第六部 『交錯編』
第三十五話 兄弟水入らず??
珍しく雪が降った夜。春樹は縁側に腰を掛け、庭木にうっすらと積もっていく雪を眺めていた。そこへ近づくのは、芯だった。春樹は、芯が近づいている事に気付いていながらも、振り返らず、ただ、煙草を吹かしていた。
「雪が降るほど寒いのに、窓を開けて…風邪…引きますよ」
いつになく、優しく語りかける芯に、春樹は驚きながらも、いつものように返事をした。
「お前が気にすることないだろうが」
煙を吐く春樹。
「隣……よろしいですか?」
「あぁ」
芯は、春樹の隣に腰を下ろした。
「山本先生こそ、体に悪いですよ、この寒さは」
「鍛えてますから、大丈夫ですよ」
沈黙が続く。 春樹は煙草を吸い終わり、灰皿でもみ消した。 新たな箱を開け、隣に座る芯に、差し出した。その仕草に驚いたように振り返る芯。
「しかし…」
「怒らないし、補導もしないって…。ほら」
「いただきます」
遠慮がちに一本もらい、春樹に火を付けてもらう。春樹も一本銜えて火を付けた。 煙が雪空に上っていく。
「真子ちゃんは?」
「八造くんと一緒ですよ」
「……お前は?」
「その……」
芯は何か言いたげな表情をしていた。
「俺に相談なのか?」
「…は、はぁ…」
「……。真子ちゃんに、何を言われた?」
春樹は、芯が相談するより先に、尋ねていた。 芯の言いたいことが解っているのだろうか…それとも、自分が言いたい事を先に言おうとしているのか…。
「私の夢…教師になること…どうして、お嬢様に話されたんですか?」
「あぁ、あれか…。…真子ちゃんに負けただけだ」
春樹は煙を吐き出す。
「私とあなたの関係も?」
「いいや。慶造と食事をしてるときに聞いた…としか言ってない」
「大学を休学してるということも、御存知のようで…」
「向井くんに聞いてたよ」
「もしかして…」
「その時、同席してた…それでだな、その話なんだけど…」
「はい」
「復学しろ。真子ちゃんの事は気にしなくていいから。
暫くは、俺が付いている」
「仕事は?」
「慶造襲撃事件と小島さんの行動で、暫く休み」
「そう言って、お嬢様が学校に通われたら、動くつもりでしょう?」
芯の言葉に、春樹はフッと笑い、
「心配しなくて…いいからさ…」
静かに言った。
「その言葉…聞き飽きましたから」
芯はそう言って、煙草を吸い、煙を吐き出した。 風が吹き、雪が舞う。
「天地山から帰ってきて間もないのに、ここでも雪を見るとは…」
「ちゃんと楽しんだか?」
「えぇ。目一杯、滑ることが出来て楽しかったですよ」
「………和んだか?」
春樹が静かに尋ねる。 暫く沈黙が続く。芯は煙草を吸い終え、灰皿でもみ消す。そして、心を落ち着かせるかのように息を吐き、
「和みましたよ。…来年も…楽しみたいですね」
そう応えて立ち上がる。
「もう…寝るのか?」
「いいえ、道場で体を動かすだけですよ」
「こんな時間にか?」
「こんな時間でないと、集中できませんから」
そう言って芯は道場の方へ向かって歩いていった。 芯の後ろ姿を見送る春樹の眼差しは、とても柔らかい。 新たな一本に火を付けた。
あらら…大学の話…途中じゃないのか?
それに気付き、春樹は煙草をもみ消して、縁側の窓を閉めてから、芯が向かった道場に足を運ぶ。
道場から、素早く空を切る音が聞こえてくる。春樹は、そっと覗き込んだ。 芯が道着に着替えて、体を動かしている。 素早く蹴りを差し出す。 拳を連打。 肘鉄、膝蹴り、そして、三段蹴り。 春樹は、静かに近づき、芯に向けて拳を差し出した。
!!!
