第四部 『絆編』 第二十八話 激しい波に躊躇う 大阪にある、橋総合病院。 この日も見慣れた光景に、雅春は怒りを覚え、こめかみをぴくつかせながら、仕事をしていた。 「もっと丁寧にしてやぁ」 水木が嫌々ながら言う。 「腕の良い外科医だろ? ここの治療…して下さい」 須藤が痛々しそうな表情で懇願する。 冷たく強く突き刺さる、雅春の目線。 恐れを知らないと言われる極道の親分も、それには、たじたじ………。 「いい加減にせぇよ。これ以上、俺の仕事を増やすなっ!」 「すみません…」 首をすくめる水木と須藤。その仕草に付き添ってきた組員は、笑いを堪えるように目を反らす。 しかし、直ぐに姿勢を正す…二人の恐ろしい目線を感じ……。 「…で、水木」 「はい?」 「苦情が出てる」 「何の?」 「お前のゲームだよ」 「ゲーム? …あぁ、あれ。あれはしゃぁないやん。条件やし」 「あのなぁ、お前のその強さは、どこにあるんや!」 「そりゃぁ、日頃から鍛えてたらなぁ」 立ち上がり、腰を振る水木。そんな水木の腰に、雅春の蹴りが一発、突き刺さる。 ドカッ!!!! 前のめりに倒れた水木。 「兄貴っ!!!」 側に付いている組員が思わず駆け寄ったが……。 「…あ…あに……。……ぷっ……す、すみません!…その……」 組員は必死に笑いを堪える。それを見ていた須藤や須藤組組員も、笑いを堪えるように顔を背け、体を震えさせる。 水木は、前のめりに倒れた事で、床に顔面を思いっきりぶつけていた。 額から血を流し、鼻の穴からも、二筋の血が流れ出す。 あまりにも滑稽な顔に、蹴りを見舞った雅春までが、豪快に笑い出した。 「がっはっはっは!!! すまん、水木。そうなるとは思わんかった! はっはっはっは!! ほんま、すまん!!」 「院長ぅ〜。自分でしときながら、笑わんとってや……」 顔に伝う血に気付いている水木は、側にあるタオルで血を拭う。 「……もう、俺、いややぁ〜痛いのん…嫌ぁ〜」 水木が嘆き、雅春の笑いが部屋に響き渡った。 顔面に包帯を巻かれた水木と綺麗に治療してもらった須藤は、カルテに記入している雅春と話し込む。 「院長、新たな情報ですよ」 水木が口を開く。 「何の?」 「阿山組」 『阿山組』という言葉を聞いた途端、雅春の手が止まる。 「その後、仕掛けてきたのか?」 心配そうに尋ねる雅春に、水木が応える。 「いいや、怒りの矛先が、東北に向けられた」 「東北?」 雅春は、嫌な予感に心が震えだした。 「東北にある天地組…殺し屋の中では一流の原田が居る組が、壊滅した」 「…壊…滅…?」 一瞬、動揺する雅春。 「その原田を始め、組員、そして、組長の天地まで、命を落としたらしい」 「…全員…か?」 「えぇ」 「状態は?」 「状態?」 「どういう状態で壊滅したんだよ」 「組員は顔が判別出来ないほど滅多打ちされ、そして、天地は、腕を 斬り落とされ、首を掻き斬られたそうです」 「その殺し屋は? 一流なんやろ?」 「阿山組に連れ去られたそうで、行方不明。組本部には遺体が 見つからなかったそうです。恐らく、どこかに監禁されているか、 すでに、この世を去ったか…。阿山組の事だ…きっと、奴も この世を去っただろうな。…まぁ、その方が、わしら、 落ち着けるけどさ…」 「…それでも…阿山組の事だろ…」 「はぁ?」 「常に気は張っておけ……」 静かに言った雅春は、再びカルテを書き始めた。 その言葉が気になる水木と須藤は、雅春の複雑な心境に気が付いた。 阿山組に関する情報を欲しがる事に対して…。 「院長」 「はい」 「…やはり、噂は本当なんですね」 「噂?」 須藤の言葉に首を傾げる雅春。 「ご友人……関東に居た頃のご友人が、刑事だったと…それも、 阿山組の本部前で命を落とした刑事の中に居た……」 「…そうだよ…。俺の友人は、刑事だ。そして、阿山組に殺されたも 同然だよ。…あの日…停めておけば、あいつは命を落とさなかった。 