第四部 『絆編』 第三十五話その3 新たな世界へ向かって 天地山の夜。 たっくさんの星が、夜空に輝いていた。 春樹と真子は、小屋から少し離れた場所で、星空を眺めている。そこへ、ちさとと慶造もやって来た。そして、四人は、楽しそうにはしゃいでいた。 そんな四人を小屋の影で見守るのは、もちろん、修司と隆栄だった。 「なぁ、猪熊ぁ」 「ん?」 「ほんとに、八っちゃんなんか?」 「そのつもりだが、慶造の許可が出てからだな」 「一体、何を考えて? 阿山家を守る猪熊家に嫌気が 差していたんじゃなかったっけ?」 「そうなんだけどな、ある日突然だよ。俺もリストに加えろって 言ってきたのは。だけど、八造は剛一に対して優しすぎるからなぁ。 ちょっと助言した途端、決定」 「助言?」 「本気を出してみろって」 「………それまで、本気じゃなかったんか?」 「まぁな。手合わせしてたら解るよ」 「また、なんでだろな」 「さぁなぁ。………あっ」 「ん?」 何か思い出したように声を発した修司に、隆栄が首を傾げた。 「お前ら親子が原因かもな」 「はぁ?」 「ほら、報告しに行った時だよ。公園から出てきた姐さんと真子お嬢様に ばったり逢ってだな…その時、お前ら付いてたろ」 「まぁな。お前の代わりに」 「その雰囲気に、感化されたかもな」 「雰囲気?!」 「いい加減な雰囲気…」 「猪熊ぁ〜お前なぁ」 「知るかぁ」 「……性格変わってないか? 猪熊」 「俺は変わってない」 「いいや、絶対に変わった」 そう言い合っている所に、まさと勝司がやって来た。 「そろそろ就寝時間だと思いますが…」 まさが声を掛けると、修司は時刻を確認して、慶造達の所へと歩き出した。勝司も付いていく。 その場に、まさと隆栄が残された。 なんとなく、気まずい雰囲気が漂い始める。 「あの…」 まさと隆栄は、同時に口を開いた。それに驚いたのか、慌てて口を噤む。 まるで、好きな異性と二人っきりになった時の男女の様子に似ている。 「…もう、体の方は…」 「まぁ、お前に斬りつけられた所は、神経が繋がらなくてな、 このように動くけど、昔のようには無理だな。感覚も無いし」 「…すみませんでした」 「気にするなって。当時は、そうなって当たり前の状況だったろ?」 「それでも…」 「ったく…俺は生きてるんだ。…殺せなかったろが」 隆栄が呟くように言った。 「そういうお前こそ…大切な者を…それも、その手で…」 「約束でしたから。親分との…約束…」 「他人の手で殺られるなら、大切な者の手で…か。…優しいんだか 冷たいんだか…」 「優しいんですよ……俺には、もったいないくらい、優しすぎて…」 消え入りそうな声で、まさが言う。 「原田…すまん。…そんなつもりじゃないんだが…」 「大丈夫ですよ。ただ、その事を思い出すと…ね」 「俺は、奪ったものがたくさんある。…お前の親父の命もだ。 だけど、もう、こういう思いは、息子達にして欲しくない。 その為に、俺は阿山の為に…阿山の想いを実現させる為に こうして、復帰したんだ。…まぁ、復帰といっても、まだまだ 足を引っ張る状態だけどな…何かの役には立てるだろ」 「そうですね」 「原田も、同じだろ?」 「………あなたに出逢わなければ、解りませんよ」 「俺? 何か影響与えたか?」 「…もう、これっきりにしたい。自分の代で、終わりにしたい…。 命を奪い合う事…仇討ち…。そんなことをいつまでも 繰り返すような事は、したくない。……あの時に…私は」 「そうだったのか。…でも、俺に出逢う前から、お前は…」 「あの日……鬼のように刀を振り下ろしていた男は、 幼い私を前にして、急に動きが停まった。…その時からです。 その記憶は、再び、あなたに出逢うまで、奥底に眠っていたけど、 恐らく、その時のあなたの思いが、私の心のどこかで働いて 親分に背くような行動を取っていたんでしょうね…」 修司が向かってから、中々戻ってこなかった慶造達が、やっと小屋に向かって歩き出した。 「真子お嬢様の命を奪わなかったのは、俺の真似か?」 「それは、私にも解りません。ただ、失ってはいけない命だと 私の勘が……」 「それで、正解だ」 そう言った隆栄は、突然歩き出し、慶造達に近づいた。 