第二部 『三つの世界編』 第三話 甘い時間 芯が歩き始めた。視界が高くなった分、色んな物に興味を持ち始めた様子。目に付く物全てを手に取り、遊び始める。 「わぁ、芯! これは駄目っ!」 春樹の言葉で、芯は手にした物を放す。 「はい、おりこうさん」 そう言って、芯の頭を優しく撫でる春樹。 「もう少し待っててな。これが終わったら、遊ぼうな」 春樹の優しい言葉は、芯の心に響くのか、かわいく微笑んで頷いていた。そして、春樹の仕草を一つ一つじっくりと見つめていた。春樹は試験勉強中。 「終わり。芯、お待たせ。何して遊ぼうか?」 「うだぁ!」 春樹の教科書を指さした。 「う〜ん、芯には、まだ早すぎるんだけどなぁ〜。絵本読もうか?」 芯は頷く。 「どれがいい?」 芯は立ち上がり、真北の手を引っ張って歩いていく。芯専用の本棚には、たくさんの絵本が並んでいた。どうやら、春樹が参考書を買うときに選んできた様子。その中の一つを手に取り、春樹に手渡した。 「ほんとに、この絵本、好きだな。俺も好きだよ。読んでいて心が和むから」 春樹は絵本の表紙をめくり、読み始めた。芯は、春樹の言葉をしっかりと聞き、そして、読んでいる表情を見つめていた。 医学学校。 実技試験が行われている様子。メスさばき、縫合さばき。それらが、目にも留まらぬ早さで行われていた。 「できましたっ!」 二人の生徒が同時に声を挙げる。 「出来たって、お前らなぁ、まだ時間があるだろうが。……完璧…」 指導をしている教師が、二人の生徒に近づき、チェックをする。他の生徒は、まだ、メスで切り開いた所だった。 「合格。終わっていいぞ」 「はい。失礼します」 二人の生徒は同時に教室を出て行った。廊下に出た途端、睨み合う二人。 「あの裂き方は、傷跡が残る」 「いいや、あの裂き方が、時間短縮出来るし、傷跡は絶対に残らない」 「残る。あの場合は、斜めにするのが一番だ」 「そう言うお前の縫合の仕方は、まだまだだ。道、もっと技術を身につけろっ!」 「…橋ぃ〜、てめぇなぁ〜」 「そぉれは、俺の台詞だろぉ」 医者を目指す二人の生徒・橋病院の息子の橋雅春と道病院の息子である道敬光(みちたかみつ)だった。医者の息子という肩書きが、それぞれの何かを高ぶらせ、いつの間にかライバルとなっていた。 こいつだけには、負けない。 その意気込みは、学校中に知れ渡っていること。相手の出方を見て、常に言い争いをする。自分の考えが一番だと思っている二人が、ぶつかりあう。どっちが上という事はなく、常に同じ立場になってしまう。実技に掛かる時間や、成績。それらは、常に一番だが…。 それぞれのやり方を言い争いながら、二人の足が向くのは、図書館だった。二人は、扉を開け、同時に足を踏み入れる。そして、向かう棚は、同じ場所。 外科関係……。 『それでよぉ。道の奴、俺の手さばきは見てられないって言うんだよ』 「そう言われて黙ってるお前じゃないだろ。………それは、駄目」 『まぁな。俺だって負けてられないから、奴が納得いくように 見せつけてやったよ。そうしたら、何も言わなくなった』 「そう言いながら、お前も、その道って子に何か言ったんだろ? ………わぁ、それも駄目だって!!」 『…確かにな、言ってやった。縫合の仕方が未だに甘いってね』 「…………。静かにすること。解った?」 『……真北、お前、何してる?』 「すまん。弟がさぁ、歩き回る歳になったからさぁ。…あちこちで悪戯を…って」 『長電話、駄目だったか?』 「いいや、もう、大丈夫。捕まえたから」 『おばさんは?』 「同窓会で遅くなるって。親父は、また張り込みしてる」 『弟が居るなら、安心だな。寂しくないだろ?』 「まぁな。橋、お前もだろ? 勉強だけでなく、競い合うことが喜びだろう?」 『よくお解りでぇ。あっ、すまん、親父に呼ばれた。またなぁ』 「おう、あまり無理するなよ」 『お前もだ!』 春樹は受話器を置き、膝の上に居る芯に目をやった。芯は、何かを期待した目で春樹を見つめている。 