第三部 『心の失調編』 第十二話 そして、失った。 一台の車が、猛スピードで走っていた。赤信号を無視し、そして、ゆっくりと走っている車をあおるように、クラクションを鳴らし……。 一人の男が、ふらつきながら走っていた。人混みを避け、そして、路地裏を走り抜ける。 男は立ち止まる。 ボタボタボタ…。 くそっ…やばいか…。もう少しだから…。その橋を越えて…。 男は、気合いを入れて走り出す。 男が通り過ぎた所には、真っ赤な物が帯びていた…。 道病院。 いきなり忙しくなっていた。医者や看護婦達が、慌ただしく動き回っていた。次々と運ばれてくる患者。 それらは、全て、阿山組組員だった。 美穂が駆けつけた。それと同時に、慶造が乗る車が玄関先に急停車する。 後部座席のドアが勢い良く開いた。 「美穂ちゃん!」 その声に振り返る。 「…直ぐに運んでっ!」 慶造と修司が、真っ赤に染まった体の男性を抱きかかえていた。男性を抱きかかえたまま走り出す慶造と修司。 二人が通った道には、真っ赤な筋が出来ていた。 男性の体から血が滴り落ちていた。 「ここ!」 ストレッチャーを用意した美穂に促されて、男性を寝かしつけた。 「止血はしたんだが、どうしてもここだけは…」 胸元にクロスの切り傷。 「隆ちゃん、隆ちゃん!」 美穂がストレッチャーに乗せられた男性・隆栄に声を掛けた。隆栄は、微かに左腕を動かした。 「慶造君、ごめん…後でいい?」 美穂は、慶造と修司の怪我にも気付いていた。 「俺は、大丈夫だ。…隆栄を…」 「解ってるっ! すぐに始めるから、準備してて!!」 美穂が、別の医者に指示を出す。隆栄は、手術室に運ばれていった。 「そこで、待っててね」 そう言って、美穂が手術室に入ろうとした時だった。 「小島先生っ!!!」 看護婦の大きな声が廊下に響き渡った。そして、看護婦は、美穂に耳打ちをする。 美穂は、ソファに座った二人に目をやった。 とても深刻な表情で……。 「美穂ちゃん?」 慶造が、美穂の目線に気付き、声を掛けた。 「……もうすぐ…到着するみたい…」 「???」 美穂の言いたい事が解らない慶造は首を傾げた。 「道先生が、隆栄さんを担当なさるそうです。なので、院長と小島先生で…」 「美穂ちゃん、何か遭ったのか?」 「では、小島先生、お願いします」 そう言って、看護婦は走っていった。 美穂は、その場に立ちつくし、言葉を選んでいた。 「…慶造君。落ち着いて聞いて欲しい」 「なんだよ。隆栄…助からないのか?」 美穂は首を横に振る。 「ちさとちゃんと慶人くんが…」 そこまで聞いた途端、慶造は立ち上がり、美穂に詰め寄った。 「ちさとと慶人に何か遭ったのかっ!?」 「襲われたらしくて…山中くんから連絡があって…。今、こっちに 向かってると…」 そう話した時だった。勝司が駆けてきた。 「美穂さんっ!!」 勝司の声に、振り向く慶造達。勝司は、両手を真っ赤に染めていた。 「山中っ!」 その勝司の後ろには、ちさとの姿があった。 ちさとの体は、勝司以上に真っ赤に染まっていた。 「……ちさと?」 俯き加減のちさとに声を掛けた慶造。 ちさとは、ゆっくりと顔を上げた。 その目は、何とも言えない物を現している。 ちさとは、慶造の姿を見た途端、激しく涙を流し始めた。 「あなた……慶人が…」 ちさとの腕には、何かが抱きかかえられていた。 その何かから、真っ赤な物が滴り落ちている。 ちさとの腕から、奪うように、美穂がそれを手に取り、ストレッチャーに乗せた。道院長が駆けつける。 「息をしていない…」 「お願い…美穂さん…」 美穂は、ちさとをただ見つめるだけで、そのまま手術室へ向かっていく。 