第六部 『交錯編』
第二十三話 遅いのか、早いのか。
二人の男が、芯のマンションを訪ねてきた。 芯の親友・航と翔だった。二人は、街で暴れる芯の噂を聞き、心配して訪ねてきた様子。 オートロックのボタンを押すかどうか悩んでいる。 そこへマンションの住民がやってきた。
「あら、どうしたの?」
芯のマンションへ遊びに来ているうちに、顔見知りになった住民だった。
「芯を訪ねて来たんですが、返事が無くて…」
「それなら、どうぞ」
マンションの住民は、オートロックを解除して、翔と航と一緒に扉をくぐっていった。
丁寧に挨拶をした後、二人は、芯の部屋の前に立つ。 チャイムを押すが、やはり、返事がない。
「音信不通かよぉ。まさかと思うけど……」
翔が心配そうな顔をして航に言った。
「それは、ないやろ。新聞はたまってないし…」
「何処に行ったんだよぉ」
ドアにもたれかかった翔は、自分の目を疑った。
「…芯…?」
翔が見つめる先には、ほんの一週間前、自分たちの前から走り去った人物とは、正反対の雰囲気の芯が、両手を真っ赤にして、立っていた。
「翔…航…」
「芯、どうしたんだよ、その姿!まるで…まるで…
血に飢えたヒョウのようじゃないかよぉ!!」
翔が叫んだように、芯は、緑のヒョウ柄の模様の服を身につけ、そして、髪の毛は、黒に染めるのを止めたのか、地毛の茶髪のままで、短いが、後ろにくくっていた。そして、その目は、鋭かった。 親友を目の前にした芯は、戸惑うこともなく、堂々とその場に立っていた。
「おい、芯…」
心配そうに声を掛ける二人に何も話さず、芯はポケットから鍵を取り出し、ドアを開けた。
「待てよ、芯。どうしたんだよ。何が遭った?」
翔が、芯の肩を掴んで引き留めた。 芯は、その腕を払うことなく、その場に立ちつくし、一点を見つめていた。
「…悪い…しばらく、来ないで欲しい」
「…悩み事があるんだったら、言ってくれよ、な」
心配顔で芯を見つめる翔。
「…今は…話せないよ」
「…あの時に逢った、やくざが原因だろ? あいつら、確か、
阿山組の…」
航がそこまで言った時だった。芯は、壁に拳をぶつけた。
「あぁそうだ。あいつら、俺が憎む阿山組の組長だよ。
逢いたくなかった連中に会って、…この怒りをどこに
ぶつけたらいいのか、わからなかったんだよ。
…ぶつける先を…見つけたんだ…。あいつら…許さない」
そう言って、芯は、家に入り、ドアを閉め、鍵を掛けた。 その音は、冷たかった。 航と翔は、何も言えず、その場に立ちつくしていた。
ドアを閉めた芯は、玄関に立ったまま。両手を見つめていた。親友が去っていく足音を聞いていた。そして、一筋の涙が頬を伝っていった。
「それ以上に、許せないのは、兄貴だよ…。その理由を
聞くまでは……暴れてやる……」
芯の眼差しは、血に飢えた野獣のように光っていた。
阿山組本部では、慶造と春樹が深刻な表情で話し込んでいた。 最近起こる、街での乱闘の事が話題になっている。
「ふ〜ん。大体は解ったけど。…本来なら、慶造か俺の
仕事だよな。…いいのか?」
「まぁ、巨大になれば、その分、跳ねっ返りも出てくるってこった。
それを抑えるのは、至難の業だよな」
「慶造…」
「ん?」
「やる気…あるんか?」
「いいや。暫くは、好き勝手させておくつもりだよ。その方が
腐った輩の見分けも付けやすいってこった」
「そりゃそうだけどな。少しは街に目を向けろって」
「はいはい」
表情とは裏腹に、二人が話す口調は、誰かの影響を受けたのか、凄く軽い物だった。
「ところで、慶造、あの話は…延期していいのか?」
「……ん……」
「真子ちゃん、ちょっぴり落ち着いたからさ。…もう少し、
