第四部 『絆編』 第十一話 踏み出しに、躊躇う 「かなり、よくなったようですね」 ちさとが春樹の居る部屋にやって来た。突然のことに、春樹は、慌てて起きあがる。 「毎日、ありがとうございます。…私は、もう、大丈夫ですから。その…」 春樹は、焦っていた。 自分は刑事、病室にやって来る女は極道の妻。 そんな二人が一つの部屋に……。 「私達がもっとしっかりしていれば、このようなことは、起こらなかったのですけど…」 ちさとは、哀しい顔をしたまま、春樹の身の回りの世話をしていた。 春樹は、ただ、ちさとを見つめているだけだった。 阿山組本部・会議室。 幹部達が、呆れたような表情をして出てくる。不服なのか、口々に何かを言っていた。 会議室には、慶造、修司、そして、川原と飛鳥が残っていた。慶造は、口を一文字にして、一点を見つめている。 「四代目」 「うるさい」 ったく……。 大きく息を吐きながら、姿勢を崩す修司は、怒りを抑えたような口調で話し始める。 「あのな、慶造。お前の気持ちも解るけどな、猪戸さんや、ここに居る 川原と飛鳥が、どれだけ動き回ったのか解らないのか? そのことに 労いの言葉もなく、いきなり、あんなことを言われたら、それこそ…」 「解ってるよ…」 ため息混じりに、慶造が言った。 「誰もが向かいたかった事くらい…。俺だって、そうだよ。だけどな、 ここで、堪えないと……繰り返すばかりだろ…」 「まぁ、今回は、闘蛇組自体が、向こうさんに抑えられたから、 事なきを得たけどな、もし、慶造の命令が一日でも遅れていたら 恐らく、俺達も危なかっただろうな。…それこそ、あの刑事の思い そのままだろ」 「…まさか、俺達と闘蛇組を壊滅に追い込もうとしてたとはなぁ〜。 …何か、悪い事してたか?」 上目遣いで修司を見る。修司は、呆れたような表情で冷たく言った。 「銃器類。末端の奴らがいい気になって使いまくってたろ」 「珍しいからだろうなぁ」 「慶造。…それで、どうするつもりだ? まだ、あの刑事に言ってないんだろ?」 「…俺から言うと豪語したけど……言えないなぁ〜。ちさとに頼むかな…」 ちょっぴり軽い口調になる慶造。 「あの…四代目。おやっさんに全てを任せてはどうですか?」 川原が口を開く。 「…これ以上、笹崎さんには…」 「今回の件だって、おやっさんの意見でしょう? それなら…」 「…駄目だ」 「四代目の為になることが、おやっさんの生き甲斐ですよ? それを 奪うのは……」 「奪うわけないだろ!」 「それなら…」 会議室のドアが開いた。そこには、笹崎が立っていた。 「慶造さん、私にお任せ下さい」 「…………解りました。お願いします」 笹崎の凛とした表情に参る慶造だった。 笹崎は、春樹の居る部屋へやって来る。ノックをして、入っていった。 「失礼します。おかげんは、どうですか?」 その声に聞き覚えがある春樹は、ドア付近に目をやった。 「………料亭のご主人!!! …そっか…お隣でしたね…………???」 春樹は、笹崎が自分の事を心配して、阿山組の連中に無理を言って、こうしてやって来たのだろうと思ったものの、『死亡』と世間に伝えられていた事を思い出す。 春樹の目つきが、瞬時に変わった。 「やはり、あなたは、向こうの世界の人間だったんですね。……だから、 あの時、考えると言って、実は…」 「元に戻った…それだけですよ。慶造さんの意志で…ね」 「阿山慶造の意志? なんだよ、それは」 笹崎は、短い指を春樹に見せる。 「訳あって、この世界…やくざの世界に飛び込んで、そして、先代に 見込まれた。私は、慶造さんのお世話係だったんですよ。この世界には 命のやり取りが、普通です。それに巻き込まれた慶造さんを救えず…」 「指つめ…当たり前ですからね…。