第四部 『絆編』 第三十三話 天地山での過ごし方 「はぁ、はぁ………くそっ…」 物陰に身を隠す春樹。左腕に手を当てた指の隙間から血が流れ出す。素早く止血を行い、辺りの様子を伺う。 人の気配を感じない。 春樹は意を決して、飛び出した。 「居たぞっ!」 「待てやっ!!!」 逃げる春樹を追いかける六人の男。それぞれが手に銃を持っていた。 先頭を走る男が立ち止まり、春樹の背中に照準を合わせる。そして、引き金を引いた……。 銃声!!! ちさとは、驚いたように目を覚まし、起きあがる。 ゆ…夢?? 視野に飛び込む景色は、見慣れた自分の部屋。汗をびっしょり掻いている自分に気付く。 「ちさと、どうした?」 部屋の奥から声がした。振り返ると、そこには、真子を抱きかかえた慶造が居た。 「…真北の夢でも見てたのか?」 「えっ?」 「真北さん……って、言ってたぞぉ、なぁ、真子」 真子は大きく頷く。 「あっ、…その……」 何故か焦るちさと。 「嫌ぁな夢だな」 慶造が、ちょっぴり嫉妬っぽく言った。 「…えぇ。本当に…嫌な夢だった……」 ちさとの言葉で、どんな夢を見ていたのか想像が付く慶造は、やれやれといった表情で、ちさとに近づき、側に腰を下ろした。慶造の腕に抱かれていた真子が、ちさとに両手を差し出している。ちさとは、真子をそっと抱きかかえた。 「真北さん…狙われて…銃声が…」 心配そうに言ったちさと。慶造は、ちさとの頭をそっと撫でる。 「怪我は軽いって言っただろ」 「でも…栄三ちゃんと別れた途端…」 「相手が相手だったんだから。真北は無事。そして、今日は 天地山に向かうと連絡があったから。小一時間ほどで 到着するだろ」 「天地山では、原田さんが?」 「まぁ、様子を見るとも言ってたから、行くだろ」 「……大丈夫ですよね」 「あぁ」 慶造は、ちさとを腕の中に包み込み、そして、頬に唇を寄せた。 「さてと」 立ち上がる慶造は、背伸びをする。 「あなた、もしかして…」 「飛鳥たちが集まるからさ」 「そうですね」 真子の前では、組関係の言葉を決して発する事はしない慶造とちさと。それは、まだ幼い真子のこれからの事を考えての行動だった。 普通の暮らしを目指す。 その為には、発達し始めた真子の記憶に留めたくない言葉がたくさんある。組員にも、それを伝えている。真子が生まれてからは、ちさとが『姐さん』と呼ばれるのは、真子が居ない時にだけ。頭の切り替えの早さも、組員達にとっては勉強のうち。 「じゃぁなぁ、真子。またお昼なぁ」 「あい! ぱぱ、おぃる!」 少し言葉がわかるようになった真子が、元気に返事をする。慶造は、真子の頭を優しく撫でて、ちさとの部屋を出て行った。 廊下では勝司が待機していた。慶造の姿を見て、一礼する。慶造は、すぐに『四代目』のオーラを醸し出した。 「集まってるのか?」 「はっ」 「今日は、山中が進行しろ。これも勉強のうちだ」 「はっ。がんばります」 「…程々にな」 「四代目ぇ〜」 「どうせ、真北と栄三の行動に対する返事だろ?」 「そうなります」 「あまり、乗り気じゃないのになぁ」 「猪熊さんが怒りますよ」 そんな会話をしながら、二人は会議室へと向かっていった。 天地山最寄り駅に電車が到着した。数えるほどしか乗客が乗り降りしないこの駅に、春樹がやって来た。階段を下り、改札を出て、隅の方に立ち止まる。そして、煙草に火を付けた。 煙を吐き出し、とある場所に目をやった。 そこには一人の男が立ち、春樹と目があった途端、一礼した。春樹は、その男に近づき、そして、一緒に歩き出す。 「その後、どうだ?」 「変わりありません」 「元気なら、心配しない」 「あなたこそ…」 そう言って、男は停めてあった車の助手席のドアを開けた。 「久しぶりに頂上…行ってもいいか?」 「こちらに来られた時は、のんびりなさってください」 「あぁ。ありがとな」 春樹は車に乗り込んだ。運転席に座ったのは、まさだった。 アクセルを踏み、車を走らせるまさ。暫く走る車の中。春樹は、何か深刻に考え込んでいた。