「ん? どうした?」 「ねりゅ!」 「はいはい。寝ましょうかぁ」 そう言って、立ち上がり、二階の部屋へ上がっていく春樹と芯。芯の服をパジャマに着せ替え、そして、ベッドに寝かしつけた。 「僕は、下で後かたづけをしてるからね。一人で大丈夫か?」 「うん」 「えらいえらい」 春樹は、芯の頭を撫でる。芯は嬉しそうに微笑んで目を瞑り、直ぐに寝息を立てていた。 「ほんと、寝付くの、早いんだからなぁ」 芯の頬に、軽く口づけをして、春樹は部屋を出て行った。そして、一階に下り、色々と後かたづけをしている時だった。 母・春奈が帰ってきた。 「ただいまぁ〜」 「お帰りなさい。早かったですね」 春樹は、玄関へ迎え出る。春奈は、少し頬を赤らめて、ほろ酔い気分だった。 「芯は?」 「先ほど眠りました。私もそろそろ寝ようと思っていたんですけど…。 何か食べますか?」 「いらないよぉ。お風呂にする」 「湯船で寝入らないでくださいね」 「あの人からの連絡は?」 「まだですね」 「追いつめてるところかな…。じゃぁ、後は任せなさい」 「では、私は寝ます。お休みなさい」 「お休みぃ。良い夢を」 春樹は、照れたように微笑んで、二階へと上がっていった。 「さてと」 春奈はお風呂の用意を始める。 湯に浸かった頃、春樹は芯の隣で熟睡していた。 天地組本部。 雪が積もり、辺りを真っ白にしていた。そんな中を歩くのは、まさだった。向かう先は天地山。山の麓にある小屋に立ち寄り、服を着替える。スキーウェアに着替えた、まさは、スキーを装着して、山へ向かって行く。 この天地山は、天地組の土地。ほとんど毎日のように頂上へ登るまさの為に、リフトが出来ていた。そのリフトを自分で動かし、腰を掛ける。そして、頂上へと登っていった。リフトを降りたまさは、そのまま滑り出す。 まるで、プロのような滑りっぷり。一体、いつ身につけたのか、それは、まさ自身も知らない様子。 下まで一気に滑り降りたまさは、一息付いてゴーグルを外し、頂上を見上げた。 「まだ、大丈夫だな…」 そう言って、再びリフトに向かって行く。 スキーの板とストックが雪に突き刺さる。まさは、とある場所に向かって歩き出す。 木々の間を通り過ぎると、広大な景色が広がる。 まさの表情が変わる瞬間。 見渡す景色は、どこも真っ白に埋まっている。いつも見ていた緑は、どこへやら。身も心も真っ新にさせられるような感覚を覚える。 まさは、背伸びをする。そして、腰を下ろし、足を投げ出す。そのまま、大の字に寝ころび、空を見つめた。 雲が流れる。 いつの間にか、眠りについているまさ。 時々作る一人の時間。 誰とも関わりたくない。 まさが、このような行動を取る時は、決まっている。 仕事の依頼があった時、そして、仕事を終えた時だった。 医学の勉強を始めてから、何かを身につけたまさ。 自分を息子同然に大切に育ててくれる天地親分。その親分に隠していることがある。これだけは、誰にも知られたくない事。いいや、知られてはいけない事……。 まさは、一人になった時に、作戦を考える。 どうやって動くか……………。 とある組事務所前に、高級車が五台停まる。組員が一斉に動きだし、組事務所の入り口から、三台目の車のドアまで並び、道を造る。組事務所から、体格の良いボディーガードに守られながら、親分らしき人物が出てきた。親分が高級車の後部座席に乗り込む。それと同時にボディーガード達も乗り込んだ。 「いってらっしゃいませ」 ドスの利いた声と共に車が走り出す。 車が去り、組員達がばらけた時だった。 風が起こり、通り過ぎた。 「!!!!」 声を挙げる前に、地面に倒れる組員達。体には切り傷が…。一瞬の出来事に、事務所に入った組員達は、気が付いていない。倒れた組員の一人が、声を張り上げた。 「原田だっ!」 その声と同時に、組員達が動き出す。しかし、風は、通り過ぎた後。 「追いかけろっ!」 組員達は、事務所に待機している車に乗り込み、親分が向かった先へと走り出す。 