてもらったら? ねっ、くまはちっ」
「…は…ん? はい」
真子の呼びかけには、打てば響くかのように応えていた八造。しかし、ここ二ヶ月ほど、その響きは悪かった。それもそのはず。慣れない呼び名に戸惑っていた。
「ねぇ、真北さん」
「はい」
真子達の会話に耳を傾けて、和んでいた春樹。もちろん、返事も柔らかい……。 芯の表情が、ちょっぴり変わる瞬間だった。
「まささん、お忙しいのに迎えに来るの?」
「忙しくても来ますよ、まさは」
「確か…送迎バスがあったよね。それで行く事もできるのに、
どうしてなの?」
真子が首を傾げて尋ねてくる。 その仕草は、その場に居る男達の心拍を高めてしまう。真子がそういう仕草をした時は、必ず目を背けていた。
「真子ちゃんに早く逢いたいからですよ」
「…でも……車……乗れないよ?」
「………二台で来ると思います」
「店長さんが来るのかな…」
「西川くんでしょう」
「そっか。ぺんこうとむかいんを紹介しないとね!」
「そうですね」
真子と春樹は、ニッコリと微笑み合っていた。
「ねぇ、ねぇ、真北さん」
「はい、何でしょう?」
「直ぐに頂上に行きたいなぁ」
「それは明日にしましょう。熱が出ますよ?」
「早く見せてあげたいのぉ」
二人は、楽しくはしゃぎながら、駅の階段を下りていく。その後ろを八造達が付いていく。
「なぁ、くまはち」
芯が呼ぶ。
「はい」
「お嬢様の笑顔…ここに近づく程、輝いていたよなぁ、…そして、
着いた途端、今までに見たことのない笑顔になったけど…」
「気が付いたんですね、山本先生」
八造は、どうしても真子専用の呼び名に慣れない様子。今でも、芯の事を『山本先生』と呼んでいた。
「お嬢様の笑顔が輝くのは、ここの空気なんですよ」
八造が優しく応える。
「確かに、都会と違って、空気が綺麗なのは解るが、
たったそれだけで、変わるものなのか?」
「この白銀の世界が、心を和ませてるんだよ。山本先生も
向井さんも、天地山の頂上に行けば、恐らく解りますよ」
「雪山の景色は、何度か観たことあるけど、そんな気持ちには
ならなかったなぁ」
芯が言った。
「俺は解る気がするよ」
向井がそう応えた時、前を歩いていた真子が、急に走り出した。
「まささぁん!!」
「お嬢様! お疲れ様でした」
深々と頭を下げるまさは、駆け寄る真子を抱きかかえた。
「その後、お変わりありませんか?」
優しく語りかけるまさ。またしても、周りが見えていない様子。
「えっとね、素敵なお兄さんが増えた!」
そう言って、真子が芯と向井を指さした。二人は、躊躇いがちに一礼する。まさは、真子を地面に降ろして、姿勢を整え、丁寧に挨拶をした。
「初めまして。私、ここから少し離れた所にある天地山ホテルの
支配人を務めております、原田まさと申します。この度は、
遠いところまでご足労頂きまして、ありがとうございます」
「あっ、いいえ、その……」
芯と向井は、どう応えていいのか、本当に解らないのか、戸惑っていた。
「緑の服を着てる人が、山本先生、呼び名は、ぺんこう!」
「ぺ、ぺんこう?!」
「そして、白い服を着ている人が向井料理人さんで、
呼び名は、むかいん! それでね、八造さんの呼び名は
くまはちなの!!」
「……お嬢様……その……呼び名って……」
真子の言葉に目をパチクリさせるまさ。
「まぁ、それは、後程話してやるけど……また、忘れてたろ…まさぁ?」
「あっ……………すみません〜」
恐縮そうに首を縮めるまさだった。
春樹が言ったように、まさの他、西川が来ていた。真子を見て、笑顔で挨拶をする西川。
「西川さんの車には、真北さんとくまはちね!」
「え〜〜っ?!」
真北が嘆く。
「まささんの隣に座っていい?」
真子は、春樹の嘆きを気にせずに、まさに話しかけていた。
「構いませんよ。それでは、ぺんこうさん、むかいんさん、
後ろの席にどうぞ」
「あっ、はぁ…」
「宜しくお願いします」
芯と向井は、まさ運転の車に、そして、春樹と八造は、西川の車に乗り込む。 そして、二台の車は、天地山最寄り駅を離れ、一路、天地山ホテルに向かっていった。
