第六部 『交錯編』
第四話 弾ける心
「……なぁ、猪熊」
力の抜けた感じで、隆栄が呼ぶ。
「なんだ?」
しっかりとした口調で、尋ねる修司。
「……八っちゃん、短気やな………」
ライターの火が付く音が聞こえた。 暫く沈黙が続く。
「栄三の事…気に入らんみたいやけど」
「八造は、人が嫌いだからな。特に、浮かれたような人間が」
「そう育てたんか?」
ファイルが閉じる音がし、棚の引き戸が開く音がする。修司は、阿山組本部にある資料室の棚に納めているファイルを探し始めた。それらは全て、小島が集めた資料だった。修司が探しているファイルは、中々見当たらず、腕を組んで大きく息を吐く。その様子をテーブルに腰を掛け、煙草の煙に目を細めながら、隆栄は見ていた。
「右の下の段。左から三つ目」
隆栄が言うと、修司は、棚の右下の段から一冊のファイルを取り出した。表紙を広げ、探していた資料だと確認する。
「………俺の質問には応えてくれへんのか?」
修司は、ファイルから目線を移し、隆栄をジッと見つめる。 それは長い間続いていた。 隆栄も修司を見つめている。
「……あぁ」
短く応えて、席に着く修司。隆栄は、肩の力を思いっきり落としていた。
「黒崎が居なくなってから、世界が変わってきたよな」
修司が言った。
「まぁな。黒崎が抑えていたのもあるんやけど、五代目を継いだ
竜次は、系列の組をほったらかしにしてるようや。それで暫く
様子を伺うつもりなんやろな。…まぁ、竜次の行動、理解できるで」
「行動?」
「この世界から離れたこと。恐らく、阿山の力を試してるんやろな。
糸の切れた凧をどう操るか…ってことだよ。黒崎四代目に
あとのことを任されたんだろ?」
「あぁ。そう言っていた」
「…で、猪熊は、もう一度確認する為に、そのファイルを探してたんだろ?」
修司が探していたファイルこそ、黒崎組傘下の組織の情報が事細かく記載されているもの。
「慶造が厚木と猪戸を連れて、行動してるのが、これ関係」
「それで、桂守さんに頼んでいたんか…なぁるほど」
納得したように言った隆栄の言葉に、修司は首を傾げた。
「小島…知らされてなかったのか?」
「あぁそうや。俺、この体やから、無茶な行動に出そうな内容は
桂守さんは、絶対に伝えてくれへんもん」
「拗ねてるのか?」
「………あぁ」
隆栄は、静かに応えた。 修司は、再び資料に目をやった。そして、
「兄弟の末っ子だろ。静かに出来る時間や自分の時間を
中々持てなかったんでな。その影響。中学を中退したのも
クラスの女子から話しかけられるのが、煩わしかったそうだ」
「モテモテやのに?」
「キャァキャァはしゃぐだろ。…俺も経験してるから、解るよ」
「そういや、そうだったよなぁ。…まぁ、俺は嬉しかったけど」
隆栄は、煙草をもみ消す。
「……小島」
「あん?」
棚の資料を見つめながら、隆栄が返事をする。
「健ちゃん……」
「あいつが、そう決めたなら、俺は何も言わん」
修司の言葉を遮って、隆栄は応えた。
「阿山じゃないけど、この世界に戻って欲しくは無かったよ…」
隆栄の本音だった。
「健ちゃんの動き、すごいな」
若い衆を育てる役でもある修司は、朝夕の稽古での健の飲み込みの速さに驚いていた。他の若い衆とは比べものにならない程、素早く、そして、力強い。
「根性は誰にも負けないやろな」
ちょっぴり弾む声で、隆栄が言った。
「親馬鹿…」
呟く修司に隆栄は微笑んでいた。
「………でぇ〜、八っちゃん、栄三のどこが気に入らんのや?」
「知らん。自分で聞け。…まぁ、お前を見ていたら解るけどなぁ」
その言葉に、隆栄は、カチン…。
「猪熊ぁ〜、それは、何や? お前は、俺が気に喰わんとでも言うんか?」
「今更、言わな、あかんか?」
修司は、ゆっくりと顔を上げ、隆栄を睨んでいた。 隆栄も修司を睨んでいる………。
自分の部屋で、読書をしている勝司。慶造が自宅でゆっくりしておけと言った時は、いつもそうだった。本来なら、慶造と共に行動をしなければいけない立場だが、向かう先が先だけに、勝司が暴れる可能性もある事から、慶造は、そう言ったのだった。
