第十部 『動き出す闇編』
第八話 それには、訳がある。
政樹は項垂れた。 目の前を一台の車が走り去る。
「ありゃりゃぁ、やっぱり、怒ってるよなぁ、真子は」
「そりゃ怒るやろ」
「真北ぁ、真子にどう伝えたんや?」
「それは、くまはちに尋ねろ。俺は、お前に言われた通りに
動いただけや。まさか、そこに現れるとは思わん」
「そりゃそっか」
「…で、今日から行くのか?」
「夕方は頼んだぞ」
「真子ちゃんの愚痴かぁ……」
と言いながらも、表情は弛んでいる。
「その面で言うな」
思わず慶造が口にした。
「まさちんを連れて行くぞ」
「頼んだぞ」
そう言って、慶造は部屋に戻っていった。直ぐに勝司が入っていく。 春樹は政樹が戻ってくるのを待っていた。
「夕方は迎えに行くぞ」
「真北さん……すみません…俺…」
「落ち込みすぎ。いつもの事やろが」
「それでも……」
と言う表情こそ、本当に、暗い。
こりゃ、大変やな…。
政樹の後ろ姿を見つめながら、春樹はため息を付いた。
話は一日前…政樹の一人での行動の時に遡る。
夕方。 真子の学校が終わり、生徒達が帰宅する時間となる。 真子は足取り軽く待ち合わせの場所へと向かっていく。 そこには……。
「お疲れ様でした」
「くまはちっ! もしかして、まさちん……具合が…」
「あっ、いえ……急に仕事が入ったそうで、夜までかかると
連絡がありまして、急遽、私がお迎えに参りました」
「本当に……仕事なの?」
「はい」
八造が応えた途端、真子がふくれっ面に。
えっ…俺……何か…。
「あの…私、何か……」
「まさちん…怪我が酷いのに……どうして、そうやって…」
真子の声が震えていた。
「暫くは、側に居るって、言ったのにっ! 約束破ったぁっ!!」
真子が小さく怒鳴る。
「す、すみませんっ!!」
思わず八造が謝ってしまう。
「くまはちは、悪くないの」
「すみません」
「もぉぉぉっ!! 口利いてあげないっ!」
その日、政樹が帰ってきたのは、真子が眠りに就いた頃。 朝。真子を起こしに来た政樹だが、真子は既に目を覚まし、政樹が声を掛けても何も応えない。朝食を終えても、そして、学校に行く時間には……。 政樹を呼ばずに、
「くまはち、行くよ!」
突然、声を掛けられた八造は、
「はいっ!」
勢い良く返事をした。
そして………。
真子の学校に到着。八造は、真子が降りる直前に声を掛ける。
「お嬢様」
「ん? なぁに?」
「今日から暫く、慶造さんと大阪に行くことになっております」
「………真北さんも?」
「大阪に行く予定は無いそうです」
「それなら、真北さんだけで良い」
短く応える真子の考えが、凄く解る八造は、笑いをグッと堪えていた。 何かの目線を感じた。 ちらりと目線を移すと、校舎の窓から、芯が様子を伺っている。
…って、ぺんこうは、いっつも、あぁなのかよっ。
目が合った事に気付いた八造は、鋭い眼差しで、
向こうに行けっ。姿を見せるなっ!
