第八部 『偽り編』
第四話 大阪での生活
八造が、大阪駅に降り立った。 ほんの数ヶ月前、春樹と共にここへやって来た。その時に迎えに来た二人が、案の定、その場に立っていた。 須藤組の若い衆、竜見と虎石だった。
「お疲れ様です」
そう言って、二人は深々と頭を下げる。
「お世話になります。…その……私は直接お伺いすると
申し上げたはずなのですが…」
八造は恐縮そうに言った。
「お聞きしておりますが、その…近くに組長も来てまして…」
竜見の言葉に、八造は把握する。
「もしかして、食事に付き合え…とか?」
「そうですね。歓迎会を兼ねて、この近くの料亭に」
「どうぞ」
竜見と虎石の言葉遣いが気になるのか、八造は軽くため息を付いた。
「あの…竜見さん、虎石さん」
「はい」
「私一人なので、そのような言葉は…」
「大切な客人ですので」
「須藤組長の下で働く人間です。なので、私には必要ありません」
はきはきとした口調で八造が言うと、二人の表情が変わった。
「猪熊さんが、そう言うんやったら、まぁ、ええか」
竜見の口調が変わる。
「そうやな。…でも、猪熊さんは本家の人間やで?」
虎石がそう言うと、
「私はお嬢様に仕える身なので、立場は下ですよ」
八造が、やんわりと応え、
「須藤組長にも申しておきます」
そっと微笑みながら言う八造。それには竜見と虎石も驚いた。
「はぁ…まぁ。…ほな、こっち」
「お願いします」
竜見と虎石の後ろを付いていく八造。 駅のロータリーに来ると、須藤の乗る車が待っていた。 虎石に招かれて、須藤の隣に座る八造は、先程、ホームで話していた事を、須藤に伝えていた。
車は、料亭へと向かっていく。
真子は図書室で本を読んでいた。 ふと、動きが停まる。 窓の外を見つめる真子。 その方向こそ、八造が向かった大阪がある所。
もう、着いたのかなぁ〜。
珍しく、物思いにふける真子だった。
料亭で料理を食しながら、須藤と話し込む八造。 これからの仕事の事を話し込んでいた。 時々出てくる専門用語。側に居る組員のよしのでさえ、解らない言葉があるのに、八造は、全てを把握しているのか、須藤の話に付いていく。それには須藤自身も驚いていた。
「熱心な奴なんだな、猪熊は」
「恐れ入ります。しかし、まだ勉強不足ですので、
御指導、宜しくお願い申し上げます」
席を外れ、深々と頭を下げる八造。 流れるような仕草に、須藤は感心していた。
「今日は、これから予定があるんでな、仕事は明日からになる。
住まいは用意した。後で虎石に案内してもらってくれ」
「ありがとうございます」
「まぁ、明日まで時間があるから、よしの、二人を呼んでくれ」
「はっ」
須藤に言われて、よしのは廊下で待機している虎石と竜見を連れて入ってくる。
「猪熊の世話を任せてある。何か不都合があったら、
こいつらに言ってくれ」
「須藤組長」
「ん?」
「私は、そのような立場では無いと申し上げたのですが…」
「四代目の大切なお嬢さんの大切な人に何か遭ったら
それこそ、俺の立場が危うくなるんでなぁ。まぁ、あれや
好きなようにしたらええから」
須藤の『好きなように』には、色々な意味が含まれている。 酒に煙草、そして、女…。 プライベイトまでは知らない…という意味も含まれているのだが、
「はっ、ありがとうございます」
八造は別の意味で捉えている事、須藤は気付いていなかった。 真面目さが、そういう事にも影響する。
「ほな、お前ら、しっかりと学べよ」
「はっ」
須藤は、次の予定へと出掛けていった。
竜見運転の車の後部座席に座る八造は、窓の外を流れる景色を見つめていた。 助手席の虎石は、後ろの八造のことが気になっているのか、時々、振り返っていた。
「虎石さん、何か…?」
八造が尋ねた。
「本当に、住まいの方へ向かってええんかなぁと思って」
「住まいの周りの様子を知りたいんでね」
「組長の客人を泊める場所やから、安全やけどなぁ」
「それは、解ってますよ。私が気になるのは…」