「ありゃりゃ、真子ちゃん眠ったのか?」 隆栄が言う。 「真子の就寝時間だもん。…でも、空を見上げた途端、 ばったり倒れるから、本当に驚いたわぁ」 「おぉい、原田ぁ、真子ちゃん眠ったってよ」 隆栄が声を掛ける。 「って、小島っ!! 真子が起きるだろが」 「大丈夫だっ……うごっ………、…ごめん…真子ちゃん…」 隆栄の声で目を覚ました真子は、側にあった隆栄の顔面を平手打ち。小さな手での平手だが、痛いものは、痛い……。隆栄を叩いた途端、真子は再び眠りに就く。 「眠いところを起こされたら、真子……すごく不機嫌なんだから…」 「すみません」 まさの側に来た慶造達。まさは、一礼してから、ちさとに声を掛けた。 「こちらに用意しております」 「お願いします」 ちさとは、ニッコリと微笑んで、まさと小屋へ向かって歩き出す。小屋には、眠る真子と真子を抱きかかえるちさと、そして、まさだけが入っていった。 「小島ぁ」 慶造が、そっと声を掛ける。 「あん?」 「お前なぁ、あまり原田の心を引っかき回すな」 「いいだろが。本当の事。いつまでも引きずっていては、良くないだろ? これから、どう生きていくか…そこが問題だ」 「はいはい」 「うわっ、つめたぁ〜」 「……お前は、外な」 冷たく言った慶造は、勝司と小屋に入っていった。 外に残された春樹と修司、そして、隆栄は、その場に留まる。 「小島さん」 「はい」 「例の事……」 春樹は、慶造に内緒で、隆栄に調べ物を頼んでいた様子。 「取り敢えず、桂守さんが向かってるよ。……どうやら、 この辺りは、庭らしいから…」 「…大丈夫なのか?」 「大丈夫ですよ。桂守さんの姿を見つけられるのは、 あの原田の親父さんくらいでしょ」 「師弟関係…か。…なのに、お前ら…」 「……原田の親父の意志だよ。……まるで、誰かと誰かを 観ているようでしたね。…ここでは、誰もがそういう思いに 駆られるんでしょうかねぇ〜」 その口調に、何かを感じる春樹は、大きく息を吐く。 「真北さん?!」 「本当に、お前ら親子はそっくりだな」 「俺と栄三のこと?」 「あぁ。……それよりも……」 そこまで言った春樹は、口を噤む。 慶造が、小屋から出てきた事に気付いたのだった。 「おぉい、真北ぁ」 「なんだよ」 「散歩」 慶造の言葉に、春樹は項垂れる。 「って、何もこんな時間から………」 そう言った春樹だが、慶造の眼差しと醸し出す雰囲気から、慶造の行動を悟る。 「解ったよ。二人っきりな」 誰も付いてくるな。 そういう意味が含まれる春樹の言葉。春樹は、一歩踏み出すときに、修司と隆栄に、目で訴えた。 本当に付いてくるな。ここは、安全だから。 困ったような、納得したような表情で、修司と隆栄は、そっと頷いた。 そして、春樹と慶造は歩き出す。 街灯で仄かに明るい道を、春樹と慶造は歩いていた。 ライターの火が灯る。 二人は煙草に火を付けた。 ゆっくりと歩きながら、慶造が口を開いた。 「空気…汚しそうだな」 「これくらいは、大丈夫だろ」 「まぁな」 「…なんの話だ?」 「実はな、…真子の事だよ」 「真子ちゃん、何かあるのか?」 「…お前、真子と二人暮らし…しようと思わないか?」 「慶造…?」 慶造の言葉に、春樹は思わず歩みを停めた。 慶造は、そのまま歩いていく。 「…どういう意味だ?」 春樹の言葉に、慶造は歩みを停め、ゆっくりと煙を吐き出した。 「真子を育てていく気は、ないか?」 「真子ちゃんの世話は、お前から頼まれた事だ。お前以上に 真子ちゃんと接する時間が多いけどな、父親はお前だぞ。 その事は、真子ちゃんも解ってる」 「……父親は、二人…そう思ってるぞぉ」 ふざけた口調で、慶造が言う。 「あのなぁ、慶造」 「そして、元の世界で暮らそうと…そう思わないか?」 春樹の言葉を無視して、慶造は話しを続けていた。 「待て…慶造。お前……何を企んでいる?」 思わず慶造の肩を掴んだ春樹。 「……まさかと思うが…」 「思う存分暴れて…そして、終止符…」 「慶造、お前……」 慶造の肩を掴む手に、力がこもる。 