と訴えていた。 芯は軽く笑みを浮かべて去っていく。
「くまはち」
「はい」
「気をつけてね」
「いつもありがとうございます」
「それと…」
「お嬢様」
八造は、真子の言葉を遮った。
「はい」
「大丈夫です。きちんとお守りいたしますから」
「…うん……いつもありがとう…くまはち」
ちょっぴり照れたように真子が言った。 『お守りいたします』と言った八造の表情が、凄く素敵で格好良くて…。 見慣れている真子だが、この時は、思わず頬を赤らめた。
「お嬢様???」
真子の頬が赤くなった事に気付いた八造が、思わず声を荒げる。
「大丈夫。じゃぁ、くまはち、行ってらっしゃい!」
「お嬢様、それは…」
「あっ…行ってきますが先…だったね、ごめんなさいぃ〜」
ったく、お嬢様は……
八造はこの先の言葉を慌てて停めた。
「行ってらっしゃいませ。今日も頑張ってください」
「うん。くまはち、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
素敵な笑顔で真子を見送る八造に、真子も飛びっきりの笑顔で手を振って、校舎へと向かって駆けていく。真子の姿が見えなくなってから、八造はアクセルを踏み、学校を去っていった。
八造が真子を見送って帰ってきてから直ぐに、慶造と八造が大阪へと旅立った。 少し不安げな表情で見送る春樹は、ちらりと目線を移した。 慶造を見送りに出てきた政樹は、未だに暗い表情をしていた。 八造は、真子の言葉を政樹に告げていた。
『真北さんだけで良いってさ』
その言葉が、政樹の胸にグサッと突き刺さっていた。
「あのなぁ〜、それは、真子ちゃんの冗談やろが」
春樹が声を掛けるが、政樹は落ち込んでいる。
「……体調が悪いなら、医務室行くか?」
あまりにも落ち込む政樹を見て、春樹は掛ける言葉の内容を変えた。
「すみません。…いつもの調子が……出なくて…」
「泣きすぎたか?」
そっと政樹の耳元で、春樹が言う。 しかし、いつもなら、政樹が顔を赤らめてまで反論しそうなのに、この時ばかりは…、
「解りません…ただ……なんとなく…だるさが…」
春樹の手が政樹の額に当てられる。
「あつっ!…熱、滅茶苦茶高いやないかっ!
おい、美穂さんを呼べ!」
「はっ」
「大丈夫ですよ…これくらいは…」
「そういう声に力が無いって…てか、益々高くなるやないかっ」
焦る春樹は、政樹を軽々と背負い、医務室へと早足で向かっていった。 政樹を横たわらせ、氷を用意する。
「すぐにご自宅を出るそうです。取り敢えず…」
美穂の下で医療班として働く組員が、美穂から聞いた薬を用意する。慣れた手つきで調合し、注射器に摂取すると、政樹の腕に針を刺す。その速さに感心する春樹は、
「やっぱり、道病院で働けよ」
と声を掛けた。
「いいえ、私はこちらで、四代目を支えたいので…」
「道院長もご推奨なのになぁ、もったいねぇ」
「四代目の思いが達成したときに…と考えております」
「なるべく、早めにしないとな…」
「えぇ。お嬢様のためにも」
ここにも、真子のことを考える組員が居た。 春樹は政樹の熱を測る。 体温計の水銀が、すぐに長くなる。赤い文字を軽々と超え、十の桁の数字も直ぐに変わるほど。
「やばいんちゃうか…」
「薬が…効かない!?」
「もしかして…」
「普通の人間と同じように考えない方が…」
「いいのかもしれへんな…」
春樹と組員の頬を、汗が伝っていった。
美穂が到着した。側には桂守も付いていた。
「通常の薬の効果はないかもしれないって…」
美穂が別の薬を用意し始める。
「一昨日のこと、そして、昨日の様子から考えられることです」
冷静に桂守が応えると、春樹は真剣な眼差しを向けてきた。
「もしかして、この症状が……」
「はい。以前申し上げた一つです。命に関わる…」
「体に負担が掛かった後の長旅が原因か…」
「恐らく。解熱剤だけでなく、他に三つ必要になりますので…」
「それは、確証のある治療法なのか?」
春樹の声が強くなる。
「はい。例の文献にあります。そして、それは、実証されてます」
桂守の言葉に、春樹は安心した。
「後は…お任せします」
静かに告げて、春樹は政樹の手を握りしめる。
昨日…約束したのにな。 まさちん……負けるなよ!!!