用意された住まいのマンションを見上げる八造。その目線は、周りの景色へと移動していった。
「部屋に案内…」
「近くに河川敷とか、ジョギング出来る場所…あるのか?」
「河川敷は無いけど、ジョギングコースは、街の周りで
ええと思うし、それに、このマンションの一階には
トレーニングルーム、ありますよ?」
「そこに案内してくれ」
八造の眼差しが、少し輝いたのは言うまでもない。
『……それで?』
「それから、今も、体を鍛えてます」
『噂以上やなぁ。…設置してて正解やな』
「組長、食事はどうしましょうか」
『店の場所言うたら、後は自分でやるやろ』
「料理の方は、苦手だそうです」
『それなら、虎石が作ってやれ。親交を深めること
できるやろ』
「はぁ…でも、かなりの量になりそうですが…」
『金銭面は気にするな。本部から出てる』
「そうでしたか…かしこまりました」
『明日、遅刻するなよ。…まぁ、いきなりハードやけどな』
「心得ております。では、失礼します」
そう言って、虎石は電話を切った。 料亭を出てからの八造の行動を報告するように言われていた。 電話を切った虎石は、直ぐに冷蔵庫の食材を確認する。 まぁ、一応、揃っているが、何が好みなのかは解らない。 食事のことを話すため、虎石は、マンションの一階にあるトレーニングルームへと足を運んだ。 窓越しに見える八造の姿。 汗を掻いているにもかかわらず、なぜか、清々しく感じた。
「…てか、竜見ぃ〜」
八造の側に、一人の男が座り込んでいた。 八造の側から離れないようにと言われ、竜見は、ずっと側に付いていたのだが…、どうやら、八造に言われて、一緒に体を鍛えていた様子。八造の鍛え方に付いていけないのか、へばっている。 ガラス越しなので、声は聞こえないが、竜見は八造に何かを話している。 八造は笑顔で応えていた。 それは、今まで観たことのない表情。 時々、慶造と共に大阪へ来ていた八造だが、その表情は、敵を寄せ付けない程のものだった。一応、傘下の組の若い衆だから、敵ではないのだが、そのオーラに気圧されて、近づけない事もあった。 しかし、今は違う。 自分たちと同じ年代の青年に見える。 だからなのかもしれない。 あれ程、八造の世話のことに反抗していた竜見が、笑顔で会話をしているのは。 八造の動きが停まり、虎石の方へと振り返った。 虎石は思わず一礼して、トレーニングルームへと入っていく。そして、食事のことを伝えた。
スーパーにやって来た八造、竜見、そして、虎石は、周りとは似合わない雰囲気で買い物をしていく。食材にも五月蠅いのか、八造は事細かく二人に話している。
…てか、そんな話…どうでもええけどなぁ。
胃に入ったら同じやん。
虎石と竜見は、そう思っていたが、八造が延々と話すため、何も言えずに、ただ、頷くだけだった。
「って、猪熊さんっ」
買い物カゴの中に気付いた虎石が声を張り上げた。
「あん?」
「これ……多すぎちゃいますか?」
「多すぎる?? 普通だと思うが………」
「これだと、八人分はありますよ…」
「………この量は四人分だけどな………。……ん?」
八造は考え込む。 いつも本部で買い物に付き合った時は、これくらいの量を購入していた。 食材にも五月蠅い者が居た。 同じように買い物をしていたのだが…。
「すまん……本部では、いつもこれくらいの量なので…」
「…かなりの…大食らいが…おられたんですか?」
「大食らい????」
再び考え込む八造。
「……いや、俺だけだな…」
「……猪熊さん…」
「ん?」
「お一人で、どれくらいの量……を?」
「いや、気にして食した事は無いから、解らん…」
「その…私が選びますよ?」
「お願いします」
恐縮そうに、八造が応えた。
三つの買い物袋を一つずつ手にした八造達は、何も話さず、ゆっくりとした足取りで帰路に就く。
「とか言いながらも…」
「ついつい…」
「……想像以上に豪華ですね…」