急に動き出したかと思うと、春樹は懐に入れている手帳から、一枚の紙切れを取り出した。 「原田。お前、医学に詳しいなら、これ、できるか?」 「なんでしょうか…」 信号待ちの時、まさは、春樹の手にある紙切れを受け取り、そこに書かれている文字を読む。 あれ、この名前と調合って…。 どこか見覚えのある文字に、まさは首を傾げる。 「できますが、揃えないと難しいですよ。しかし、これは…」 「俺専用の秘薬」 「秘薬?」 「痛み止めという言葉が当てはまるかな…。本部に居るときは 美穂さんに調合してもらうんだけどな、常備してる分が そろそろ無くなりそうなんでな、本部に戻る時間が無かったから、 新たなものを手に入れる事が出来なかったんだ。そこで、 原田に頼もうかと思ったんだが…。薬品は地山さんに言えば なんとか調達できると思うが、調合するのはなぁ」 「どれくらい必要ですか?」 「このサイズの薬瓶を十本、常備してあるんだけど、 九本が空っぽだったりして…」 春樹の手にある小さな薬瓶。その薬瓶にも見覚えがある、まさ。 それって……。 少し気になりながらも、まさは運転に集中する。 ん??? 「…って、真北さん、怪我してるんですか?」 「……いいや…」 まさは、何かに気付く。 「血の臭いしますよ…御自分で手当てを?」 「あぁ。ちょことぉっと深く切れただけなんだけどな」 「縫合なさったんですか? …まさか、テーピング……」 「その…まさか…なんだが…」 「小屋に付いたら、診せてもらいますよ」 医療が絡むと、ちょっぴり口調が荒くなるまさだった。 小屋に到着した春樹とまさ。ソファに座った春樹のシャツを剥ぎ取り、左腕の傷を診る。 テーピングされているものをゆっくりと解くと、血で汚れた傷口が、ぱっくりと口を開けていた。 「見事に…。それに相手は素人同然ですね」 「見ただけで解るとは…流石だなぁ」 「なので、油断した…?」 まさの言葉に、春樹は何も応えない。 「痛みは?」 「それのお陰で、抑えられている」 「そうでしょうね」 「で、その秘薬…出来るのか?」 「時間を頂けるなら、調合しますよ」 「じゃぁ、それまで、のんびりさせてもらうとするか」 「ゆっくりと羽を伸ばして下さい」 「あぁ」 会話をしながら、まさは春樹の傷を綺麗に消毒し、縫合していった。その指さばきに見惚れる春樹。 「まるで芸術だな」 縫合の跡を感心しながら眺める春樹。 「なぁ、本部に来ないか?」 「本部って、阿山組ですか?」 「あぁ」 「美穂さんが居られるでしょう? 私の役目は…」 「本来なら、美穂さんは道病院で働く医者なんだが、小島の 想いを大切にしたいらしくてな…。自ら専属医となったんだそうだ」 「そうですか……」 「……で…奥、借りていいか?」 「お疲れですか?」 「まぁな。ここに着いて、原田の顔を見た途端、なんだか 急に疲れが出てきた」 「では、夕方には起こします」 「あぁ、そうしてくれ」 そう言って、春樹は奥の部屋へ入っていった。 「あっ真北さん」 何かを思い出したのか、春樹を追いかけるように部屋へ入るまさ。春樹は、ベッドに倒れ込むように眠っていた。 「寝ておられなかったんですね…」 まさは、春樹の体を動かし、そっと布団を掛ける。額に手を当て熱を測る。 「ごゆっくり…」 そっと部屋を出て行くまさだった。 片づけを済ませ、ソファに腰を掛けたまさ。テーブルの上に置かれた紙切れを手に取り、じっくりと見る。 この文字は…橋だよな…。冷たいような温かいような雰囲気のある文字…って…。 ソファの背もたれに掛けられている、春樹の上着の内ポケットに手を入れ、先程目にした小さな薬瓶を手に取った。見た目には、解らないが、瓶の側面には橋病院のマークが入っていた。 …………橋と関わりのある人物…? ………あっ…。 まさは思い出す。 友人が刑事、そして、阿山組の事件に巻き込まれ、命を落とした友人。 あの日、治療に来ると言って、待っていたよな…。まさか、その友人が…。 