政樹の手をグッと握りしめる春樹だった。
慶造と八造が大阪に到着した。 二人は慣れた感じでホームを降り、
「お疲れ様です!」
元気よく迎える竜見と虎石と一緒に、ロータリーへと向かう。そして、須藤組組事務所へ向かって走り出した。
「四代目、例の件、報告書にまとめましたので、後程
お願い申し上げます」
助手席に座る虎石が言うと、
「須藤が嘆いていただろ」
ちょっぴり笑ったように慶造が応えた。
「はい、それはもう、姐さんにまで…」
「くっくっく…ほらぁ、八造ぅ〜、また俺が嘆かれるやろが」
「須藤さんは、嘆きながらも、きっちりとなさる方ですので、
もっと細かくしていただく事は可能ですが、よろしいですか?」
「俺の意見をしっかりと伝えてくれるなら、文句は言わん」
「御意。では、そのように致します」
うわぁ〜、こりゃ、兄貴が帰った後、修羅場やなぁ。 ほんまや。それ停めるん、大変やのになぁ。 兄貴には、親分の嫌味が通じないもんなぁ。 嫌味が倍返し……。
「…ったく、いつになったら、須藤の嫌味に気付くんや?」
虎石と竜見が、こっそりと話しているのが聞こえていたのか、今まで黙っていた事を八造に告げたのだが……。
「へっ? 須藤さんの嫌味…ですか?」
当の本人は、全く気付いていない様子。
「事細かく言ってくるのは、ほとんどが嫌味なんだけどなぁ」
「そのようには思えませんが…」
「まぁ、それを何倍もの期待に応えてるところが、八造らしいと
俺は思うけどな。……ほんと、修司以上に厄介やなぁ」
「親父と比べないでくださいっ」
やはり出てくる言葉。 それには、慶造が笑い出す。
「四代目、本当に……」
「悪い悪いっ。やっぱり、からかいたくなるで」
八造のこめかみが、ピクピクとしていた……。
須藤組組事務所
八造が差し出したファイルの山に、須藤は目が点に……。
「あのぉ、猪熊くぅん」
「これでもまとめさせていただいたのですが…」
「どこまで細かく…?」
「先日の報告書よりも詳しくしております。これなら、みなさんにも
ご理解いただけるかと思います」
「そ、そうかいな。ほな、それで、進めるで」
「宜しくお願い致します」
八造は慶造の後ろに戻ってくる。
「はぁ……」
須藤が思わずため息を吐いた。
「四代目ぇ、本当に、これ…」
目の前のファイルの事を恐る恐る告げるが、
「あぁ、よろしくなぁ」
と軽々しく応える慶造だった。 その慶造は、車の中で耳にした虎石の報告書に目を通していた。
八造の指導が行き届いてるよなぁ。
文章は、細かいわりに、すごくまとまっていて読みやすい。そして、解りやすいものだった。
「虎石」
「はっ」
「これでええから、松本に渡して進めるように伝えてくれ」
「かしこまりました」
「…それで、須藤」
「はいぃ…」
ファイルを開いて書類に目を通し始めた須藤は、すでに疲れを見せていた。
「決定案は、どれや?」
「あと二件残ってますので、それが終わり次第に」
「いつ頃になる?」
「お盆前には出来ます」
「そうか。予定立ててくれや」
「お任せ下さい……四代目……桜島組の処理が残ってるんですが、
それらは、どのように進めればよろしいですか?」
「松本も忙しいだろうが、頼んでくれ」
「仕事が増えると喜びますからねぇ、松本は」
「その方が安全やろ?」
「えぇ。…あの親子は、一度火が付くと、消せませんからねぇ」
「まぁなぁ。育った環境もあるけどなぁ」
「元笹崎組の組員でしたね」
「あぁ」
「川原のおやっさんの言葉…未だに覚えてますよ。仏の笹崎の
本当の姿を…ね」
「えぇ、とても優しい方でしたからね」
「今は、どうされてますか?」
須藤の尋ねる言葉に、慶造はただ、微笑んでいるだけだった。 その表情を見て、須藤は応えが解った。
「書類には、俺のサインが必要になるだろうな…」
慶造は話を切り替える。
「このファイルの数よりも、あるらしいですよぉ」
須藤が小さく言うと、慶造の鋭い眼差しが、八造に向けられた。
「…私じゃありませんよ!! 真北さんですっ」
「あの野郎ぅ〜っ! 本部でかなりの数を書いたというのに、
あれだけじゃ足りんのかっ」
「あれは、地方の分で、こちらでの分は、こちらでと
仰っておりました」