真子は、まさの隣に座った途端、この一年の出来事を、楽しそうに話していた。真子の話に耳を傾け、時には優しく応えるまさ。二人の雰囲気に、後部座席に座る芯と向井は、呆気に取られていた。時々振り返って話しかけてくる真子に応えるのが精一杯の後部座席の二人。
「もしかして、緊張なさってるとか?」
まさが尋ねた。
「いいえ、その……お嬢様から真北さんが離れるとは思わなかったので、
驚いているだけです。それに、私とむかいんだけでは、もしもの時に
お嬢様を…」
「雪道の運転には慣れてますから、ご安心を」
ルームミラー越しに、後部座席の芯を見つめた、まさ。芯は、まさの眼差しに、何かを感じ、
「はぁ…」
素っ気ない返事をした。
「ホテルに到着したら、目一杯くつろいで下さいね」
優しく微笑み、まさが言った。
しかし、今年は、背中に突き刺さる物が強いよな…。
運転しながら、真子の話に耳を傾け、それでいて、後ろを付いて走ってくる車に乗っている一人の気配を探る、まさ。
やはり、お嬢様と一緒に居たかったんだろうなぁ。
まさの顔に笑みが浮かんでいた。 後ろを走る車に乗る男・春樹は、まさの笑みとは裏腹に、思いっきり不機嫌な表情をしていた。
「まさ…仕事をほったらかして、真子ちゃんと過ごしそうだな」
「この日が近づくたびに、支配人の表情が変わってましたからねぇ。
いつもは厳しい表情ばかりなのに、もう、弛みっぱなしですよ。
それに、今朝は、本当に落ち着きが無くて……」
「ったく、呆れた奴だなぁ。…それよりも、西川」
「はっ」
「かなり、その仕事が身に付いてきたんだな」
「えっ? 身に付いたとは…」
「すっかり、ホテルの従業員だ。やくざな雰囲気が消えてるよ」
「ありがとうございます。日々、努力しておりますから。それに、
お客様と接していると、昔の事なんか忘れてしまいますよ。
しかし、店長と湯川は、時々、支配人を兄貴って呼びますね」
「そのたびに、まさが怒ってるんだろ?」
「その通りです。真北さん、凄いです!!」
「誉めても何も出ないぞ」
「その…お聞きしてもよろしいですか?」
「なんだ?」
西川は、一呼吸置いて、春樹に尋ねる。
「ぺんこう、むかいん、くまはちって…どうして、呼び名が
変わったんでしょうか……」
「あぁ、それはだな……」
春樹は、それぞれの呼び名の変更の訳を、事細かく話し始めた。
そうこう話しているうちに、天地山ホテルへのゲートをくぐっていった。 目の前に、自然豊かな天地山が、大きく広がっていた。
天地山ホテル・真子愛用の部屋。
芯と向井が、一点を見つめたまま部屋の中央に突っ立っていた。芯は、顔が引きつっている。向井は、何も言えないというような表情をしていた。
「恐らく夕方まで起きないと思いますから、それまで、
みなさんにご案内を…」
まさが、芯と向井に振り返りながら、話しかける。
「……おい、支配人」
少しドスが利いた声が聞こえた。
「仕事は?」
春樹が、まさを睨み上げる。
「天地山が初めてのお客様にご案内することも仕事ですよ」
ちょっぴり冷たい口調になる、まさ。
「案内は、八造くんに任せて、お前は仕事、俺は…」
「真北さんは、どちらに? まさか、また、お嬢様をお一人にして
地山親分や鳥居さんの所へ、慶造さんの代わりに御挨拶ですか?」
「今年からは無し。地山さんには、パーティーの時に…と
思ってるんだが……」
そう言いながら、春樹の目線は別の所に。
ったく………。
春樹の眼差しに呆れる、まさ。それ以上に呆れているのは、芯だった。 春樹が見つめる先には、真子がすやすやと眠っている姿があった。その寝顔を観て、春樹が和んでいる。 芯の表情が引きつっていたのは、真子を寝かしつける時の、春樹の仕草と表情に。そんな二人を見つめる向井は、掛ける言葉を探していた。その間、八造は、それぞれの荷物を片づけて、まさと春樹が言い合っている(?)最中に、真子の部屋へと戻ってくる。
「八造くん、山本さんと向井くんを案内してあげてくれるか?