次、暴れたら、暫く箱の中だぞ…
春樹の言葉だった。 勝司の行動は、ここ数ヶ月、目を覆いたくなる程、激しく、そして、残虐だった。厚木が銃器類を使うのに対し、勝司は、日本刀一本で敵に立ち向かい、時には、相手を瀕死の状態に追い込んでしまう程。
暴れても良いが、命を奪う事は許されない。
それは、春樹の立場上、許されている事。 特殊任務の許容範囲だった。
勝司は、ページをめくる。
「?!?」
突然の激しい物音に気付き、顔を上げた。 耳を澄ませると、その物音は資料室の辺りから聞こえてくる。
二人の事、気をつけてくれよ。
慶造が出掛ける直前に、勝司に言った言葉。 もしかしたら、二人はやり合う可能性がある。それも、息子が絡んだ事で…。隆栄は、あの体でも、動く拳と蹴りは、怪我する前よりも強くなっている。修司は、八造の事もあって、更に体を鍛えていた。 その二人がやり合うと、部屋の一つ、下手したら、屋敷が崩れる可能性がある。 慶造は心配していた。 どうやら、それが、的中したらしい。 勝司は、本を閉じ、立ち上がった。そして、部屋を出て行くが、物音よりも更に大きな怒鳴り声が聞こえてきたことで、歩みを停めた。
四代目、お戻りでしたか…。
安心したような表情で、資料室のある方を眺める勝司だった。
慶造は、隆栄の顔を鷲掴みにして、壁に押しつけていた。反対の手では、修司の腕を捕まえている。
「あががぁ〜っ!! あにょわしゅうぇ〜(阿山、放せ)」
隆栄が言う。 修司は、慶造に掴まれている腕を解こうと必死になっていた。
「修司、これ以上、小島を殴っても、自分の手が痛くなるだけだ」
「解ってる。それでも、倒れるまで殴らせろ」
「お前が怪我する」
「それでもいい。…八造を悪く言う奴は…許さん…」
隆栄は、両手で慶造の手を掴み、自分の顔から放す。
「てめぇの方が親馬鹿だろがっ! 俺だってな、息子の事を
言われりゃ、腹が立つわいっ!」
「親子揃って、同じ雰囲気醸し出すなっ!」
いつになく、修司が落ち着きを失っている。
「てめぇこそなっ!」
隆栄が言うと同時に、二人は、慶造の腕を払いのけ、お互いの胸ぐらを掴み上げた。そして、すんごい剣幕で睨み合う。 まさしく、鬼の形相。 慶造は、二人の様子を見つめていた。 今にも殴り合いそうな雰囲気。 二人は、同時に拳を作り、グッと握りしめた。 そして……。
バキッ!!!!!!!!!
突然の物音に、勢い良く突き出した拳は、相手の顔面すれすれでピタッと止まっていた。 修司と隆栄は、音のした方へゆっくりと顔を動かした。 慶造が、手刀でテーブルを叩き割った姿で止まり、二人を睨み上げていた。 そこから醸し出される雰囲気こそ、修司や隆栄が恐れる、慶造の本能。 二人は、慌てて手を放し、姿勢を正した。
「こういう方法でしか止められない事が、俺の力量…か。
力には力で制する方法以外……無いんかな……」
静かに言って、慶造は立ち上がり、服を整えてドアに向かって歩き出す。
「…部屋…二人で片づけろ」
背中越しに聞こえた慶造の言葉。それは、四代目としてのものだった。
「はっ。申し訳御座いませんでした」
修司と隆栄は、深々と頭を下げた。 慶造がゆっくりと資料室を出て行く。 ドアが静かに閉まった。
「猪熊が悪いんだぞ」
「小島が悪いっ」
「猪熊だっ」
「小島だろ!」
小さな声で言いながら、二人は床に散乱した資料を片づけていた。
慶造は、その足で、真子の部屋に向かっていった。 真子の部屋に通じる廊下の先で歩みを停め、耳を澄ませる。 真子の部屋からは、真子の声だけじゃなく、春樹と八造の声も聞こえていた。 どうやら、勉強中らしい。
邪魔したら悪いか…。
春樹に報告することがあった。しかし、真子と過ごしている時は、避けた方がいい。そう考えての想いだった。慶造は、そっと去っていった。 再び、資料室の前を通る慶造。
ったく……。
