第三部 『心の失調編』 第八話 焼き餅炸裂! 阿山組本部・慶造の部屋。 ふと目を覚ました慶造は、体を起こす。そして、異変に気が付いた…。 「…ま、まさか……」 本部の屋敷の奥にある医務室。 ここでは、隆栄の妻・美穂が女医として働いていた。体を鍛えている組員や若い衆の怪我の治療だけでなく、心の病の治療にも専念していた。 朝、出勤し、準備に取りかかっている時だった。医務室のドアが開き、慶造が入ってきた。 「あら、親分、どうされました? 体調でも…」 「…なんだか、ふわふわするんだけど…」 美穂は、慶造の額に手を当てる。それと同時に、慶造が大きなくしゃみをして鼻をすすった。 「恐らく…」 「恐らくじゃなくて、風邪。熱も高いわよ。早く、そこに寝転んで!」 「は、はぁ…」 美穂の勢いに負けて、慶造はベッドに寝転んだ。 「はい」 「!!!」 慶造の口に体温計が放り込まれる。慶造は、思わず口に銜えた。 「注射と点滴、両方しとくね」 慶造は、軽く頷く。その間にも、体温計の水銀は、上がっていく。 「…三十九度六分。倒れてもおかしくない体温なのに、よくここまで…」 「知らなかったからさ…」 「何と思ったの?」 「いや、例の…」 「そっか…でも、それは、体が作られると同時に治まったって、 道院長がおっしゃってましたよ。…で、風邪の原因…もしかして、 隆ちゃん?」 「……いいや、きっと、あれだな…」 「あれ?」 「昨日、庭で慶人と遊んでいて、池に落っこちた。その時だな…」 「こんな寒い時期に庭で遊んで…」 「慶人が遊ぶと言ってだな…」 「慶人くんは大丈夫なの?」 「慶人は落ちてない」 「その時に、ちゃんと温めたの?」 「服を着替えただけだったな…」 「ったく……山中さんとちさとちゃんに言っておくわよぉ」 「うるさいなぁ…。少し寝る」 「じゃぁ、こっちで勝手にしておくよ」 「あっ、山中に伝えてくれよ…。今日は二人の指示で動けって…」 「はいはい。お休み」 慶造は、スゥッと眠った。美穂は、慶造の腕に注射をし、そして、点滴針を刺し、点滴を始める。液の落ちる速さを調整した後、医務室を出て行った。そして、ちさとの部屋へ通じる廊下に面した所にある部屋をノックする。 「はい。…美穂さん。どうされました?」 「そのね、四代目、風邪で寝込んじゃってて、今日の行動は 二人の指示でって言ってたから」 「やはり、風邪を…」 「池に落ちたの見てたなら、ちゃんと言いなさい!」 「申しました。でも、大丈夫だと頑固におっしゃったので…」 「そこが、四代目の駄目なとこなんだよね…。ま、そういうことだから」 「はっ。ありがとうございました。その…四代目は?」 「寝てる。そして、今日一日、医務室から出さないからね」 「かしこまりました」 その時、ちさと専用の門から、声が聞こえ、剛一たち猪熊家の子供達がやって来た。 「おはようございます、山中さん」 「おはようございます。慶人くんなら、準備出来てましたけど…」 そう言うと同時に、ちさとの部屋のドアが開き、慶人が出てきた。 「お母さん、行ってきます!」 「行ってらっしゃい。気を付けてね。おはよう!」 剛一たちに気が付いたちさとが、笑顔で挨拶をする。 「おはようございます。では、行ってきます」 「行ってらっしゃい」 「あっ、山中さん。親父は、少し遅れるとのことです」 「解りました。お気を付けて」 「行ってきます!」 剛一たちは、慶人と一緒に登校する。少し離れて八造が歩いていった。ふてくされたような八造に、慶人が笑顔で話しかける。それでも、八造は、むすっとしていた。 「いつ見ても、八造くん…怒ってるわね…。仕方ないか。…美穂さん」 「ちさとちゃん、おっはよぉ。