第六部 『交錯編』
第二十二話 非の春。
有名レストラン。
芯、翔、そして、航の三人は、向井の料理に満足し、そして、素敵な時間を過ごしていた。芯たちは、向井にお礼を告げた後、会計を済ませ、外に出てきた。
「何処に行く?」
翔が尋ねる。
「健康的な遊び」
芯がコートを羽織りながら、静かに言った。
「芯〜、まぁた、そんなことを言うぅ〜! たまには不健康な遊びでも
いいんと違うか? …ということで、不健康な遊びで決定!」
航が芯の肩を叩きながら応えた。
「…そうだなぁ」
珍しく乗り気なのか、芯は嬉しそうな表情をしていた。
「じゃぁさ…」
その時だった。 レストランの前に、高級車が二台停まった。芯たちは、話に夢中だったが、高級車には気付いていた。 高級車のドアが開き、勝司が降りてくる。辺りを警戒しながら、後部座席のドアを開けた。 慶造が、車から降りてくる。勝司と同じように辺りを、鋭い眼光で見渡していた。
あ、阿山…慶造!!
「芯、行くぞ」
航が芯の腕を引っ張って、声を掛けた。高級車から降りてきた男達を観て、芯の表情が変わった事に気付いた航と翔。しかし、声を掛けても、芯は動こうとしない。
「…阿山…慶造……」
慶造は、芯の眼差しに気付いていた。しかし、どう見ても高校生。慶造は相手にしていなかった。それよりも、ドアが開いた音を耳して、優しい眼差しをしながら、振り返っていた。
もう一台の車からは真子と春樹が降りてくる。真子は、少しむっつりとし、寂しげな表情をしていた。真子の表情に気付いた春樹は、真子を抱きかかえる。 真子の表情に、ちょっぴり笑顔が表れる瞬間だった。
なんだ、あの女の子は。
少し不思議そうに見つめる芯。
女の子を抱きかかえた男に目をやる。
「真子ちゃん、笑顔は?」
「…うん。まきたん、ありがとう」
「その…まきたんは、やめてくださいぃ」
「…うん」
春樹は、真子に優しく微笑み、そして、そっと降ろした。サングラスを外して、更に素敵な笑顔を見せる春樹は、真子と手を繋ぐ。
「!!!!」
うそ…だろ…?
「ほら、芯! 芯、行くぞって! ほら!」
翔は、この場を去ろうと必死になっている。しかし、芯は一人の男に釘付けだった。 春樹は、目線を感じ、振り返る。
「!!!」
芯っ!
レストランに向かって歩き出した足を止める春樹。
「真北ぁ、早く来いよぉ」
「…あ、あぁ」
春樹は、慌ててサングラスを掛け、レストランへ入っていった。 栄三と勝司は、車に乗り、隣にある駐車場へと向かっていく。栄三は、レストラン前に居る芯達に気付いていた。
あれ、あいつら、確か……。
気になりながらも、駐車場へ車を停める栄三だった。
「どうしたんだよ、芯」
翔が尋ねる。
「兄さんだった…」
「えっ?」
「今の…兄さんだった。やっぱり、生きていたんだ。…そして、
阿山慶造に…やくざに………捕まってるんだ…」
「芯、他人のそら似…って事があるだろ? 違うよ。似てただけだよ」
「いいや、兄さんだ。俺を観て、驚いていたから…。確かめる」
芯は、一歩踏み出したが、翔に停められる。
「落ち着けって、芯。何を確かめるんだ?」
「兄さんかどうか…」
「もし、お兄さんだったら、どうするんだ? 阿山慶造に喧嘩を
吹っ掛けるつもりだろ? お兄さんを返せって」
「あぁ。そうだよ」
芯は静かに応える。
「本当にお兄さんだったとしても、お兄さんのことだろ? もしかしたら、
やくざ組織に潜入捜査してるかもしれないだろ?」
「それは、解らないよ…。もし、そうだとしても、俺に隠す必要は…」
「芯の事が大切だから、隠してるかもしれないよ」
「それでも……それでも…」
芯は、レストランの窓から見える春樹の姿を見つめる。春樹はサングラス越しに、芯を見つめていた。慶造もちらりと振り返っていた。春樹と慶造は親しげに話している。 芯は拳をグッと握りしめた。
「……信じられないよ……。くそっ!!」
芯は、走り去っていく。
「芯!! どうしたんだよ!! ったく」
翔と航は、その場に立ちつくし、芯の後ろ姿を見送っていた。
慶造は、去っていく芯を見つめていた。
あの子…確か…。
慶造は春樹に振り返る。まだ、窓の外を見つめている春樹。その表情は、どことなく寂しげだった。
「どうしたんだよ、真北。悩み事か?」
何かを尋ねようと慶造が話しかけたが、春樹は、誤魔化した。
「さて、何にする? おぉい、あの子、呼んでくれ!」