真子ちゃんが張り切っていたけど、思った通り、ぱったりと
眠ってしまったからさ。そして、支配人は、仕事があるそうだ」
「って、真北さん、強引に……」
「俺は、ここでゆっくりするから」
「かしこまりました」
まさの話に耳を傾けないという感じで、春樹は話を続けていた。
「たまには、歳の近い者と羽を伸ばしてこい」
「しかし、私は…」
「真子ちゃんに怒られるぞ」
春樹が念を押す。その言葉には弱い八造は、渋々承知する。
「では、行ってきます。山本先生、向井さん、ご案内します」
「ん……」
「お願いします」
八造は、芯と向井を連れて、部屋を出て行った。三人を見送る春樹の眼差しが、ちょっぴり違うと感じる、まさ。
「みなさんの案内は、お嬢様がなさるつもりだったんですか?」
「あぁ。ここに来る間、ずっと喋りっぱなしだったんだよ。
今まで以上にはしゃいでしまってな」
「そうですか。先日のお電話では、新しいお兄さんが二人も
来たと嬉しそうに話しておられたので、楽しみにしてましたよ。
本当に、素敵なお二人ですね。とても穏やかな…」
「真子ちゃんの教育だよ」
「教育??? 向井くんは料理人だけど、山本くんは家庭教師
ですよね。どうして……」
「健と向井が犬猿の仲。今にも殴り合い…という所を真子ちゃんが
止めたんだよ。『その手は、人を殴るためにあるの?』という風に
向井をしかりつけ、健に笑顔を…と促した」
春樹は、真子の頭をそっと撫でる。
「慶造じゃないけど、真子ちゃんには何か途轍もない力が
備わってるんだろうな。それも、人の良い所を引き出すような…」
「……そうですね……」
柔らかく応える、まさだった。
「夕方には目を覚ますと思うから、それまでは、仕事しておけ」
中々部屋を出て行こうとしない、まさを促す春樹。
「そうですね。支配人としての姿も、お嬢様は好きですから」
「あぁ。まさの仕事っぷりを観たい…とも言ってたからさ」
春樹は微笑んでいた。
「そういたします。真北さんも、ゆっくりくつろいで下さいね」
「ありがとな」
まさは、一礼して、真子の部屋を出て行った。 真子の部屋に残った春樹は、真子が眠るベッドに腰を掛けた。そして、真子の寝顔を見つめる。
久しぶりに…いいよな。
春樹は、真子の隣に身を沈め、真子を腕の中に包み込み、そして、眠りに就いた。
「今頃、真北さんは、お嬢様の添い寝をしておられるでしょうね」
八造の案内で。天地山ホテル内を歩いている芯と向井。八造が、まさの支配人としての姿を見た途端、呟いた。
「添い寝?」
芯が、ピクっと反応し、ちょっぴり怒りのオーラも醸し出す。
「まささんだけじゃなく、真北さんも、この日のために十日ほど
睡眠時間を削ってまで、動いていたから、恐らく疲れて…」
「十日なんて平気な人ですよ。昔は、一ヶ月………」
「一ヶ月?!」
芯の言葉に驚く八造と向井。
「…あっ、いや……」
思わず口にしそうになった言葉を飲み込む芯だった。
「そこは、バーになってるし、いつも食事をするレストランは、そこ」
レストランと耳にした途端、向井の眼差しが変わる。爛々と輝き始めた。
「お嬢様が仰ったように、向井さん、今日はお客ですからね」
「わ、解ってるよ……。でも、一流コックが居そうですね。
素敵な香りが漂っている」
「夕飯は、そこになります。では、一階に行きますよ」
八造たちは、階段を下りて、一階へと降りていく。
「ロビーは、もう御存知ですね。そして、玄関、その扉がゲレンデ側に
繋がってます。スキーは、明日からにしますか? 一応、レンタルが
ございますし、それに、まささんに言えば、専用も用意してもらえます」
「そうですか。スキーは明日ですね」
芯が応えた。
「おぅ! 八造くん! 来てたのかぁ」
突然声を掛けられる八造。振り返ると、
「湯川さん、ご無沙汰しております。その後、お変わりありませんか?」
「いやぁ、三度ほど、湯に落ちましたよ、あっはっは」
笑いながら、満が言った。
「湯川さん、こちらが山本先生と向井さんです」
「初めまして」
芯と向井は、同時に挨拶をする。
「初めまして。当ホテルの温泉担当の湯川と申します。