慶造くん、風邪で医務室に居るけどぉ」 「あらら…やっぱりそうでしたか…」 「………って、解ってたなら、どうして、みんな…」 「頑固でしょう?」 「は、はぁ…そうだった…」 呆れて肩の力を落とす美穂だった。 医務室。 ちさとが、ベッドに眠る慶造に、そっと近づき、額に手を当てる。 「凄い熱…」 「点滴が終わった頃には下がってると思うけど、一日ここから出さないわよ!」 「今日は、幹部会の後、厚木さんとの会食と言っていたような…」 「それじゃぁ、隆ちゃんが居ても難しいわね…。キャンセルさせたほうが…」 「賢明ですね」 慶造が、目を覚ます。側に居るちさとを見て微笑んでいた。 「はぁい、ハニーおはよう」 慶造にしては珍しい言葉に、ちさとと美穂は、硬直…。 「み、美穂さん…」 ちさとが、静かに呼ぶ。 「はい」 「お薬……間違ってないよね…」 「はい」 「熱のせい…」 「…え、えぇ。熱のせいってことで…」 「………意識は、はっきりしてるよ。ったく、たまにはいいだろが」 「小島さんの影響…かしら?」 慶造の言葉に、ちさとは、心配しっぱなしだった。 「だから、大丈夫だって。心配してるかと思ってだな…その…」 「解ってますよ、あなた。慶人は今日も元気に登校しましたから」 慶造が言いたい事が解ったのか、尋ねる前に、ちさとが語る。 「そっか」 安心したように、慶造が言った。 「今日一日、ここですからね」 「…病院よりは、ましだよ」 そう言って、慶造は再び眠りに就いた。 「美穂さん、お願いします」 「はい。任せてください。…それより、大丈夫かな…」 「…ちょっぴり心配ですけど…。あっ、笹崎さんに、例の物を ご用意していただきましょうか?」 「特製熱冷ましですね。慶造くんが、昔、よく飲まされたやつでしょう?」 「えぇ。あれって、本当に効き目あるんですからぁ」 「そうでしょうね。あれだけ、栄養がたっぷりあれば…ね。お願いしても?」 「はい。ちょうどお伺いする予定ですから。その時に、会議室の様子も ちらりと伺っておきますね」 「お願いします」 ちさとは、医務室を出て行った。 医務室に残った美穂は、カルテを書きながら、慶造の様子を逐一診ていた。 高級料亭・笹川の厨房。 ちさとが、ちらりと顔を出す。そこは、朝の仕込みを終え、一息付いている料理人たちが居た。ちさとの姿に気付き、一礼して近づいてくる。 「おはようございます」 「おはよう。…笹崎さん、お忙しいかしら?」 「おやっさんは今…その…説教中でして…」 「あら、何か遭ったんですか?」 「色々と…。そのお急ぎですか?」 「いいえ。それでしたら、伝言をお願いしてよろしいですか?」 「はい」 ちさとは、料理人の耳元で、こっそりと慶造の事を告げた。 本部・会議室。 幹部達が集まり、そして、慶造の到着を待っていた。そこへ、隆栄と修司がやって来る。二人の姿を見た途端、待機していた山中が、こっそりと告げた。 「…はぁ? 風邪? 大丈夫なのか?」 隆栄が言った。 「じゃぁ、今日の厚木との会食はキャンセルだな」 「でも、あからさまに体調を伝えると、それこそ、阿山が嫌がるだろ」 「そうだな…。で、山中、何か聞いてるのか?」 「お二人の指示に従うようにとお聞きしております」 「と言ってもなぁ。今日は、組関係の仕事じゃないだろ」 「はい。ですが…」 隆栄と修司、そして、山中が入り口近くで話し込んでいることに不満を感じたのか、幹部達が近寄ってきた。 「どうした、小島。四代目は?」 「今日は、出席出来ないそうです」 「…さっき、ちらりと耳にしたけど、四代目は、風邪を引いたのか?」 「どこから、そのお話を?」 「お前らが話してる声が耳に入っただけだ。…大丈夫なのか? 酷いのか?」 「さぁ、それは…。