気が付くと、まさは、受話器を持ち、電話を掛けていた。 『……なんだ?』 ぶっきらぼうに応対する相手は、橋総合病院の院長・優秀な外科医の橋雅春だった。 「仕事を終えた所ですか?」 優しい声で、まさが言った。 『いいや…仕事無くて…暇ぁ〜』 「良い事じゃありませんか」 『腕が鈍るやろが』 「おや、大阪では水木たちが暴れてるんじゃ?」 『ここ二週間程、大人しいんだよ。何が遭ったのか知らんけど』 ここ二週間って、真北さんが動いていた時期…。 あの人、大阪で何を??? 『原田ぁ、どうした?』 「あの…例の秘薬の事なんですが…」 『あぁ、あれか。渡した分、無くなったのか? また送るぞ』 「いいえ。その…薬品だけあれば、自分で調合できます。 あの日、教えて下さったので…」 『そうだったなぁ。ほな、手配しとこか? 早めがいいか?』 「そうですね、できれば、明日にでも手元に欲しいくらいです」 『原田…』 雅春の声が低くなる。 「はい?」 『お前、やばいことしてへんやろな…戻ってへんやろな?』 「戻ってません。…ただ、お世話になっている方の為と思いまして…」 『地山さんだっけ。そういや、極道だったな』 「今では、足を洗った私の事を優しく見守って下さる方です」 『それでも………。……お前の事だからなぁ。…手配しとくで』 「ありがとうございます。その…秘薬なんですけど、俺の他に誰か 知っている人、おられるんですか?」 沈黙が続く中、雅春が静かに口を開く。 『……おった…。お前に話して無かったっけ? あの日…原田が 瀕死の重傷を負って病院に来た頃に、友人の事…』 「その方のために、依頼を受けた…覚えてますよ。その方に?」 『あぁ。あいつ、しょっちゅう怪我して、治療に来るもんだから、 その秘薬を渡しておいたんだよ。一応、調合のメモも渡したよ。 ……怪我に効くと言って、喜んでたよなぁ…』 雅春の口調で、雅春の心は整理が付いていると悟るまさ。 …やはり、真北さんは……。 『原田も落ち着いたなら、こっちに遊びに来いよ』 「お断りします。そのまま放してもらえなさそうですから」 『……ちっ。お見通しか。………おぉっ、急患だぁ』 嬉しそうな声に、まさは嘲笑する。 『ほな、原田。天地病院に手配しとくで。それと、例の薬もな。 発作が無いと言っても、常備しとけや』 「心遣いありがとうございます。橋、無理するなよ」 『ありがとさん。ほななぁ』 受話器から、一定の音が聞こえる。まさは受話器を置きながら、安心したように微笑んでいた。 仕事好きだなぁ、ほんと。…大阪弁に染まってきたかな? まさは、春樹の居る部屋に目をやった。 生きている事…橋に伝えていない?! 雅春との会話で気が付いたまさ。 なぜ、春樹が伝えていないのか、疑問に思い始めた。 夕方。 春樹は、心が和むような香りで目を覚ます。 すっかり寝入っていたんだな…。何年ぶりだろ…。 父が亡くなってからは、気が気でない春樹。 いつ狙われるか…そう思うと気を張ってばかりいた。夜も熟睡することはなかった。それは、阿山組に住み始めた途端、ピークに達していた。 夜も眠れない…。 いつ、襲われるか、そう考えると眠れなかった春樹。しかし、なぜか、この天地山では、気を張る事もなく、熟睡していた。 春樹は、部屋を出る。 目の前にあるテーブルには、見事な料理が並んでいた。 「調子はどうですか?」 料理を並べるまさが、優しく尋ねる。 「熟睡できたよ。…どうしてだろな」 「えっ?」 「俺、大きな怪我した時以外は、熟睡しないのにな。なぜだろ…」 「ここの空気ですよ。特に天地山の麓に来れば、安心出来ますから。 恐らく、山が見守ってくれているからでしょう。…その…張り切って 作ったんですが…よろしいですか?」 「あぁ。おいしそうな香りで目を覚ましたよ。いっただきまぁす」 爛々と輝く目をして、春樹は料理に箸を運び始めた。 「あっ、そうだ。明日、地山さんに挨拶しようと思ってるんだが、 原田も一緒に来るか?」 「私は、遠慮します。