料理を担当した虎石は、なぜか、張り切ってしまった。 テーブルには、端っこから落ちそうな程の数の皿が並べられ、豪華な料理が盛りつけられていた。 帰りに酒屋に寄って、アルコールも入手していた。 ささやかながらも、八造の歓迎会を兼ねた食事が始まった。
虎石が片付けをし、竜見は部屋の掃除をする。 一方、八造は用意された部屋に入って、どこかへ連絡を入れていた。
「猪熊さんって、真面目やんなぁ」
竜見が呟くように言った。
「そうやなぁ。食事の時は、あまり話をせぇへんし、それに、
きちっと片付けをしようとするし、…組長が用意しとった
遊び場にも行こうとせんかったし…」
「なんや、虎石ぃ〜、がっかりしてへんか?」
「久しぶりに遊べると思ってんもん。ええやろが」
「…ちゃんと報告もしとるみたいやし」
そう言って、竜見は、八造の部屋に目をやった。何を話しているのか解らないが、声が聞こえていた。時々、笑い声も聞こえてくる。
「…てか、報告なんか?」
虎石が言うと、竜見は、聞き耳を立てた。
「…お嬢様???? って、あの四代目の娘のことか?」
「そういや、お嬢様に仕える身と言ってへんかったっけ?」
「言っとった。…電話の相手は…その…??」
「…!!!!」
突然、ドアが開き、八造が出てきた。
「竜見さん」
「はいぃ〜」
聞き耳を立てていた為、気まずいと思ったのか、竜見の返事は裏返った。
「……相手は、真子お嬢様。四代目に連絡入れようと思ったら
真北さんが出て、真子お嬢様に代わっただけだ。…気になるのか?」
「あっ、いえ…その………。…で、ご用件は?」
「明日の行動について、詳しく知りたいんだが…」
「俺達は、向かう先の事しか知らされません」
「そっか…。今から、須藤組長宅に訪ねても大丈夫かな…」
「すぐに連絡します」
竜見の行動が早くなる。そして、須藤に連絡を入れ、承諾を取った。
「今夜はご自宅にとの事ですが、猪熊さん、どうされますか?」
「一晩中、話すつもりはないけど…」
「恐らく、飲み比べかと…」
虎石が静かに言った。
「飲み比べ??????」
「えぇ。その…初めての相手を試すのに丁度良いとかで、
必ず行っております。猪熊さんとは、後日…と仰ってましたが…」
「アルコールには弱いんですけどね……」
と、恐縮そうに頭を掻く八造だが……。
須藤家のリビング。
なぜか、酒瓶がたくさん転がっている。 ソファに腰を掛ける二人の男は、テーブルにあるグラスにアルコールを注ぎ、そして、一気に飲み干していく。 そんな光景が続いて、三時間が経っていた。 すでに日付も変わっている時間。 それでも、まだ、アルコールの瓶を空にしていく姿は続く…。
「……って、猪熊ぁ〜、アルコールに弱いっつーたやろっ」
一人の男が、力無い声で訴える。
「本当に弱いんですが…」
そう応えたのは、八造だった。 目の前に座る須藤とは全く違い、いつもと変わらない雰囲気でアルコールを飲んでいる。
「それなら、俺みたいに酔うやろが」
「…まだ、大丈夫ですが…」
「…底なしの酒豪がぁ」
そう言って、八造のグラスにアルコールを注ぐ須藤。その手は、ちょっぴり震えている。
「あんたぁ、今日は、そんくらいにしときぃ。猪熊さん、変わらへんでぇ」
声を掛けてきたのは、須藤の妻。 しかし、負けず嫌いの須藤は…。
「お前は黙っとれっ」
「…………明日の仕事は?」
「大丈夫や。猪熊が、おるやろが」
「って、初めての仕事を任せて大丈夫なんか?」
「大丈夫やぁ、言うとろぉが。こいつは、四代目よりも
真北よりも、凄い意見…持っとるんやでぇ」
「だからって、悪い酔いっ!」
須藤の妻が、須藤の手から、グラスを奪い取った。
「返せって」
須藤は取り上げる。しかし…。
「須藤さん」
「あん? 降参か?」
「えぇ」
そう応えたのは八造だった。 八造の言葉に、きょとんとなる須藤は、ゆっくりと口を開く。
「まだ…酔いつぶれてへんやろが」
「しかし、姐さんが……」