まだ、逢ってませんから」 「…って、お前ら、側近であり、ボディーガードだろが。何してるんだよ! で、医務室か? よっしゃ。おい、おぉい!」 幹部たちは、慶造の体調を知った途端、会議どころでは無くなり、それぞれの組員に声を掛ける。組員達は、親分からの言葉をもらった途端、素早く動き始める。 「果物だ!」 「花の方が心が安らぐだろ!!」 「すぐにもってこい!」 どたばたし始めた幹部達。 「あ、あの…ちょっとぉ〜」 声を掛けようにも、掛ける事ができず、気が付くと、会議室には、隆栄と修司、そして、山中の三人だけになっていた。 「って、川原ぁ、お前まで、何を一緒に!!」 修司に声を掛けられ、廊下の先に居た川原が振り返る。 「いや、そのお見舞いを…」 「…四代目は、そういうのを一番嫌っている事、知ってるだろが!」 「そうですが、やはり…」 「大丈夫だって。何もしなかったからって、怒るわけないだろ」 「幹部達の目もあるので…」 「ったく…。お前はお前らしく過ごせって」 「はい。では」 川原は待たせてあった組員と一緒に去っていった。 「どいつもこいつも…。ほな、俺らは、医務室なぁ」 いつものように軽い口調で隆栄が言う。 「何も話すなよ、悪化させるから」 真面目な口調で修司が言った。 「はいはぁい」 「………!!」 鈍い音が響く。 修司の肘鉄が、隆栄の腹部に突き刺さっていた。 「猪熊ぁ、お前なぁ」 「うるさい」 「いつもいつもいつもいつもいつも……いい加減にせぇよ!!」 「いいだろが」 「俺は良くないっ!」 「うるさい」 「何かあれば、うるさい。その口癖も止めろ!!!」 隆栄の膝蹴りが、修司の腹部にヒット……。 「!!!! てめぇ〜なぁ…」 「そっちが先だろが!」 「なんだとぉ〜」 「…って、お二人ともぉ、落ち着いてください!!」 …と山中が停めようとしたが、それは既に遅し……。 隆栄と修司は、殴り合い、蹴り合いを始めてしまった。その光景を見た組員や若い衆が、二人を停めに入ろうとするが…………。 医務室。 美穂が、組員の腕に包帯を巻いていた。 「はい終了。これでみんなかなぁ」 「俺がまだぁ〜」 隆栄が力無く言った。 「じゃぁ、切り傷の人は、夜にもう一回来てね。打ち身の人は、 お風呂前には湿布を外す事!」 「ありがとうございました」 包帯姿、湿布姿をした組員と若い衆が、医務室を出て行った。 「美穂ちゃぁん、俺の手当て、まだぁ〜?」 「修司くん、どう?」 修司は、自分で手当てをしたようで…。 「なんとか大丈夫」 「それなら、安心。……で、隆ちゃぁぁん? 誰が悪いん?」 「猪熊」 と応えた途端、隆栄は、顔面で枕をキャッチ……。 ドタッ…。 椅子に座っていた隆栄は、真後ろに倒れてしまった。 「お前らなぁ〜。いい加減にしてくれよ……」 弱々しい声で慶造が言う。 隆栄と修司だけでなく、組員と若い衆の怪我の事情を聞いた慶造。点滴が終わり、目を覚ましたと同時に訪れたことに呆れ果てていた。 「慶造くんは、寝ておきなさい」 「あっ、それより、阿山ぁ」 何事も無かったように、ひょっこりと起きあがる隆栄。 「ん?」 「幹部たちが、阿山の風邪を知ってだな、見舞いの品を用意し始めたぞ」 「ったく…なんで、こっそりと話さないんだよ。お前らは…」 「この際、もらっておけよ」 「いらん金は使わせたくないのにな…。あいつらのことだ。目一杯高級な品を 用意するだろ…。それも、溢れるくらいにな…」 「果物やら、花やら言ってたな」 「入院してる訳じゃないのにな。快気祝い送るのが厄介だろが。…それとも 気を引こうとしてるのか? …そんなことじゃなくて、俺は頭で判断…」 「って、あまりしゃべらない! 声も枯れて来てるよ。こりゃ、本格的ですね」 「…すまん…。