ゆっくりくつろがれますか? それとも、こちらを…?」
満の仕草は、『飲みますか?』だった。
「そうですね。山本先生、向井さん、どうですか?」
「温泉…ですか……。良いですねぇ」
芯が言った。
「それでは、お世話になりますか」
「どうぞ、こちらに!」
湯川が、八造たちを引き連れて、温泉のある場所へと向かっていく。 その様子をホール担当の従業員が見ていた。
夕方。真子が目を覚ました。
「あれ? 真北さん………そっか…」
真子は、自分をしっかりと包み込む腕に気付き、春樹の腕の中に居ることに驚いてしまう。しかし、栄三から聞いていた、ここ十日ほどの春樹の行動を思い出し、目を覚ましたものの、動けずに居た。
お嬢様の添い寝で、真北さんは疲れが吹っ飛ぶそうですよ。
栄三の言葉を、ふと思い出した真子。思わず春樹の胸に顔を埋めてしまった。
「…ん? 真子ちゃん??」
真子の仕草で、春樹が目を覚ます。真子は春樹の腕の中から春樹を見上げた。
「お姫様、お目覚めですか?」
「まきたん、起こしちゃった??」
二人は同時に言った。その事が面白かったのか、二人は思わず笑い出す。
「あっ!! ごめんなさい!! 眠っちゃったんだ…私」
「だから申したんですよ。はしゃぎすぎですと」
「ごめんなさい…でも……。お話止まらなかったんだもん!」
「そうでしょうね。真子ちゃんを見ているだけで楽しかったですよ」
「もぉ〜」
真子はふくれっ面になった。
「起きますか?」
「はい! …あれ???」
真子は体を起こし、部屋には誰も居ないことに気付く。
「くまはちと、ぺんこうとむかいんは?」
「くまはちの案内で天地山を散歩してますよ」
「まささんは、お仕事なの?」
真子が、ちょっぴり首を傾げる。
「えぇ。渋々」
「お仕事っぷりを見たいなぁ」
「では、一緒に散歩しましょうか」
「うん!」
春樹の言葉に、真子は元気よく返事をした。
柱の影から、真子がこっそりと顔を出す。
「どうですか、真子ちゃん」
真子が見つめる先では、まさが支配人っぷりを発揮中。
「いつも見る、まささんと違うぅ」
まさが、真子の居る方に顔を向けた。真子は、慌てて顔を引っ込める。
「かっこいい!! あれが、支配人??」
「そうですよ」
「お仕事の邪魔したら、悪いよね」
「えぇ。………………仕事しろ」
真子と話していた春樹の口調が、急に変わる。仕事をしていたまさは、真子の気配を感じたのか、真子と春樹が隠れる場所へと近づいてきたのだった。真子の背後に立った、まさ。真子は春樹の目線と同じ所に振り返る。
「まさ支配人!」
真子の言葉に驚いた表情を見せる、まさ。しかし、その表情は、笑顔に変わる。
「お目覚めですか? お姫様」
「もぉ〜。どうして、真北さんも、まささんも、そう言うの!」
真子はふくれっ面になった。
「私にとって、お嬢様はお姫様ですから」
さらりと言うまさ。それには、真子だけでなく、側に居た春樹まで、驚き、そして、照れてしまう。
「お夕食は、まだ早いですから、庭で遊びましょう」
まさが言うと同時に
「仕事しろっ」
春樹の冷たい言葉が飛んでくる。
「まささん、お仕事…いいの?」
ちょっぴり首を傾げながら、真子が尋ねる。それには、まさも弱いっ。
「えぇ。お嬢様との時間のために、お嬢様が寝ている間に
仕事は終えましたから、休憩時間です」
嘘付くなぁ〜。休みは無いだろうがっ。
言いたい言葉をグッと飲み込む春樹だった。
「ねぇ、ねぇ、くまはちは?? もう頂上まで行ったのかな…」
「温泉でくつろいでるそうですよ」
従業員に聞いたのか、まさが応えた。
「それなら、頂上は明日だね」
「明日は無理かもしれませんよ。大雪になります」
「そうなんだ……じゃぁ、明日は、まささんと一緒がいい」
「では、商店街へ行きましょう」
真子が何を言いたいのか、直ぐに解る、まさ。真子の言葉には、素早く応え、そして、微笑んだ。
「まさぁ〜お前なぁ」
「では、庭に行きましょう!」
春樹の言葉を全く無視して、真子を抱きかかえて、まさは庭へと向かっていく。
「って、こらっ、コート!!」
春樹が、真子の服装に気付き、声を荒げるが、まさは、春樹に振り返り、
大丈夫ですよ!