だけど、あいつの勢いには…負けてしまうんだよ…」 そう言って、雅春は水木達に振り返る。 「どうしてかな…」 声が、震えていた。 「…すみません…院長。触れてはいけない事だったんですね」 須藤が言った。 「これ以上、知っている者を失いたくないんだよ。お前らのように 命のやり取りが当たり前の世界で生きている奴らでもな」 「…院長…」 「だから、お前ら…本当に、気を付けてくれよ。もし、狙われたら、 絶対に、ここに来い。俺が治してやる。あの世から引き戻してやるから」 いつにない、雅春の表情に、須藤達は、心を打たれた。 命のやり取りが当たり前の世界。自分たちは、そこで生きている。そんな自分たちを心配するのは、組の者だけだと思っていた。しかし、今。こうして、全く違う世界で生きている男…命を救う世界で生きている男からの言葉が、ずしりとのしかかってきた。 負けていられない…。この人の期待を裏切らない。 そう決意する須藤たち。 「これからもお世話になります」 思わず、声を揃えていた。 「仕事を増やすなよ。患者はお前らだけじゃないんだぞ」 「なるべく……………気を付けます…」 「そうしてくれ」 いつもの表情になる雅春に、安心する須藤達だった。 その日の仕事を終え、雅春は、総合病院の敷地内にある自宅に戻ってきた。 患者が途切れた事、仕事をしっぱなしだったことを、他の医者にきつく言われて、久しぶりに自宅に戻る。何もかも忘れてくつろぎ始めた時、昼間の水木の言葉を思い出した。 天地組壊滅…。 数ヶ月前に聞いた、元気な声。無事だ、元気だと解った、原田まさ。行方不明、もしかしたら、既に…。 自分で治療出来る奴だから……。 そう思ったものの、水木達から聞く阿山組の非道さに、自分の考えは崩れていく。 命を何とも思っていないらしい。 …原田……生きてるのか…? 大きく息を吐いて、ソファにもたれかかった時だった。 突然電話が鳴る。 その音に驚いた雅春は、慌てて受話器を手に取った。 「もしもし」 『………』 相手は何も話さない。もちろん、雅春も口を開こうとしない。 暫く沈黙が続く。 「……ふっ…俺が心配したとでも思うのか? 原田」 『それならいい』 「って、おいおいぃ、何の連絡なんだよ!」 相手が電話を切ると思ったのか、慌てた口調で雅春が言う。 『切らないって。…もしかして…こっちの噂…』 「あぁ。水木から聞いた。…親分……お前…阿山組に…」 『逃げてきた…だけど…』 先程まで明るい声だった、まさ。あの惨事を思い出したのか、言葉が詰まる。 「お前が無事なら、それでいい。……大丈夫か? 何か遭ったら いつでも、俺に連絡してこい。話……聞いてやるから。 心に秘めていると、体に悪いぞ」 『聞き飽きてるよ、その言葉は』 まさの声は震えていた。 「もしかして、助手の話…」 『まだ諦めてないんか…ったく』 「いいだろが」 『そっちこそ、落ち着いただろ?』 「まぁな。暫くは、関西だけで暴れるだろうな」 『橋の腕も上達するだろ』 「もっと上達してやる」 受話器の向こうで、まさが笑っていた。 その声を聞いて、雅春は安心する。 「ところで、なんでこっちに掛けてきた? ここに居るとは限らんだろ」 『病院の方に掛けたら、自宅だと言われたからだよ』 「…番号は、誰も知らんはずだぞ」 『俺を誰だと思ってるんだよ。仕事柄、情報は持っている』 「俺の細かい所まで、知ってるんか…?」 他人に知られたくない事まで、知っているのでは…と考えた途端、ちょっぴり怒りがこみ上げる雅春。 『体の何処に、ほくろがある…ということまでな』 「…原田……てめぇ〜、あの時……」 『冗談だって』 まさの口調に、呆気を取られた雅春だった。 「あ、…あのなぁ〜。…そんだけ言えるなら、ほんまに大丈夫なんやな」 『あぁ。…心配掛けた。…でも、もしもの事がある』 「解ってる」 まさの言葉を遮って、雅春は力強く応えた。 