「どこもかしこも…俺の思いは理解してくれないだろ。…どうしても… どうしても武力で片を付けようとするだろ? …厚木が暴れる理由がそうだ。 単なる暴れ好きな男じゃない。…武力で向かおうとする輩に 先手を打ってるだけだ。…そのやり方が、破壊でも……」 慶造は春樹に振り返る。 「これ以上、お前に迷惑を掛けられない。…その事で、お前が 翻弄されている事は、解ってるよ。…厚木自身も停められないらしい。 ……まぁ、自分が造った最新鋭の武器の威力を試したいという 気持ちもあるだろうがな……だからさ……」 「どうした、慶造…お前らしくない。…ここの空気は、そういう思いを 抱かせるような…そんな空気じゃないんだぞ?」 「…俺には、もったいない空気だな」 「慶造……。…お前だけは、普通の人間と一緒に考えない方が 良かったんだな。…お前の本能自体、そういう思いなんだな…。 命を粗末にしたくないという本能…。それが、狂気を生み出す メカニズムになっていたんだな……今、知ったよ…」 春樹は、携帯灰皿に煙草の吸い殻を入れた。 「地道な行動に嫌気が差したんだな…。だから、一気に…」 「…あぁ」 慶造の返事に、寂しさを感じる春樹は、何か思いついたのか、フッと笑みを浮かべた。 「俺の何を試したいんだ? 俺を挑発して、真子ちゃんを 俺に託して、そして、お前は…」 「ちさとが……。真子をお前に預けた方が良い…そう言ってな…」 「ちさとさんが?」 「あぁ。こうして、あの原田とも親密な関係になったことだし、 それに、普通の暮らし…望めそうだろ?」 「それは、そうだが……。しかし…」 「俺は、この身をこの世界に埋めるつもりだよ」 「………慶造……それは、させないぞ……。それなら、俺が、 自分の本来の姿を偽ってまで、こうして、阿山組で過ごしている事は 無駄になるだろがっ! …俺の為に、俺を守って死んでいった あいつらの想いは……想いは………」 春樹の声が震えていた。 「その為にも、慶造…お前の側から離れないつもりだ。…お前だけ、 辛い思いをすることは無いだろ…?」 「真北…」 「真子ちゃんには、お前とちさとさんが一番なんだよ」 「……お前と一緒に居る方が、喜んでいるだろが」 「俺と過ごす時間に、お前らが見つめているだろ? その時に、楽しそうに してなかったら、慶造、そして、ちさとさんの心は、どうなる? 哀しいだろ? 俺と真子ちゃんが、楽しくはしゃいでいる所を見たら、心が和むだろ? その為に、俺は、真子ちゃんと楽しく遊んでいるんだよ」 真北……。 春樹の言葉に感極まったのか、慶造はそれっきり何も言わずに、再び歩き出した。春樹も歩き出す。 暫く歩いた時だった。 「そろそろ教育……始めないといけないよな…」 春樹が言った。 「教育…か」 「あぁ。読み書きそろばん。必要だろ?」 「まぁ、そうだな」 「一応、俺は、教師を目指していた男だ。それくらいは、容易いよ」 「教育係も兼ねて……か。……益々、お前に預けたくなるよ」 慶造は、背伸びをする。 「俺は、出て行かないぞ。…阿山組に居座ってやる。そして、 阿山組解散を聞くまで、絶対に、お前から離れてやらん。 解ったか」 「………解ったよ……ったく」 ふくれっ面になりながら、二本目の煙草に火を付ける慶造。 吐き出す煙が空高く、昇っていった。 「このままで……いいんだよ」 春樹が、静かに言った。 「…いいんだな…。真北…お前が忙しくなるんだぞ」 「俺は、くたばらん」 「そうだったな…」 「まぁ…なんだな。……なるように、なるって事だ」 春樹も煙草に火を付けて、銜え煙草で、そう言った。 「…くっくっく……訳解らん…」 煙草を挟む手を下ろしながら、慶造は笑っていた。 「放っておけ」 そんな会話をしながら、二人は、散歩を続けている。 その後、何も話さず、ただ、歩いていた二人が、小屋まで帰ってきたのは日付が変わった頃だった。真子とちさとだけが眠り、まさや修司たちは、二人の帰りを起きて待っていた。 慶造達が帰った後、まさは、後かたづけをしながら、慶造と春樹の言葉を思い出していた。 ホテルの開業に、思いっきり手を貸してやる。 どこまで、出来るかやってみろ。 