「………一度にさせろやぁ……」
慶造が項垂れる。
わちゃぁ…俺、まだましな方なんか…。
そう思いながら、須藤は静かに書類に目を通し始めた。 先程よりも、ページを捲るスピードが上がっていた。
「八造」
「無理です」
「お前に任せる」
「私が怒られます」
「俺は怒られるのは嫌や」
「それでも、必要なものですから、お願いします」
八造が丁寧に言うと、
「解ったよ…」
口を尖らせて、慶造は応える。そして、椅子にふんぞり返った。
阿山組本部・医務室 春樹は熱にうなされる政樹の側に付いていた。 時々額に浮かぶ汗を優しく拭う。 何かを我慢しているのだろう。顔をしかめている。
「美穂さん」
「ん?」
「本当に…」
「……大丈夫よ。今は山場」
「解るんだが…それでも…」
「もう暫くしたら、落ち着きますよ」
「……そうか…」
いつになく、深刻な表情の春樹だった。
「真北さん」
「ん?」
「どうするの?」
「何がでしょう」
春樹は静かに言った。
「真子ちゃんの迎え」
「……俺一人だな。まぁ、くまはちが真子ちゃんに言ったことだし、
真子ちゃんも俺一人だと思ってるだろうな」
「それは、どぉだかぁ」
美穂の口調は、小島家独特の…。
「そう言いながらも、真北さんだって、真子ちゃんの思いは
解ってるくせにぃ」
ちょっぴりからかうような感じで言った美穂に、春樹は優しく微笑んでいた。 政樹が目を覚ました。
「真北さん……」
「目…覚ましたか? どうや?」
「お迎えの時間は…」
「まだ昼や。それに、こんな体では、無理」
「…お嬢様には…言わないでください。ご心配なさりますから…」
弱々しく言う政樹に、春樹と美穂は驚いていた。
「そうしたいのは山々やけどな、今回ばかりは駄目だな」
「…どうして…ですか……」
「嘘を付くと、真子ちゃんが怒る」
「それは…解っております…」
既に怒ってるんだけどなぁ。
言いたい言葉をグッと堪える春樹と美穂。
「今、俺が嫌われたら、誰が真子ちゃんを迎えに行く?
まさちんは熱で寝込んでいるけど、それ以前に、
昨日のことで、真子ちゃんは怒ったままやろが」
政樹の目が見開かれる。 春樹の言葉が、政樹の心にグサッと突き刺さってしまったらしい。 突然…、
「うっ……」
と政樹が唸った。顔をしかめる。
「まさちん?」
今までに見たことのない表情に、春樹は焦り出す。
「すまん、そんなつもりじゃ…って、美穂さん、益々酷く…」
「だぁからぁ、真北さぁん。ちゃんと説明したでしょう!」
「それでも、想像以上だから…」
「……ったく」
そう言って、美穂は手早く政樹の看病に当たる。桂守から聞いた薬を調合し、政樹へ飲ませる。その途端、政樹は、スゥッと眠りに就いた。
「入れたんですか?」
「深く眠る方が、治りやすいってさ」
「良かった…」
安堵のため息。 もし、桂守が居なかったら、政樹の命は危なかったかもしれない。 そう思うと、いつにない気持ちになる春樹だった。 いや、この気持ちは、遠い昔に感じたことがある。 それは………。
真子が図書室から出てきた。そして、教室へと向かっていく。 お昼休みの間、図書室で読書をしていた真子は、気を引き締めて、廊下を歩いていく。 少しでも気を緩めると、聞こえてくる他人の心の声。
春樹が掛けた術は、特殊能力である、青い光と赤い光の事だけだった。
自分が特殊な能力を持っている事は、術の効力で真子の記憶から消されている。しかし、他人の心の声が聞こえるという事だけは、術が効かなかったらしい。 何度も掛ける事が、術への『抗体』となってしまった可能性がある。 その『抗体』が強くなると、春樹が恐れる『凶暴性』が出てくる。 だからこそ、春樹は術を使うのを嫌がるのだが…。
真子が教室へ向かう様子を見つめる目があった。 初等部で教師として働く芯だった。 一日に何度も真子の様子を目に留める芯。 それは、時々頼まれる中等部の保健室での仕事が原因でもあり…。
「お嬢様……すみませんでした…」
「まさちん?」
政樹の声を聞いて、春樹が声を掛けるが、政樹は眠っている。
「譫言か…」
寝ていても、真子ちゃんのことを考えるとは…。 こりゃ、慶造が知ったら、大変やなぁ。
フッと笑みを浮かべる春樹は、時計を見た。