修司、適当にしててくれ」 「あぁ」 「美穂ちゃん、手当てしたって。見苦しい…」 「あのな、阿山ぁ、見苦しいって……あがが…」 「はぁい」 慶造に食ってかかりそうな勢いを見せた隆栄の口を塞ぎながら、美穂が応える。 「山中、頼んだぞ」 「はっ。では、失礼致します」 勝司は医務室を出て行った。 慶造は、壁側に向いて布団を引っ被る。 「ありゃりゃ。本当にやばいんだな」 「だから、言ったでしょうがっ。ほら、隆ちゃん」 「はいよ」 何やら小さな声で言い合いながら隆栄の治療をする美穂だった。二人の様子をちらりと見て、修司は医務室を出て行った。そして、廊下の向こうから来る幹部達に応対する体勢に入る。医務室の前ではうるさくなると思ったのか、修司は、それ以上進むなと合図をして、幹部達へと近づいていく。そして、一言二言、言葉を交わし、幹部達が持ってきた見舞いの品を受け取る。見舞いの品は、廊下を埋め尽くし始めた。 ちさと専用の門に通じる道を、学校を終えた慶人、そして剛一達が歩いていた。門の前に到着し、慶人達は歩みを停めた。 「寄ってく?」 慶人が言った。 「今日は稽古だから…」 「じゃぁ、僕も行く」 そう言って、慶人は猪熊家の方向へと歩き始めた。 「…って慶人くん、寄り道は…」 剛一が心配そうに尋ねる。 「剛一兄ちゃんに勉強を教えてもらっていたと言えば大丈夫だもん」 慶人に、どことなく、誰かに似た雰囲気を感じる剛一。 まさか、小島のおじさん……。 「行こう!」 「あ、あぁ…」 慶人に言われるまま、剛一達は歩いていく…。 猪熊家に到着した慶人たち。玄関の鍵を開け、中へ入っていく。 そこは、誰も向かえに出てこない程、静かだった。 「じゃぁ、道場で。準備終わったら、すぐに行くから」 「はい」 慶人は、元気よく返事をして、猪熊家の道場の方へと駆けていく。剛一は、武史たちに一言二言話した後、夕食の準備を始める。キッチンへ行き、食材の確認をする。そして、冷蔵庫の扉を開けて、中を覗き込んだときだった。 「遅くなりましたっ!!!」 三好が汗を拭きながらキッチンへと駆け込んできた。 「すみません。その…」 「いつも申してるではありませんか。私でも出来ますと…」 「それだと、私が困ります…。…慶人くん、道場ですか?」 「はい」 「内緒と言われてますけど、やはり…」 「慶人さん自身が申したことですから」 「あまり、体に傷を残すと、ちさと姐さんが、ご心配なさりますよ。 それでなくても、先程も尋ねられたんですから…」 「手加減すると、慶人さん、怒りますから。あまり目立たない所を 狙ってるんですが、まだまだですので…」 そう言いながら、人参を手に取る剛一。その仕草を見て、剛一が何を作ろうとしていたのか把握する三好は、剛一の手にある人参をそっと受け取った。 「後は、私が。剛一さんは、道場へ」 「解りました。宜しくお願い致します。その…親父は?」 「夜遅くなるそうです。四代目が、体調を崩して…」 「やはり、そうでしたか…」 「やはりとは?」 「慶人さんから聞いたんですよ。四代目、池の中に落っこちたって。 その後のお話を聞いたら、考えられることですよ。大丈夫ですか?」 「えぇ。美穂さんが、しぃっかりと医務室に閉じこめてますから」 「ははは…」 剛一と三好は笑い合っていた。 そこへ、武史が駆け込んでくる。 「兄貴っ!! 八造がぁ〜」 「ん?」 「八造、慶人さんと…」 「…ったく…。慶人さんは、未だ相手に出来ないからと何度も…」 「違うって。慶人さんに仕掛けて反対に…」 「えっ?!????」 武史の言葉に、剛一と三好が驚いたように声を挙げる…。 猪熊家の奥にある道場へ駆けつけた剛一と三好。 そこでは、八造が大の字になって、気を失っていた…。 