毎日逢ってますから」 「なるほど…」 「…その…食事中に申し訳ないんですが、…お聞きしたい事が…」 「ん? 何だ?」 「秘薬の調合…。あれは、美穂さんが?」 「言わなかったか? 俺の友人からだ。怪我ばっかりする俺の為に 作り出した秘薬だってさ」 「ご友人は、もしかして、医者?」 「あぁ………。原田…お前を信じて、俺の事を話すよ。…任務も 関係してるから、俺の過去は、全て消してある」 「過去を消す?」 「特殊任務の組織には、容易いことなんだよ。慶造にも内緒だ。 そうしないと…もし、何かの弾みで俺の正体が知れ渡り、 やくざの行動から考えられる事…それは、身内や知り合いを 傷つけることだ。そこから精神的に責めていく…そうだろ?」 「そうですね。その方が、責めやすい…」 「その為だよ。………現に、俺の親父が殺された頃、俺達は 狙われた。……弟が居てな…その弟を狂わせたんだ…」 春樹の表情が暗くなる。 「…真北さん…すみません…俺……」 「気にするな。本当の事…俺が、やくざに対して躍起になってしまう 原因となったことだからさ。…医者の友人は、幼なじみなんだよ。 本来なら、親父さんの跡を継いで、内科医になるはずだったんだが、 俺の怪我をしょっちゅう診ていたから、外科医に転向したよ。 その友人は……俺が死んだと思ってるだろうな」 「生きておられる事、どうして、伝えないんですか? ご友人は、 すごく心配していたのでは?」 「していただろうな…」 してましたよ、真北さん。橋は、涙を流して、そして、俺に依頼を…。 「でも、その友人にまで、危害が及ぶ可能性がある。だから、俺は 敢えて伝えなかったんだ」 う〜ん、橋自身が危害を与えそうだなぁ〜。 そう思いながら、まさは、春樹の話に耳を傾ける。 「………もし、あいつにまで危害が及べは、俺は、お前以上の動きで 敵を倒していただろうな…」 春樹は、お茶を飲む。 「お伝えすれば、どうですか?」 「今は……できないよ」 春樹の寂しげな眼差し。 無理をしている事が、ありありと解る。 「もし、違う形で原田と会っていたら、俺…お前の腕を見込んで あいつに紹介してるかもしれないよ」 「俺の腕の方が上だったら、どうされますか?」 「あいつが怒りそうだ」 春樹は笑った。 「それなら、そのままの方が、よろしいかと思います」 まさも笑顔で応えていた。 「…いつかきっと…。慶造の思いが達成したら、俺……」 言おうとした言葉を飲み込むかのように、春樹は、料理を口に運び始めた。 真北さん……。 力になりたい。 そう想いながらも、まさは何も言えず、春樹と同じように料理を口に運ぶだけだった。 再び、熟睡する春樹。 怪我の影響もあるのだろう。ちょっとした物音にも反応せず、春樹は眠っている。 まさは、テーブルの上に書き置きを残して、小屋を出て行った。 まさは、天地病院に足を運び、そして、地山一家の事務所に向かう。 車から降りた時、動悸を感じたまさ。気になりながらも、組員の出迎えの中、事務所の奥にある地山の部屋へと向かっていった。廊下を歩いているとき、一人の組員とすれ違う。軽く挨拶を交わし、地山の部屋へと入っていく。組員は、挨拶を交わしたまさの後ろ姿をジッと見つめていた。 朝日が昇り、辺りを明るく照らし始める。輝く大自然を小屋の外で眺める春樹は、大きく背伸びをする。足音で振り返る春樹。 「おはようございます。すっかり元気になられたようで」 「おう、おはようさん。帰ってこなかったけど、何してた?」 春樹の言葉に応えるように、まさは、懐から箱を取り出す。 「……そんなに簡単にできるものか?」 「薬品が揃ってましたので、すぐに。どうぞ」 「ありがと」 箱の中身を確認して、春樹は懐にしまい込む。 「空気もおいしいな…」 「はい。…頂上行きますか?」 「いいや、まだ体力は戻って……!!!」 人の気配を感じた春樹は、警戒するように振り返った。まさも同じように振り返る。その仕草は警戒心を感じない。 「まさ兄ちゃん!!」 嬉しそうで、それでいて弾んだ足取りで駆けてくるのは、かわいい女の子とその母親らしき女性。