その昔、親分であった天地と話した事もあった。 スキー場を造る事。 その事も想いだしたのか、まさは、とある資料を手に取った。 ページをめくるたび思い出す、天地と過ごした日々。 このスキー場の話をした時の天地の嬉しそうな表情を思い出したまさ。 涙は枯れたと思っていたのに、いつの間にか、溢れていた。 泣くのは、あの日に終わらせたのにな……。 そして、まさは決心する。 天地山に、鉄筋の音が響き渡る。 まさが過ごしている小屋の隣に、鉄筋の建物が建ち始めた。 その間、まさは、色々な勉強をしていた。医学を学び始めた頃以上に、学ぶ事に喜びを感じていた。 ホテルの支配人として、第二の人生を歩き出す為の行動。 「原田さん」 建築担当の男性が声を掛けてきた。 大阪で建設業を営む、元笹崎組の組員・松本の息子だった。 「はい」 「温泉のことですが…」 「…涸れました?」 「いいえ、その……従業員の疲れた体を癒したいんですが…」 「それでしたら、出来上がった時の一番風呂に」 「よろしいんですか?」 「えぇ。どうぞ。その為の温泉ですよ。疲れが一気に吹き飛ぶ温泉。 それが、この温泉の効能です」 「従業員、喜びますよ。…では、張り切って!!!」 まさの言葉で、さらに張り切りだした松本の息子。 予定より、二週間も早く、建設終了…。 松本たち建設に関わった者達は、早速、温泉に浸かる。 疲れが一気に吹っ飛んでいった。 まさは、思い出していた。 満…。あいつ、確か…。 真子達を招待するまで、何度も足を運んでいた地山一家の屋敷。そこで見掛ける一人の男に、まさは、不満を抱いていた。 自分を兄貴と慕っていた男…湯川満。あれ程、この世界に戻るなと言ってあったのに、いつの間にか、戻ってきていた。あろうことか、地山一家にお世話になっていた。 何度か声を掛けられた。 しかし、自分は、記憶を失っている事になっている。 地山一家の者達も、まさの事は、そう扱っていた。 殺しの仕事も出来なくなるほど、記憶と技を失っている男…。 建築も終わり、小屋の周りは、すっかりホテルのイメージに変わっている。 ホテルに通じる道路も、雰囲気が、がらりと変わっていた。 ホテルの裏にある天地山。そこは、スキー場として生まれ変わっていた。 客を呼ぶ方法…か。…でも、従業員の教育もあるし…。 それ以前に、駐車場の管理と…温泉の管理……。 地山親分に頼んでみよう。 まさは、地山一家の屋敷へと向かっていった。 応接室に通された、まさは、ソファに座り、一息付いていた。 地山が入ってくる。 「原田くん、どうした? 建設は終わったんだろ?」 「えぇ。開業に向けて、色々と問題に当たりまして……」 「その人材を派遣…か?」 「親分に頼むしかありませんから」 「まぁ、お前に協力する…それは、天地だけでなく、真北さんにも 頼まれてることだからなぁ」 「お世話になります」 「客寄せは、任せておけ。他は?」 「従業員の教育は、私で出来ますが、駐車場と温泉の管理の方が 難しくて…」 「俺が薦める男は、お前の過去を知ってるぞ。…どうする?」 「記憶喪失は、いつまで続ければいいのか…悩むところですね」 「そうだな。………仕方ないな。呼んでくるよ」 地山は、応接室を出て行った。 はぁ〜。 ため息を付く、まさ。 湯飲みに手を伸ばし、お茶を飲み干した。 暫くして、地山と一緒に、四人の男が入ってきた。 どの男も、まさの事を知っている。そして、まさに命を助けられた者ばかり。 「原田くん、この四人が俺のお薦めなんだが…」 「梶山です」 「西川です」 「山野です」 「湯川です」 それぞれが、挨拶をする。 まさ自身、四人が名乗らなくても知っているのだが…。 「すみません。その…ホテルの開業の事は、御存知ですよね」 「はっ」 「従業員が足りなくて、親分に頼んだのですが…。駐車場の管理と 温泉の管理なんですよ。……温泉は、湯川さんに任せるとして… 梶ちゃんと、にっしゃん、山野君には、…その……」 とそこまで、口走って、ハッとするまさ。 し、しまった……。 顔が引きつる。 そんなまさの表情を見逃さない地山は、笑いを堪えているのか、体が震え出す。 