春樹の車が、本部の裏手から出ていった。 美穂は、政樹の熱を測り、体温計を見る。
「まだ、下がらないわねぇ」
三十九度七分。 未だに高熱が続く政樹。 深刻な表情で美穂が政樹を見つめ、ため息を付いた。
半日で下がらなければ、覚悟を決めて下さい。
桂守が去り際に言った言葉が、脳裏を過ぎった。
真子が通う学校の駐車場に春樹の車が停まる。 もうすぐ五時間目が終わる頃の時間帯。まだ六時間目が残っているのだが、その間、春樹は何をするつもりなのか…。 ゆっくりと車から降り、辺りを見渡した。そして、見学するかのように歩き出す。 足が向かう先は、理事長室。連絡をしていたのか、ノックをして中へ入っていった。
慶造は、更地になった場所へとやってきた。 周りは工事用の囲いで囲まれているが、何かを思いながら眺めていた。 少し離れた場所では、八造が辺りを警戒している。
「猪熊。大丈夫やから、気にすんな」
須藤がそっと声を掛けた。
「解っております」
短く応えて、再び『仕事』に戻る。 慶造が、ちらりと振り返り、八造を見る。八造は素早く駆け寄っていった。 慶造が何かを尋ねているのだろう。八造は、真剣な眼差しで応えていた。
「松本」
「なんや」
「……って、お前、まだ怒っとるんかっ」
「当たり前やろが。どこまで細かくしたら気ぃ済むんや」
「それは、猪熊に言えっ」
「言えてたら、言うとるわい」
「そっか……で、予定通りなんか?」
「えぇ。資金も集まりましたし、予定通りに着工式を始めますよ」
「ほんまに、大丈夫なんか?」
「何がでしょう?」
須藤は、松本の組だけで建設を行う事を気にしていた。
「ご心配なく。そのようなことは、息子が好きなことですし、
私よりも、顔が広いんでね」
「そうやな。……ほんまに、息子が受け継ぐとはなぁ」
「私は隠居していると申しているのに、なのに四代目は…」
と話していると、視線を感じ、目をやった。 慶造が指で松本を呼んでいた。
「失礼」
松本も慶造の側へと駆けていく。
「あの足取りで隠居は早いやろが。のぉ、よしの」
「えぇ」
「まっ、それ程、息子に期待しとんねんやろ」
「そのようですね」
「なんやかんやと怒っとるけど、俺の意見を猪熊が細かくして、
それを更に細かくしとんのは、松本やろが」
「どうやら、猪熊と張り合ってるようですよ」
「なんでや?」
「猪熊は、建設業関連のことは、身についてないはずなのに、
松本さんも驚くほどの力量を発揮してるそうですから」
「ほんまに、猪熊家の連中は、恐ろしいやっちゃなぁ」
須藤の言葉に、よしのは苦笑い。 その表情で気付く須藤……後ろに八造の姿があった。
げっ……。
思わず身構えるが、
「そりゃぁ、誰にも負けたくありませんから」
八造が短く応える。
「次の予定ですが、変更しても大丈夫でしょうか?」
「変更?」
「一つ追加して欲しいそうですが…」
「構へんけど、どこや?」
「その………」
須藤の耳元で八造が、そっと告げる。その途端、須藤が苦笑い。
「知らんで、俺は」
そう応えて、よしのに指示をする。 慶造達は、予定変更の場所へと向かっていった。
橋総合病院の駐車場に、高級車が停まった。 八造が降り、後部座席のドアを開けると、須藤と慶造が降りてきた。
「わしは、ここで待ってまっせ」
須藤が言うと、
「あぁ」
短く応えて、慶造と八造は、建物へと向かって歩いていく。 よしのが運転席から降り、須藤の側に立つ。
「何もお礼せんでもなぁ」
「そうですね」
「また…不機嫌になるやんけ…」
須藤は項垂れた。
橋の事務室に通された慶造と八造は、ソファに腰を掛けた。 その途端、目の前にお茶が差し出される。
「ありがとう」
「ありがとうございます」
橋は自分のお茶を手にしながら、慶造達の前に腰を下ろす。
「菓子折なんか、いらんつーねん」
そう言いながら、包みを破り、蓋を開けた。 どうやら、橋の好物だったようで…。
「よぉ、知っとるな、俺の好きなん」
表情が綻んでいた。
「すまんな、酔った勢いで話てくれてな」
「まぁ、昔と変わってへんから、ええけどなぁ」
「好みが変わることを考えてへんみたいやし」
慶造の言葉遣いが関西弁……。
「で?」
橋が短く尋ねる。
何をしに、わざわざ足を運んだのか?