そうやって責任を取ったつもりになる…」 「その時は、慶造さんに停められた。…その慶造さんの思いを大切に、 私は、この世界で頑張ってきました。……しかし、それでも無理だった。 慶造さんに怪我を…。それも私の力不足で…ね。その時に…」 「その時は、停めなかったのか?」 「慶造さんは入院してましたからね」 「…それで、気が済んだのか?」 「かえって負担になりました」 笹崎は笑っていた。 「………それで、あなたは、阿山慶造の意志で元に戻ったとは? やくざに戻って、こうして、俺の前に来た…ということか?」 「足…洗いましたよ」 「…??」 「無理矢理洗わされて、隣に料亭を…ね」 「料亭…」 「……今は元気なんですが、その…私の行った事で、 息子が生死の境を彷徨いまして…」 「それで、足を洗わされたのか…? 冷たい男だな」 「いいえ…。私の趣味というか、好きな事を…という気持ちです。 …優しいんですよ、慶造さんは」 春樹は何も言わず、笹崎の言葉に耳を傾ける。 「…瓦礫の下から真北刑事と富田司刑事を見つけた。 …しかし、富田君は既に息がなかった。微かに動いた真北刑事を、 ここに運ぶように言ったのは、慶造さんです。救急車を待っている間、 病院へ行く間に心臓が停まるかも…そう考えての行動でした」 「カルテを見る限り、本当にやばかったみたいだからな…ところで、 俺に、何の用ですか? 昔話をされにきたように見えませんが…」 笹崎は、春樹の尋ねる事に、息を飲む。 話しを切り出すタイミングを待っていたようだった。そして、意を決して口を開く。 「真北…良樹という刑事を御存知ですか?」 笹崎の言葉に、春樹は驚いたように顔を上げた。 「…俺の…親父だ…。親父は…」 「闘蛇組の手によって、命を奪われました…」 そこまで言った笹崎の表情を見て、春樹は、何かを思い出す。 「……まさか…あんたが、闘蛇組の事を探っていた人物か?」 春樹の尋ねる事に、笹崎は応えず、ただ、微笑んでいるだけだった。 「俺以外にも、調べている者が居る…そう耳に入っている。…なぜ? やくざの世界から足を洗ったあなたが…?」 「恩返し…そう言うと、良い響きですけど…。昔の仲間の敵討ちに 近いでしょうね」 「仲間……まさか、あんたが、親父の任務の…!!!!」 春樹は、いきなり立ち上がる。 「親父が亡くなった頃、家に尋ねて来ましたよね…」 「…やはり…覚えておられたんですか…」 「…覚えているというか…その…」 「春奈さんと弟さんは…お元気ですか?」 その言葉に、春樹はベッドにドカッと座り目を背ける。 「死んだ…」 呟く春樹に、笹崎は、安堵の息を吐く。 「そうですか…」 春樹の言葉と雰囲気で、自分の考えに自信を持つ笹崎は、更に続ける。 「……もし、事件に巻き込まれなかったら…、真北刑事、 あなたは、考えていたんですね」 「何を…ですか?」 「特殊任務」 再び驚いたように顔を上げる春樹。その春樹の目の前に、一冊の手帳を差し出す笹崎。 そこに書かれている文字こそ、『特殊任務の証』だった。 「そ…それは…」 「真北刑事…あなたのですよ」 「俺…?」 「あなたが生きている事を知っているのは、警視庁に居る数名だけ。 実は、慶造さんが真北刑事の事を話しに行ったんです。極秘情報 …そう言ってね。そして、これは私の意見。あなたが特殊任務に就く事…。 警視庁の方々は、あなたの意志次第だと。……先程の言葉で 全て悟りました。…家族を捨て、そして、こうして、乗り込んでくる。 失敗したように見せかけて、内情を探り、そして、この任務に就いて、 再度…そう考えての行動」 笹崎の言葉は、春樹の心の奥に秘めた思いを語っていた。 「そうです…。本来なら、あいつらを守りながら、一度撤退し…そして、 その任務に就いてから、再び…そう思っての行動だった……。 