芯は、その拳を簡単に避け、春樹の腹部目掛けて肘鉄を向ける。 春樹は芯の攻撃を避け、回し蹴りをした。 その蹴りを同じような蹴りで受け止めた芯。
「何か…用ですか?」
芯が静かに尋ねる。
「大学の話…途中だ」
春樹が応えると同時に、二人は姿勢を整えた。
「お嬢様の事を任せろと言った時点で、話は終わったと
思ったのですが…」
「通うのか? …ここから」
「そうですね。お嬢様が学校に居る時間だけ、通うつもりですよ」
「大学の方が終わる時間が遅いだろ?」
「そうですが、お嬢様との時間も大切にしたいですからね」
「…惚れたのか?」
静かに尋ねる春樹。
「笑顔……まだ見てませんから。あなたがいう素敵な…
心が和むという…素敵な笑顔を…」
「なるほどな…。でも、あまり無理をするなよ。体…弱いんだからな」
そう言って、春樹は道場の出口に向かって歩き出す。
「何度も言いますが、体は鍛えてますから」
解ってるという感じで後ろ手を挙げて、春樹は去っていった。
何が言いたいんですか……。
拳をグッと握りしめ、芯は再び体を動かし始めた。
芯は、大学へ行く準備をしていた。
忘れ物…ないよな……。
取り敢えず、復学届けをする為にこの日は出掛ける事になる。 ドアがノックされた。
「はい」
『真子です』
その言葉に芯は、慌ててドアを開けた。 真子が、ドアの前に立っている。
「おはようございます」
「おはようございます、お嬢様」
「ぺんこう、もう出掛けるの?」
真子が首を傾げて尋ねてきた。
「えぇ」
芯は、真子の目線までしゃがみ込み、優しく話しかける。
「今日は、復学届を出すだけですので、すぐに帰ってきますよ」
「講義は…ないの?」
「あっ、いや…あるんですが、どの講義を受けるのか
解らないので、それを知るために出掛けるだけですよ」
「内容が解るなら、講義…受けた方が良いと思います」
「お嬢様……」
「ぺんこうが帰ってくるまで、一人で勉強してますから」
「一人…???? 真北さんは?」
「くまはちと一緒に出掛けたの…」
あの人はぁ〜っ。
怒る思いをグッと堪えて、真子には笑顔を見せる芯。
「そうでしたか。では、お嬢様」
「はい」
「私が帰ってくるまで、昨日教えた所を復習しておくこと。
時間が余ったら、次の章まで予習しててくださいね」
「かしこまりました」
「では、行ってきます!」
「行ってらっしゃいませ!」
真子は深々と頭を下げる。 しかし、芯は、その場を動かなかった。不思議に思い、顔を上げた真子。
「あの…ぺんこう?」
「お嬢様。その仕草は、止めて下さい」
「仕草?」
「そうですよ。他の人には兎も角、私や、くまはち、むかいんには
そのような仕草は、これから止めましょう」
「どうして? ちゃんと挨拶をしないと…」
「う〜ん。挨拶は大切なんですけど、お嬢様と同じ年頃の子供達は
そのような仕草はしませんよ?」
「どんな仕草なの?」
「そうですね…天地山のまささんにしていたような仕草ですね」
「……どんな??」
「まささんが出掛ける時に、お嬢様は、どのような仕草をしましたか?」
「笑顔で手を振ったけど…だって、それは、まささんが…」
「そのまささんと同じようにしてください」
「いいの?」
「えぇ」
芯が笑顔で応える。
「うん。じゃぁ、ぺんこう、久しぶりの大学…行ってらっしゃい!」
真子は笑顔で、そう言った。
「行ってきます!」
芯は真子の笑顔に応えるような表情を見せる。 真子は、その表情を初めて見た。 芯の輝く表情に、一瞬、心臓が高鳴った。 それが何か解らないまま、真子は、芯が出掛けていくのを玄関まで見送りに来ていた。 真子が笑顔で手を振って、芯を見送った。 芯の足取りは軽い。 久しぶりに出掛ける大学。 そして、気になる奴らも居る。
だが、今の自分の立場は……。
大学が近づくに連れ、心配になってきたのか、芯の表情が強ばっていた。
大学の門の前に立つ芯。門をくぐることに、何故か躊躇っていた。
楽しんでね、ぺんこう!