「…それでも、時々…連絡くれよ。俺はいつでも待っとるで」 『橋……。………なぁ』 「…ん?」 『関西弁に染まってきたな…』 「そりゃぁなぁ、あいつらに付き合ってたら、移るもんやで」 『怖さも拍車を掛けてるだろ?』 「そうかなぁ〜。…あっ、そうや」 『なんだ?』 「俺も、お前の体の何処に、ほくろがあるか…お前のことなら、 細かな所まで知ってるぞぉ」 『……ほんとに、あの時、体の隅々まで調べたんだな……ちっ!』 「当たり前だ。他に傷があったら、それこそ………怪我は?」 『自分で治療出来るから、安心しろって……。…切るぞ』 「…あぁ」 『ちゃんと休めよ』 「解ってる。お前こそ、無理するな。…いつでもこっちに来ていいからな」 『…ありがと……。橋……いつも…ありがとう…。…じゃぁ…』 「あぁ」 耳に聞こえる音が、一定のものに変わる。 雅春は、そっと受話器を置き、暫く電話を見つめていた。 無事だったんだな…。 張りつめていたものがあったのだろう。 雅春は、急に眠気に襲われ、ソファに寝転び、そのまま深い眠りに就いた…………。 東北にある高級ホテルの一室。 まさは、受話器を置き、雅春の声を聞いて、落ち着いた心の余韻に浸っていた。 背後に何かを感じ、まさは振り返る。そこには、春樹が静かに立っていた。 「誰に連絡だ?」 まさの落ち着いた表情を見て、春樹は気になったのか、思わず『刑事口調』で尋ねてしまう。 「もう一人の親……かな」 少し照れたような口調と表情。春樹は、その表情に何かを感じた。 「そうか」 それ以上何も聞かず、春樹はソファに腰を掛け、テーブルの上の白い箱に手を伸ばした。 「…!!!! 放せって」 伸ばした手は、まさによって止められていた。 「傷口は塞がっていても、体に悪いですよ」 「それなら、なんで置いてるんだよ」 「知りませんよ!」 そう応えると同時に、まさは、素早く白い箱を取り上げた。 「あっ…」 名残惜しそうな表情で、手を伸ばしている春樹は、まさの眼差しに負け、諦めたように手を引っ込めながら、ソファにドカッともたれかかった。 「大丈夫なのになぁ」 「これを機に禁煙なさったら、どうですか?」 「五月蠅いっ」 「すみません…」 まさは、少し離れた所にある棚の引き出しに、白い箱を入れ、ソファに戻ってくる。 「何か…飲みますか?」 「…お茶」 「はい」 まさがお茶を煎れ始めた。春樹は、まさの仕草を一つ一つ見つめている。 まるで、隠された何かを観察するかのように。 まさは、湯飲みをお盆に乗せ、ソファ近づいた。 「どうぞ」 「ありがと」 ゆっくりとお茶を飲む春樹は、その間、まさが立ったままであることに気付く。 「何してんだよ。座れって」 「…あ、はぁ」 「…癖か?」 「癖?」 「天地に対して、そうだったのか?」 「…親分に対する態度だろ…当たり前さ…」 まさは、何かを思い出すような表情に変わる。 「……でも」 「でも?」 「………。いいや…何も…」 「話したくないのか?」 「あんたに話せないって」 「…なら、聞かないよ」 春樹は、お茶を飲み干す。 「取り敢えず、地山さんに頼んできた。これからの生活は 原田、お前次第だ。どうだ? できるか?」 まさは、暫く考え込む。 「もし俺が、あの世界に戻ったら………どうする?」 静かに尋ねるまさ。しかし、春樹は怯みもせずに、まさを見つめていた。 「それは、俺の知ったこっちゃない」 春樹は、立ち上がり、先程まさがしまい込んだ白い箱を取り出し、そして、蓋を開ける。 煙草に火を付けた春樹は、味わうように煙を吸い込み、そして、ゆっくりと吐き出した。 「あんたが、手を染めるなと言っただろが」 春樹は、ゆっくりと煙を吸い込み、勢い良く吐き出した。 「そう尋ねて、そう言う奴は、もう新たな世界に飛び込む 決意をしているんだよ。…俺を試そうとするなんて 無駄な足掻きだ」 「真北…」 「もう、自分で考えて、そして、行動できる年齢だろが。 