八造の目には、須藤の妻の涙目が映っていた。
「…って、何も泣くことないやろがっ」
「だって…あんた……」
妻の声は震えていた。
「私の負けです」
八造が応えると、須藤は何かに気付いたのか、口元をつり上げた。
「……お前は親父と同じで、女性に弱いんか…」
その言葉に、八造は微笑むだけだった。
素敵な笑顔やわぁ〜。
須藤の妻の眼差しが、輝いていた…。
次の日。
二日酔いで頭が痛いのか、須藤の顔色は凄く悪い…。それを心配しながら、八造は、須藤と一緒に初仕事へと出掛けていた。
そこは、須藤達が始めようとしている新事業に関わる土地だった。 古ぼけた家が並ぶが、人の気配を感じない。その中の数軒だけは、未だに人が住んでいるのか、生活の雰囲気が残っていた。
「あとは、あの一軒だけ。…中々しぶとくてなぁ」
須藤が呟きながら目をやった所。 そこには、見た目で直ぐに解るような、頑固親父の姿があった。
「確か、あの方は、この街で茶店をされていたんですよね」
「あぁ。周りの連中が去っていったから、店も閉店してだなぁ。
だから、あの条件を出したというのに、首を縦に振らん」
「そりゃ、そうでしょう」
「…なに?」
軽く応えた八造の言葉に、須藤は怒りを覚えた。
「あの条件には、足りない事が三点ありますよ」
「あれが、こっちが出せる精一杯の条件だ」
「いいえ。まだ、出せますよ。それに、こちらが一方的に決めた事。
相手を納得させるには、相手のうわべだけでなく、心の方にも
気を配らないと、納得してもらえない事が多いですよ」
「……そこまで言うなら、猪熊に任せる。期限は三ヶ月だからな」
「首を縦に振らせる期限…ですか?」
「あぁ」
「須藤組長」
「ん?」
「もしかして、私の仕事は、これだけ…とか?」
「いいや、もっと用意してる。それに、勉強するんだろ?」
「えぇ。これからの為…に」
お嬢様の為に…。
そう応えた八造の眼差しは、とても力強い。
「ほな、話…頼んだで」
須藤は安心したのか、八造に言った。 八造は、須藤に一礼して、頑固親父の前へと向かっていった。 親父は、八造の姿を観た途端、
「何度来ても、わしの気持ちは変わらんで。それに気付かんようじゃ
それこそ、わしは、動かんわい」
「初めまして」
「……そういや、初めてやな。兄ちゃん、あいつの部下か?」
「いいえ。私は、そのような人間ではございません。
猪熊と申します。お話は、須藤と変わらないことですが…!!」
そう言った途端、頑固親父は玄関先の置いている箱を取りだし、その中から白い物を八造に向けて投げつけた。
「!!!」
塩…?
頑固親父は、箱の中に塩を入れていた。 須藤達の姿を観ては、塩を撒いて追い払っていた。初めて来た八造に対しても同じようにぶつけ、そして、一握り、握りしめた。
「帰れっ! もっと…かけたるで…」
「お話を聞いて下さるまで、帰りませんよ」
「なんやてぇ〜っ!!!」
頑固親父は、再び塩を撒く。 八造は、その塩を避けることなく、その場に立っていた。
「帰れっ! わしは、ここから離れたくないんやっ!!!」
「察しております」
「五月蠅いっ! わしのこと、解らん癖に……青二才がっ!」
頑固親父は、大量の塩を八造に向けて投げつけた。 塩で白くなってしまう八造は、髪の毛や服、顔に付いた塩を払うことなく、頑固親父を見つめていた。
「このぉぉっ、やくざがっ!! わしは脅されても、怯まんぞ!!」
「私も、須藤も…あなたが御存知のように、極道です。
極道には掟がございます。厳しい掟……」
「それがどうしたっ!」
「……一般市民には、手を出さない……という厳しい掟が…。
なので、あなたが、そのような行動をなさっても、私たちは
何も出来ません。ただ、こちらの条件を述べるだけです」
「そうやって、下手に出てから、最後には、脅してくるのが
お前らやっ! もう、騙されへん。それに、ここは、譲らんっ!!」
頑固親父は、箱の中の塩を全て、八造に向けて放り投げた。
あっ!