ここに居ると解った途端、少しだけ…笑顔が戻った。
やっぱり…お前の近くに居ないと、不安なんだろうな」
「…そうか………」
その声は少し弾んでいる。
「嬉しいなら、その気持ちを伝えろよ。益々離れていくぞ?」
「いいんだよ。お前と八造の報告だけで。…それと、時々
観ることが出来る…笑顔だけで。今は満足だから」
慶造…お前は……。
言いたい言葉をグッと堪えて、春樹は煙草に火を付けた。
「それより、料亭の向井くんは?」
「笹崎さんが喜んでるらしいよ。喜栄さんも笑顔が絶えなくてねぇ」
「そりゃぁ、先が楽しみだな」
「向井くんも、俺の言葉を守って頑張ってるよ」
「そっか」
「何かあるのか?」
春樹の言葉尻が気になった慶造が尋ねる。
「街でな、あの店長に会って、ちょっと困った事を耳にした」
「ん?」
「それは、後で話すよ。そろそろ帰ってくる時間だ」
「ったく、八造くんと一緒にジョギングさせるなよぉ。真子が倒れる」
「八造くんが倒れる…の間違いだろうな」
「そんなに凄いのか?」
「さぁ、それは解らん」
そう言って、春樹は席を立つ。
「じゃぁ、今日は外出するなよぉ〜」
念を押す春樹に、慶造は苦笑いをした。 春樹が部屋を出て行った途端、静けさが漂う。
……言いにくいよな……。
慶造は、引き出しから茶封筒を取り出した。そこに納められている写真を取り出し、一つ一つ確認するように見つめていた。
どう観ても…真北の弟だよな…これ。
その写真こそ、街で暴れている血に飢えた豹と言われる男が写っているもの。 緑色の豹柄の服を着て、鋭い眼光で一点を見つめている。 慶造が言うように、その写真に写っているのは、芯だった。
一体…何を考えてるんだろうな。
煙草に火を付け、煙を吐き出す。
それにしても、この眼差し……そっくりだなぁ〜。
ちょっぴり笑いがこみ上げる慶造だった。
桜の花が咲き、空気をうっとりとするようなピンク色に染め始めた頃、春樹は特殊任務の上司から、新たな仕事を与えられた。項垂れながら、特殊任務の建物から出てきた春樹は、本部の玄関を素早く通り抜け、直ぐに真子が待つ部屋へと向かっていく。
真子の部屋の前に立ち、春樹はドアをノックした。
『はい』
「真北です。只今帰りました」
春樹が応えると同時に、ドアが開き、真子が飛びついてくる。しっかりと真子を受け止めた春樹は、抱きかかえて頬に軽く口づけをした。
「まきたん、お仕事…忙しくなったの?」
真子が尋ねてくる。
「どうして解った?」
「まきたんの顔に書いてるから…」
「あらら…」
春樹は項垂れた。
「実は、その通りなんですよぉ」
「ずっと?」
「いいえ。週に三日だけですけどね、泊まりで出掛けます」
「いつから?」
「来週からになります」
「そっか…」
真子の寂しげな表情を見逃すわけがない春樹は、
「寂しい?」
と尋ねた。しかし、真子は、何も応えず、ただ、春樹を見つめるだけだった。
「お父様の…為なんでしょう? …それなら、私…我慢する。
八造さんも忙しくなったから、お勉強が遅れるけど、
なんとか自分で勉強出来るし、それに…」
「それに?」
「解らない所は、ちゃんと八造さんに尋ねるから大丈夫です」
「…私にも尋ねて欲しいな…」
「………あっ…ごめんなさい…。でも、お仕事で…」
「大丈夫ですよ、私は疲れを知らない男ですから」
「そうだったね!」
真子の笑顔が輝いた。春樹は思わずギュッと抱きしめる。
「まきたん…痛いよぉ」
「真北と呼ぶまで、このままです」
「真北さん!」
「はい、なんでしょうか、お姫様」
「もぉっ」
真子の頬がプクッと膨らむ。それを春樹はへこませる。
「今年は、八歳になるんですからね。ちゃんと呼んでください」
「かしこまりました、真北さん」