その短い言葉に含まれる意味は、慶造にも伝わっていた。
「お礼や」
「そうでっか」
橋はお菓子を口にする。その途端、更に表情が綻んだ。
聞いた通りやなぁ。
思わず笑みがこぼれる慶造は、お茶に手を伸ばす。 一口飲むと、疲れが吹き飛んだ気分になった。
「おいしいやろぉ」
自慢げに橋が言うと、慶造は笑みだけで応える。
「……噂は耳にしとるで。…いつまでも、目には目をじゃ
本当に、痛い目見るぞ」
橋の言葉は突然だった。
「解ってるさ。……だが、一般市民に手を出す奴らには
必要な事だろ?」
「まぁな。…直接狙う度胸が無い奴らが、やりそうな事やな」
「ここは大丈夫だったようだな」
「須藤たちの息が掛かっとるが、俺が院長やし」
「やくざも恐れる、なんとやら…」
そう言って慶造はお茶を飲み干した。 橋が慶造の湯飲みに、新たなお茶を注ぐ。
「前髪のあんちゃんも、飲めよ」
「いいえ、私は…」
「ここは安全」
お茶を遠慮する八造に言うが、八造は、ちらりと橋を見る。
「そっちも安全や」
慶造が応えた。
「安全って、わしは、危険人物かいっ」
「その通りやろが」
「それは、奴の敵やった頃っ! 今は、ちゃうやろがっ」
「それでもなぁ」
慶造は笑いながら言った。
「阿山ぁ、お前はぁぁぁ」
わなわなと湯飲みを持つ手が震えだす。
「医者が怪我人作るなっ」
慶造が思わず口にした。
「かまへんわいっ」
と言いながらも、橋は怒る気配を見せなかった。
「お礼だけちゃうやろ」
「まぁな」
お茶をすする慶造。
「例の事業、再開か?」
「……あぁ」
「わしは、断るで」
「そうやと思った」
沈黙が訪れた。 橋はお茶をすすり、そして、口を開く。
「あいつも参加するんか?」
「それは解らん」
「…そうか……」
橋もお茶をすする。
「逢うわけないやろが」
慶造が言うと、
「死人に会うのは慣れてるが、あいつだけは御免やな」
「あいつも……望んでないやろな」
「そうやな」
沈黙が続く。
「だから、八造」
「わしは安全やっ」
慶造と橋が同時に言うと、
「あっ、いや、その………」
八造は焦ってしまった。
「くっくっくっく…」
「ふっふっふっふ…」
笑いを堪える二人だが、
「がっはっはっは!!!」
堪えきれずに大笑い。
「笑わないでくださいっ!!」
照れたように真っ赤になりながら、八造は思わず怒鳴ってしまった。
慶造達が去っていく。 わざわざ駐車場まで見送りに来た橋に驚きながらも、丁寧に挨拶する須藤。そんな須藤に威嚇する橋だが、その眼差しはとても温かかった。 慶造が乗った車が見えなくなるまで見送った橋のポケベルが鳴った。
仕事や…。
眼差しが外科医へと変貌する。そして、準備の為に建物へと駆けていった。
車の中。 八造が次の予定を細かく伝えていた。
「…以上が、この後の予定です」
「解った」
「四代目、夕食はどうされますか?」
須藤が尋ねると、
「あん? 松本んとこで食するで」
もう決まってる事を改めて尋ねるな…と言わんばかりに、慶造が応える。
「そうですか」
「何か予定があるのか?」
「水木が店に誘ってまして…」
「水木の店なら、行く気はないぞ」
「そうですか…」
「二年やちょっとで、足を運べるような気持ちにはならんしな」
「すみません」
須藤が気まずそうに言った。
「それよりもよぉ、須藤」
「はい?」
「なぁんで、あの医者が俺の行動を把握してるんや?」
「あっ、いや、それは……」
運転席のよしのをちらりと見るが、よしのは目を反らしていた。
よしのぉぉ、お前はっ!!