放り投げた勢いが強かったのか、頑固親父の手から、箱が飛んでいく。 箱は、八造の額に当たってしまった。 ゆっくりと地面に落ちていく箱。その箱に連れて行かれるように、塩も地面へと落ちていく。 頑固親父は、その様子を目の隅っこで観ていた。 そして、頑固親父の目は、八造の額の怪我に釘付け状態になる。 八造の額から、一筋の赤い物が流れ出す。 それでも、八造は姿勢を変えなかった。
「猪熊っ!」
八造と頑固親父の様子を観ていた須藤とよしの、そして、竜見と虎石が駆けつける。
「親父、お前なぁ」
よしのが低い声で言った。しかし、それ以上に低い声で、
「手を出すな」
八造が言った。 その声を耳にした途端、須藤達の動きが停まる。もちろん、頑固親父も、口を開けたまま、動かなかった。 額から流れる血は、八造の頬を伝って、地面に落ちた。
「塩………」
八造が、そっと口にした途端、その場にいる者たちの背中に、冷たい汗が流れた。
「……傷に染みるって…本当なんですね」
静かに言う八造に、頑固親父は、
「…そ、そうですか…」
言葉を詰まらせながら、返事をした。
「箱からは…手を離さないようにしないと…それに、もったいないですよ」
「な…何がっ!」
「…塩…」
八造の言葉に、凍り付いていたその場が突然、溶け始める。
「猪熊……今は…」
「須藤さん」
「ん??」
「足りない条件…この方に勧めてもよろしいでしょうか?」
「それは……こっちが不利にならない程度なら…許すが…って、
その前に、その血を拭え。怖すぎる」
「あっ…そうですね」
そう言って、八造はポケットからハンカチを取りだし、頬の血を拭い、額の傷に当てた。
「兄ちゃん…すまん…怪我…させるつもりは…」
「察しております。お話…続けてもよろしいですか?」
「あ、あぁ…」
八造は、頑固親父に自分が考えた条件を語り出した。 その間、須藤は竜見に、車から救急箱を持ってくるよう指示を出す。 八造の話は、それでも続いている。 額の傷は、それ程、酷くなかったのか、血は止まっていた。
「………どうでしょうか…?」
八造は、温かい笑みを浮かべて、頑固親父に言った。 頑固親父は暫く考え込んでいた。 今までは、条件を述べても、考え込む姿勢を見せなかった頑固親父。八造の言葉で、心が少し揺らいでいるのが、手に取るように伝わってきた。須藤は、八造を見つめる。額の傷は、かなり深いのが解ったが、八造は痛がる素振りを見せず、ただ、優しく微笑んでいるだけ。 それが、かえって恐怖を感じる須藤は、拳を握りしめていた。
「…わしの思うような物が出来るんか?」
「それには、あなたの細かな意見が必要ですよ」
「それくらいは容易いことや。…そやけど、その間は、どうすんねん」
「それは、この条件に含まれている場所で行うというのは…?」
「新たな場所なんか、客…来ぇへん…」
「その場所は、ここに住んでいたみなさんのほとんどが
移り住んでいる場所ですが…それでも…?」
「常連客も必要やけど、新しい客も必要やろが。客商売…
解っとるんか?」
須藤が付け加えた。
「その場所には、新しい方々も居られますよ?