と目で訴えて、歩いていく。フロント係に声を掛け、猫柄のかわいいジャケットを受け取る。真子を床に下ろし、そして、真子に着せる、まさ。真子が、嬉しそうに声を挙げて喜んだ。まさは、真子の手を引いて、そして、庭に通じる扉から外へ出て行った。
ったく……。
まさの行動の呆れながらも、真子の輝く笑顔を見て、春樹の心は和んでいた。
「それにしても、温泉…長いな…」
芯は長湯する奴じゃないのにな……。
春樹は、心配しながらも、まさと真子の遊びっぷりを窓越しに眺めていた。 気が付くと、煙草に火を付け、一服していた。
向井は、露天風呂で目一杯くつろいでいた。
いい湯だな〜。
これ以上は無いという感じで、くつろぐ向井だった。その頃、一緒に温泉に向かったはずの、他の二人は……。
「早いなぁ、もう空っぽだろがぁ。次、もらってくるぞぉ」
ちょっぴり(?)ほろ酔い気分の満。
「湯川さん、これ以上は、お嬢様にばれますよぉ。それに、
そろそろ夕飯の時間なので、お嬢様が目を覚ますはずです」
八造が言った。
「それなら、また、後程にしましょうか」
「そうですね」
「しかし、山本くんも、お酒に強いとはぁ」
「そうですか?」
そう応えた芯。そして、目の前に転がる一升瓶を見つめる。 合計八本。
「それにしても、向井さん、長湯なんですね」
転がる一升瓶を片づけながら、満が言った。
「本部でも、一時間は入ってますね」
同じように片づけながら、八造が言う。
「山本先生は、烏の行水ですよね」
「時間が惜しいからな」
まだグラスに残っている酒を味わうように飲む芯。 その時、向井が湯から上がり、湯川の部屋に顔を出した。
「いやぁ〜〜、ほんと、良い湯ですね、湯川さん。日頃の疲れが
一気に取れた感じですよ」
「そう言って頂けると、光栄ですよ」
湯川の表情が綻んだ。
「向井さんも、湯上がりに一杯、どうですか?」
「あっ、いえ、私は未成年ですから…」
「八造くんも未成年ですよ。大丈夫ですって、ばれやしませんよ」
「いいえ、しかし…」
『ほぉ〜、ばれなければ、飲んでもいいのかぁ〜未成年はぁ』
ドアの向こうから、地を這うような低い声が聞こえてきた。誰もが、その声に一瞬、動きを止めた。その途端…。 ドアが、目にも留まらぬ速さで開き、一人の男が、ドアの所に仁王立ち…。
「みぃぃぃつぅぅぅぅぅぅうるぅぅぅ〜〜、何度、言ゃぁ解るんだ? あ?