それに、もう、自由の身だろ? お前の好きに生きろ」 「……何も考えてない…」 「壊滅された後の事、考えて…なかったのか?」 「あぁ。誰も、そんなこと考えないだろ…あの世界じゃ」 「それもそっか」 春樹は、何かひらめいたのか、急に煙草をもみ消した。 「原田」 「なんですか?」 「お前、この天地山の事は詳しいんだろ?」 「はぁ、まぁ、故郷ですから、細かな所まで」 「それなら、天地山を守っていけ」 「はぁ?!? 守れって、ここの広さ、御存知でしょうがぁ!」 「知ってる」 「俺一人でって、…あのね……」 「何か目標があった方が、生きていけるだろ?」 「そりゃ、そうですけど…」 「ここを守りながら、医者になるってのは、どうだ?」 春樹の言葉に目を細めて、馬鹿にするような眼差しを向ける、まさ。 「あのね……両立させるのは、無茶すぎますよ!!」 「そこまですれば、忘れるさ…」 「……まさか、真北さん」 「あん?」 軽い口調で返事をして、まさを睨み上げる春樹。 俺の事を尋ねるのか? その目は、そう語っていた。 「すみません…」 しゅんとなる、まさ。 「…その通りだ」 まさが尋ねたい事に気付いていたのか、春樹は短く応えた。そして、新たな一本に火を付ける春樹。もちろん、その手は……。 「駄目だと言ってるでしょうがっ!」 その素早さに、流石の春樹も驚いていた。 「いいだろぉ」 「駄目です」 「……ケチっ」 春樹はふくれっ面になった。 阿山組本部。 慶造達が東北から帰ってきた。組員や若い衆が一斉に出迎える。玄関先に車が停まり、後部座席のドアが開く。 慶造が降りると同時に、大きな声が響き渡った。 「お帰りなさいませ!!」 慶造は、軽く手を挙げて、玄関へ入っていった。そこへ栄三が迎えにやって来る。 「お疲れ様でした」 「留守の間、ありがとな」 「楽しいひとときでした」 「手…付けてないよな…」 「って、四代目っ!!」 「冗談だ」 そう言って軽く笑った慶造は、その足をちさとの部屋の方へと向けた。修司が遅れて玄関へやって来る。 「栄三ちゃん、四代目は?」 「姐さんとこ」 「……手ぇ付けてないよな」 「おじさんまで、四代目と同じ事言うんですかぁ? それとも 手を付けて欲しいんでしょうかねぇ」 「栄三ちゃんなら、小さな子でも、やり兼ねんだろが」 「おじさんほどじゃぁありませんよ…うごっ! す、すみません…」 栄三の腹部に修司の拳が突き刺さった……。 慶造は、ちさとの部屋のドアをノックする。 『はぁい』 「ちさと…」 慶造が言い終わる前にドアが開き、ちさとが廊下に出てきた。 「…ただい………?!??!!!!」 バシッ!!!!! 平手打ちの音が、本部に響き渡った…。 その音に、玄関先で話していた修司と栄三が気づき、聞こえた方へ勢い良く駆け出した。 「…ち、ち……?!???」 慶造の頬には、真っ赤な紅葉が咲いている。 ちさとがグッと拳を握りしめ、慶造を睨んでいた。 「四代目、何か…………っと……」 駆けてきた足に急ブレーキを掛ける修司と栄三。ちさとと慶造の雰囲気に、思わず一歩下がってしまう。 ちさとの周りには、怒りのオーラがメラメラと……。 「あ、姐さん…?」 先程までちさとと笑顔で話していた栄三。ちさとの豹変に驚きながらも、声を掛けるが…。 「うるさい」 怒鳴られた。 「…あなた…………。どうして…」 「ちさと…」 「真北さんに言われたんでしょう? 血を流さないようにと。それなのに どうして、……あのような事を?」 「ちさと…お前だって……同じ思いだろ?」 「慶人の命を奪ったのは、天地龍征よ。…憎んでいない…そう言うと 嘘になる。…私のこの手で…どれだけ……。だけど、そうするなと 言ったのは、あなたでしょう? 言ったあなたが、奪って……」 「それなら、いいだろがっ!」 「!!!! 良くないっ!」 ちさとが拳を振り上げた。