ご主人、私の言葉で悟ったとは?」 「お二人が亡くなった…そうおっしゃったでしょう?」 「…そうです…」 「心配なさらずに。慶造さんには何も伝えませんよ。ただ、この任務の 話しを切り出しに来ただけですからね。……どうされますか?」 「確か…誰かの協力が必要なんですよね…まさか、阿山慶造と 手を組め…そうおっしゃるんじゃ…」 「その通りですよ」 「俺は、嫌だな」 ふてくされたようにベッドに横たわる。 「あんな…銃器類を体の一部のように扱う連中の親分と 協力…考えられないっ! 敵なんだぞ!」 「私だって、良樹さんとは、敵同士でしたよ」 「それなのに…」 「目に見えない絆…ですよ」 「……絆…?」 「私には、見えるんです。あなたと慶造さんが見えない何かで繋がってる…と」 「赤い糸…?」 春樹の言葉に笹崎は笑ってしまう。 「それじゃありませんよ!!」 「あなたと親父……その関係を聞かないと応えられません…」 「それを聞かなくても、あなたの意志は固いんじゃありませんか?」 何もかも見透かされている春樹は、体の力を抜き、大の字になった。 「その通りです。……ですが、阿山組とは手を組もうと考えてませんよ。 だからといって、他のやくざとも手を組みません。…俺は単独で…」 「真北刑事…」 「命を粗末にするような奴の協力なんて……いらねぇよ!」 そう言って、春樹は、笹崎に背を向けた。 「完治するまで時間がありますから。考えておいてください」 「無駄だと思うよ」 「人の心は変わりますよ」 笹崎はドアを開ける。 「…慶造さんは、この世界を変えようと…必死なんです。 命を大切にするやくざ……そんなおかしな人間が居ても 良いと思いませんか? 早く………元気になってくださいね。 ちさとちゃんのお手伝いが無くて、客が嘆いてますから」 静かにドアを閉めて、笹崎は去っていった。 「命を大切に…? フン…やくざが、そんなこと……できるもんか…」 春樹は布団を引っ被った。 笹崎が春樹に特殊任務の話しを持ちかけてから三日が経った。その頃には、春樹も歩けるくらいの力を取り戻していた。未だに痛みはあるものの、この日、意を決して部屋を出た。 部屋から少し離れた場所には、組員が待機していた。春樹の姿を見て、目の前に立ちはだかる。 「どちらに?」 「散歩。体を動かさないとな」 「それには、四代目の許可が…」 「俺の体だ。放っておけ」 組員の言葉を遮って春樹が言った。そして、歩き出す。 「お待ち下さい!!」 組員は、春樹の腕を掴もうと手を伸ばしたが、その手を掴まれ、後ろ手に返され、そして、壁に押しつけられた。 ……確か、全身打撲で重傷…。素早い…そして、……強い…。 「外には出ないから、安心しろ」 低い声で言った後、手を放し歩き出す春樹。組員は、服を整えながら、春樹の後ろ姿を見送るだけだった。 春樹は、阿山組本部内をうろついていた。廊下をゆっくり歩き、それぞれの部屋の様子を伺う。そして、素敵な庭が見える回廊へとやって来る。 窓からは、大きな桜の木が見えていた。 桜の蕾が、これからの生き様を語っているように思える。 春には満開になる桜。 春樹は見とれていた。 人の気配に警戒する。そして、横目で睨み付けた。 「もう、歩ける程、回復したのか」 慶造だった。 「流石、金を持ってるだけあるな。建物や塀だけじゃなく、 庭木もしっかりしてる」 「そうか?」 「そういや、あんたらの縄張りにある公園には自然が多いよな」 「少しでも心が和むように…そういう心意気から、親父が…ね」 「やくざな世界には、無関係という感じなのにな」 「…………何をしてる? 探りでも? 以前来たときと変わらないがなぁ」 「この先には何がある?」 