昔と今、繋がる想い(2)
AYビル・真子の事務室。
真子がデスクで書類に目を通していた。その間、くまはちは側に立っている。
「くまはち」
「はい」
「これ、こないだも目を通したけど、却下しなかったっけ?」
真子が差し出した書類を受け取り目を通すくまはち。
「変わってませんね…。再度、話しておきます」
「うん……」
次の書類に目を通している真子の返事は、曖昧…。 くまはちの携帯電話が、かわいい音を奏でる。慌てて懐から電話を取り出しながら、隣の事務所へと入っていく。そんなくまはちの行動を、目で追う真子。軽くため息を付いて、背もたれにもたれ掛かる…。
いたっ……。
おとといの傷は治っていない。未だに痛さが残っている。
これ以上に、くまはちの方が、ひどいのにな……。
真子は、隣の事務室に通じる扉を見つめていた。
真子の隣にある事務室。 ここは、以前、まさちんが使っていた場所。今は、くまはちが『真子に知られたくない内容』を話すときしか使っていない。 ということは…。
くまはちは、携帯電話から聞こえてくる言葉を一言一句聞き逃さないように、神経を集中させていた。隣に居る真子に聞かれないよう、くまはちは声を発しない。 電話を掛けてきたのは、健だった。
『それでな、新たな刺客が来てるみたいなんやわ。
こうも立て続けだと、くまはちもやばいやろ?』
「いいや」
『だからな、兄貴が交代するって言ってるけど…どうする?』
「それは駄目だな」
『……あのなぁ、その部屋は、一応防音仕様やろ? 組長には
聞こえてないはずやで』
「解ってる」
『兄貴…やる気やけど…』
「まさか、こっちに来てるとか?」
『いいや、まだ』
「それなら、いい。俺で十分だ」
『くまはち、あのなっ……うあっ!』
電話の向こうで何かが起こった…。
「健?」
くまはちが、声を掛けた時だった。
『あのなぁ、くまはち。お前、完治してへんやろが。これ以上、
組長を守って、お前がくたばってみろ、誰が一番心配すると
思ってるんだよっ! 俺を怒らせるな…』
えいぞうだった。どうやら、健の電話をふんだくった様子。えいぞうの後ろでは、健の叫び声が聞こえる。 それを無視しながら、くまはちは応える。
「いらん心配だ」
『くまはち、お前な…先日も、今回も、お前の失態じゃないだろがっ!
怪我を圧してまで、守る事ないだろ!』
「うるさい…これ以上、………。……組長……」
くまはちが、怒りを抑えながら、健と電話を替わったえいぞうに、何かを言おうとした時だった。真子が、側に立っていた。くまはちは、電話の向こうから聞こえる声に耳を澄ませる。
健、お前、まさか…。
だって、兄貴、その方が手っ取り早いやんか。
だからって、組長にメールすることないやろ! くまはちの立場も考えろっ!
考えての行動や…。
「組長…」
くまはちが呟く。
「えいぞうさんと健の気持ちも考えなさい」
「しかし、それでは、二人に…」
「くまはちっ!」
真子の言葉に、くまはちは思わず立ち上がる。くまはちの携帯電話から聞こえてくる、健とえいぞうのやり取り。それが煩わしく思ったのか、くまはちは電源を切った。そして、握りしめる。
「私は、大丈夫です。ご心配は…」
「…一体…どうしたの? 先日だけじゃない。今回もそうだった。
くまはち、何に遠慮してるの?」
真子が静かに尋ねる。それには、くまはちは応えられない。
「応えろ、くまはち」
「…そ、それは、言えません…。しかし、私は…」
「解った。もういい。好きにしろ」
そう言って、真子は自分の事務室に戻っていく。
「組長」
くまはちは真子を追いかけるが、ドアには鍵が掛けられていた。
「組長、開けて下さい」
『くまはち……』
「はい」
『私の気持ち…解ってよ…。くまはちが隠していても知ってるよ。
新たな敵が来てる事くらい。二度の襲撃で怪我をして、それが
完治していない事も…。もし、次の襲撃で、更に怪我をして、
万が一の事があったら、………私…………』
ドアの向こうで、真子がしゃがみ込んだのが解った。くまはちは、真子の頭があるだろう場所までしゃがみ込み、優しく声を掛ける。
「えいぞうまで、同じような怪我をしたら、更に組長が哀しむでしょう?