五台の高級車が走る道。先頭を走る車の運転手は、道の先に何かを見つけた。 仁王立ちして、こっちを見つめている一人の男の姿…。 クラクションを鳴らす運転手。しかし、その男は動く気配を見せない。助手席に乗る幹部が、その様子を見て、口にする。 「そのまま、突っ込め」 「しかし…」 「いいから、突っ込めっ!!!」 ただごとではないと悟ったのか、運転手はアクセルを踏み込む。 先頭の車がスピードを上げたことに、三台目に乗っている親分は、顔を上げる。 「何があった?」 「解りません」 「まぁいい」 親分が、そう言った時だった。先頭の車を飛び越える人影が見えた。その人影は、二台目の車の屋根に飛び降りた。 「あいつはっ!!」 車の屋根に乗る人影は、三台目の車の運転手を見つめていた。 不気味につり上がる口元。それを見て、運転手が叫んだ。 「原田です!!」 「なにっ?! 天地の野郎、最初っから、そのつもりだったのかっ! くそっ、 戻れ! 引き返せっ!」 「はっ」 親分の言葉と同時に運転手は、急ハンドルを切る。 車が進行方向を変えて走り出す。 バックミラーで、二台目の車の屋根を見る。屋根に乗っているはずの人影は、すでに無くなっていた。振り返る親分。その目が見開かれた。 車と同じスピードで、原田が走っていた。親分と目が合った途端、そのスピードを速め、車に追いついた。運転手の隣を走る原田。運転手は更にアクセルを踏む。しかし、原田の足は、車と同じ速さだった。 「轢けっ!」 その言葉で、運転手はハンドルを切る。車体は原田に近づいていく。 「なにっ?!」 原田は、車体に手を掛け、走る勢いで飛び上がる。その体は、ボンネットへ移った。にやりと微笑む原田は、両手を下におろし、袖から細いナイフを取り出した。そのナイフの柄で、フロントガラスを突き破る。 「うわっ!」 ガラスが割れる瞬間、目を瞑る運転手。体に重力を感じた運転手は、目を開ける。目の前に原田の姿が! 原田は、ハンドルに手を掛けて、左へ切っていた。車はガードレールにぶつかり、そのまま走り出す。慌ててブレーキを踏んだ運転手は、再び目を開けた時、自分が見ている光景を疑う。 「……悪いな…」 原田の呟く声が、聞こえる。振り返る運転手。そこには、先ほどまで会話をしていた親分が、血を流して気を失っていた。 ふと外を見る。 原田が、こっちを見て立っていた。 その目には生気がない…。 辺りを見渡した。 「うそ……だろ…」 ふらふらと運転席から降りてくる運転手。前後を走っていた車は、大破し、乗っていた組員や幹部は、既に息を引き取っていた。 「て……てめぇ〜」 懐に手を入れ、銃を取りだし、素早く引き金を引く。 キン…。 銃弾は簡単に弾かれた。 「噂通りだな…天地組の殺し屋…原田まさ…。依頼は、天地…か?」 「いいえ。あなたも御存知の方ですよ」 「なるほど…な。……で、俺の命も奪うのか。…だがな、簡単には……!!!」 運転手の視野の端で何かが動く。思わず警戒して態勢を変えた。 振り向くと、更に驚く事が待ちかまえていた……。 「原田っ」 何かを思い出したのか、そう言って、原田が立っていた方に振り返る運転手。 すでに原田の姿は無かった……。 まさは、天地組組事務所に戻ってきた。 「お帰りなさいませ」 若い衆に出迎えられるまさ。 「天川、親分は部屋に?」 「はい。兄貴をお待ちですよ」 「解った。すぐに報告する。ありがと」 天川は、頭を下げる。 まさに、天川と呼ばれた若い衆・天川登(てんかわのぼる)。まさより歳は上だが、まさを兄貴と慕っていた。組に入ったのは、まさよりも先なのだが、まさの腕を見て、その腕に惚れ込み、いつの間にか『兄貴』と呼んでいた。 まさは天地の部屋の前に来る。そこには、湯川満(ゆかわみつる)という若い衆が立っていた。 「お疲れ様です」 「ただいま。親分は?」 「部屋でお待ちしております」 「ありがと」 まさは、ドアをノックする。部屋の中から天地の声が聞こえてくる。