修司と隆栄は、言い合いながら片づけている様子。 しかし、言い合う内容は、相手の息子を馬鹿にする内容ではなく、自分の息子を自慢するような内容に変わっていた。呆れながらも、その内容に耳を傾けている慶造は、必死で笑いを堪えていた。 人の気配を感じ、振り返る。 そこには、勝司が立っていた。 一礼する勝司に、慶造は歩み寄り、何かを話しながら、勝司と慶造の部屋に入っていった。
阿山組本部の若い衆の部屋から、健が飛び出してきた。
「健さん!!」
同じ部屋に居る若い衆が、健を追いかけるように出てくる。しかし、健の姿は既になく……。
『えぇって。一人にさせとけ』
そう言って、その部屋から出てきたのは、隆栄だった。
「しかし、小島さん」
「…俺の息子だ。好きに言わせろ」
冷たく言って、隆栄は去っていく。
「そう申されても、健さんは……」
若い衆は、項垂れた。
隆栄は、玄関までやって来る。そして、下足番と一言二言話した後、本部を出て行った。一人歩きながら、隆栄は、先程、健に言った言葉を思い出す。
言い過ぎたかな……。
もう出て行く! そう言って、小島家から飛び出した健。お笑いの世界で頂点を極めてやる! そして、健は頂点に立った。…なのに、その直後、その世界を捨て、親と同じ世界に戻ってきた。息子には自分の思うように生きて欲しい。そう想っていただけに、戻ってきた事が、なぜか悔しかった。その反面、大切な息子が側に居る事は、とても嬉しい。
この世界から、新たな世界に向かって欲しい。
血で染まった世界ではなく、普通の世界で生きて欲しい。
俺は、常々そう想っている。
誰もが心和ませる素敵な日々を送れるように。
そして、笑顔溢れる世界を目指す!
慶造の言葉に感動した隆栄は、健が戻ってきた事で、慶造が怒るのではないかと、気が気でなかった……のだが、怒るよりも、哀しみの表情が強かった慶造に、なぜか、負い目を感じていた。 そして……。
親の気持ちも解らんと、自分勝手な生き方をしやがって!
これ以上、慶造に迷惑を掛けるなっ!
そう怒鳴ってしまった。 若い衆の中で頑張る健の様子を見に行っただけだったのに、なぜか、そのような行動を取った隆栄。 反省しながら、帰路に就いていた。
健は、本部の奥にある庭を歩いていた。 とても寂しげなオーラを醸し出している。 ふと歩みを停めて、側にある木を見上げた。 桜の木は、枯れ葉に包まれている。 この年は咲かなかったと耳にした桜の木。しかし、葉だけは、青々と茂っていたらしい。
そろそろ枯れ葉が舞い散る季節か…。
ふぅっと息を吐き、目を瞑る。 足音に思わず身構えて、勢い良く振り返った。
「!!!!」
そこには、真子が立っていた。健が勢い良く振り返った事で、思わず身をすくめて。
「真子お嬢様……!!! あっ、すみません!! ここはお嬢様の場所でした。
申し訳御座いません!!」
「あっ、その……かまいません…。その………」
真子は、恐る恐る話しかける。 真子の仕草と話し方で、健は栄三に言われた事を想いだした。
真子お嬢様、お前の面ぁ、恐いってさ。
面白半分に言った栄三。でも、この面は、元々だから…。
「なんでしょう?」
と問いかけたものの、その口調は、ちょっぴり恐い。 真子は、更に首をすくめてしまう。
「あの………。…けんさん…どうされたのかと…おもったので……」
「どうされた? …あっ、いや……その…」
健は、真子の目線にしゃがみ込み、そして、真子を見つめた。
どう応えたらいいんだろ…。
「ごめんなさい…。とてもかなしそうなふんいきだったので、
どうされたのかと…きになったから…。……いえないのなら
いわないでください。…けんさん……なきそうですから…」
とても六歳の少女とは思えない口調、そして、眼差し。
真北さんの教育が凄いとは聴いていたけど、 ここまで、大人っぽくなるものか? 六歳…だよな…。
そう思いながら、真子を見つめていた。その表情こそ、…怖い…。健には、普通なのだが、周りが見ると、そう思えない。だからこそ、
「…ごめんなさい!」
そう言って、真子は庭を去っていく。
「あっ、真子お嬢様!!」
手を差し伸べたが、真子は縁側を上がって、自分の部屋に向かっていった。その足音に耳を澄ませ、ドアが閉まる音を聞く健。