今にも振り下ろされ……。 「姐さん!」 「慶造っ!」 「!!!」 慶造が、振り下ろされるちさとの拳を掴み、ちさとを壁に押しつけた。 背中をぶつけたちさとは、あまりの痛さに顔を歪める。 ちさとを抑えつける慶造の手が震えている。 「慶造! お前、何を!」 「停められたなら、……どれだけ、良かったか…」 慶造は俯き加減に、そう言った。 「あなた……」 「組は関係ない…。父親として…そして、夫としての気持ちだ…」 「……それでも…」 「そうだな…それでも、抑えるのが、当たり前だよな」 ちさとから手を放し、距離を取る慶造。 「真北は、明後日に帰ってくる。向こうで傷が開いて、熱が出たんだよ。 暫く安静が必要だから、俺達だけ先に帰ってきた。それ以外は元気だ」 矢継ぎ早に話した慶造は、そのまま、自分の部屋へと向かっていった。 「慶造?」 修司の声も耳に届かないほど、慶造は落ち込んでいた。 その場に重たい空気が流れていた。 慶造の部屋。 慶造はベッドに寝転んでいた。そこへ、修司がやって来る。 「ちさとちゃんは、栄三ちゃんが」 「………あぁ……」 「真子ちゃんの顔…見なくていいのか?」 修司の言葉に反応しない慶造。 「慶造」 心配したのか、修司は慶造に近づき、顔を覗き込むが……、 睨まれる……。 「慶造、氷持ってこようか?」 「いらん…」 ちさとに叩かれた頬は、真っ赤になって少し腫れていた。 「強かったんだろ? 響き渡ってたぞ」 「………悪いのは、俺か?」 「俺だ」 修司が言った。 「なんで、修司が悪いんだよ」 「ちさとちゃんに言われたんだよ。出発する直前に」 「何を?」 「慶造を停めてくれ…ってな」 慶造は、目を反らす。 「ちさとちゃんに叩かれるのは、俺なんだけどな…」 修司の言葉と同時に、慶造の拳が修司の腹部に突き出される。もちろんの如く、修司は、手のひらで受け止めていた。 「ちさとが怒るの…当たり前か…」 「お前が無事だった。怪我しなかった。だけど、手を掛けた。 色々な思いが複雑に絡まった結果だろ」 「……俺の思い………周りに伝えながら、俺自身が崩してるよな…」 「まずは、本能との闘いだな」 「………気が付いたら、あのような行動に出ていた。…真北の声で 我に返った時は、すでに……」 「忘れろって」 「ちさとが怒ってるのに、忘れられないだろが」 「あのなぁ〜」 そう言って、修司は慶造の胸ぐらを掴み、慶造の体を起こした。 「お前が弱気になってどうするんだよ! まだ、これからだろが。 真北さんだって、何かを忘れるかのように必死になって 協力してくれているだろ? それに応えるように動けよ!」 「…修司……」 「そして、自分で自分を追い込むな。お前は一人じゃないだろが」 「追い込んでない……ただ……」 「ん?」 慶造は、自分の両手を見つめていた。 「慶造?」 「この手で奪った命……かなりあるよな…」 「そうだな」 「……抱き上げたいけど……できないよ」 「誰を?」 「……真子。………普通の暮らしをして欲しい。ちさとの願いだ。 これから、普通の暮らしをする我が子を…この手で抱き上げても いいのだろうか……。そう考えると……」 「いいだろ。お前は、父親なんだから」 「ちさとが怒ったのは、それもあるんだろうな…」 「血で汚れた手で、真子ちゃんを触るな…ということか?」 「…あぁ」 「それは、直接聞け」 「修司……」 「ったく。お前は、どうして、ちさとちゃんの事になると、弱気になるんだよ。 惚れた弱みには取れないぞ? …それとも、まだ…気にしてるのか? 山中を連れ回す事に躊躇うのは、そうなのか? 山中は、自らこの世界に 飛び込んできたんだぞ? それに応えてやれよ」 「無理だよ。…大切な者を、危ない世界に引き込むのは…」 「慶造…まだ、自覚ないのか? …お前は、阿山組四代目なんだぞっ!」 怒りのあまり、更に引き寄せて、慶造に怒鳴りつける修司。 