自分が向かおうとしていた廊下の先を指さす春樹。 「ちさとの生活空間だ」 「お前の部屋もあるということか。…今日は出掛けてないんだな」 「休みだ。それに、事件の影響で外出禁止だぞ。…俺の部屋に 来るか? ゆっくりできると思うが…」 「この敷地内に居るだけで、緊張してるよ。いつ襲われるかと 身構えてばかりだ」 「それで、そこまで動けるようになったのか。…安心しろ。お前には 指一つ触れないように…」 「廊下で見張っている奴に引き留められたぞ」 「あぁ…そうだったな」 「……って、おい……」 「まぁ、来いって」 慶造は、踵を返して、歩き出す。その方向こそ、春樹が向かおうとした『ちさとの生活空間』とは、全く反対の場所。 「お前の部屋って、そっちか?!」 「そうだよ」 短く応えた慶造に付いていく春樹。 それは、自然と足が向いていたのだった。 慶造の部屋。 何話すことなく、二人はテーブルを挟んで、向かい合って座っていた。 何も考えず、足の向くまま慶造の部屋へやって来た春樹は、部屋に入った途端、怒りがこみ上げて来る。 春樹は慶造を睨んでいる。 その目は語っていた。 仲間を殺されたのは……。 その思いを悟った慶造は、膝の上に置いている拳をグッと握りしめた。 春樹に負けじと、慶造も睨んでいた。 睨み合いが続く…。 ドアがノックされた。 「あなた…真北さんは……」 ちさとが入って来た。慶造の前に座っている春樹に気付く。 「真北さん、こちらでしたか…」 「ちさと…さん」 「ちさと…」 きょとんとした二人の表情を見て、ちさとは、微笑んだ。 「…いつの間に、お二人は仲良くなられたんですか?」 ちさとのおとぼけ…。 ちさとの言葉に、慶造は項垂れ、春樹は突然、笑いがこみ上がってくる。 そして、二人は腹を抱えて笑い出した。 「??? どうされたんですか?!」 笑い出す二人を見て、ちさとは首を傾げる。 「なるほどな…」 春樹が呟く。 「何がだ?」 「噂通りだなと思ってな」 「噂?」 「……あぁ。阿山組四代目の姐さんは、極道のイメージを持たない…てな」 春樹の言葉に、慶造はフッと笑みを浮かべ、ちさとに話しかける。 「こいつに用事なのか?」 「すみません…その…おかげんがよろしいなら、お庭に案内を …そう思ったのですが、すでに?」 「回廊からですが、拝見させていただきました。立派な庭ですね 心が和みますよ」 ちさとに話しかける春樹の口調は、慶造の時とは全く違い、何となく、紳士的に感じる。 慶造は顔を背け、春樹の、手のひらを返したような雰囲気に、笑いが…… ドカッ…。 テーブルの下で鈍い音がした。 いてっ!! …てめぇ〜。 慶造が春樹を睨み付ける。春樹は、何事も無かったような雰囲気で、ちさとに話し続けていた。 「手入れも行き届いているようですね」 「えぇ。腕の良い庭師が居ますからね。ねっ、あなた」 「…ん? …あ、あぁ…」 修司だけどな……。 慶造は微笑んでいた。 「ちさと、…それだけじゃないんだろ?」 慶造の言葉で、ちさとから笑顔が消える。そして、凛とした表情で春樹に言った。 「真北さんに伝えたい事があります」 …ちさと?! 「……何でしょう」 ちさとの真剣な眼差しに応えるかのように、春樹も表情が変わった。 その表情こそ、刑事そのものだった。 山本家のリビングでは、芯、航、そして、翔が楽しくはしゃいでいた。 「お待たせぇ〜」 春奈が、ジュースとお菓子をお盆に乗せてやって来た。 「母さん、それは、私が!」 芯が慌てて駆け寄る。 「今日は元気だから、気にしないの! はい、どうぞ!」 「ありがとうございます」 「いただきます!」 航と翔が元気よく挨拶をする。 「あっ、そうだ! 芯、必要な物は揃ったの? 入学式は四月二日よね?」 「はい。…その……」 芯は心配していた。 