「はぁ〜〜〜」
俺って……。
ゆっくりとした足取りで、健は部屋に向かっていった。
その日から、健は、あまり話をしなくなった。 笑顔も減り、一人で居る時間が増えていた。 それは、日に日に、お笑いの世界で過ごした日々を思い出していたのもある。それ程、自分の中で、激しく生きた時間だったのだと、改めて身に感じていた。 修司の厳しい稽古にも耐え、若い衆としての部屋の掃除や食事の用意、そして、門番としての仕事、下足番としての時間。組に入り立ての若い者が必ず通らなければならない関門。その厳しさに、組を辞めたいと言い出す者が多い中、健は、簡単にこなしていく。そして、みるみるうちに、格を上げていく。
その日、初雪が降った。
真子は、窓から、庭の木々を真っ白に染めていく様子を眺めていた。 そして、その日も、一人寂しく庭を眺める健に気付いた。 あの日以来、健に話しかけるのは恐かった。 自分を見る目が違うかもしれない。 見知らぬ恐怖もあった。 だけど、時々感じる、健の激しい哀しみが気になっていた。 気が付くと、健に向かって、自然と歩み出していた。
「真子お嬢様!」
「…ゆき……きれいでしょ?」
真子が優しく話しかけた。
「は、はい」
「はちぞうさんのていれはね、こういうときもかんがえてるんだって」
少し声が弾んだように感じた。
「お嬢様?」
「はい」
「その…どうされたんですか?」
という言葉も、やはり冷たくなってしまう。 どうしてなのか、健自身も解らなかった。
もしかして、俺…姐さんの事を考えてる??
真子は、健をじっと見つめた。そして、ゆっくりと首を傾げる。
か、かわいぃぃぃっ〜っ!!!
健の表情が、弛んでいく…。真子の目線にしゃがみ込み、ニッコリと微笑む健は、優しく話しかけた。
「雪、綺麗ですね、真子お嬢様」
その言葉に、真子は何かに弾けたように微笑んでいた。 真子の微笑みが、健の心にある糸を切った…。 健は、真子を抱きかかえ、そして、力一杯抱きしめる。
「えっ?! け、…けんさん……?」
「健と呼んで下さい」
「でも、その…おなまえをよびすてるのは…」
「構いませんよ。お嬢様だけです」
「あの……その……けん……さん?」
「健です」
「でも……あの…」
突然の事で、真子は驚いていた。 自分を抱きかかえるのは、春樹と八造だけ。あの日以来、父である慶造は、真子に会う事を避けている。 その事が真子の心を閉ざしていた。 母が死んだのは、自分のせいだから、父は怒っている。 そう考えていた。 そして、時々感じる、屋敷内に居る組員達の思い、考え。
次は、お嬢様かも知れない…。
真子は、健の腕の中で身をすくめた。
「お嬢様…どうされました?」
真子のちょっとした変化に敏感な健は、優しく声を掛ける。
「あの…」
何か言いたげな表情を健は見逃さない。
「私で良ければ、お話をお聞きしますが、その前に…」
「…その……まえ…に?」
「部屋に戻りましょう。こちらでは寒いでしょうから」
真子は、そっと頷いた。
真子の部屋。
健は、真子のために、オレンジジュースを持ってきた。
「お待たせしました。…ところで、八っちゃんは?」
「おとうさまのところなの。これからのまこのおべんきょうのことでおはなしだって。
いただきます」
健が差し出したジュースを一口飲む真子。
「お嬢様、ご相談とは?」
「その………おとうさまがね…」
「四代目が?」
「……わたしをさけるの……それは…わたしがママを……」
そこまで言った真子は、口を噤んでしまう。それでも、健は真子が言いたい事が解っていた。若い衆に紛れて過ごしていた時間に、時々耳にした事がある。
四代目…お嬢様を避けてるよな。
姐さんに似ているから、困ってるかもよ。
これ以上、近づいたら、今度こそ、お嬢様の命が…と考えておられるかもしれない。
誰もが、心配している真子の事。そして、これからの阿山組の事も。 しかし、それだけではない。
お嬢様を守って、姐さんは死んだらしいな。
お嬢様は、守られる程、何か秘めているのか?