慶造は、ストレッチャーの上に乗せられた何かを見つめた。 慶人…? 慶造が、その何かを認識する前に、美穂は手術室へ運び入れた。 「…!!! 姐さんっ!!」 力が抜けたように、ちさとが倒れる。勝司がしっかりとささえ、側のソファに座らせた。慶造が、ちさとの前にしゃがみ込む。 「ちさと」 「……慶人が…慶人が……」 「…あれは、慶人なのか?」 ちさとが、力無く頷いた。 「……山中っ!! 説明せいっ!」 慶造が、怒鳴った。 「申し訳御座いません! 私が少し目を離した隙に、姐さんが狙われ…。 それに気付いた慶人さんが、…姐さんを守るように…」 「……!!!!!!!」 ドカッ! ガツッガツッ!! 慶造は、激しく怒りだし、勝司を殴り始めた。 「!!! ちさと」 勝司を殴る慶造の手を、ちさとが止めていた。そして、振り向く慶造に、そっと首を横に振る。 「勝司さんは、悪くないの…。私が……私が…!!!」 「ちさと…」 慶造は、泣きじゃくるちさとをしっかりと抱きしめた。 「ちさとは、怪我…してないんだな」 「慶人が、…守ってくれた…。これは、慶人の……」 「大丈夫だ。助かるよ。院長と美穂ちゃんが担当するんだ」 「…あなた…怪我を…」 「…俺を逃がすために…隆栄が…」 「えっ?」 「今、手術中だ…」 慶造とちさとは、手術室の方を見つめた。 その時だった。 勝司が、走り出す。 「山中っ!」 勝司の行動に気付いた修司が呼び止めようとしたが、勝司は、そのまま走っていった。 「猪熊さん…」 「…しかし…」 「お願い。猪熊さん、勝司さんを停めて…。きっとあの人…」 「慶造…」 修司は、ちさとの言葉を聞いて、慶造の指示を待つ。 「修司、山中を停めてくれ。あいつの手を…」 「…あぁ。…三好を置いていく」 修司は、そう言って、勝司を追いかけて行った。 慶造の服を掴むちさとの手は震えていた。 「大丈夫だから…」 慶造は、そっと呟き、ちさとを抱き寄せた。 橋病院。 日が暮れ、人気も無くなった時間帯だった。裏口の扉がこじ開けられる。そして、ふらつきながら、一人の男が入ってきた。男は、迷うことなく、どこかへ向かっていく。 雅春は、仕事を終え、部屋の電気を消した。そして、とある場所に向かって歩いていく。 「…ん?」 廊下の角の壁に、何かが付着していた。雅春は、気になったのか、近づき、それを見つめる。そっと手を伸ばすと…。 「血…?」 ふと足下に目をやった。そこには、おびただしい程の血が落ちていた。そこから、ある場所まで帯状に続いている。雅春は、その跡をたどっていく。 それは、手術室のドアの前で途切れていた。 手術室の中から聞こえてくる物音に耳を凝らす雅春は、気付かれないようにドアを開け、中を覗き込んだ。 何かが飛んでくる。 雅春は、その気配を感じ、素早く避けた。 飛んできた物が壁に突き刺さる。 それは、メスだった。雅春は、そのメスを手に取る。それには、血が付いていた。 「勝手に使われるのは、御免だな…誰だ?」 そう言って、電気を付けた雅春は、手術台に手を付き、必死に立っている男の姿が目に飛び込んできた。 男の体は、真っ赤に染まり、そして、胸元から、おびただしい血を流していた。苦しそうな表情で、雅春を睨み付けている男…。 「…原田…くん……? ……何が遭った!!!」 雅春は、真っ赤に染まっている男が、まさだと気づき、慌てて駆け寄り、手を伸ばした。 「…さ…触るなっ!」 雅春の手を払いのけた、まさは、その勢いで、手術台に俯せに倒れ込んでしまった。まさの背中からも血が流れていた。 