女の子は、まさに向かって飛びついた。 「かおりちゃん。元気だったかぁ?」 「うん! まさ兄ちゃんも!」 まさは、かおりを抱きかかえた。視線が高くなったかおりは、まさの肩越しに見える人物・春樹に気づき、睨み付けた。 「まさ兄ちゃん、あのおっちゃん……誰? もしかして、まさ兄ちゃんを…」 「俺を救ってくれた人だよ。真北さん。話しただろ?」 「だけど…親分さんを…」 「あれは、仕方ない事と言わなかったか?」 少し声のトーンが下がるまさに、かおりは暗い表情をする。 「ごめんなさい。でも……何しに来たの? まさ兄ちゃんを捕まえに?」 「それは、無いよ。初めまして。真北春樹です。お嬢ちゃんは?」 「牧野かおり」 名乗り方は、すごく冷たい。 少し離れた所に居るかおりの母に苦笑いをする、まさ。かおりを地面に下ろし、春樹に振り返る。 「こちらは、牧野里沙さん。親分の友人の奥さん」 「初めまして」 母の里沙は、深々と頭を下げる。春樹の頭を下げていた。 「ねぇねぇ、まさ兄ちゃん」 「ん? あっ、そうだ、かおりちゃん、確か学校は…」 「うん。まさ兄ちゃんが居るって知ったら、もう一日延ばしたのにぃ」 「なにを?」 「今日、寮に戻るんだぁ」 「帰ってきてた事…知らなかった…ごめん」 「ううん。いいんだもん! こうして、出発する前に、まさ兄ちゃんと 逢ったから。これから駅に行くんだけど………」 と話す、かおりの目は、何かを訴えている……。 「駅まで送りましょうか?」 「やったぁ!」 「もぉ〜かおりっ! まさちゃんは忙しいと何度も…」 「里沙さん、私は大丈夫ですよ」 「すみません。お世話になります」 「真北さん、一時間ほど留守にしますが…」 「俺は構わないよ」 「それでは」 まさは、かおりと一緒に小屋の表へと歩いていった。二人の後ろ姿を見送る春樹と里沙。車のエンジンが掛かる音が聞こえ、車が去っていく。 「お茶でも、どうですか?」 春樹が優しく声を掛けた。 「そうですね」 「どうぞ…って、私の家じゃないんですけどね」 照れたように言った春樹に、里沙は微笑んでいた。 里沙の前にお茶が差し出される。 「いただきます。…良い香りですね」 「原田は、高級嗜好でしょうね。良い物ばかり置いている」 「天地さんの影響でしょう。あの方、常に高級な物ばかり…」 「そこまで、知らなかったな…。慶造から聞いた天地は、残虐だと…」 「そういう所もありました。……私は、天地の友人と所帯を持ち、 かおりが出来ました。…もちろん、主人も極道でした。でも… かおりを産んでからは足を洗って、真っ当に暮らしていたんです。 だけど、足を洗っても、極道という文字は付きまとってくるものでした」 「もしかして…」 「ご想像通り…主人は凶弾に倒れました…。途方に暮れていた私を この天地山に連れてきて下さって、今があります」 「そうですか…大切な者には、優しい男だったんですね。…まぁ… 誰でもそうでしょうが……。大切じゃない者をこの世から消すという 行動は、許せないですよ。…何もかも消し去る事が良いとは限らない」 湯飲みを持つ手に力がこもる春樹。 「だから、まさちゃんを助けたんですか?」 「……原田の思いだよ。…阿山組に乗り込んだあの日の事、 御存知ですか?」 「天地組解散の後、ほとぼりが冷めた頃に、まさちゃんから聞きました。 大切な者を、あの手で奪ったと……何度も何度も呟いてましたから…」 「その事件の発端である、阿山組に乗り込んだ日。原田は、あの手で 幼子を殺せと命令されていた。…なのに、殺した事にして、ほとぼりが 冷めるまで、生きているという事を隠しておけと…。そう言ったんだ」 「まさちゃんらしいわ…」 里沙は微笑む。 「恐らく、そうやって、殺しの標的を生かしてきたんだろう…。 そして、原田の言葉…。私は原田のナイフから、幼子を守ろうと この身を挺した。その際、原田のナイフは私の体に刺さったんですよ。 だけど、私は標的じゃないと言って、傷の手当てをして去っていった…。 