慶造は、店員に声を掛けたと同時に、奥から、争う声が聞こえてきた。
『なんで、いっつもそうなんだよっ! お前が悪いっ!』
『料理人が、俺に指図するんか?』
『じゃかましいっ!! 客は平等だろが!』
『だから、何度も言ってるでしょう。儲けが大切だと』
『……そんなに言うなら、辞めてやる…』
向井が厨房から出てきた。怒り任せに壁を殴り、客の居ないテーブルをひっくり返す。突然の事に驚く客とは違い、慶造は、冷静に向井を見つめていた。客が居ないテーブルを蹴り、帽子を床に投げつけて、店の中をずかずかと歩き、外へと向かっていく。 目線に気付き振り返ると、そこには、慶造達が座っていた。
「親分さん…」
「どうした、向井。荒れてるなぁ」
「あの店長、客を客と思ってないからな」
周りに客が居るのに、お構いなしに怒鳴っていた。
「それに、料理にケチを付ける、さらには、儲けしか
考えない。料理は、お客様の笑顔の為にあるのに、
そんな考えじゃ、料理を作る気力すら出てきません」
「今日は、作ってくれないんか?」
「すみません。俺、ここを辞めましたから。折角、親分さんに
誉めて頂き、真子ちゃんの笑顔も増えたというのに…。
申し訳御座いません」
そう言って、向井は、深々と頭を下げた。拳を握りしめ、怒りを抑えているのが解る程、震えていた。
「おい、ボーイ、キャンセルや。それと店長、この向井、
もらっていくで」
そう言いながら、慶造は立ち上がる。
「阿山さん、そ、それは……」
声を掛けられたレストランの店長は、慌てたように声を発したが、慶造は聞く耳を持たず、向井の腕を掴んで、店を出て行った。
「おい、慶造っ!!」
春樹は、きょとんとしている真子を抱きかかえ、店を出て行った慶造を追いかけていった。
向井は、車に乗っていた。
「あの、親分さん…」
「ん?」
「どちらに?」
慶造は、向井を睨んでいた。
「お前、暴れん坊だというのは、本当のようだな。それも、無茶苦茶手の掛かるって。」
「…ただ、短気なだけですよ」
「それに…俺とこうして、車に乗っているんだぞ。…普通の人間…かたぎの人間なら、
怖くて震えているんだがなぁ。お前は、違うんだな」
「…親分さんは、噂では、人の血が通っていないと言われてますが、
私は、そう思いません。とても、優しい方です。怖くないんですよ。
私は、恐怖を感じる前に、手が出てますから」
向井は、微笑んでいた。
「なるほどな。…これから、どうするんだよ。折角働き始めたのに、
お前の夢…じゃなかったのか?」
「これから…ですか…。考えてません。あの店を追い出されたら、
それこそ行くとこなんて…困りました。料理を作って行きたいんですが…」
「本部の隣にな、料亭があるんだよ。向井は、確か、なんでも料理できるんだよな」
「はい。学校で、和洋中、すべて身につけましたから」
「だったら、そこで働け。女将に言っておくから」
「…よろしんですか?」
「あぁ。お前の味を味わえないと思うとな…楽しみが減るじゃないかよ」
「親分…」
感極まったのか、向井の声は震えていた。
「頼んだよ」
「ありがとうございます」
「但し、条件がある…」
「…条件…ですか?」
向井は、口元をつり上げる慶造の考えが読めないのか、少し警戒していた。
真子と春樹は、別の車に乗っていた。
「まきたん…ちがった…真北さん」
「ん?」
「お父様と一緒に居た方は、どうなるの?」
「さぁなぁ。慶造の考えが解らないよ」
「お腹空いた…」
「そうだよな。家に付いたら、私が作りますよ」
「うん」
真子は、笑顔で春樹に応えた。真北は、真子の頭を撫でていた。
「素敵な笑顔やぁ。いっつも、見せて欲しいなぁ」
「…でも…」
真子の表情が、暗くなった。
しまった……。
春樹が、そう思っても遅かった。
高級料亭・笹川。
昼飯時が過ぎた頃。客達の出入りが少なくなったものの、夜の予約客に向けて、忙しく動いている店員達。店員の一人が、阿山組本部と通じる渡り廊下から慶造が姿を現した事に気付き、一礼する。慶造の後ろには向井の姿があった。店員は不思議に思いながらも、慶造の言葉を待つ。
「忙しい所、申し訳ない。女将さんは?」
「こちらにどうぞ。お呼び致します」
店員は料亭の奥にある笹崎の部屋に慶造を通す。向井は、慶造に勧められるまま、席に着く。
「失礼します」
先程とは違う店員が、お茶を乗せたお盆を持って入ってきた。慶造と向井にお茶を差し出す。
「ありがとうございます」