須藤の目が語るものの…。 慶造は、須藤を睨んでいた。
猪熊、ヘルプっ!
というオーラを醸し出す須藤。
「四代目、連絡入れてもよろしいですか?」
絶妙なタイミングで話を切り替える八造。
ナイスや、猪熊っ。
「かまへんが、真北の邪魔だけはするなよ」
「心得てます」
そして車は、次の目的地へと到着した。
八造が連絡を入れた頃、春樹は理事長室から出て、校内を見学していた。 足が向くのは、中等部ではなく……。 既に初等部は下校時間。生徒達が明るい声で挨拶をして下校する。それを優しく見つめる眼差しがあった。生徒達に笑顔で挨拶をしたり、話し込んだり……。
「夏休みが近いからと、気を抜いたら駄目だぞぉ。
気をつけて帰るように!」
「はいっ! 山本先生、さようなら」
「さようなら」
生徒達を見送る眼差しは、それはそれは、本当に優しいが……。 急に鋭くなる。その眼差しは、春樹を睨み付けていた。
「あのね…中等部は、まだ授業中ですよ。早すぎです」
「見学ぐらい、いいだろが」
「それなら、中等部だけをお願いします」
「懐かしむのも、あかんのか?」
「あかんです」
芯の言葉が変になる。 春樹は思わず笑い出してしまった。
「あがぁぁ、もぉぉっ、腹が立つっ」
「勝手にせぇ」
「そろそろチャイムが鳴りますよ。駐車場で待ってないと、
お嬢様は駆けていきますよ」
「今日は日直。少し遅れることくらい、解ってる」
そう言って後ろ手を挙げて去っていく春樹。
「本当に、もう…」
心配症なんですから。
芯は春樹の後ろ姿に語りかけ、そして、仕事に戻る。
春樹は中等部の校舎へ来たと同時にチャイムが鳴った。生徒達は終礼の準備に入っている。春樹は、真子の教室へと向かって階段を昇り始めたら…。
「こんにちは」
女生徒に声を掛けられた。
「こんにちは」
優しく挨拶を返す春樹は、首を傾げた。 声を掛けてきた女生徒は、真子と同じクラスの生徒さん。
「あれ? 今、六時間目が…」
「今日は早めに終わりましたよ」
「そうでしたか。ありがとうございます」
「阿山さんは、職員室で先生と話してますから、もう少し
掛かると思います」
「ありがとう。教室で待ってるよ」
「はい。では、失礼します」
「気をつけて」
慣れた感じで話し、そして、挨拶を交わす。 顔馴染みなのは、当たり前だが……。
春樹は、真子の教室へとやって来た。 躊躇うことなく教室へ入る。生徒達は既に帰ったのか、誰も居ない。 教室の掲示板を眺める。 色々な事が書かれていた。 それを読んでいる時だった。
「真北さんっ!」
真子が教室へ戻ってきた途端、そこに居る人物に驚き声を挙げた。
「お疲れ、真子ちゃん」
春樹の表情が、思いっきり弛んだのは、当たり前。
「どうしたの? 約束の時間は…」
「用事が早めに終わったんですよ」
思わず嘘を付く。 それには訳があった。
「もう少し、時間が掛かるよ?」
「お手伝いしましょうか?」
「駄目! 真北さんは日直じゃないでしょ!」
「早く帰りたいからねぇ」
ニコニコと笑みを浮かべながら話す春樹。
「直ぐ終わるから、ここで待ってて」
真子は、ちょっぴり強い口調で春樹に自分の席へ座るようにと促した。
「すみません」