「診せろ」 雅春は、まさを手術台に寝転ばせ、傷を確認し始めた。 「手…を……放せ…俺…に……触れる……な…。うぐっ…」 そう言った途端、激しい痛みに耐えられなくなったのか、まさは、体を丸くしてしまう。 「原田君、誰に…やられた?」 「うるさい…」 「……あのなぁ、こんな傷を目にして、何もしないような俺だと思うのか? 俺に任せろって」 「…一人で…できる…」 「失血で震える手じゃ、何も出来ない。俺より凄腕のお前でもな」 まさは、自分の体に触れる雅春の腕を掴み、力を込めた。 「お…れ…に……触れる…な…。触れ……。………」 「原田君? …原田君っ!!」 物音と、雅春の声に反応した院内関係者が駆けつけてくる足音が聞こえてきた。 「…橋先生…」 力無い声で、まさが言う。雅春は、その声に振り返った。 「原田君?」 まさの目は、何かを訴えていた。その訴えに気付いた雅春は、手術室のドアの方を見つめ、そして、叫ぶ。 「すまん、ちょっと荒らしてしまっただけだ。気にしなくていい」 『橋先生? …駄目ですよ、暴れてはぁ。本当に大丈夫ですか?』 「あぁ。片づけておくから」 『かしこまりました』 足音が遠ざかっていく。 雅春は、まさに目をやった。 「あいつら……廊下の…」 まさが、何かを言おうとするが、雅春は、まさの口に、そっと指を当てた。 「大丈夫だ。来るときに拭き取っておいた。…で、自分でするつもりか?」 「…あぁ…」 まさは、手術台の横に置いている器具に手を伸ばす。しかし、その手は、激しく震えていた。 「俺に任せておけ。だから、原田君、安心して眠れ」 「橋先生……」 「一人ででも出来るからさ。…俺の腕…信用ならんか?」 そう言った雅春の目には、途轍もない優しさが含まれていた。まさは、その目を見て、安心したように笑みを浮かべ、そっと目を瞑った。 その途端、雅春の目つきが変わる…。 外科医の血が、騒ぎ始めた瞬間だった。 真夜中。 道病院の手術室のある廊下には、阿山組組員達が集まってくる。手術室のドアの前には、慶造、ちさと、そして、修司によって引き留められた勝司が立っていた。 手術中のランプが消える。 誰もが息を飲むようにドアを見つめた。 ドアが静かに開き、手術着を血で染めた美穂が出てきた。 「美穂さん…」 震える声で、ちさとが尋ねる。美穂は、マスクを取りながら、ちさとを見つめた。 美穂が、静かに、何かを告げた。 ちさとが、驚いたように口に手を当て、その場に座り込む。 慶造が、美穂に何かを尋ねる。しかし、美穂は、首を横に振り、慶造を見つめているだけだった。 「……いや……いや……いやぁ〜〜〜っ!!!!!!!!」 ちさとの泣き叫ぶ声が、廊下に響き渡った………。 道病院の病室。 ベッドに横たわる小さな体。その側に、ちさとが座っていた。差し伸べる手は、小さな体の頭を優しく撫でていた。 廊下では、治療を終えた慶造が、同じく治療を終えた修司と怒りを抑えて震えている勝司と話し込んでいた。 「兎に角、本部で待機だ。…山中、いいな、動くなよ」 「はっ…」 勝司は、深々と頭を下げる。 「修司、山中から離れるな。そして、本部の連中を絶対に出すなよ。 停めておけ。あいつらのことだ。恐らく準備に入ってるだろうな」 「末端にも気を付けます」 「あぁ」 そう返事をしたっきり、慶造は何も言わなくなった。 「四代目」 修司が声を掛ける。 「……小島は、どうなった?」 「手術が長引いているようですね」 「あの傷じゃ…助からないかもな…」 慶造の拳が震え出す。 「慶造」 どこかへ意識が飛んだ雰囲気の慶造を引き戻すかのように、修司が名前を呼ぶ。 