真子の言葉、そして、笑顔が過ぎる。
そうだよな。お嬢様に見送られたもんな。
意を決したのか、芯は一歩踏みだし、門をくぐる。その足で、学生室へと向かっていった。
「失礼します。…すみません、山本です」
芯が学生課の人に話しかけると、
「お待ちしておりましたよ、山本君。体調は良くなったんですね?」
反対に尋ねてきた。
「は、はぁ……?! …あの…復学届を……それに、私は…」
「お兄さんから、病気で長期入院ということで、休学届けが
出ていましたよ。それで、今日、来るとお聞きしておりましたから」
「…兄貴……が? どうしてでしょう。私には……」
「えぇ。それと、学費も卒業する分まで払い終わったようですよ」
「…はぁ………。……って、はぁ?!?!??」
学生課の人の言葉に驚く芯。
「それと、山本君が受ける必要のある授業は…」
学生課の人は、芯にお構いなしに、淡々と説明していった。色々な書類を差し出され、質問する暇もなく芯は学生室を出てきた。
ったく、兄さんはぁ……。
呆れたようにため息を吐く。そして、書類を見ながら歩き出した。 時計を見ると、一限目の講義が始まる時間。 取り敢えず、その講義が行われる場所へと足を運んだ。
芯はドアを開ける。話し声が響く講義室は、まだ授業は始まっていなかった。学生達は、話に夢中なのか、芯が入ってきた事に気付いていない様子。これ幸いと、芯は人目の付かない場所へと歩いていった。
「芯!!」
「元気そうじゃないかよぉ!!」
その声に顔を上げた芯。
航…翔…。
それは、大親友である航と翔だった。 二人は、芯に駆け寄り、人目も気にせず抱きついてきた。
「まさか来るとは思わなかったよ。…待ってたんだぞ…芯」
翔の声は震えていた。
「翔…」
「連絡くらい…してもいいだろがっ」
ちょっぴり怒ったように航が言う。
「すまん…」
芯は抱きつく二人をしっかりと抱きしめた。
「ただいまっ!」
「お帰り!!」
明るい声が、講義室に響き渡った。
講義が終わり、三人は一緒に歩き始める。 航が芯に顔を近づける。
「な、なんだよ」
照れたように芯が言う。
「お前の企み…どうなった?」
「企み…か……。あれは…諦めた! …それに、兄貴……無事だったしな」
「そうか! 良かったな!」
「あぁ」
「やっぱし阿山組に…居たのか?」
「その通り。俺のことを考えて…生きていた事を、黙っていたんだとさ」
「兄さんらしいな」
「あぁ」
「いつまでも、芯に優しいんだなぁ」
「五月蠅い」
芯が言う。
「で、勉学意欲が沸いたってわけか?」
「いいや、…足を洗わされた…」
「…足を?? ……そりゃ、そうだわな、あんだけ暴れてたら…」
翔の言葉に、芯に拳が飛ぶ。 咄嗟に避けた翔だった。
「健在かよっ!」
「で、誰に? お兄さんか?」
航が尋ねてくる。
「いいや、笑顔の素敵な少女だよ。…俺の心の闇を……
取り除いてくれた!」
そう言った芯の笑顔は、とても素敵に輝いていた。 その笑顔を久しぶりに見た…そう、あの日、高校を卒業した時まで見せていた笑顔そのものに、翔と航の心まで、闇が取り除かれたようにすっきりしていた。
「ほっほぉ〜。お前の彼女か?」
「ち、違うっ! 大切な人だよ」
「言ったなぁ〜」
「うるさいなぁ〜っ、からかうなよ!」
賑やかな三人は、次の講義室へと向かっていく。 あの時の三人が戻ってきた。 あの時。 それは、高校卒業後、レストランで語り合った時の事。 あの日の後から、芯の行動が原因で、三人の時は止まったままだった。 停まったままの時間が動き出した瞬間。 その友情は未だに続いていた。その時の思いも……。
この日、三限目の授業まで受けた三人は、芯のマンションへと足を運ぶ。 芯は、そこに置きっぱなしになっている教科書を鞄に詰め込んだ。
「って、阿山組から通うのか?」
「まぁ、そうなる」
「そんなに気になるのか、その……真子ちゃん」
「あぁ。少しずつだけど、笑顔見せてくれるようになったし」
「そりゃぁ、解るけどさ。…その世界は命のやり取りが
当たり前の世界だってこと。だからって、何も…」
「その世界で翻弄する父親が心配なんだとさ」
芯は翔と航に話ながら、荷物のチェックをしていた。
「阿山慶造…重体なんだろ?」
「ニュース…あったのか?」
「あぁ。…心配だったよ」
「ん?」
「芯も巻き込まれたかと…思って…」
翔の言葉に、芯は胸を締め付けられる思いを感じた。
「大丈夫だよ。慶造さんは、俺を側に置かないから。
俺は、お嬢様の家庭教師だから、それ程、束縛
されてないし、こうして、自由に出入りできる身だから。
心配掛けて悪かった。…ありがとな」
「…その阿山慶造……」
「暫くは安静が必要だけど、命に別状は無いよ」
「それなら、真子ちゃんも安心だな」
「あぁ。でも、一時大変だったよ。死ぬ…と思ったみたいでね。
その時は、俺…兄さんの時と重なったよ」
そうやって真子の事を語り始める芯。 その表情に、翔と航は、驚いていた。 まるで、恋する相手の話をする男そのもの。思わず顔が綻ぶ二人だった。
「で、本当に、後期の試験…受けるつもりか?」
話を切り替えるかのように、翔が尋ねた。
「あぁ。これだけだろ?」
と言う芯。しかし、授業内容は、一週間びっしり詰まっている。試験の数もそれに合うくらい多いのだが…。
「芯……お前…」
「ん?」
「益々、怖くなってるぞ……」
「……えっ?!?????」
勉強にスポーツにと、全く手を抜くことを知らない芯。 それは、何かを忘れる為の行動だった。 いつも真面目に行動する芯が、初めて道を外した。それも、何かを忘れるためと同じ動悸の行動。 常に、兄を考え、思い、そして、行動する芯。 そんな芯が、阿山組に住み込むようになった。それも兄が絡んでいる。 いつか、兄の為に無茶をしそうな不安に駆られる翔と航だが、芯が真子のことを語る時の表情で、その不安は吹き飛んでしまった。
お嬢様に負けないように勉強すれば良いことだろ?