「八造くん、八造くん!!」 慶人が必死に声を掛けていた。側に近づいてきた剛一に気づき顔を上げる。 慶人の顔は、涙で濡れていた。 「…ごめんなさい…。剛一兄ちゃん」 「武史」 「八造が、慶人くんに不意打ちで蹴りを仕掛けたら、慶人くんは、 振り向き様に、蹴りを…」 剛一に応える武史。 「一発か?」 「はい」 「どうしよう…」 自分が行った事に凄く反省している慶人。その時、八造が気付き、体を起こす。 「八造くん!!」 「……くそぅ!!!」 そう言って、力強い拳を慶人に向けた……が、慶人は、無意識のうちに、その拳を片手で受け止めていた。 「…!!!!!」 八造は、仕掛ける拳や蹴りを尽く、慶人に受け止められ、悔しさのあまり、道場を飛び出していった。 「八造くん!!! ……剛一兄ちゃん、…どうしよう…」 「気にしなくていいって。八造が悪いんだろ。…ったく、どうして 八造は、慶人くんに対して、いつもいつも…」 「焼き餅ですよ」 三好が言った。 「焼き餅?」 「剛一さんが、慶人くんと仲良くしているからですよ。…お兄ちゃんを 取られると思ってるかもしれませんね」 「ったく、八造は、いつまで経っても甘えん坊なんだからな…」 「……僕…強くなりたいから、剛一兄ちゃんの所で、誰にも知られないように 体を鍛えたいのに…。八造くんが、怒るなら、僕…」 「慶人くんは、気にしなくていいから。……でも、八造を一発で倒すなんて、 慶人くん、鍛えなくてもいいかもしれないよ…」 「えっ? でも、あれは…」 「不意打ちに、無意識で対抗してるんだもん。ね、三好さん」 「そうですね。…お二人の血を引いておられますからでしょう」 「親父も四代目には負けると言ってたもんな。そりゃぁ、八造には無理だ」 三好と剛一の会話に付いていけない慶人は、泣きながらも首を傾げていた。 「剛一兄ちゃん、八造くん……」 「大丈夫。夜中に一人で鍛えてるよ。だから、次の稽古の日、 覚悟しておいた方がいいかも」 「えっ?」 「八造は、鍛えるたびに強くなっていくからね」 「そうなんだ……。どうしよう……」 慶人は、別のことで困っていた。 橋病院付属・雅春の事務室。 雅春は、デスクに向かって、何かを書いていた。 ドアがノックされる。 「はい」 『原田です』 「どうぞ」 医学生の原田まさが、静かに入ってきた。 「失礼致します」 「すまんな、帰る時間に」 「いいえ。時間はたっぷりございますから」 雅春は、ソファに座るよう、まさへ勧めた。まさは、一礼してソファに腰を掛ける。 「お茶でいいか?」 「お構いなく。お話とは?」 「そのな、急で悪いと思ってるんだけどな、どうしても原田くんに お願いしたくてね」 「私に…ですか?」 「えぇ」 そう答えた後、雅春は、まさをじぃっと見つめる。その目に恐れるまさは、恐る恐る尋ねた。 「あの……橋先生?」 「……助手……俺の助手にならないか?」 「…………橋先生、いくら何でも、私は未だ医学生…」 「医学生と言いながら、その昔、習ったんじゃないのか?」 習った事は、習ったけど…。 「あのメスさばき。医学生とは思えないからな」 あっ、それは、実戦で……。 「それに、縫合の腕も良いし、何よりも医者に向いている」 ……俺は…。 まさは、雅春の言葉に、ただ、耳を傾けるだけだった。 「原田君、考えてくれないか?」 「は、はい…。でも…橋先生のようには、いきませんが…」 「何事も経験。経験を積んでいけば、俺を追い越すくらい…」 「どれくらいでしょうか…」 「…患者全部任せようか?」 「あっ、いいえ、それは………」 困ったような、嬉しいような表情をしながら、頭を掻くまさ。その表情を、まるで兄貴のように見つめている雅春だった。 