「うん、うん」
そう言いながら、真子の頭を撫で撫でする春樹だった。
親馬鹿…。
少し離れた所で、真子と春樹の様子を見ていた慶造は、うらやましく思いながらも、項垂れていた。
芯を心配して毎日のように訪ねてくる翔と航。その二人の気持ちを知っている芯は、少しずつだが、自分を取り戻していった。それでも、芯は、手を血で染めて帰ってくる日があった。
大学の入学式が近づいて来た頃、翔と航は、芯の家で一緒に暮らし始めた。 男の三人暮らし。 三人とも、同じ大学、同じ専攻に進学が決まったので、大学近くに住む芯のマンションから通うことにしていた。 芯のことが心配だというこは、芯には内緒で…。
ある日、芯が、片手に日本刀を持って帰ってきた。
「芯、それ、どうしたんだよ!捕まるぞ!」
「…大丈夫だよぉ。これ、奴らから取り上げた」
「本当に、いい加減にしてくれよ。これ以上は…。
明日は、入学式だろ…」
「そうだったな。…大丈夫だよ。ちゃんと出席するし、大学も行くから」
「…心配だよ…」
そう言う翔に、芯は優しく微笑んだ。
「お前らに…迷惑は掛けないって」
そう言いきった芯だったが、大学に通うようになってからも、暴れまくる日々が続いていた。 ある日、暴れる芯を街で見かけた翔は、芯の暴れ方が、自分が思っていた理由と違っていることに気がついた。それは、去り際に叫んだ芯の言葉からだった。
「てめぇら、一般市民に迷惑掛けるとはなぁ。これ以上、続けると
まじで、俺が許さないからな…。覚えておけよ」
「く、くそっ!」
そう言って逃げ去る下っ端風の組員たちだった。 芯は、去っていく組員たちを見届けた後、何事も無かったようにその場を去っていく。その直後に、警察が駆けつけたが、すでに遅し。
「なるほどね。正義の味方ってわけか」
「…翔! 見てたのか?」
「たまたま通りがかっただけだよ。やっぱりなぁ。お前の性格から
理不尽な振る舞いはしてないと思っていたけどな。よかった」
「あいつら、一般市民を脅していたからね。それが許せなかっただけだよ」
「ったく、無茶するなよ。相手が相手だぞ」
「大丈夫だよ」
「…お兄さんの二の舞はやめてくれよ…それだけは…」
翔の言葉が、芯の胸に突き刺さった。
「翔……」
それっきり二人は何も話さずに、帰路に就いた。
春樹は、嫌な表情をしながら、慶造の部屋へやって来る。
「慶造、俺」
素っ気なく言うと、返事も聞かずに部屋に入っていく。
「なんだよ、ったく。真子ちゃんとの時間が少ないのに、
こんな日に重要な用事って、あのなぁ」
「……不機嫌だな。…それと…返事を聞いてから入ってこい」
慶造は、外出先から戻ってきたところ。部屋着に着替えている最中だった。
「待ってられん」
「…はいはい」
「用件は手短にな」
「そう出来ればな」
着替えを終えた慶造は、席に着く。春樹は慶造の前に座った。
「先日話した事の続きだ」
「続き?」
「街で暴れる男の事」
「あぁ、あれか。栄三から報告を受けた」
「…で、更に調べていくと、あいつら、
とんでもない事をしていたらしいよ」
「何をだ?」
「俺の言葉も空しく、一般市民を脅していたり、暴れたり…だ」
「なるほどな」
春樹は、慶造が差し出すお茶に手を伸ばす。
「……で、俺に…どうしろと?」
「だから、そのガキの鉄拳を食らった奴らの始末だよ」
「そのガキじゃなくて、倒れた奴らの始末か? おかしないか?」
慶造は、首を傾げる。
「なんだよ」
慶造の仕草に苛立ちを見せる春樹は、冷たく言った。
「関西に染まってきたと思ってな…」
「そりゃぁなぁ、関西の連中と過ごす時間が増えたら
そうなるわな」
「それにしても一ヶ月ちょっとで、そこまで染まるか?