そう言って、芯は自分のマンションを出て行った。
「芯……戻って良かったな」
芯を見送りながら、翔が呟く。
「あぁ。…でも、心配だよ」
「翔も思ったか…」
「あぁ」
「いつか、無茶しそうだよな……」
「そうだな」
「それでも、俺達は、変わらずに居ような」
「当たり前だろ。芯の事は、俺達が一番知ってるからさ」
「そうだな…翔」
芯の姿が、角を曲がった。
芯が阿山組本部に帰ってきたのは、夕方だった。玄関を上がり、すぐに真子の部屋に向かう芯。その途中にある、真子のくつろぎの庭に、真子の姿を見つけた。
「お嬢様、只今帰りました」
その声に、くつろいでいた真子は、体を起こし、振り返る。
「ぺんこう、お帰り!」
朝、芯に言われた事を実行している真子。明るい声で芯を迎えたのだった。
「どうだった?」
「久しぶりに逢った友人に、温かく迎えてもらえましたよ」
「友人??」
「あっ、お話したこと、無かったですね。…お話…しましょうか?」
「ほんと?? お願い!!」
「では、すぐに部屋に行きます」
「はい!」
真子の笑顔が輝いていた。
真子の部屋から楽しい笑い声が聞こえてきた。 八造と一緒に帰ってきた春樹は、もちろん、直ぐに真子の部屋に向かう。八造も同じだった。 しかし…。 真子の部屋に通じる廊下の角で足を止めた。
「真北さん、行かれないんですか?」
「……あいつに怒られたくないからな」
そう言って、春樹は自分の部屋に戻っていく。八造は、やれやれというような表情をして、真子の部屋へ向かっていく。
「お嬢様、ただいま帰りました」
ドア越しに、八造が言うと、真子が駆けてくるのか、足音が近づき、ドアが開いた。
「お帰り、くまはち! お疲れ様!!」
真子が明るい声で言った。 突然の真子の言葉に驚き、八造は返事を忘れる……。
「……くまはち???」
「あっ、はぁ……ありがとうございます。…その……」
「ぺんこうが今日から大学に通うことになってね、
それで……あががぁん!!」
芯が真子の口を後ろから塞いでいた。
「お嬢様、何も、くまはちに話さなくても!!」
真子は、芯の手から逃れるように体を動かし、
「もぉ〜。いいでしょぉ! 話しても」
「私の事は、誰にも話さないで下さいっ! 二人だけの…」
「二人だけの?!??」
真子と八造は、同時に口にする。
「あっ、いや………」
慌てて口を噤む芯。その仕草を初めて見る二人は、思わず笑い出してしまった。
「ぺんこう、なんだよ、その顔ぉっ」
八造にしては珍しい口調。どうやら、笑いが止まらない様子。
「くまはち、駄目だって、笑ったらぁ」
「そういうお嬢様も笑ってますよ」
「だって…ぺんこうの表情、初めて見るもん」
「…………っつ!!!」
芯は照れ隠しだけでなく、怒り任せに、八造の腹部に拳を思いっきり入れ、隣の自分の部屋に入っていった。
「あっ……」
勢い良く閉まるドアが、今の芯の心境を語っていた。
「…くまはち……どうしよう……。…ぺんこう…怒っちゃった…」
「そのようですね…」
芯に殴られたのに、全く応えなかったのか、八造は、平気な顔で真子に応えていた。
「……折角…楽しくお話してくれたのに……私…」
真子の表情が徐々に、哀しみに包まれていく。
「大丈夫ですよ。今まで見せたことのない顔をして、
照れただけですから」
「悪いこと……言っちゃったの?」
真子が首を傾げる。
「そのような事は、ございませんが……その……」
「ん? なぁに?」
「お嬢様……。…お嬢様の雰囲気が……その……」
八造は、真子に感じる雰囲気をどのように説明して良いのか考え込む。 真子が先程見せた表情。それは、八造に懐き始めた頃と同じだったのだ。 あれから、色々なことがあり、真子の笑顔も減っていた。以前見せていた表情も無く、八造に対する言葉遣いも丁寧なものへと変わっていた。 しかし、先程の言葉遣いは、以前と同じ…親しい者へ向けるもの。 突然の真子の変わり様に、八造は驚いていたのだった。