応接室に通された四人は、驚いたように目を見開いている。その中の一人は、感極まったのか、涙を流していた。 「あ、兄貴………」 満だった。 「……原田君、まだまだだなぁ」 「…真北さんのように、いきませんね…。難しい…。それにしても 今の今まで、通してきたのになぁ」 ポリポリと頭を掻く、まさ。 「親分、…もしかして……原田の兄貴………」 「お前らだけにだぞ。…その話を聞いたら、もう、ここには居られない。 いいな、梶山、西川、山野。…そして、湯川」 「はっ」 地山の言葉に、四人は力強く返事をした。 「…天地組解散の事件の前夜だ。阿山組に居る真北という男が 一計を講じてな、…殺し屋原田は死んだ事にしたんだよ。 もちろん、天地自身、この世に残るはずだったんだがな…。 天地の仕業に阿山の四代目自身、本能を抑えられなかったんだよ」 「それで、俺は、親分との約束の為に、この手で…。 それが、最期の仕事だった。…その後の事は、もう知ってるだろう?」 まさは、優しく微笑んでいた。 「兄貴……だって、俺の事は…」 涙ながらに声を発する満を、まさは睨んでいた。 「俺との約束を反古したから、怒ってるんだ」 「怒ってる……現在形…ということは、今も?」 「当たり前だ。…ったく、酒も戻りやがって。…何度、 酔いつぶれたお前を治療したことか……はぁ〜」 「も、も、申し訳御座いませんでしたっ!!!」 深々と頭を下げる満の腹部に、まさの拳が突き刺さる。 け、健在……。 あまりにも強烈な拳に、満は座り込む。 「兎に角、俺と一緒に、これから過ごして欲しい。頼む」 今度は、まさが、深々と頭を下げた。 「原田の兄貴……宜しくお願いします!!!!」 誰もが、深々と頭を下げる。 もし、極道の世界で生きているなら、この四人は、まさの為なら、命を投げ出しても良い。そう考えている者達だった。 まさの記憶喪失の事を聞かされても、まさに対する態度を変えなかったのは、地山一家では、梶山、西川、山野の三人。満に関しては、言うまでもなく…。四人の態度を見つめる地山は、人選に間違いはないと確信した。 これからの生活に期待が持たれる瞬間……。 「今日からだ。いいな、お前ら」 「はっ」 「…きょ、今日からですか?」 なぜか焦るまさ。 「ん? 原田。何か問題があるのか? 早めの方がいいだろ?」 「は、まぁ、そうですが、その……」 「こいつらなら心配ない。大丈夫だって。…お前も解ってるだろが」 「えぇ。…地山親分、ありがとうございます。これからは、精一杯 がんばりますので、宜しくお願いします」 まさの言葉は力強く、そして、とても温かかった。 そんなまさを見て、フッと笑みを浮かべる地山だった。 まだ、準備中の天地山ホテル。 荷物を運び、それらを並べていく。その準備を全て一人で行っている、まさ。そんなまさを見ていた満は、そっと手を貸し始める。満の行動に嬉しさを感じ、そして、昔の事も思い出しながら、まさは整頓していく。 温泉のある場所へやってきた二人。色々な商品が搬入され、それらを全てチェックする。 「満、並べてくれるか?」 「はっ」 満は、商品を手に取る。そして……。 「兄貴! これは?」 「あぁ、それは、そこでいい」 「じゃぁ、これは?」 「それは、向こうの方がいいだろな」 「これと、これは?」 まるで、子供のように尋ねまくる満。 まさと過ごし始めた新しい生活に、思いっきり喜んでいる満。 「あのなぁ、満っ」 「はいっ!」 「五月蠅い」 「…えっ……」 「温泉の事は、お前に任せたと言っただろが」 「だけど……不安で…」 「あのな、お前が、俺のために用意したような感じで 仕事を進めていけばいいんだよ。俺は、他にも仕事が あるんだから。……お前ばかり、構ってられないんだよ」 「…兄貴……冷たい…」 シュンとなる満。 「それが、俺だ」 そう言って、まさは満に背を向けた。 満が落ち込んでいる雰囲気が、背中に伝わってくる。まさは、笑いを堪えていた。 「…満。そういうところも変わってないんだな」 「兄貴…ばればれ?」 「お前の事は、細かいとこまで知ってるんだぞ。…だから、 そっちは、頼んだ。