ったく、お前も大変だな」
「本来の仕事だ、ほっとけ。…それよりも、いいのか?
系列の組を縛り上げたらそれこそ、慶造の名が…」
「いいんだよ。そいつらは規律を守ってない連中だからな。
本来なら、俺の役目だが、本当に末端の不始末だからなぁ。
そこまで気を配ったら、それこそ、俺がくたばる」
慶造はお茶を一口飲む。 そして、大きく息を吐いた。 まるで、何かを告げなければならない。そんな気を張る前の仕草そのものだった。
「そのガキに任せておこうと思ってるんだよ」
「それで、そのガキは、どんな奴だ?」
春樹が少し興味を示したように尋ねてきた。 慶造は、これぞと言わんばかりに、話を続ける。
「茶髪で緑の豹柄の服を着ている。そして、組員から奪い取った
刀を手に、一暴れをしているそうだ。そのガキが…こいつだ」
慶造は一枚の写真を春樹の前に差し出した。
刀を肩に担いで、鋭い眼差しを向ける男が写っている。 春樹の目は、その写真に凝視した。
…芯っ!!
「…慶造…これ…」
愕然としたのか、春樹の声は震えていた。
「あぁ。良い眼差しだろ。こいつは出来る奴だ。経歴を調べたら、
これまた、凄かったぞ」
「経歴?」
「齢十八。この春に教育大学に入学。大学に通いながらも、こうして、
夜の街で鉄拳を震っている。…名前は、山本芯と言ったかな。
格闘技が得意で、空手だけでなく合気道、柔道、剣道など、
ほとんどの格闘技を身につけて、有段者。しかしまぁ、
こんな奴が教師になれるんかなぁ〜。………真北?? 聞いてるか?」
春樹は、写真を見つめたまま、眉間にしわを寄せ、更に深刻な表情をしていた。
「どうする…つもりだ?」
春樹が静かに尋ねてきた。
「機会があったら、一度…話してみたいな…」
慶造…それは、お前が危ない。 芯は、お前を許さないと……。
そう考えると、春樹の応えは一つだった。
「…やめておけ」
「って、お前、これからの事を考えてるのか?」
「これから…?」
「お前が任務の仕事で忙しくなっただろ。そうすれば、真子の教育が
滞ってしまう。家庭教師を探しもしたが、なぜか直ぐに辞めてしまうだろ」
まぁ、そうだな…。
春樹は、何かを知ってる様子。しかし、それを敢えて口にしなかった。
「八造は、修司の代わりを買って出たから、忙しいだろ。
それに真子との時間も取れないほどだから、限界だろう?
俺が教えてもいいが、真子の笑顔が減ってしまう…。
学校にも通わせる訳にもいかんし」
「そうだけどな…」
「…だから、この男を家庭教師に…と思ったんだが…どうだ?」
「こいつだけは、反対だ。真子ちゃんに悪い影響を与えるぞ」
真北…本音か?