春樹が帰宅する。 「お帰りぃ。えらく早いねぇ。しくじった?」 「お袋ぉ〜、早く帰ると、いっつもそれですか?」 「仕事熱心な春樹が、定時で帰るなんて、ほんと何かが起こりそうだね」 「今日は、芯の誕生日でしょう? 約束していたんだから。…芯は、部屋ですか?」 「それがねぇ〜、まだ帰ってないのよぉ」 「……まさか……」 春樹は別の事を心配する。 まさか、奴らが…。 「航くんと翔くんがね、誕生日の祝いだと言って、航くんの家で 遊んでるんだけど…」 「…そうでしたか……」 すごぉぉぉく寂しそうな表情になる春樹を見て、母の春奈は、突然、大笑いする。 「やだ、春樹ったら、まるで恋人取られたような顔してぇ」 「えっ?! あっ、その……お袋っ!! からかわないで下さい!!」 「ちゃぁんと帰ってくるって。さっき連絡あったわよ。春樹が帰る時間に 合わせてね。約束していたんでしょう?」 「は、はぁ…」 「ほら、噂をすれば…」 玄関の戸が開く音と同時に元気な声が家中に響き渡る。 「只今ぁ! お兄ちゃん、お疲れ様っ。お帰りなさいっ!!!」 そう言うと同時にリビングに駆け込み、春樹に飛びつく芯。春樹は、しっかりと芯の体を受け止め、そして、抱き上げ、頬に口づけをする。 「お帰り、芯。楽しかったか?」 「うん。思いっきり楽しんできたっ!!」 「翔くんと航くんと一緒に、もっと遊んでても良かったんだぞ」 「だって、お兄ちゃんと約束してたから。今日は絶対に夕方には帰るって」 「そうだけどな」 「約束は守らないとね!」 「…そうだな」 いつも早く帰ると言っておきながら、夜遅くまで仕事をしてしまう春樹。 芯の言葉が、ちょっぴり心に痛かった。 「あっ、そうだった。お袋、良い知らせ」 「ん?」 春樹は、芯を床に下ろしながら、春奈に言った。 「この春から、勤務先が変わります」 「どこに? この街から離れるの?」 少し不安そうに春奈が尋ねる。 「昇進です。警視庁の方に配属されます」 「春樹…あんた、昇進試験受けてたんだね…。それも、私に内緒で…」 「すみません。でも…」 私の思いは……。 春樹は春奈を見つめる。 その目に含まれる思いを知っている春奈は、それ以上何も言わず、優しい眼差しを向けるだけだった。 「兄ちゃん、派出所じゃなくなるの?」 「あぁ。寂しくなるけどな」 「ううん。兄ちゃん、刑事になるんだっ!」 「まぁ、そうだな…」 「おめでとう! お兄ちゃん」 輝かんばかりの笑顔で、芯が言った。 春樹の心が弾む。 芯……。 「ありがとな」 「あっ、お母さん。お兄ちゃんのお祝いもしないとっ!」 「そうだねぇ。でも、芯の分しか用意してないけどなぁ」 「いいよ、僕のをお兄ちゃんのに変えてよ!」 「芯…」 「僕よりも、お兄ちゃんの方が凄いもん! 早く!」 「はいはい。…ったく。春樹のことになったら、芯は必死になるんだからぁ…」 「お袋、焼き餅ですか?」 「違います! 寂しいでしょぉ〜」 「お袋の誕生日は盛大にしますよ」 「そんなことしなくていいっ!!」 「お母さん、早くぅ」 「はぁい。芯の言葉通りに、早く用意しまぁす!」 「僕も手伝うっ!」 春奈と芯は、キッチンへと向かっていった。 二人を柔らかい眼差しで見つめながら、春樹はソファに腰を掛ける。春奈と芯がキッチンへと姿を消した途端、その表情が一変した。 何も感じない…感情のない表情。 お袋、芯、申し訳ない…俺……親父を超える刑事になってやる。 その為には、決意しなければならない日が来ると思う…。 その日の為に、心の準備が必要だから……。 春樹は、膝の上で拳を握りしめていた。 (2004.4.25 第三部 第八話 UP) Next story (第三部 第八話 続き) |