だから私は、断ったんです」
『………どうして、守るだけなの?』
「それには、応えられません」
『くまはちを…失いたくない…』
「組長を失うわけにはいきません。それに、私は死にませんよ」
『真北さんと同じ台詞…言わないでよ…』
「組長、御自分の立場を考えて下さい」
真子は何も言わない。
「…あなたは、阿山組五代目である前に、母親ですよ。
母を失った時の哀しみは、私だけでなく、組長も…」
ドアの鍵が開く音がし、ドアノブがゆっくりと回る。くまはちは、ドアから少し距離を取った。ドアが開き、真子が両拳を握りしめて立っている。
「失う哀しみは、何でも同じだろ! 母だけでなく、兄として……
自分の知ってる人だけじゃなく、目の前で失う哀しみは、
もう、もう……誰にも感じて欲しくない…。だから、だから…」
「組長…」
「私の思い…知ってるのに……どうして? …どうして、くまはちは…
相手を倒そうとしないの? 私は自分で自分を守れるんだよ?
その間に、くまはちが相手を倒す事だって、出来るじゃない…」
真子は、何かを堪えるかのように、目を伏せる。
「私が…くまはちの足を引っ張ってるんだね…そうなんだ…」
「組長、それは…」
「だから、くまはちは怪我をするんだね……私が悪いんだね…」
「違います。組長、私の怪我は…」
「いい…もう、何も応えなくて…応えなくていいから…。私が
くまはちの側に居るから……だから……なんだね」
「あなたの側に居るのは、私の…」
「私は一人で大丈夫だから。…くまはちは、くまはちの思うように
動いたらいいよ。……私、帰る…」
そう言って、真子は、荷物を手に、事務所を出ようとする。
「組長!! お一人では…」
真子を引き留めるように腕を掴んだくまはち。真子は歩みを停めるが、背を向けたまま、くまはちの手を払いのけた。
えっ…?
払われたまま、くまはちは動けずにいた。 真子が静かに事務室を出て行くのを見届けるだけのくまはち。廊下で真子をすれ違う須藤組組員が挨拶をする声が聞こえる。須藤の声も混じっていた。 暫くして、須藤が真子の事務室へとやって来る。
「くまはち、いいのか?」
須藤に声を掛けられて、我に返るくまはち。
「すみません。組長は、どちらに?」
「帰ると言ってたぞ。一人じゃ、あかんやろから、竜見付けたけど…」
「すぐに撒かれますよ!!」
そう言って、くまはちは自分の荷物を持って、須藤に事務所の鍵を放り投げる。
「って、くまはち、どうしたんや?」
「すみません、これは、阿山家と猪熊家の問題で…その…戸締まりを!」
くまはちは、事務室を出て、真子を追いかけていった。 真子の事務室に残された須藤は、手渡された鍵を見つめ、呟いた。
「そりゃぁ、組長が怒るのも解るけど……何も慌てる事ないやろが」
須藤は、真子の事務所を出て、鍵を閉めた。
くまはちは、エレベータで一階まで下りてくる。ドアが開くのが待ちきれず、隙間を通り抜けるように降りたくまはちは、足下の何かに気付き、思わず飛び越した。
「竜見っ!!」
真子から離れないように言われた竜見が、顔を歪めて蹲っていた。
「組長は?!」
「すんません…兄貴……組長……追いかけられませんでした…」
「気にするな。俺が悪いから……どっちに向かった?」
「地下駐車場へ…」
「後はいい。動けるようになったら、事務所に戻っておけ」
「兄貴、私も…」
「今回ばかりは、俺の失態だ。組長の誤解を解くまでは、
俺が動くしかないから……すまんな、竜見」
そう言って、くまはちは、地下駐車場へ通じる階段を下りていく。
嫌な予感が過ぎるくまはち。 真子が一人で地下駐車場に降りた時は、必ず何かが起こっている。 あの日を思い出すくまはち。 真子が、くまはちの本能に驚き、そして、恐れた日…。 地下駐車場へ降りたくまはちは、辺りを見渡した。 真子の姿は無い。 車を運転しない真子が車に乗った形跡も無い。真子が別の場所へ移動する手段。考えられるとしたら、地下駐車場から、大阪の地下街に通じる扉から出て行った事。くまはちは、何かに導かれるかのように歩き出した。 その足は、迷うことなく、ある場所に向かっていくが、地下鉄の改札の側で、ぴったりと停まってしまった。 導いたものを感じないくまはち。 地下街の賑わいの中、何かに集中する………。