春奈の体調を……。 こうして、笑顔を向けているが、あの日以来、心身共に弱っている。夫と息子を同じような形で亡くしてしまった。それが、春奈の体を……。 「息子の大切な日くらい、ちゃんと行くわよ!」 「本当に…」 無理しないで下さい。 芯の目が語っている。 「心配しないの! じゃぁ、私は部屋に居るからね」 優しく言って、春奈はリビングを出て行った。 「おばさん、元気そうだね」 翔が言った。 「でも…やっぱり心配だよ」 「そうやって、暗い顔ばかりしていたら、それこそ、おばさんが疲れるよ!」 航が優しく声を掛けると…。 「解ってるけど……無理だよ…」 芯が泣き出してしまった。 「うわぁっ!! 芯、なんだよ! 泣くなって!!」 兄の春樹の事件から、それ程、時は経っていない。 急な引っ越しと名前の変更。 短期間に起こった色々な出来事が、まだ小学校を卒業したばかりの芯には、かなりの負担となっていた。 外見は、大人びた雰囲気でしっかりとしているのだが、心は中々落ち着かず、誰かの優しさに触れると、こうして、泣き出してしまうのだった。 必死で涙を拭い、笑顔を取り戻そうとする芯を見て、航と翔は微笑んでいた。 「なぁ、芯」 「…翔……なに?」 「中学に入っても、道場に通うんだろ?」 「そうだよ」 「まさかと思うけど……」 翔は、芯の心の奥にある『何か』を心配していた。 道場に通っているのは、もしかして…。 その心配は、芯の応えで吹き飛ばされた。 「体を鍛えて、通院しなくてもいいようになる…兄さんと約束したから…。 俺…頑張るから…」 「何か遭ったときは、いつでも相談してくれよぉ。恋の相手とかさぁ」 航が何かを言いたげに話しを切り出した。 「………航ぅ〜、お前…」 何かを知ったような言い方をする翔。 「…翔…航……」 「はい!?」 「お前ら…何を隠してるぅ〜?」 先程まで泣いていたのは、どこへやら。 芯は、怒りを抑えるかのように、プルプルと震え始める…。 「わぁっ!! 芯、怒るなっ!!!」 「前から言ってたろぉ〜。薫ちゃん」 「……?!?!…はぁ?! 薫ちゃんって…あの?」 「そう」 航が嬉しそうな笑みを浮かべて応える。 「俺は逢った事ないだろ? 航と翔の話を聞いただけだって」 「薫ちゃん一家も引っ越してくるんだよ。まぁ、学校は違うけど 時間がある時は、一緒に遊べると思うよ」 「だから、俺は道場に行くから…それに…家の事も…」 兄貴の代わりに…。 「あの…芯…」 「ん?」 「中学一年生では、家庭教師……未だ早いと思うけど…」 「やっぱり、そうだよな……」 「うんうん」 どうやら、芯は、中学生になれば、家庭教師などのアルバイトをしようと考えているようで…。 航と翔が帰った夕暮れ時。芯は一人で散歩をしていた。 春樹が勤めた事のある派出所、そして、一緒に遊んだ公園、通っていた幼稚園……春樹との思い出がある場所ばかりを選んで、心を落ち着かせようとしていた。 思い出に浸るくらい……。ね、兄さん。 そう思いながら歩く芯だった。 そして、住み慣れた街を後にして、知り合いの少ない街にある自宅に到着する。 「ただいま!」 元気一杯、声を張り上げて家へと入っていった。 大阪のとある場所に新設された総合病院。 その名も『橋総合病院』。 真新しい事務室に荷物を詰め込み、お茶を飲む雅春。 事務室をノックする人物が、勢い良く駆け込んでくる。 「って、何してんですかっ!! 仕事はぁ!!」 「ん?」 雅春の助手として、この病院で働く原田まさだった。 「あのねぇ〜。今日は会議だからと言っていたのはぁ?」 「俺」 「時間過ぎてますよ!! 私が怒られたんですからっ!」 「原田くんが代わり…」 「私は、まだ、医学生ですよ…。それに、春からのインターンを受け持つのは 橋…あんただろっ!」 