それと同時に、部屋へ入っていった。 「ただいま帰りました」 「派手にやったようだな。連絡が入ったぞ」 「いつもよりは、地味に行ったつもりですが…」 「それにしても、あの方法で仕留めたのは、何個目だ?」 「数えておりません」 「そうか。報酬をもらった。今から出掛けるが、大丈夫か?」 「大丈夫です」 「じゃぁ、天川と湯川も呼べ。一緒に行くぞ」 「ありがとうございます」 そう言って、天地とまさは、部屋を出る。まさが、廊下で待機している湯川に何かを告げる。湯川の表情が、弛む。その足で、玄関先で待機している天川を誘い、側近の組員と一緒に高級車に乗り込み、どこかへと出掛けていった。 到着した場所。そこは、ネオンが色気を醸し出す大人の世界が広がる所だった。そこにある一軒の店に入っていく天地たち。そこで、一夜を明かすのだった。 湯川が部屋を出て、隣の部屋に顔を出す。そこは、まさが居る場所。 「兄貴ぃ、そろそろ…」 「しぃ〜。まさちゃん、お疲れなのね。また、仕事の後だったのかな?」 素敵な女性が、ベッドに座り、その女性の腰辺りにしがみつくように腕を回し眠っているまさ。女性は、まさの頭を優しく撫でていた。 「そうです。その…」 「ちゃんと薬も飲んでいたから、大丈夫よ。満ちゃんも、もう少し居たら?」 「親分が、待っておりますので…」 「それなら、親分に伝えてて。まさちゃんなら、ちゃんとお送りするからって」 「それは、姉さんに悪いですよ。いつも…」 「気にしない気にしない」 「解りました。では、親分にお伝え致します。兄貴のこと、お願い致します」 湯川は、頭を深々と下げて部屋を出て、ドアを静かに閉めた。 女性は、まさの頭を優しく撫でながら、声を掛ける。 「まさちゃん、本当に、いいの?」 「…えぇ。今回は、特に激しかったので…」 「お疲れ様」 女性は、顔を上げたまさに、そっと唇を寄せた。 「…もっといいですか?」 「まさちゃんの気の済むまで、どうぞ」 女性が言い終わる前に、まさは、体を起こし、女性を素早くベッドに押さえつけ、そして………。 高級車の中。天地は、少し寂しそうな表情で呟いた。 「他の女も居るのになぁ。一人に絞るんだな…」 真北家。 春樹が玄関で靴を履いている時だった。その春樹の背中にしがみつく芯。 「芯、準備できたのか?」 「あい。パパいっしょ」 「はぁ? お父さんは、もう、出掛けて…………って、どうして居るんですか?」 振り返ると、そこには、父・良樹が立っていた。 「久しぶりの休みだよぉ」 「今は、そんな時期じゃないでしょう?」 「だから、特別休暇だって」 「お母さんは、何もおっしゃらなかったですよ?」 「あいつも忘れてたみたいだな。…寂しいから、芯を保育園に…と 思ったんだけど、…春樹が連れて行くのか?」 「そうじゃないと、芯が愚図るそうです」 「芯〜、パパじゃ嫌か?」 「きょぉ、パパがいい」 「よっしゃぁ〜、じゃぁ、行こうか。春樹兄ちゃんを見送ろうなぁ」 良樹は、芯を抱きかかえる。 「あい!」 「あの…私は、一人で大丈夫ですから…」 「寂しいな……」 「あっ、その、親父…すみません……。見送ってください」 あまりにも寂しい表情に変わったものだから、春樹は、思わず、そう言ってしまった。 「いってらっしゃぁい!」 「いってあっしゃ!」 春樹を見送る良樹と芯。芯は、父・良樹の仕草を真似て手を振っていた。春樹は照れたように、手を振り、歩いていった。 「にぃちゃ、いっちゃた」 「芯も、保育園行こうなぁ」 「あい!」 芯の手を引いて、歩き出す良樹。芯は、しっかりと良樹に付いていく。 「今日は、保育園で何をするのかな?」 「あにょね、おえかき」 「お絵かき?」 「にぃちゃとパパとママ、かくの」 「そっか。パパも描くのか。一緒に居ようか?」 「パパ、しごとやすみ?」 「休みだよ」 「じゃぁ、しんと、ずっといっしょ?」 「一緒に居てもいいのかな…」 保育園の門をくぐる良樹と芯。