「慶造!」 「……暫く…休ませてくれ……誰も…来るな」 「俺も…か?」 「あぁ…修司……お前が居たら、甘えてしまう…」 「なるほどな…。俺がいつまでも側に居るから、お前が四代目としての 自覚を失うんだな。それなら、俺はお前から離れてやる。 指導しなければならない立場になれば、そうも言ってられないだろ…。 これから、側には、山中を付けておけ。いいなっ!」 冷たく言って、修司は手を放す。その弾みで、慶造は寝転んでしまった。 「俺は、お前の為に、周りを固める。これから、一人で考えろ。 いつまでも俺を頼るから、そうなるんだな……」 「修司……」 修司は、振り返りもせず、慶造の部屋を出て行った。 静かに閉まったドアを見つめる慶造。 くそっ! ドアに向かって、枕を投げつけた。 ちさとの部屋。 ちさとの手に包帯を巻く栄三。 「やりすぎです」 「気が…納まらなかったの……」 反省しきった表情で、ふくれっ面のちさとが寂しそうに呟いた。慶造を平手打ちしたことで、ちさとの手のひらは、腫れていた。 「暫く、腫れが引かないと思います。その間…真子ちゃんの世話は…」 「出来ます」 「あまり無理なさらないで下さい」 ドアがノックされる。 「はい?」 『猪熊です』 「どうぞ」 「失礼します。…その……慶造は、暫く一人になると…」 「そう………」 ちさとの返事は冷たい。 「それと、慶造が…」 「ん?」 修司は、先程、慶造の部屋で聞いた慶造の言葉を、そのままちさとに伝えた。 ちさとの目は見開かれ、そして、すぐに部屋を出て行く。 向かう先は慶造の部屋。 慶造の部屋の前にやって来たちさとは、ドアノブに手を伸ばす。 ノブを握る前に、ノブが動きドアが開いた。 「!! ちさと……」 「あなた……!!!」 ちさとは、慶造に飛びつくように抱きついた。 「って!! うわっ!」 慶造は、ちさとを抱きかかえたまま、真後ろに倒れる。 「ちさと…どうした? …ちさと?」 慶造の胸に顔を埋めるちさとは、震えていた。 「あなた…ごめんなさい…。あなたの気持ちも考えずに…私…。 …感情に先走っていたのは、私の方だったのね……。 ごめんなさい……」 涙目で慶造を見つめ、そして、先程叩いた頬に、優しく手を当てる。その時、慶造は、ちさとの手に巻かれた包帯に気付いた。 「腫れたのか?」 その手を優しく包み込むように握りしめ、慶造は、ちさとを力一杯抱きしめた。 「気にするな。……これで最後にするから………ごめんな…」 慶造の腕の中で、ちさとは首を横に振る。 「…泣かないで……笑顔を見せてくれよ…」 「真子を抱きしめてあげて…」 「出来ないよ…」 「猪熊さんから聞いた。……真子の父親は、あなたよ?」 「解ってる。…だけど、この手から、真子に伝わったら…」 「あなたの血と私の血が混ざってるのよ…。そして、ここで 育てる限り、普通の暮らしは無理だわ……。だから、お願い」 「ん?」 「真子が成長するまでに……終わらせて……」 「ちさと……」 「…もう……心配させないで……」 「………あぁ」 グッと抱きしめる慶造。 長い間、二人は全く動こうとしなかった。 「…なぁ、ちさと…」 先に口を開いたのは、慶造だった。 「なぁに?」 次に出る慶造の言葉を期待するちさとは、爛々と輝く目で、慶造を見つめる。 「……腰…痛い……」 「!!!」 どうやら、倒れた時に、腰を強打した様子。 「大丈夫?!?」 慌てて体を起こすちさと。しかし、慶造は動く気配を見せない…。 そう言えば…慶造さん…腰が…。 その昔、子供を抱きかかえた事で、ぎっくり腰になったことがある。それを思い出したちさと。 「立てますか?」 ちさとの問いかけに、ゆっくり首を横に振る慶造。 「栄三ちゃぁん!!」 ちさとの声が廊下に響き渡り、駆けつける足音と重なった。 (2004.9.25 第四部 第二十八話 UP) Next story (第四部 第二十九話) |