「俺の助手は?」 「俺…ですけど……。って、何をのんきにお茶飲んでるんですかっ!」 そう言って、湯飲みを取り上げるまさ。 雅春は、ギロリと睨み付ける。 「…っ…!」 思わず退いてしまったまさ。 「すみません…」 「張り切りすぎだ」 「いつもと変わりませんよ」 「あまり、張り切ると、体に悪いぞ」 「それでも…この仕事は…」 「……昨夜、何を調べ回った? そして、寝てないんだろ?」 「いや、その…」 「夜は休めと京介ちゃんも言ってなかったか?」 「言ってたけど……」 「仕事に負担が掛かることは避けろ。…自分の体の事、忘れたか?」 「………忘れてません」 雅春は、大きく息を吐いて、そして、言った。 「俺の意向で、ここは休み無し、そして、24時間ずっと開けている。 患者が安心出来るような病院を目指す為にな」 「心得てます」 「休める時に休む。そうじゃないと、急患が続けば大変だぞ」 「……そうやって、話しを反らしてませんか?」 「反らしてるよ」 「あぁのぉぉぉねぇ〜っ!!!」 「会議も無しにする。意見は全部書類か、直接、俺に言うことにして… 無駄な時間は省いて、患者のために時間を作る。それが、俺の 医師としての心得だ」 「その意見を会議で述べて下さい。最初で最後の会議で…」 「……そうだな。じゃぁ、行くとするか」 煮え切らない言い方をして、雅春は立ち上がり、そして、事務室を出て行った。 「そうやって、自分に鞭打って……。ご友人を追いかけるつもりですか…。 あなたは、命を救う立場の人ですよ……。私と違って……」 まさは、右腕を押さえる。そこは、昨夜、とある組事務所を調べている時に、攻撃された場所。 「流石…阿山組系だけあるよな…松本……」 まずは、阿山組系松本組の動きを探る事。 それが、天地からの言葉だった。 しかし、松本組は、やくざの事務所というより、建設関係の事務所だった。出入りするのは、一般市民。建設に関係する者達しか、近寄っていない。付き合う人物も一般市民。やくざな男達との付き合いは、全く無かった。 しかし、その事が、まさに不信感を抱かせた。 内部に何か秘めているだろうと、事務所に侵入した時、松本に見つかり、そして、松本の本能を知る。 大人しく見えても、所詮、やくざだった…。 『原田っ!! 遅いっ!』 雅春の怒鳴り声が聞こえてきた。 「すみません!! すぐに!」 事務室を慌てて出て行くまさ。 そして、雅春が橋総合病院院長に就任して、最初で最後の会議が始まった。 会議では、しっかりと意見を述べた雅春。そして、最初で最後の会議だと強調した。その口調こそ、熟練の腕を持つ医師達を圧倒してしまうほど。もちろん、まさ自身も圧倒されてしまった。 会議を終え、事務室に戻った雅春とまさ。 ドアを閉め、お茶の用意を始めた、まさの腕を突然掴む雅春。 「?!??」 「勝手に使うなと…言ってあるよなぁ〜」 袖をめくると、そこには包帯が巻かれていた。 ほんの少しだけ、血が滲んでいる。 「カルテは、書いてあるのか?」 「あぅ…その……」 ギロリと見下ろす雅春の目。それは、本当に…本当に恐く……。 少し赤く染まった包帯が、するすると解かれ、ゴミ箱へ捨てられる。 傷口をじっくりと診る雅春は、呆れたように言う。 「ったく、自分でここまで、綺麗に縫合しやがって…」 「妬いてるんですか?」 「うるさいっ」 「これくらいは、序の口ですよ」 「しかし、原田…お前の利き腕は…」 「仕事柄、両手が使えるように鍛えましたから」 「なるほどな」 そういや、あいつが言ってたよな…。両手に細いナイフを使うって…。 ふと遠くを見つめた雅春は、軽く笑みを浮かべる。 「橋?」 「ん…あっ、すまん。思い出してな…。殺し屋の武器の話を」 「ご友人からの…お話ですか?」 