ミナミの街は、色々な人が行き交っていた。 人々の賑わいから少し離れた場所にあるスナック『桜』。 そこは、水木が経営するスナックだった。夜の商売に向けて、準備するため、水木は近くの事務所から歩いてやって来る。店の扉の鍵を開けた時だった。一軒向こうの路地から、一人の女性が姿を現した。その女性は、水木を見つめるような感じで壁に寄りかかる。 大きく息を吐き、高鳴る心臓を落ち着かせるかのように、目を瞑った水木は、静かに言った。
「どうされたんですか? まさか、お一人で?」
「悪い?」
「私にとっては、嬉しい事ですけど、あなたの周りにとっては
悪い事ですよ。…それに、この時間は、まだビルの方じゃ…」
「いいやん」
「駄目ですよ。……くまはちは?」
「知らん」
「…組長…本当にお一人でビルから?」
その女性は真子だった。 水木は、そっと顔を上げ、真子を見つめた。 寂しげな表情。その表情から解る真子の心境。
「まだ、店を開けるには、時間がありますから、お送りしますよ」
「飲む…」
「…先日の傷は治ってないはずですよ。傷には……って聞いてます?」
水木の言葉を聞いているのかいないのか。真子は、水木の横をすり抜けて、水木の店へと入っていった。
あちゃぁ〜。ったく…。
困ったものの、水木は、真子の後を追うように、店へと入っていく。そして、灯りを付けた。 真子は、カウンターの奥の席に座った。そして、カウンターに顔を埋める。
「組長、私でよろしければ、お聞きしますよ」
「……飲む……」
「ご用意します。少しお待ち下さい」
水木は、奥の部屋へ入り、店に立つ準備をする。服を着替え、そして、部屋から出てきた。 カウンターに座る真子は、頬杖を付いて、一点を見つめている。 真子専用のボトル。 水木は、それを手にとって、棚から下ろす。そして、グラスに氷を入れて、アルコールを注いだ。それを真子に差し出す。真子は、一気に飲み干した。
「おかわり」
「組長、こんな夕刻から飲むのは…」
「いいの」
「一体、どうされたんですか? 夜になる前に、お送りしますから」
「おかわり」
水木の言葉に短く応えるだけの真子。水木は、渋々アルコールを注ぐ。今度は、一口飲んだだけで、真子は、大きく息を吐いていた。
「傷、痛みませんか?」
「忘れた」
「…店の準備に入りますが、よろしいですか?」
「私の事は気にしないで」
って、組長、すんごく気になるんですけど…。
真子は、愛用のボトルを手に取り、グラスの側に置く。そして、ため息を付いた。
水木は、真子の事が気になりながらも、店の準備に取りかかる。テーブルを拭き、灰皿を並べる。表に出て、ほうきで掃く。ゴミを集めて、玄関マットを置き、看板の灯りを付けた後、扉に『営業中』の札を掛けた。 一息付いた水木が店に戻ってきた時、真子のボトルは半分になっていた。
「組長、ペースが速すぎですよ」
「いいのぉ」
そう言いながら、新たに注ぐ真子。
「組長、一体何が?」
水木が尋ねた時だった。店の扉が開き、三人の客が入ってきた。
「龍っちゃん、えらい早いやん、ええん?」
一人の客が言った。
「かまへんよぉ」
「ありゃ、もう客来てるんや。…龍っちゃんのこれ?」
小指を立てる客に、水木が応える。
「森川の方こそ、今日は早くないか? この時間、勤務時間やろ?」
「ええんやぁ。今日は嫌な事たっぷりあったからなぁ。取引もぱぁ」
そう言いながら、店の奥にあるソファの席に腰を下ろす森川と呼ばれる男と二人の男。どうやら、常連客の様子。水木は、森川が注文する前に、用意を始めた。そして、席にアルコールを運ぶ。グラスを置く水木に、森川が尋ねた。
「なぁ、龍っちゃんのこれなんやろ?」
「ちゃうわい。俺は、桜一筋や」
「よぉ言うわ。桜さんの他に、何人の女がおるんやぁ?」
「星の数ほど」
「その一人やろ?」