一緒に門をくぐった親子に挨拶をして、建物へ向かって歩き出す。 「お兄さんの春樹くん、体の具合でも悪くしたんですか?」 芯と一緒に来たのが、良樹だったことに驚いた保育園の先生が尋ねる。 「いいえ。あいつは、くたばるような体じゃありませんから。 久しぶりに休みを頂いたので、こうして、息子をね」 「そうでしたか。良かったね、芯ちゃん」 「うん!」 「うん、じゃなくて、ハイでしょう?」 良樹が言う。 「あい!」 芯は、すぐに言い直す。 「流石、親子ですね。春樹君と同じ事、おっしゃるんですね」 「春樹、何を言ってるんでしょうか……」 「それは、それは、私たちより厳しく…」 困ったような表情をする先生を見た良樹は、硬直。 あんの馬鹿…。 「春樹君は、教師よりも、保育園の先生が向いているかもしれませんね!」 「春樹に伝えておきましょう」 「やんわりとお願いします。春樹君、怖いですからぁ」 「そのことも、きちんと言っておきます」 良樹は、深々と頭を下げる。 保育園の時間が始まった…が、良樹の姿が、教室にあった。椅子に座り、じっとしている。そんな良樹の周りには、保育園に通う園児達が集まり、絵を描いていた。 絵のモデル・真北良樹。 すっかり、モデル気分になっている良樹は、いつの間にか、園児達の人気者になっていた。絵の時間が終わった後、園児達相手に、色々な遊びを教えていた。楽しい時間を過ごしている頃、真北家では、良樹の帰りを待ちわびている人が一人……。 「送りに行っただけなのに…。私が、寂しいじゃない…」 春奈は、ふくれっ面になっていた。 その夜、眠っていた春樹は、ふと目を覚ました。隣に眠る芯の様子を見た後、何かを耳にする。 「……また、ですか…。甘い時間…聞いてはいけない…聞いてはいけない…」 自分に言い聞かせて、耳を塞ぐように布団を引っ被り、眠りに就く春樹だった。 「はぁあ?!??」 夕飯を終え、片づけを手伝っている時だった。春樹は、驚く事を耳にして、突拍子もない声を張り上げた。 「もう一度、言ってください。聞き間違えたようです」 「だから…その……二ヶ月なの…」 母は、照れたように春樹に応える。 「二ヶ月って、お母さん、あの……その……」 なぜか焦っている春樹だった。 あの夜の甘い時間。それが、再び…。 春樹は、またしても弟か妹が出来るということに、嬉しいながらも、芯の事を心配していた。生まれてくる子供をかわいがると、上の子が赤ちゃん返りを起こす。そう聞いた事があったからだった。 芯は、やっと自分で何でもできるようになってきた。 身の回りの事は、自分ですると言って利かない芯の頑固さ。 それが、さらに厄介なことになりそうだな…。 口を尖らせながら、そんな事を考えている春樹は、授業開始のチャイムで、我に返る。 教師が教壇に立った。 授業が進む。 廊下を走る足音が近づいてきた。 「授業中、すみません。真北春樹くん!!」 そう言って飛び込んできた教師は、慌てている。 「なんでしょうか?」 春樹は、立ち上がり、返事をする。 「すぐに帰宅しなさい。玄関に鈴本刑事さんが迎えに来てます」 「鈴本さんが?」 教師の言葉で、何が起こったのか、把握する春樹は、すぐに荷物をまとめ、教室を出て行った。 玄関まで来ると、そこには、鈴本刑事と警官が立っていた。春樹の姿を見た途端、鈴本は、急ぐように手招きする。 「鈴本さん、父に何か?」 「病院に急ぐ」 「まさか…」 「事故で、危篤状態です…」 「…事故?」 春樹は、鈴本の車に乗り込んだ。車は、サイレンを鳴らしながら、走り出す。 高鳴る鼓動を抑えることは、できない。 良樹は言っていた。 もしもの時は、鈴本が迎えに行くことになっているから。 間に合って欲しい……。 春樹は、拳を握りしめ、唇を噛みしめた。 「…あっ、芯…は?」 「保育園で預かってくれるそうです」 「そうですか…」 車は、橋病院へ入っていった。 春樹は、廊下を走っていた。廊下を曲がると、とある病室の前に、刑事たちが集まっていた。 