向井は深々と頭を下げた。
「失礼しました」
慶造と向井は、お茶をすする。
「…あの…親分さん」
「ん?」
「ここ…あの日本料理で有名な料亭の笹川ですよね…」
「あぁ、そうだ」
「…実は、俺…。ここに履歴書出したんですが、断られたんですよ」
「ん…知ってる」
「えっ?」
「レストランでの向井くんの腕っぷりを女将さんに話したんだよ。
その時に、聞いた」
「二度目は難しいと思いますが…」
「大丈夫だって。…俺の言葉は断れないみたいだからさ。それより」
「はい」
「さっき話したこと、守れるのか?」
慶造が向井に尋ねた時、襖が開き、女将の喜栄が顔を出しながら、
「先程のお話とは?」
と尋ねてきた。
「あら、その子は確か…向井涼くんですよね」
「はい。お邪魔しております」
向井は、席をずれ、深々と頭を下げた。顔を上げると、喜栄の他に、もう一人、笹崎の姿が、そこにあった。
「先程の話は…」
慶造は、喜栄と笹崎に、向井を連れてきた経緯を事細かく話していた。その間、姿勢を正して話に耳を傾ける向井を、笹崎はジッと見つめていた。
「料理一筋に生きる者が先を絶たれると辛いと思ってな。
この料亭で腕を磨いてもらおうと思ったんですよ。笹崎さん、
どうですか?」
慶造に話しかけられても、笹崎は向井を見つめている。
「そうですね。その腕を観てからとなりますね」
静かに応える笹崎の横では、喜栄が、爛々と輝く眼差しで向井を見つめている。
「向井くん、この人は厳しいわよぉ〜。耐えられるかな?」
「はい」
「一つ尋ねるが…」
笹崎が低い声で言うと、向井は更にビシッと座り直す。
「何の為に料理を作る?」
「何のため…?」
「向井くんが、料理を作るのは、何の為かということだ。
自分の為か?」
笹崎の質問に向井は、口を噤んだ。 その時、ふと頭に浮かんだのは……。
「笑顔…」
向井が呟く。
「笑顔?」
「はい。私の料理を口にした途端、その人の悩みや苛立ちが無くなり、
そして、笑顔になる。…人々の心が和む料理を作る事が、
俺の…生き甲斐です」
向井は力強く応えた。その途端、笹崎の眼差しが変わる。
「向井くん、早速、見せてもらおう」
「はいっ」
笹崎は慶造に一礼して部屋を出て行った。
「親分、ありがとうございます。俺…頑張ります。そして、
例の約束、絶対に果たしてみせます!!」
向井の眼差しが輝いている。慶造は、それを見て、優しく微笑み
「あぁ、待ってるよ」
そう言った。 向井が部屋を出て行き、襖が閉まる。
「慶造さん」
「はい」
「…今日、向井君の料理を食しにレストランに行ったんですよね?」
「えぇ」
慶造はお茶をすする。
「途中で抜けたということは…」
お茶を飲み干す慶造は、ゆっくりと湯飲みを置いて、そして、小さく応えた。
「……また……手放せなかったんですよ……俺…」
その言葉に寂しさと嬉しさを感じた喜栄は、襖をそっと開け、廊下で待機している店員に何かを告げる。暫くして、その店員が酒を持ってきた。
「今日は、ここで時間を潰した方がいいですよ、親分」
喜栄が酒を注ぐ。
「…そうですね。…ありがとうございます」
慶造は、一口飲む。 ふと目をやるところには、古ぼけた写真が並んでいた。 慶造が生まれた時のもの、そして、四代目になった時のもの。その横には、慶人が生まれた時に撮影した集合写真が飾ってあった。慶人とちさとと写った七五三の写真まである。
そっか…俺は……。
改めて、自分が四代目となった時の心境を思い出した慶造。 その目には、涙が浮かんでいた。
芯は自宅に戻り、鍵を閉めた。電気も付けずに部屋の中央に腰を下ろす。膝を抱え、顔を埋めた。暫くすると、床に一滴、水滴が落ちた。
「俺の気も…知らずに……。連絡も…なしかよ……くそっ!」
芯は床に思いっきり拳をぶつけた。
次の日の朝。
芯は、風呂場で頭を洗っていた。 排水溝に流れる水は、真っ黒に染まっている。 洗い終えたのか、顔を上げ、鏡を見る芯。 その髪の毛は茶髪だった。
「ったく…一体、どんな毛染めなんだよ!」
茶髪は、地毛。中学生の頃、その茶髪が不良達の目に留まり、狙われやすいということから、黒く染めることにした。しかし、染めた色は直ぐに落ちる。それが嫌で、髪の毛を短くしていたが、高校生になった頃から、少しずつ伸ばし始めた。その為、毛を染める液は、更に多くなり、成長するにつれ、体質も変わっていくのか、市販の物では、染めにくくなっていた。 その後直ぐに入手したのは、刑事の中原さんお奨めの毛染め液。それは、警視庁極秘のものらしく、直ぐに染めることが出来た。 高校を卒業した後も、同じように黒く染めようと思っていたが、ある日をきっかけに、染めるのを辞めると決め、こうして、洗い落としているのだった。 何度も何度も洗っていくうちに、なんとか黒い色は落ちた。しかし……。