俺達にとって、お嬢様は大切なのかよ…。
真子に対して冷たい言葉も出ていた。 しかし、その言葉を発した組員は、すでに、阿山組には居ない。 それほど、真子、そして、ちさとに対しての思いは、強かった。 失いたくない…。
その事を考えていた健。その時、真子が唇をグッと噛みしめた事に気が付いた。
「…みなさん……わたしのこと……」
「違います、お嬢様。それは違います。…四代目は……四代目は、
お嬢様に怒ってるんじゃない。これ以上、お嬢様に危険な目に
遭って欲しくないだけなんです。だから、……だから…」
健は、慶造から内緒だと言われた言葉を言いそうになり、口を噤む。
真子に冷たく当たって、嫌われて…そして、 その後は…真北に託すつもりなんだよ。
真子は、驚いたような表情をして、健を見つめた。
「…きらいにならないもん…おとうさまのこと…すきだもん……。
だけど…おとうさまは、まこより、……ママのことがすきなの!!
まこが、しんだほうがよかった…んだ……きっと…」
お嬢様?!
突然叫んだように言った真子に、健は驚いていた。
「お嬢様…どうして、そのお話を…」
「だってけんさん………そういったから」
いや、俺は言ってない。思っただけなのに…。
「…まきたさんにたくすって…どういうことなの?」
真子が話を切り替えるように尋ねてくる。
「お嬢様」
「はい」
「お嬢様は、四代目の事…お嬢様のお父様の事、御存知ですか?」
「……やくざのおやぶん……」
「それなら、お話を続けます。…四代目は、お嬢様には、やくざの世界で
生きて欲しくないんです」
「それなら、どうして、まきたさんにたくすの? おとうさまとおなじ…」
「………そうでしたね…………。どうしてなんだろう…」
健は、春樹の素性をすっかり忘れた様子。真子と同じように悩み始めた。
「けんさん」
「はい」
「おとうさまがないしょだといったこと…どうして、わたしに?」
真子は、すごく不思議そうな表情で、健に尋ねた。 その時に、ちょこっと傾げた首。その仕草が、健の心臓を高鳴らせた。
そっか、俺…………。
「…その…お嬢様が、勘違いされておられたので…」
「…けんさん」
「はい」
「ありがとう!」
真子は、にっこりと笑った。 その笑顔が、健の心臓を更に高鳴らせる。
あ、あかん!!!
「お嬢様、そろそろ時間ですので、失礼します!!」
早口で言って、健は真子の部屋を出て行った。
「けんさん???」
突然の健の行動に、真子は目が点になっていた。 オレンジジュースが入ったグラスに手を伸ばし、ゆっくりと飲み干す真子は、考えていた。
わたしから、おとうさまにはなしかければ……。
グッと拳を握りしめ、真子は、決意した。
しかし、次の日から、真子は勉強に忙しかった。学校へ登校させられない分、春樹は真子の教師として、勉強を教えていた。まだ、六歳なのに、漢字だけでなく、九九まで習っている。まだ早いのでは…という八造の言葉を聞かずに、春樹は、どんどん進めていく。 それは、真子の飲み込みの速さも関係していた。
宿題。
そう言って、春樹が差し出したプリントは、かなりの数だった。 仕事で暫く勉強を見てやれないことが関係していた。 春樹が長い間、真子の前から離れるのは、たいてい仕事が原因。まぁ、その仕事を作ったのは、慶造の行動が要因となるのだが、真子は知らなかった。 その間、真子の勉強は、八造が見ていた。
全問正解じゃないと、天地山には行かせません。 春樹の言葉が、真子の勉学意欲に火を付けた。 八造が見つめる前で、真子は、簡単に問題を解いていく。 それも、小学四年生が習う場所を…。
お嬢様…本当に凄いですね…。
八造は、真子に頼まれている事があった。 間違っていたら指摘して欲しいという事を。 しかし、今のところ、指摘する事は無かった。 すらすらと鉛筆が進む。 それがピタッと止まった。
「お嬢様、どうされました? 合ってますよ」
「…あのね、八造さん」
「はい」
「どうして、健さん…私に冷たいのかな…」
「えっ?」
「この間、雪が降った日、お話してくれたの。とても優しく…。
あの恐い顔から考えられなかったくらい、優しい感じで…。
だから、私…健さん、仲良くしてくれるんだと思ったんだけど、
廊下で会っても、庭で目が合っても…そっぽを向いてしまうの。
……私……健さんに、悪い事…したのかな……」
切ない言葉。それは、八造の何かに火を付けていた。
「恐らく、真北さんに言われたんでしょう。仲良くするなと」