「うるさぁい。軽く食事するか?」
「龍っちゃんに任せる」
「ほな、いつものんな」
そう応えて、水木はカウンターに戻る。森川達に軽食を作る水木に、真子がそっと声を掛けた。
「常連さん?」
「えぇ。まぁ、同級生…ってとこですね」
「水木さんにも居るんだ、同級生」
「居ますよぉ。私だって、それなりに人として生きてますから」
「思えないなぁ」
「ったくぅ〜。…何か食べますか?」
「……作ろうか?」
「今はお客ですよ」
「そうでしたっ」
「森川と同じで、構いませんか?」
「よろしくぅ〜。……これ、何本ある?」
真子は、空になったボトルを水木に見せる。思わず水木の手が止まった。
「……早すぎます……」
水木は、出来上がった料理を森川のテーブルに並べていく。話している途中に水木が来たもんだから、森川は、またしても同じ事を尋ねる。
「龍っちゃん、あの女性…誰や?」
「ん? 客」
「それにしては、何となく…敬った感じやなぁ」
そう言って、森川は指をくいくいとして、水木に顔を近づけた。
「頭上がらん人か?」
水木の耳元で呟く森川。水木は、フッと笑って、応えた。
「その通りだ」
客が入ってくる。
「マスター、早いけど、ええん?」
入ってくる客は、必ず、そう尋ねていた。 真子が思わず、クスクスと笑ったのは、言うまでもない。
真子の自宅。
ぺんこうが仕事から帰宅する。玄関先で、真北から聞かされた事に、ぺんこうの怒りがこみ上がる。 菜箸を持ったまま、むかいんが、ぺんこうを羽交い締めした。
「落ち着けって、ぺんこう」
「放せっ、むかいんっ!」
見慣れた光景に、真北はため息を付いた。
「それで、兄さん、くまはちは?」
「真子ちゃんを捜してる」
「怪我…完治してないだろが」
「キルも別の場所を探してるが、見つからないそうだ。思い当たる所は
全部探したが、姿は無いそうだ」
「隠してるはずだ…」
「そういうことなら、キルもくまはちも気付く。…お前もだろが」
ぺんこうは、一点を見つめ考え込む。ぺんこうが落ち着いたと悟ったむかいんは、手を放した。
「………美玖は?」
「光一と遊んでる。理子に任せておけって」
「いつも…すまんな……。兄さんは、どうされるんですか?」
「すまん。新たな動きを察知したんでな、そっちに回る」
「それこそ、二人に任せて、あなたが真子を探せば…」
「できていたら、そうしてる」
真北が、そう出来ないほど、事態が悪化している様子。
「……それなら、俺が探す……」
「芯!」
踵を返そうとしたぺんこうの肩を掴む真北。
「むかいん、すまん…」
「解ってる。…逃がすなよ」
むかいんの言葉に、ぺんこうはちらりと振り返り、口元をつり上げる。そして、真北の手を振り解いて出て行った。
「って、芯!! ったく。…むかいんも挑発するなよ」
「してませんよ。…だけど、これ以上、ぺんこうの悩みを
増やしたくないのも事実でしょう?」
「そうだが……」
「それで、くまはちは?」
「……………」
自宅を飛び出したぺんこうは、くまはちに連絡を入れる。
「…くまはち、何処にいる? …………はぁ?!」
ぺんこうは突拍子もない声を張り上げた。
日も暮れ、すっかり真っ暗になった頃、スナック『桜』は、客で賑やかになっていた。その賑やかさの中でも、真子は静かに飲んでいる。ボトルは三本目だった。水木は、客の相手をしながら、真子の様子をちゃんと見ている。時々、真子と目が合っていた。 微笑む真子に、水木も優しく微笑んでいた。
「あぁ〜っ、マスター。初めて見るよぉ、その笑顔ぉ」
女性客の一人が、水木に言う。
「そうですか? いつも見せてますよ」
「そっかなぁ〜。ほなぁ、もう帰るねぇ」
「ちょうど一万になります」
「ごちそうさま」
「またのお越しをお待ちしております」
女性客は、手を振って去っていった。水木は後かたづけに入る。 ふと振り返った時だった。森川が、真子の隣に座っていた。
あちゃぁ〜。
思わず焦る水木だが、真子は笑顔で森川と話していた。
「ねぇちゃん、龍っちゃんのこれやろ?」
やはりしつこく聞いてくる森川。小指を立てていた。