「春樹くん…」 「…父は?」 春樹の問いかけに誰も応えない。少し苛立ちを見せた春樹は、勢い良くドアを開け、病室へ入っていった。 ベッドに横たわる良樹は、両手を胸の上に組んでいた。春奈が、横に座り、俯いている。 「母さん…」 「春……樹…。今…たった、今…」 「そうですか…」 静かに言って、父の亡骸に近づく春樹。優しい眼差しを向け、良樹の頭を撫で、頬を優しく撫でる。 「親父……お疲れ様でした。ゆっくり、お休みください」 春樹の言葉で、春奈は、声を挙げて泣き始めた。 春樹は、姿勢を正し、父に向かって、敬礼する。 何かを堪えるかのように、唇を噛みしめていた。 寂しさが漂う場所に、大勢の人の気配があった。 その部屋には、黒い服を着た人々が、ガラスの向こうに広がる景色を眺める姿があり、その人数の多さとは違い、誰もが静かに語り合っていた。 その部屋から、学生服を着た男の子と幼い男の子が外へと出て行った。 静かな庭をゆっくりと歩く二人は、池のある場所へとやって来る。そして、池の中を優雅に泳ぐ鯉を見つめて居た。 学生服を着た男の子が幼い男の子を抱きかかえる。 「ねぇ、パパは、どこいったの?」 学生服を着た男の子・春樹に、幼い男の子・芯が無邪気に尋ねてきた。 「空の彼方に、旅行だよ」 春樹は、優しく応えた。 「いつ、かえってくるの?」 「それは、兄さんにも解らないな…」 春樹は、そう応えて、建物の方を見つめた。 ガラス窓の向こうでは、母の春奈が、火葬場まで付いて来た人々に深々と頭を下げていた。春奈の目にうっすらと浮かぶ涙に気付いた春樹は、腕に抱える芯をギュッと抱きしめた。 「おにいちゃん?」 「俺が、お父さんの代わりになるよ」 「おにいちゃんがパパ?」 「ん? お兄ちゃんだけど、パパと同じようになるってことだよ」 「じゃぁ、おまわりさんになるん?」 「そうさ。お父さんに負けないくらいのな!」 力強く言った春樹は、芯を高々と掲げ、抱き寄せると同時に、頬に軽く口づけする。 父に負けないくらいの刑事になる。 芯に、そう言ったものの、春樹の心は葛藤していた。 父の言葉を覚えていたから…。 同じ道を歩んで欲しくないという言葉。 将来の事を話し合っていた時に、父から強く言われていた。だから、その気は無いのに、芯の質問に、そう応えてしまったのは、弟の事を考えたからなのだろう。 気を取り直した春樹は、芯に優しい眼差しを向ける。 「行こうか。お母さんが待ってるよ」 「うん」 春樹は、芯を地面に下ろして、手を引いて春奈の所へと歩いて行った。と同時に、館内放送が流れる。 部屋に居た人たちが、ぞろぞろと部屋を出て行った。 「春樹」 「はい。…お母さん、芯も一緒に?」 「兄さんに、預けてて…」 「はい」 寂しそうに言った春奈の言葉に従い、春樹は、後ろに居た伯父さんに芯を差し出した。 「芯、いい子にしてるんだよ。伯父さん、お願いします」 「ほぉら、芯、こっち来い」 「はぁい」 笑顔で伯父さんとその場を去って行く芯を優しい眼差しで見送る春樹は、春奈の後に付いて行く。 読経の中、すすり泣く声が、聞こえて来る。そして、灰になった父の姿を見つめ、骨を拾っていった…。 帰りの車の中、助手席に座る春奈の膝の上には、骨つぼがあった。 何かを語っているのか、そっと撫でている春奈を、後部座席から、春樹が見つめていた。 お母さん…。 春樹は、膝の上で眠っている芯に目をやった。 無邪気な表情。 その表情で、春樹は悟る。 芯には、まだ、この状況は理解できない。でも、父親の記憶はあるはず。 いつか、話さなければいけないんだろうな。 父は、殺されたと………。 火葬場の待合室で、他の刑事達が話していた事を耳にした春樹。 狙われた。 その言葉が、春樹の頭の中をぐるぐる駆けめぐっていた。 春樹は、グッと拳を握りしめ、深刻な表情で何かを考えていた。 (2004.1.13 第二部 第三話 UP/2017.3.11 一部改訂) Next story (第二部 第四話) |