その時に、原田の気持ちが解ったんです。殺し屋をやめたいんだろう…と」 「…天地さん、御存知でした。…まさちゃんは、嫌々仕事している。 恐らく、医学を学び始めた事が、殺し屋としての心を奪ったのだろう…。 そうおっしゃりながらも、まさちゃんに命令していたの…矛盾してる… 天地さんも葛藤していた…」 「そうでしょうね。そうじゃなかったら、あの時……原田の手で 最期を迎えた時に……微笑みはしない…」 春樹は、お茶を飲み干した。 「…真北さんは、まさちゃんに何を望んでいるの?」 「解りません。ただ、思った事を実行しただけ。それが吉と出るのか 凶と出るのか…それは、これからの原田の行動にかかってます。 あいつは、裏切らない……」 「そこまで信用されて…まさちゃんは幸せだわ…」 安心したような表情で、里沙が言った。 「かおりちゃんの前では、表情が変わるんですね」 「えぇ。初めて逢った時からですよ。…かおりが、中学校は寮に入ると 言い出したのは、まさちゃんが死んだと思ったからなの。あの子にとって、 この天地山は、まさちゃんとの思い出が、たくさんあるから…」 「原田に惚れてるんですか?」 「そのようですね」 「原田の事…」 「解散の頃に、伝えました。戸惑っていたけど、今は、あのように 昔と同じ感じで、まさ兄ちゃんと慕ってます」 「原田の何が、そうさせるんでしょうね……」 「それは、私にも解らないわ……」 春樹は、里沙にお茶を煎れる。里沙は、冷ましながらお茶を飲み干した。 車が停まる音がする。ドアの開閉の音、そして、小屋の扉が開く気配がする。 「こちらでしたか。里沙さん、かおりちゃんは無事に送りましたよ」 「ありがとうございました。真北さん、私はこれで」 「お茶だけで、申し訳ありませんでした」 「お送りしますよ」 まさが言った。 「すぐそこですよ、自宅は」 「それでもお送り致します」 「ありがとう。では、失礼します」 「お気を付けて」 笑顔で見送る春樹だった。 まさと里沙は、牧野家へ向かって歩き出す。里沙の一歩後ろを歩くまさ。二人の様子を窓から伺う春樹は、暫く見届けた後、湯飲みの片づけを始めた。 「良い方ですね」 里沙が言った。 「えぇ」 「まさちゃんの大切な人になるのかな?」 「解りません。ただ、失ってはいけない…そんな気がしただけです」 二人は牧野家の前に到着する。立ち止まる二人。里沙が静かに言った。 「…大切な者は、もう、失っては駄目だからね」 「里沙さん…」 「何があっても、守り抜くのよ…絶対に」 里沙の言葉は力強い。まさは、感銘を受けた。 「はい」 震える声で、まさが応えた。 「では、失礼します」 「本当にありがとう」 「こちらこそ。…かおりちゃん…変わらずに私と接してくれるので、 とても嬉しいですよ」 笑顔で、まさが言った。 小屋に戻ってきたまさは、春樹の姿が見えない事に気が付いた。 ったく、あの人はぁ〜。 項垂れながらも、まさが向かった場所。そこは、天地山の頂上だった。 春樹は、壮大な自然の景色を眺めていた。 「勝手にリフトを動かさないでくださいね」 「いいだろが」 どうやら、春樹は自分でリフトの電源を入れて動かし、頂上にやって来た様子。まさは、春樹の隣に立った。 「まだ、招待してくれないのか? 早く、真子ちゃんに見せたいよ」 「長距離の移動は、幼子にとっては苦痛ですよ。楽しい時間と 感じられるようになるまでは、遠出しないほうが賢明です」 「それもそっか」 「里沙さんに何もしてませんよね」 「ん? 何を根拠に?」 「里沙さんが、あなたの事を誉めていたから」 「お前の事を語り合っただけだ」 春樹の言葉に、まさは何も言えなくなる。まさの照れに気付いたのか、春樹は、微笑んでいた。 雲が流れる。 雲が流れる。 真っ青な空が、二人の心を和ませていた。 自然が生み出す優しい空気も加わって……。 (2004.10.25 第四部 第三十三話 UP) Next story (第四部 第三十四話) |