この時、八造は、忘れている事があった……。
「あのね……ぺんこうが、言ったの」
「は、はい」
「まささんと同じように接して下さいって」
「まさ支配人と??」
「これから、学校に行って、同じ年頃の人と接するのに
堅苦しいのは良くないんだって」
「そうでしょうか……。親しき仲にも礼儀あり…ですが…」
「そうだけど、私の場合は、少し違うみたいなの……」
俺の影響かな……。
「くまはちの影響じゃないよ?」
「あっ、すみません」
「ごめんなさいっ!!!」
真子が首をすくめる。 心の声を聞いてしまった事に対して、悪いと思ったのだった。
「その……真北さんは?」
「部屋に」
「お仕事…忙しかったの?」
「まぁ、いつもと変わりませんが、慶造さんが行っていた分を
真北さんが行いましたから、忙しいと言えば……」
「くまはちは、大丈夫なの?」
「えぇ。私は疲れ知らずですから」
「…………」
「お嬢様???」
真子の目線は、隣の部屋のドアに向けられている。 どうやら、ドアにもたれかかるように、芯が居る様子。 芯の心の葛藤が、真子には聞こえていた。
「どうしよう…くまはち…」
「う〜ん。…私には、どうすることも出来ませんね…」
「謝らないと…。くまはち…」
「そうですね」
そう言って、二人は、隣の芯の部屋の前に立つ。真子がノックをし、
「ぺんこう…ごめんなさい……私……」
お嬢様は悪くないんだけどな……俺……。
芯は自分の部屋のドアにもたれかかり、ドアを挟んだ向こうに立つ真子の気配を感じ、真子の声を聞き、頭を抱えてしまった。
「もう……笑いませんから…」
「ぺんこう、すまん…だから、出てきてくれよ」
二人の言葉は聞こえている。しかし、芯は部屋から出てくることは無かった。 ドアにもたれかかったまま、膝を抱え、顔を埋めていた。
真子と八造は、返事が無かった為、諦めたように、真子の部屋へと戻っていった。 真子の部屋のドアが、静かに閉まったのが解った。 芯は顔を上げ、大きく息を吐いた。
俺………。
真子が八造に自分のことを話そうとしたとき、咄嗟に真子の口を塞いでいた。 その時に気付いてしまった事がある……。
その夜。
芯は、庭が見える縁側に腰を掛けた。手にした煙草に火を付け、煙を吐き出す。 夜空に浮かぶ月を見つめた。 なぜか、笑っているように見える。
月にまで、笑われるのか……。
銜え煙草のまま、芯は寝転んだ。
そりゃ、そうだよな。
フッと笑う芯。 足音に目だけを向けた。
「そんな表情だと、本当にやくざだな」
「あなたに言われたくありませんね」
春樹がやって来た。
「何を慌ててたんだよ」
そう言いながら、芯の隣に腰を下ろし、煙草に火を付ける。
「……真北さんは、お嬢様と添い寝しますよね」
「あぁ」
「抱き上げますよね」
「そうだな」
「口づけも…そして、一緒にお風呂にも…」
「それは、山本先生もでしょう?」
「そうですが…それは、お嬢様の誘いを断れなくて…」
「俺にとっては、娘みたいなもんだから、気にしないけどな」
芯は、灰皿で煙草をもみ消し、新たな一本に火を付けた。
「お嬢様…半年後には、九歳になります。そろそろ大人への…」
芯の言葉に、春樹は驚いたような表情を見せた。
「どうした?」
「……その……」
「ふぅ〜。…それは、夕方の事が関わってるのか?」
「…まだ、何も言ってませんよ」
「言わなくても、解るよ」
春樹も灰皿で煙草をもみ消し、新たな一本に火を付ける。 やはり、兄弟。仕草は同じだった。
「…お嬢様を見る目が…変わってしまったみたいです」
春樹は何も応えず、ただ、煙草を吹かすだけ。
「お嬢様に話した事を、くまはちに知られたくなかった。…二人だけの