「あぁ。……お前の正体を知っていて隠していた頃は、どれだけ 心が痛かったか…」 「すみませんでした」 「…なぁ、原田」 「はい」 雅春は、まさの目をしっかりと見つめる。 「…お前は、死ぬなよ……。…死なないでくれよ…」 声が震える。 「私の事は、一番御存知だと思いますが…」 「解ってるよ…。だから言ってるんだろ! もう、こっち一本に絞れよ…」 『こっち』とは、医学の世界の事。 「…橋……。それは、無理だと何度も…。それに、こんな血で染まった 腕を持つ俺を、助手にして本当に良いのか? 橋の名が、汚れるぞ?」 「お前が殺し屋だと知ってるのは、この世界では俺だけだ。やくざの 世界では、有名だろうがな…」 まさは、何も言えなくなる。 「はい、おしまい」 雅春は、まさの傷口に丁寧に包帯を巻き、そして、後かたづけを始める。 急患搬送のランプが回転する。 「おっ、初仕事だっ!!!!」 先程の真剣な眼差しとは、うって変わって、爛々と輝く目をする雅春。 『交通事故。意識混濁。両足の骨折と内臓圧迫……』 スピーカーから聞こえてくる声に耳を傾け、そして、白衣を身にまとう。 「原田、いくぞ!」 「はい!」 ……外科医としてのかけ声に聞こえない…そう思いながらも、雅春に付いていく、まさ。 もちろん、その腕は、雅春と匹敵するものだった。 雅春の指示に従いながら、雅春と同じようなメスさばき、そして、処置の速さ。 雅春だって、負けていない。 手術室が見える窓から観察する他の医者達。それぞれが、その分野で一位二位の地位を争う程の腕の持ち主。雅春の言葉に圧倒されたものの…。 年中無休。交代で勤務する。 患者の為に、体を使え。それが仕事だ。 仕事が嫌いな奴は去れ! 雅春が、父と交代すると決め、そして、ここへ来た時の挨拶としての第一声が、それだった。 労働基準なんたらで、世間が声を挙げ始めた昨今。それを気にも留めず、医師としての名を持つなら、それに恥じぬように過ごせ。 雅春の言葉に反感を持った他の医師達は、雅春の腕を見ないと従えないと豪語する。 その初仕事が、先程運ばれてきた重傷だと言われた患者の手術。病院に到着したときには、すでに危篤状態。誰もが助からない…そう思った患者だった。それでも、手術をすると言って、周りの意見に耳も傾けず、こうして、手術を行っていた。 まるで、神業を見ているような気分になる医者達は、それに負けじと、心に決める。 それぞれが、それぞれの分野で……。 仕事を終え、事務室に戻ってきた雅春は、手術日誌を書き始める。 ふと手が止まった。 あいつのファイル…処分するの忘れてた…。 椅子にふんぞり返り、天井を見つめる。 まっ、いいか! 気を取り直して、日誌を書き始めた。 ……この腕は、あいつが育ててくれたようなもんだな…。 雅春の表情は、輝いていた。 春樹は、魂が抜けたような表情で部屋へ戻ってくる。ベッドにドカッと腰を下ろし、項垂れる。 なぜだよ…。 ちさとの話しを聞いているうちに、自分の思いも語り出していた。 そして、慶造の思いを知った今…。 春樹は、ベッドに寝転んだ。何も考えず、ただ、天井を見つめる。 ……最後だから…。 溢れる涙が、春樹の視野を潤ませた。 なぜ、涙が溢れるのか解らない。 慶造の思いを知ったからなのか? ちさとの決意を知ったからなのか? それとも、嫌いな奴と同じ思いと知り、悔しくなったからなのか…? 涙を流すのは、これが最後。 やはり、あの話を受けるしかない…。 でも……命を奪う事は……許せないな…。 目を覆った腕の筋肉が固くなる。 所詮、やくざは、やくざだ…っ! 春樹が拳を握りしめた瞬間だった。 (2004.7.15 第四部 第十一話 UP) Next story (第四部 第十二話) |