「大丈夫だ」 慶造は応えた。 「俺達は、本部に戻るよ。小島のことは、美穂さんに言っておくよ。 数名、見張らせておく。廊下には三好を待機させておくからな」 少し離れた所に居る三好が、一礼する。 「あぁ…ありがとな。………修司」 「ん?」 「頼んだぞ」 「あぁ」 修司は、慶造に一礼して、勝司と共に去っていく。 慶造は、修司達の姿が見えなくなるまで見送っていた。三好が慶造に近づいてくる。 「…すまんな」 「いいえ…その…」 「暫く、中に居るから。小島の事、知らせがあったら、すぐに頼むぞ」 「はっ」 慶造は、静かに病室へ入っていった。 ちさとは、一点を見つめていた。 「ちさと」 「……眠ってるわ………。でも……ね……でも…。もう、目を開けない。 笑顔で私を見てくれない…。優しく声を掛けてくれないの…。ママ…って。 優しい顔で眠ってるの…。でもね…冷たくて…。それに……動かなくて…」 慶造は、ちさとに歩み寄り、肩に手を置いた。 ちさとは、その手を払いのける。 「どうして…? どうして、慶人は私を守ったの? …どうして…。どうしてよっ!!」 ちさとは叫ぶ。 「それは、ちさとのことが、大切だからだよ」 「私……気付かなかった…。慶人は気付いていたのね…」 ちさとは、慶人の亡骸に手を伸ばし、そっと頭を撫でていた。 「ごめんなさい…。慶人…ごめんね…」 「ちさと」 「朝まで…このままで…」 「あぁ」 「あなた…」 後ろに立った慶造にもたれかかるちさと。慶造は、ちさとをそっと抱き寄せる。ちさとは、振り返り、慶造の胸に顔を埋めた。 「もう……笑ってくれない………」 ちさとの呟きが、慶造の胸に突き刺さった。 朝日が昇る頃、隆栄の手術が終わり、ICUへ運ばれていく。 「私…慶造くんに伝えてくるから…」 美穂は、看護婦にそう言って、ICUを出て行った。 助かるのは五分五分。 医者である美穂には解っていた。 こみ上げる涙をグッと堪えながら、朝日が射す廊下を美穂が歩いていく。廊下を曲がると、そこには、阿山組組員の姿があり、その向こうには、三好の姿もあった。美穂に気付き、一礼する組員と三好。美穂は、病室のドアをノックし、中を覗き込む。 ちさとがベッドにもたれかかって眠っていた。 「毛布、持ってこようか?」 「いや、いい。…小島に異変か?」 「一命は取り留めたけど、…危険な状態は変わらない」 「そうか…」 「慶造君。本部に帰るなら、準備するけど…」 「三好、居るか?」 『はい』 慶造に呼ばれて三好が顔を出す。 「本部の様子は?」 「修司さんが、抑えておられます」 「やはり、向かう準備をしていたか…」 「相手は…天地組組長の天地だそうです」 「…何…?」 「それと……」 三好は、少し言いにくそうな表情をする。それに気付いた慶造は、そっと病室を出てきた。 「美穂ちゃん、お願いして良いかな」 「いいよ」 そう言って、美穂は、慶造と入れ替わって、病室へ入っていった。 「何か深刻なのか?」 慶造が、三好に尋ねる。 「はい…。その…慶人さんの事が世間に知れ渡って、病院の外には、 報道陣が…本部の方にも集まっているようです」 「それもあって、出られないわけだな」 「はい」 「…仕方ないか。一般市民が多数行き来する場所での事件だからな。 これ以上大きくならなければいいんだが…」 慶造は、壁にもたれかかり、廊下の窓から、空を見上げた。 「にくたらしい程…晴れやがって…」 真っ青な空が、そこに広がっていた。 二日後、慶人の葬儀が密やかに行われた。 (2004.5.16 第三部 第十二話 UP) Next story (第三部 第十二話 続き) |