客を和ませてあげるように、がんばれよ」 「はっ」 まさは、後ろ手に手を振って、従業員の待つ会議室へと向かっていった。 会議室には、ホテルの従業員として働こうとしている者達が待っていた。その中には、地山から紹介された三人の男も含まれている。 まさは、壇上に立ち、そして、口を開いた。 「こんにちは。私は、この天地山ホテルの支配人であります 原田まさと申します。これから、みなさんと一緒に 天地山に訪れるお客様が、楽しいひととき、心地よいひとときを 過ごせるような、素敵な憩いの場を作っていきたいと思います。 至らない所もあるかと思いますが、宜しくお願いします」 まさは深々と頭を下げる。 「それでは、すでに身に付いている方もおられると思いますが、 接客業としての心得を教えていきます。質問があれば、 その都度、挙手で発言してください。みなさんの想いも 大切にしていきたいので、遠慮せずに、どうぞ。では、まず……」 支配人としての、まさの教育が始まった。 それから一週間後、天地山ホテルが開業する。 もちろん、客は、まだ来ない。しかし、地山の知り合いから予約があったり、ホテルの事を聞いたのか、連絡を入れてくる者も居る。 その誰もが、一般市民というよりも、ランクが上…金持ちばかりだった。 まさは、不思議に思いながらも、応対をする。 仕事を終えたまさは、八階にある支配人室で、くつろいでいた。 あっ、そうだ…。 何かを思い出したように、まさは受話器を手に取った。呼び出し音の後、ぶっきらぼうな声が、受話器を通して聞こえてきた。 『なんだよ、原田』 「……あのね…どうして、私が電話をした時は、そう不機嫌なんですか? それに、私だとどうして、解るんですかっ!」 『この番号を知ってるのは、お前だけ』 「…あのね……道先生も御存知でしょうがっ!」 『そうだっけ…まぁ、あいつは、自宅に掛けてこないからな。 …何か遭ったのか? あっ、まさか、俺の助手…』 「ち・が・い・ま・す! その……橋には伝えていたほうが、いいと思ってな」 『ん? なんだ?』 「俺……天地山で…天地山ホテルの支配人として生きていく事になった。 …だからさ…橋の期待に応えられなくなったよ」 まさの言葉の後、沈黙が続いた。 「…橋?!」 『ん?』 「なにか?」 『支配人か…。その腕…もったいないな…。残念だよ』 「悪かった。…でも、ホテルの医務室は、俺が担当だけどな」 『医薬品の調達か? それなら、俺に任せろ……ん? 違反だろがっ! お前、免許持ってないぞ!!!』 「応急処置だけですよ。正式に開きませんって」 『それでも医薬品は……』 「橋総合病院の支店っつーことで」 『あほ…。まぁ、そういう所は任せておけって。…ほぉ、そうか。 原田が支配人…か。………どうなんだ?』 「まだ、客はまばらですが、冬はスキー場として開きますから」 『お前の支配人姿…見てみたいな』 「従業員の写真も送りましょうか?」 『そうしてくれ。お前のこれからの生活が楽しみだからさ。 だって、お前は、俺の息子のようなもんだろ?』 「兄弟じゃないんですね…」 『あほ』 そう言った雅春の声は、震えていた。 「そういうことだから」 『あぁ。安心したよ。…応援してるからな。がんばれよ』 「ありがとう。じゃぁ、また」 『…あぁ…』 受話器を置いた、まさは、安心したように息を吐く。 雅春も、病院の裏手にある自宅で、安堵の息を吐きながら、受話器を置いていた。 そうか…ホテルの支配人…か。 これから、忙しいだろうなぁ。 何かを諦めたような表情で、雅春は、一つの封筒を引き裂き、ゴミ箱に入れる。 さてと。 雅春は、白衣を身にまとい、自宅を出て行った。 電気の消えた自宅の部屋。その部屋にあるゴミ箱に入れられた封筒こそ、医学生・原田まさの為に用意した書類だった。 まさを助手として迎える為の準備…。 「開業か…」 阿山組本部の庭に通じる縁側に座って夜空を見上げる春樹。 吐き出す煙が空に上っていく。 新たな世界……か。 誰もが望む新たな世界。 その扉が、いよいよ開かれる……。 (2004.10.28 第四部 第三十五話3 UP) Next story (第五部 第一話) |