八造くんは、未成年だと言ってるだろぉぉぅぐぅぁ〜〜」
「あぁぁあぁにぃきっ!!!」
満が叫ぶや否や、まさが、満に近づき、蹴りを入れた。
「うわぁ〜っ!! 支配人っ!!!」
一緒に来ていたバーのマスターが、慌てて止めに入ったが、既に遅し……。 満は、壁まで吹っ飛ばされていた。
あちゃぁ〜〜。
満が飛ばされる瞬間を目の当たりにした、八造、芯、そして、向井は、目をパチクリさせてしまう。その目線は、やってしまった…と言わんばかりの表情で、額に手を当てて項垂れる、まさに移った。 声を掛けるにも、何を発せば良いのか、言葉が見当たらない。 そう悩んでいる所、その場の雰囲気は、一人の少女の乱入(?)で、がらりと変わる。
「くまはちぃ〜、また、飲んでたのっ!!」
「お、お嬢様っ!!!!!」
「…飲んだの?」
真子が、睨んでいる。睨んでいる。……睨んでいる………。
「す、すみません……」
「もぉっ!!」
耳をつんざくほどの甲高い音が、部屋に響き渡った。 誰もが思わず、身を縮め、目を瞑る。 八造の頬に、季節外れの真っ赤な紅葉が付いていた。
今年のは……きっつぅ〜〜……。
八造は、ばったりと倒れる。その様子を見ていた芯と向井。芯は、真子と八造のやり取りを見て、目が点に。
これが、噂の……。
向井は、あの日の事を想いだし、思わず頬に手を当てていた。
夜。 まさは、自分の部屋から、ベランダに出た。そして、空を見上げる。あいにく、星は見えない程曇っている。
「明日は大雪なんだろ」
その声に振り返ると、そこには、春樹が立っていた。
「勝手に入ってこないで下さいね」
「ノックしても返事が無かったから、心配してだな…」
「何か…飲みますか?」
「まぁ、軽くな」
春樹は、慣れた感じで、ソファに腰を掛け、姿勢を崩した。
「お嬢様の平手打ち…強くなってませんか?」
アルコールの用意をしながら、まさが尋ねる。
「そりゃぁ、なぁ。山本さんの鍛え方が違うからね」
「おや? 八造くんの仕事じゃなかったんですか?」
「八造くんは、慶造の手伝いを習い始めたんだよ。猪熊さんの
代わりらしいよ。山本さんは、格闘技マスターと呼ばれるほどの
腕前なんですよ」
「これまた、強い味方ですね」
まさは、グラスを差し出した。
「サンキュ」
春樹は、一口飲む。
「また高級な物を仕入れたな…」
「マスターお奨めですよ」
「そのマスターから聞いた途端の豹変ぶり…。流石の俺でも驚いた」
「何度も言ってるのになぁ。あれから約一年。その間に、満は
俺が知ってるだけで五回も酒に溺れて、湯に溺れて……。
お嬢様に叱ってもらおうかな…」
まさもアルコールを口に含む。
「向井くんは酒が飲める歳じゃないと断ったのに、山本さんは飲んだよなぁ。
ありゃ、相当…悪だな…」
「そう見えませんよ」
「酒が飲める歳じゃないのにな」
「………すみません!! 満を思いっきり叱っておきます」
「ったく、いつ、酒に煙草に…覚えたんだ、あいつは…」
春樹の呟きに、まさは疑問を抱く。
「真北さん?」
春樹は、グラスのアルコールを飲み干す。
「おかわり」
「はい」
新たにアルコールを注ぎ、春樹に差し出す。春樹は、一気の飲み干してしまった。
「真北さんこそ、あまりアルコールは…」
「いいんだって…ったく、貸せ」
ボトルを奪い取り、春樹は勢い良くグラスに注ぐ。その仕草は、常に落ち着き、自分を見せない春樹には、あまり考えられない。まさは、不思議に思いながらも、春樹の行動、そして、仕草、表情を観察し続ける。
「……俺が……狂わせたんだろうな……」
寂しげに呟く春樹。
「えっ?」
「俺が、あいつを……」
「真北さん……?」
自分の名前を呼ばれて、春樹は我に返る。そして、顔を上げた。
「あっ。すまん……取り乱したな……。…ふぅ〜〜」
春樹は頭を抱えた。
「どうされたんですか? 本当に、真北さんらしくありませんよ」
「そうだな…俺らしく…無いか…」
春樹は、フッと笑った。
「まぁ、あれだ。本当に、やくざの世界は、未成年でも関係ないんだな」
「そうですね。私だって、そうですから、……だからか…満が