「どうして?」
「健の表情が、お嬢様に悪影響を与えると思っているんでしょう」
「真北さんは関係無いのに…」
寂しそうに真子が言った。
お嬢様…。
八造は、雰囲気を切り替えるかのように、真子に言う。
「まだ半分しか終わってませんよ。真北さんが帰る前に
仕上げておかないと、天地山に行けませんよ、お嬢様」
「あっ…はい。がんばります!」
真子は、再び鉛筆を動かし、勉強に集中した。
健の野郎…何を考えてるんだよ…。
八造は、拳を握りしめた。
真子は、縁側に向かって歩いていた。 八造を探していたのだった。 呼べば直ぐに側にやって来る八造が、この日は、何度呼んでもやって来ない。それが気になり、真子は部屋を出て、探し始めた所。春樹に与えられたプリントを全て終わらせたので、その報告を…と思っての事。しかし、八造の姿は見当たらない。
あっ。
真子は、廊下の先を歩いている健に気付いた。もちろん、健も真子に気付いていた。
「健さん!!」
真子は笑顔で手を振った。しかし、健は、真子の呼びかけに応えず、そっぽを向いた。 その仕草が、真子から笑顔を奪ってしまう。ゆっくりと手を下ろす真子は、暗い表情で俯き、背を向けた。 その時だった。
真子の背後で、激しい物音が聞こえた。 驚き振り返る真子。 そこには、床に横たわる健の姿が!! そして…。
「八造さん!!」
八造は、床に横たわる健の胸ぐらを掴んでいる。 ふと感じるオーラ。 そのオーラは、あの日、公園で感じた…栄三たちとやりあった時と同じオーラを八造が醸し出している。 真子は、勢い良く駆け出し、健の胸ぐらを掴み上げる八造の腕にしがみついた。
「駄目!! 八造さん、駄目!!」
「お嬢様!!」
「あっ……」
八造の腕にしがみついた真子は、床に転がる健を踏みつけていた………。
「なるほどな…」
縁側に腰を掛け、八造と健は話し込んでいた。 健は後頭部に氷嚢を当てているが…。 どうやら、八造は、健が真子に冷たく当たる理由を聞いた様子。
「お嬢様の笑顔が、俺の心に突き刺さってから、どうしても俺は…」
健は目を瞑って話を続ける。
「お嬢様を凝視出来ない…もし、話しかけでもしたら、俺…
まだ六歳のお嬢様に…手を出しそうだから……それで…俺…」
「健。お嬢様が気にしてる。普通に出来ないのか?」
冷たく尋ねる八造。
「出来ない………。八っちゃんは、どうなんだよ。四六時中、
側に居るんだろ? …兄貴だって、時々錯覚するらしいし…」
「な…何ぃ〜。栄三のやろうぅ〜」
八造の拳がプルプル震えた時だった。
「俺が何だよ」
春樹と行動を共にしていた栄三が、軽い口調で話しかけてきた。
「兄貴!! お帰りぃ〜お疲れさまっ」
健は明るく声を掛ける。
「健、こんなとこで、八っちゃんと何を話してるんや? それより、
いつの間に、仲良く…」
「……仲良く………なってないっ!!」
八造は、怒り任せに、栄三を怒鳴りつける。
「健が、お嬢様に冷たく当たる理由を聞いていただけだっ!
お嬢様が、すごく気にしておられるのでな」
「そりゃぁ、あれやろ。お嬢様の笑顔に負けて、手を出しそうやから
冷たくあたっただけやろ?」
流石、兄。弟の思いは、なんでも解るらしい。
「お前ら兄弟、どうして、いっつもいつもぉ〜」
日頃から、栄三の態度と口調に苛立ちを見せている八造。この時は、健の行動もあり、怒りを爆発させる寸前に、真子に止められたこともあって、苛立ちが酷くなっていた。
「栄三、お前もそうなんだってな…」
「八っちゃんは、ちゃうんか? おじさんと同じで、女に手が………」
早い…という言葉を発する前に、八造の蹴りが、栄三の腹部にめり込んでいた。前のめりになる栄三は、八造の足に手を伸ばす。 その手は、八造に掴まれ、一瞬のうちに、後ろ手にされてしまった。
「って、こらぁ、八っちゃん、タンマ!!」
「聞く耳持たん」
地を這うような声で八造が言う。そのオーラに、健はおろおろするばかり。 未だに、八造の怒りには慣れていない様子。どうしようかと悩んでいた健の視野の端に、真子の姿が映っていた。
「あっ…お…」
健が口を開く前に、真子の行動が早かった。
「八造さん、いい加減にしなさぁい!!!」
風船が割れたかと思うほど、大きな音が、廊下に響き渡る。
八造の頬には、小さく真っ赤な紅葉が、くっきりと付いていた。
(2005.2.5 第六部 第四話 UP)
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