内緒事。…私は、そんなつもりは無かったんですが、あの時…どうしても
知られたくなくて……。それで、思わずお嬢様の口を塞いでしまった」
「八造君、怒らなかったんだな」
真子に危害を加えそうになる前に、八造が行動に出るのは、誰もが知っている。
「えぇ」
もちろん、芯も知っていた。
「そんな自分の仕草に驚いてしまったんです。……そして、
ふと過ぎった思い……。…お嬢様に対して、いつの間にか…」
「…それが、真子ちゃんだよ」
春樹の言っている事が解らないのか、芯は首を傾げてしまう。
「いつの間にか、人の心を和ませている。例えそれが、苦手な
相手でもな。組員達を見ていたら解るだろ。以前は慶造の娘だと
いうだけで、敬うような仕草をしていたあいつらが、いつの間にか
気になる女の子を相手にするような表情をしてるんだからな。
……まぁ、それは、健のあの行動も関係してるが……」
どうやら、健は、影で何かを行っている様子。 春樹や慶造にばれていないと思っているらしい。
「山本先生も、初めは真子ちゃんに対して、嫌悪を抱いていたでしょう?」
「えぇ……色々とありますから」
「今は?」
「…接しているうちに、そのような思いは…消えてしまいました。
だけど……」
言いたい言葉を飲み込むように、芯は煙草を吸う。
「あなたは、そのような気持ち…抱かないんですか?」
「あるよ」
あっけらかんと応えた春樹に、芯の目が点になる。
「だけど、俺が手を出したら、それこそ、犯罪に近いようなもんだろうが。
真子ちゃんとは恋人同士だけど、親子だからさ。……そう思えば
自然と態度に出るもんだ。…かわいい娘を守りたいぃ〜てな感じで」
「……私は、そのように…気持ちを切り替えることは出来ません」
「出来るって。……だって、お前は……」
そこまで言って、春樹は芯を見つめる。 芯もまた、春樹を見つめていた。 春樹の目を見るだけで、何が言いたいのか解る芯は、フッと笑みを浮かべて、空に浮かぶ月を見た。
「出来るかな…」
「……出来る…さ」
春樹の言葉は、優しく芯の心に染み渡る。
星が少し動いた。 二人は、何話すことなく、煙草を吸い続け、夜空を見たり庭を見たり……のんびりと過ごしていた。
「………大学…どうだった?」
春樹が静かに尋ねた。
「久しぶりに翔と航に逢いましたよ。…温かく迎えてくれた事…
嬉しくて……それで、お嬢様に話してしまったんです」
「真子ちゃんの『教えてオーラ』に負けただけだろ」
「…そうですね…」
芯は、煙草をもみ消した。
「あっ!!」
「ん?」
春樹が顔を上げると、芯の表情は…怒っていた。
「どうした?」
「どうして、あなたが授業料を全額払ってるんですかっ!」
「はぁ?」
「…大学は、自ら…そう決めて、通い出したんです。いつまでも
みなさんのお世話になっていては、自分自身も成長しないから、
だから私は…」
「……教師に…なりたいんだろ?」
「…え、えぇ…私の夢ですから」
あなたの代わりに…。
「だからだ」
「…意味が解りません」
「お前には、一つに絞ってもらいたいだけだ」
寝転びながら、春樹が言った。
「それに……」
芯は春樹の言葉に耳を傾ける。
「……俺の気持ちだよ」
その言葉を聞いた途端、芯の表情が一変する。
「それだけは……受け取れませんね」
冷たく言って、芯は去っていった。
怒らせてしまったか……。
去っていく芯の足音に耳を傾けながら、春樹は目を瞑った。
真子ちゃんみたいに…謝ろうっかなぁ〜。
夜の静寂に溶け込むように、春樹は、のんびりと過ごしていた。
芯は、道場に足を運び、そして、体を動かしていた。 降って湧いた思いを、押し込めるかのように……。
(2005.8.3 第六部 第三十五話 UP)
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