「皮膚…痛いなぁ…」
髪の毛を乾かしながら、芯は鏡に映る自分を見つめていた。
あの日の夜、決めた事がある。
自分の手で、真実を掴むこと。 その為には……。
芯は、服を着替え、外に出た。マンションの廊下から見える位置には、必ず刑事が立ち、芯の様子と周りの様子を伺っていた。芯は何気なく、その位置を確認し、エレベータに乗った。玄関ホールを通るとき、管理人と一言二言話した後、オートロックの扉を開けた。 先程確認した刑事の場所とは反対の方向へ歩き出す。 刑事は、何処かに連絡をして、芯を追いかけるように付いてくる。 背後でそれを感じながら、角を曲がる芯。 刑事も追いかけてくる。
「…!!!!」
角を曲がった途端、刑事は、口を塞がれ、後ろ手を取られた途端、壁に押しつけられた。 芯に抑えつけられた事に気付く刑事は、必死で抵抗を試みるが、芯の力は想像を超える程強いものだった。
「…調べてる。…あんた…警視庁極秘の特殊任務に就く刑事だろ?」
刑事は、応えない。 芯は腕に力を入れ、更に強く、刑事を壁に押しつけた。
「尋ねることに応えないと、腕…折れるけど、いいの?
再起不能になるかもしれないよ? …腕力にモノを言わすこと
俺には簡単なんだけど……どう?」
芯は刑事の口を塞いでいた事に気付き、そっと手を放した。
「芯…くん! 何をするんですかっ!」
「質問にちゃんと応えてくれる?」
「質問によっては…応えられません」
「ふ〜ん」
「どんな…質問ですか? 芯くんの身が危ない事には
応えられませんよ」
「……俺の…兄さんのことだけど…」
芯の言葉を聞いた途端、刑事の顔色が変わる。
「芯くんのお兄さん…というのは、真北刑事のことですか?」
「…生きてるんでしょう?」
「いいえ」
「阿山組に潜入して、何を調べてるの? …確か、あの日…
死んだはずですよね? …似た男が居るみたいだけど…」
「それは、他人のそら似です」
「誰のこと?」
「真北刑事は…あの事件に巻き込まれて亡くなったんですよ?
芯くん、どうしたんですか? …その髪の毛だって…」
「地毛だって知ってるくせに。…ねぇ〜、どうなんですか?」
刑事の耳元で尋ねる芯。その声は、とても低く、刑事に悪寒が走るほどだった。
「もし、俺の考えが本当なら、兄さん、俺を騙していたことに
なりますよね。…中原さんも…そして、…鈴本さんも……。
もしかして、お袋も、俺を騙していたのかな…」
その声に激しい哀しみを感じた刑事は、
「それは違う!! 芯くんの事を想って、春奈さんも鈴本刑事も…」
「やっぱり、そうなんだ。……兄さん…生きているんだ。
あの日、レストランで観たのは、本物の兄さんだったんだ」
ハッと気付いた時は、既に遅し。 芯は刑事から手を放し、何かを堪えるかのように天を仰いだ。
「もう、俺……誰も信じられないよ…」
「芯くん……ごめん。…あの事件の後、芯くんのご家族を
守るために、真北さんは、俺達に指示をして…」
「もういいですよ。…俺は直接、兄さんに訊くから」
「芯…くん…」
「だから、刑事さん」
「はい」
「もう、俺のことを見守らなくていいから。…俺の周りから
消えて下さい。今日限りにしてください」
「それは、私だけでは無理です」
「中原さんに伝えてくれるだけでいいですよ」
芯は、刑事を見つめた。 その眼差しは、とても温かく…。
「手荒なまねをして、申し訳ありませんでした」
そう呟いた途端、芯は、何処かに向かって走り出す。
「……って、芯くん!!!」
急いで体を起こし、芯を追いかけるが、刑事の足では、芯に追いつく事は無かった。
その日から、芯は夜遅く、時には明け方近くに家に戻ってくるようになる。 時々、手を真っ赤に染めて…。
洗面台で手を洗う芯。 排水溝に流れる水は、真っ赤に染まり始めた。
くそっ……!!
怒り任せに洗面台を殴る芯。その拳から、更に血が流れ始めた。
(2014.11.25 第六部 第二十二話 改訂版 UP)
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