「そうなるのかなぁ」
「森川。何してる?」
「ええやろぉ。一人で寂しそうやもん」
「戻れよ」
森川の額を小突く水木。
「ちぇっ〜」
ふてくされたように、森川は席へと戻る。
「すみません」
「いいのに」
「もしもの事がありますから」
「もしも?」
水木は、真子に顔を近づけ、そっと伝える。
「森川も元極道の人間ですよ」
「そうなの?」
「森川が堅気になったのも、四代目のお力ですよ。まぁ、それを知ったのは
こうして、私の店に飲みに来てくれるようになってからかな」
「それまで、そんな話したこと無かったん?」
「まぁ、一応…敵対関係だったので」
「……見えないね。普通の人だと思っていた。水木さんって
普通の人とも話していたんだなぁ〜と思ったのにな」
「…極道の息子と仲良くしてくれるような人間は居ませんからね」
「……そうだね……」
真子が暗くなる。
「あっ、すみません…そんなつもりでは…」
「私も…そうだったから…。それ…解る……。でもね、学校は
それまで知らなかった事ばかりで楽しかったよ」
そう言って、真子はニッコリ微笑んだ。
「それは良い事ですよ」
水木も微笑んでいた。
「ところで…」
「はい?」
「なんで、龍っちゃん?」
「私の名前の龍成からですが………もしかして、御存知無いとか?」
「水木さんは水木さんだもん。そこまで覚えてない」
そうだったんですか…組長…。
ちょっぴり寂しさを感じる水木だった。
真子は、グラスを空にして、大きく息を吐いた。
「飲み過ぎですよ。もう出しません」
「あと一本〜」
「後でばれて、怒られるのは私でしょうがぁ〜もぉ〜」
水木は、ちらりと時計を見る。時刻は、もうすぐ十時になる頃。
組長の就寝時間……。
そう思って真子を見る水木。
「……って、そんなところで…………。いっ?!」
真子が泣いている。
「組長……」
「ねぇ…水木さん」
「はい」
真子が顔を上げる。その頬は涙で濡れ、目は潤んでいる。
「一体、何が遭ったんですか?」
「……なんで……私を守るのかな…」
「くまはちの…事ですね」
真子は、コクッと頷いた。
「解っておられるはずですよ」
「……なんで……守るだけなの?」
「守るだけ? くまはちが?」
「先日も、こないだも…。私を守るだけで、相手に攻撃しないのぉ」
「それは珍しいですね。私の時はぁ……っと」
慌てて口を噤む水木。真子が睨んでいた。
「知ってるよぉ、そのお話はぁ〜撫川の件でしょぉ?」
「そぉだよぉ」
真子の口調がヘラヘラになっていく。
「それは、くまはちの体に備わったもの。組長だって、私たちを
守ろうとするでしょう? 失いたくないと言って……。
それと同じですよ」
「解ってるよぉ。…だけど、どうして、攻撃しないのかぁってのぉ」
「それは、組長の為ですよ」
「私のためぇ?」
水木は、真子のグラスを取り上げる。
「マスター。お勘定」
「ありがとうございます。三万八千円です」
客に応対しながら、水木は、真子にそっと伝える。
「考えれば、解る事ですよ」
そして、テーブルの片づけに入る水木。真子は、口を尖らせながら、考え込んでいた。
誰かさん、そっくりだなぁ〜ほんと…。
よく似た仕草をする嫌な男を知っている。阿山組と懇意になる前から、見た事のある仕草。 空き皿を重ね、テーブルを拭いている時だった。
そっか…院長の仕草は、真北さんの癖…か…。
橋総合病院の院長である橋とも仲の良い水木達。それは、阿山組と敵対していた頃から…橋総合病院が出来た頃からの付き合い。水木は何かに納得しながら、カウンターに戻ってくる。
「眠いぃ〜」
真子が呟いた。
「奥の部屋……………」
を勧めようとしたが、水木は躊躇ってしまう。しかし…、
「借りるよぉ。お休み」
真子は慣れたような足取りでカウンターに入り、奥の部屋に通じる扉を開けた。
「あっ、そうだ」
「はい?」
「私が居る事…誰にも言わないでねぇ、水木さん」
「脅されても言えませんよ」