気にせずに誘ってしまうのは。その点、お嬢様は違いますね。
それは、真北さんの教育ですか?」
「そうなのかな…。慶造も関わってるけどな」
グラスに浮かぶ氷を見つめる春樹。
「俺の教育が…間違っていたのかな…」
「真北さん??? 今夜は酔いが早いですね…やはり、
お疲れだったんでは、ありませんか?」
「まぁなぁ」
春樹は、ソファに寝転んだ。
「すまん、ここで良いか?」
「体壊しますよ。奥の私のベッドを使って下さい」
「いいって。このソファも寝心地が良いからさ…」
と言いながら、春樹は寝入ってしまう。 まさは、奥の部屋から毛布を手に取り、春樹の体にそっと掛けた。 ふと気になったのか、まさは部屋を出て行く。そして、真子の部屋へと入っていった。
ドアが開いた事で、八造が立ち上がり、一礼する。
「眠れませんか?」
優しく声を掛ける、まさ。
「真北さんは、そちらで眠られたんですね」
「えぇ」
「そうだと思いまして、起きておりました」
「お嬢様が心配しますよ」
「それは、真北さんの方ですよ」
「そうですね」
二人は微笑み合う。
「山本くんと向井くんは、お隣ですか?」
「珍しく、二人とも早く寝ましたよ」
まさは、隣の部屋を覗き込む。 芯と向井は、すやすやと眠っていた。
「知らなかったんですよ、お二人とも未成年だとは」
「山本先生は、初めてのお酒だそうです。湯川さんの誘いに
思わず乗ってしまったそうですよ。先程、笑いながら話してました」
「そうですか。…………???」
芯の寝顔を覗き込んだ、まさ。
あらら???
「どうされました?」
まさが芯を見つめている事に気付き、八造が声を掛ける。
「いいや、その……。昼間見た表情と違っているから…」
「高校を卒業するまでは、真面目な生徒だったそうですよ。
教職を目指してる大学生ですから」
「初耳ですね」
「自分のことは、あまり話しませんからね。慶造さんから聞いた
お話です。山本先生は、本当に表情が堅くて。未だにお嬢様には
笑顔を見せませんよ」
「恐らく、何か秘めているんでしょうね」
「四代目を恨んでいるそうですね。…というより、やくざが嫌い」
「なのに、どうして、お嬢様の家庭教師を?」
「そこが解らないんですよ」
「気になりますね。……今度、聞いてみますか」
そう言って、まさは真子の部屋に戻ってくる。
「私が付いてますから、まささんはお休み下さい。そして、
真北さんをお願いします」
「ん?」
「ここ五ヶ月あまり、行動が可笑しいんですよ。それに、
本部に居ても、お嬢様の寝顔を見ても、落ち着かない様子で…。
慶造さんも気になさっておられるので…」
「だから、慶造さんの補佐に回ったのか?」
「……え、…えぇ、そうです。少しでも、真北さんの仕事を
減らせるように、そして、負担が掛からないように…」
「お嬢様も気にしてるんだな」
「はい」
「ふぅ〜〜。ったく、本当に、自分のことは、誰にも相談しないんだな」
呆れたように、まさが言った。
「兎に角、俺に任せておけ。真北さんにもリフレッシュ
してもらうから」
「お願いします」
「じゃぁ、お休み」
「お休みなさいませ」
まさは、真子の部屋を出て、自分の部屋に戻ってくる。 春樹は目を覚まし、ボトルを空にしていた。
「あのね……」
「真子ちゃん、熟睡か?」
「気になるなら、御自分でどうぞ」
「冷たいな」
まさは、春樹の向かいに座り、自分のグラスに手を伸ばす。
「そっくりですね」
「ん? 何が?」
「真北さんの寝顔と…」
「俺の寝顔を見るのは、真子ちゃんとお前くらいだな〜。
…で、俺の寝顔がどうした?」
「山本くんの寝顔……そっくりだなぁと思いましてね」
まさの言葉に、春樹の動きが停まる。
「やはり、似た者同士が集まるのかな…」
「……だよ…」
「はい?」
「…芯は……俺の、弟だよ……」
「えっ?」
春樹の言葉に、まさの動きが停まった……。
(2005.6.29 第六部 第三十話 UP)
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