それでも、躊躇いますか?」
八造の言葉に、頑固親父は再び考え込む。
「……暫く……考えさせてくれや。わし、自分の目で
確かめとくから」
「かしこまりました。それでは、後日、お伺いした時に
お返事を頂く形でよろしいですか?」
頑固親父は頷き、そして、自分の家に入っていった。 八造は、深々と一礼し、
「ありがとうございました。失礼いたします」
そう言って、頭を上げた。
「猪熊、怪我の手当て…………………」
…と、声を掛けたよしのは、それ以上、言葉を発することが出来なかった。
「……ちょっと失礼します」
何かを抑え込むかのような口調で言った八造は、その場所からかなり離れた場所にある、廃墟となった倉庫へを向かっていく。 その倉庫入り口に置いてあるドラム缶の前に立った。
グッと握りしめられた拳。 ゆっくりと瞑られた瞳。 そして、 ガッと目を見開いた途端、大音響が響き渡った…………。
ドラム缶が宙を舞う〜〜……。
車の中。 後部座席に座る須藤は、隣に座っている八造をちらりと観た。 額には、絆創膏が貼られている。 その額の下にある眼差しは、凄く鋭くて…。
「…何もドラム缶に当たらなくても……」
須藤が呟くように言うと、八造が睨み返してきた。
「俺に怒るなっ!!」
須藤は思わず口にした。
「怒ってません…ただ…」
「ただ…???」
「箱を避けられなかった自分に腹が立ってるだけですよ…」
そう言って、八造は大きく息を吐く。
「取り乱しまして…すみませんでした」
「いや……気にするな」
「……くそっ……」
八造は、自分の拳を手のひらにぶつけた。 かなり甲高い音がする。
「って、何もそこまで…」
なぜか、焦る須藤。
「……俺の顔に……傷つけた……」
八造が呟いた。
「はぁ?」
「……相手が一般市民じゃなかったら、顔の判別…
付かない状態にしてるところでしたから……」
「本来は、そっちかよ…」
「そうですね…」
「……ドラム缶が、へこんで、宙を舞うほどじゃぁ、
同業者だと、本当に顔が解らん状態やな」
須藤の言葉に、車の中の誰もが頷いた。
しかし、恐ろしい奴っちゃなぁ〜。 四代目…いいや、真北さんも、どうして、こいつを…。
須藤は窓の外を見つめ、ため息を付いた。
「須藤組長。済みませんでした」
「大丈夫だ。…ただ、お前に怪我をさせたことにな…反省してるだけや」
「次は避けます」
「…避けられへんかったんか?」
「………夕べの酒が……」
「……………。さよか…」
車は一路、須藤の自宅へと向かっていく。
自宅で須藤の妻に手当てをしてもらった八造は、その日の出来事を妻に話していた。 須藤が様子を見に来た途端、甲高い音が三度、響き渡る……。
頬を腫らした須藤が、八造を連れて、水木組組事務所へとやって来た。
「…で?」
須藤の頬を観て、笑いを堪えながら事情を聞いた水木は、頑固親父の事を尋ねる。
「夕べのうちに、良い返事をもらった」
「わしらじゃ、何も言わんかったおっさんがかぁ?」
「あぁ」
「凄いなぁ、猪熊ぁ」
感心したように、八造に声を掛けたが、
「…って、水木ぃっ……って、遅かったか?」
須藤が慌てて声を掛けた時には、水木が宙を舞っていた。
「顔に傷付けた事…まだ…納まってないって言おうとしたんだが…」
「遅い…わい……。…っつーーー」
背中から着地した水木が、弱々しく応えていた。
阿山組本部・いつもの縁側では〜。
いつものように二人の男が、煙草を吹かしながら、夜空を見上げて語り合っていた。
「それから納まるまで一週間。頑固親父が頷いたのは
ドラム缶のへこみを観たからだったと、後日談…」
春樹が笑いを堪えながら、慶造に言った。
「しっかし…八造も…」
「猪熊さんと同じなんだな」
「あぁ。修司も顔に傷を付けられたら、本当に…」
「二枚目だと、自負してるんじゃないのか?」
「それは無いだろな。そのような言葉を耳にしたことは無い」
「俺もだな」
二人は煙をゆっくりと吐き出した。
「で、その話は進行するのか?」
慶造が静かに尋ねる。
「まだだな…」
「何を躊躇ってる?」
「松本さんからの連絡だ。建設費が足りないそうだ」
「それくらい、工面すると言ってるだろ?」
「業者が…なぁ」
「………それくらい、松本たちで出来るだろが」
「そうだけどな…」
春樹は言葉を濁した。 煙草をもみ消し、春樹は寝転んだ。
「真北、何を考えてる?」
「ん? …いや、…ちょっとな」
「…向こうか?」
そう言って、慶造は春樹を見つめる。 春樹は、軽く頷いて目を瞑った。
「そうか…」
慶造は煙を吐き出し、煙草をもみ消した。そして、同じように春樹の隣に寝転んだ。
「俺は停めないぞ」
静かに慶造が言った。
「……解ってる。向こうの事は、情報だけ頼ってるからさ…」
「真子に…」
慶造の言葉は、聞こえないくらい小さな声だったが、
「…まだ先だから、それまでに考えておくよ」
春樹は、そう応えた。
月が輝く三月。 梅の花が、ほのかな蕾を見せつけていた。
(2006.4.29 第八部 第四話 改訂版2014.12.12 UP)
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