水木の言葉に安心したのか、真子はそのまま、奥の部屋へ入っていった。 扉が静かに閉まる。 水木は、大きく息を吐きながら、俯いた。顔を上げると、目の前に森川の顔があった。
「って、なんだよ!」
「あの女性……阿山真子だろ?」
「何言っとんねん、あほ」
「組長って、言ってたで、龍っちゃん」
あっ……。
参りましたと言わんばかりの表情で森川を見つめる水木。
「お前、いつモノにしたんや?」
「してへん。…親に手ぇ出せるかぁ」
「お前なら、やりかねん〜」
…こいつはぁ〜。
「帰る時間やろが。またカミさんの怒られるで」
「もっと飲むねん。追加」
「駄目だ。店じまい」
「早い時間に開けたのは、はよ閉める為かいな」
「そうや」
「ほな、勘定」
「二万五千円」
「……はいな。……ほんま龍っちゃんの記憶力と計算力は昔っからすごいな」
「ん?」
「客に出した品物覚えてるやろ、それらを一瞬に計算して、
更に記憶してるし……」
「客商売しとったら、当たり前やろが」
「それもそっか。ほな、またなぁ。組長さんに宜しく」
「うるさい。気をつけろよ。カミさんにも宜しくな」
森川達は店を出て行った。見送るついでに、水木は店の扉の札を替える。
今日は、おしまい、また明日!
まだ、店では他の客が飲んでいるが、これ以上増えないための対策だった。 店に戻ってきた水木は、ふと、奥の部屋の方へ目をやった。
奥の部屋では、真子がベッドに倒れ込むような感じで眠っていた。
そのベッドこそ、あの日、水木に抱かれた場所だった。そんなことを気にする余裕もないのか、真子は熟睡していた。
最後の客が店を出る。水木は、空き皿を片づけて、奥の部屋へと入っていった。
「ったく、組長〜、少しは気にして下さいよぉ」
項垂れる水木。 真子が寝返りを打った。ベッドからはみ出す腕に気付き、水木は躊躇いながらも真子を抱き上げ、そして、ベッドに真っ直ぐ寝かしつける。
組長……痩せた?!
あの日と比べると、真子の体重は幾分か軽くなっているように感じた水木。
「両立は、難しいんでしょう? 組長、やはり一つに絞った方が
よろしいかと思いますよ」
真子の頭をそっと撫でる水木は、真子の体に布団を掛け、そっと部屋を出て行った。
カウンターで店の片づけをしている時だった。 店の扉が開いた。
「すみません、今日は終わりなんですが………」
「……少しくらい……いいだろ、水木さん」
「…ぺんこう……」
店にやって来たのは、なんと、ぺんこう。 驚く水木は、真子が飲んでいたものを、そっとカウンターに隠した。それと同時に、ぺんこうは、真子が座っていた椅子に腰を掛ける。
「……どういう風の吹き回しだ? あんたが来るとはなぁ〜。
大阪に来ても、ミナミには来ないと聞いたんだけどな…」
「時々は来てるよ。一般市民だからなぁ」
「あぁ、そうだな…一般市民」
水木は、『一般市民』の所を敢えて強調する。
「何を飲む?」
「一番強い奴」
「……酒豪だったっけ? くまはち以上に」
「まぁな。くまはちは、底なし。俺はそこがあるけど深いだけ」
「はいはい」
水木は、ぺんこうの為に、店にある一番強いアルコールを用意する。
「……真子……居なくなったそうだ」
「家に帰っておられないのか?」
「あぁ。昼間、くまはちと喧嘩して、一人で飛び出したそうだ」
喧嘩ねぇ〜。
「こんな時期に、くまはちから離れるなんて……」
差し出されたアルコールを一気に飲み干すぺんこう。
「おかわり」
ん? …どっかで見た光景……。
「水木ぃ、おかわり」
「あ、あぁ」
なぜか、ぺんこうにしどろもどろの水木は、空になったグラスにアルコールを注いだ。
「なぁ、水木」
「なんだ?」
「……真子の行方…………知らんか?」
そう言って、睨み上げるぺんこう。 その眼差しこそ、あの日、ミナミでの抗争で見た、血に飢えた豹そのものだった。
これは、怒ってるぞぉ〜。
水木は、唾を飲み込んだ。
(2004.11.5 『極』編・昔と今、繋がる想い(2) 改訂版2014.12.23 UP)
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