思わず謝る春樹だが、真子に言われるまま、真子の席に座った。 真子は、教室の窓を開けた後、黒板を綺麗に拭き上げ、黒板消しを叩く。そして、教室の机が乱れていると、綺麗に整え、椅子をしまい込む。カーテンを束ね、窓を閉める。そして、黒板の隅に書かれている日付と日直の所を書き換えて、春樹に振り返った。
「お待たせしました」
ニッコリ微笑む真子に、春樹の表情は、またしても弛んでしまう。
「お疲れさん」
席に戻ってきた真子を、座ったまま思わず抱き留める春樹。 その光景は、さながら………。
春樹が真子の学生鞄を持ち、真子は今日一日の事を春樹に語りながら、駐車場までやって来た。 真子は、春樹の車に目をやった。 その仕草で解る。 誰かを捜していると…。
「くまはちに言った通り、私一人ですよ」
「くまはち、ちゃぁんと伝えていたんだ」
と言う真子だが、ちょっぴり寂しそうだった。
「真子ちゃんの言うことは守りますからねぇ」
真子の頭を撫でる春樹。
「もぉ、真北さん」
「はい?」
「私は中学生だよぉ。撫でないでよぉ」
「いいのいいの」
そう言って、真子の頭を撫でることを止めない春樹だった。
車の中。 真子は助手席に座っていた。 気になることがある。 だが、春樹は全く、『気になる』事を口にしない。
「まさちん…反省してた?」
真子が、そっと口を開く。 春樹は、真子の口から政樹のことが出るまで、何も言わないでおこうと決めていたため、
「反省しっぱなしですよ」
即答する。
「でも、まだ許さないもん。あの傷で、どうして、一日出掛けるんだろ…。
凄く心配するでしょぉ、ねぇ、真北さん」
わちゃぁ、これじゃぁ、伝えたら、余計に心配するやんかぁ…。
春樹、苦笑い……。
「どうしたの?」
「ん? 真子ちゃんが黒板の掃除をしていた姿を思い出しただけ」
「もぉっ。ずっと見つめていたでしょう? 気になって、いつもよりも
時間が掛かったんだよぉ」
「ごめんごめん。でも………」
大人になっていくんだなぁ…。
という言葉を飲み込んだ。
「でも?」
「かわいいなって」
「お父様に怒られるよ!」
「いいのいいの。慶造は居ないし」
「それでも、伝える人物居るでしょう?」
栄三のことである。
「出掛けてるから。帰ってくるのは五日後だなぁ」
処理が残ってるからなぁ。
栄三に無理を言った春樹だった。
「それなら、こうしても、大丈夫?」
そう言って、真子は、春樹の肩にもたれ掛かった。
「ま、ま、真子ちゃん?!??」
突然の真子の行動に、春樹は焦る。 思わずアクセルを踏み込むところだった。 真子の行動に驚きながらも、春樹は真子の額に手を当てた。
「微熱ですね。大丈夫ですか?」
「うん……なんとなく、だるくて…」
「明日…休みますか?」
「…休まない」
「無理しないように」
「大丈夫」
春樹は真子の肩に手を回し、その手で頭を優しく撫で始める。
「まさちんには内緒だよ」
「それは、まさちんが怒りますよ」
「でも…心配するから…」
「心配出来る状態じゃないんですよ」
「もしかして、傷が悪化したの?!」
驚いたように声を挙げ、体を起こした真子に、
「実は…」
言いにくいが、春樹は話を切り出した。
(2006.2.18 第十部 第八話 改訂版2014.12.22 UP)
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