慶造は、春樹を見つめる。
「……確かに、手は悪いだろうが、心は違うだろ?」
お前の…弟じゃないか。
言いたい言葉を堪え、慶造は春樹に目で訴える。
「駄目だ」
春樹は、頑として考えを覆さない。
「ちっ……わかったよ」
慶造は、少しふてくされた表情で写真を封筒にしまい込んだ。
「話は、それだけか?」
「ん? …あ、あぁ。………時間を割いて悪かった」
「いや、真子ちゃんに関することなら、その方が良い。戻るぞ」
「あぁ」
春樹は、静かに部屋を出て行った。
「馬鹿野郎……」
慶造は、自分の思いが空振りに終わった事を悔いていた。 一方、慶造の部屋を出た春樹は、ドアにもたれかかりながら、俯いていた。
「芯…お前……何を考えて…」
春樹の足は、真子の部屋ではなく、玄関へと向かい、そして、その足で外に出て行った。 真子に何も告げずに……。
真子は、春樹が戻ってくるのを待っていた。 慶造と話があるから。 そう言って部屋を出て行った。しかし、中々戻ってこない。先程まで感じていた春樹のオーラも感じない。真子は、寂しそうに俯き、そして、ベッドに横たわった。
真北さん…きっと、急な仕事………。
そう思いながら、真子は眠りに就いた。
春樹が向かった先は、芯のマンション。芯の部屋が見える位置に立ち、そして、見上げる。
俺は、何をしようと言うんだ? 芯に、真相を問いただすつもりなのか? 芯にとって、俺は死んでいる事になってるのに…。
踵を返した時、目の前に中原の姿があった。
「真北さん…お話が…」
中原は、深刻な表情で春樹に言って、側で待たせてある車に招く。
「中原さん、芯に何か遭ったんですか?」
春樹は車に乗るなり、静かに尋ねた。
「実は、卒業式の五日後から、目に余る行動が続いておりまして」
「街で日本刀を振り回して、阿山組系列の男達を倒してるとか?」
「…やはり耳に」
「慶造からだよ」
「それで、その…」
「日本刀は良くないが、暴れる理由は、大体察しが付くよ。
正義感からだろ?」
「その通りです」
「だったら、気の済むまでさせておけ。任務絡みとでも
上に報告しておけば、大丈夫だろ。それに、あの姿は
芯に見えないから、ま、いいんじゃないの?」
なんとなく、誰かの口調そのもの……。
「多めに見ることは可能ですが、問題は別にあります」
「別の問題…?」
「実は………」
中原の口から伝えられた事は、春樹にとって、これからの生き様を変えることになる内容だった。
腹をくくるしか…ないか…。
春樹は、そう呟いて中原の車から降り、そして、去っていった。 中原は心配そうに春樹の後ろ姿を見送った。
俺達は、もう限界かもしれない…。 あとは、兄弟の問題になるのかな…。
大きく息を吐き、天を仰ぐ中原だった。
春樹の姿が見えなくなったと同時に、翔と航がマンションに帰ってきた。誰かを待っているのか、二人は、マンションに入らず、外で立ち話を始める。 そこへ、芯が帰って来た。 中原は、芯の姿を観て、駆け寄ろうとしたが、芯の表情を観て、歩みを停めた。
持つべきは、心を許しあう友…か。
芯に話しかける翔と航の笑顔が輝いていた。 そして、三人の姿はマンションへと消えていった。 安心したような表情をして、中原は、その場を去って行く。
「取り敢えず、緑という男に接触しろ。そして、
何としてでも、ここに連れてこい」
「はっ」
勝司が、組員に声を掛ける。ここ数年の間に、勝司の指導力は増していき、いつの間にか組員に指示を出すまでに成長していた。 勝司の思いは一つ。
慶造の為に。
慶造の負担を少しでも減らそうと、勝司自ら考え、そして、指示を出していた。 もちろん、慶造の許可は得ているが。
勝司の言葉が発せられたのは、もうすぐ梅雨が始まる五月の終わりだった。 なぜ、このように急かしたように、緑と呼ばれている芯を連れてこようとしているのか。 慶造の焦りもあったが、ちさとの命日を過ぎた頃から、またしても、真子の感情が変化したのもある。
笑顔が…減りました。
八造にだけ見せる笑顔。しかし、時々、物思いにふけるような感じも見せる。 八造と接する時間が減った事もある。春樹との時間も少なくなっている事も関わっている。 やはり、緑と呼ばれる芯と接することは、春樹の行動を制限するためにも必要だと、慶造は考えた。 慶造には珍しく、芯と逢うことを、たった一人で決めてしまった。
しかし、やはり心配なのか、慶造は、その事を修司と隆栄に話し、その写真を見せた。
「……慶造」
「ん?」
「このガキ……」
「真北は反対してるけど、俺は絶対に逢うつもりだぞ」
二人には、春樹の弟だという事を、まだ、話していない。
「真北さんが反対する訳が解るよ」
「えっ? 修司…お前…」
まさか、弟だということを知ってるのか?
ゴクリと唾を飲む慶造に、修司は、話し続ける。
「慶造は忘れてるんだろうな」
「何を?」
「真子お嬢様が生まれる前の事。どっかの学校の前で、
お前と俺がガキに拳を頂いた事…あっただろ」
「……あぁ、そういや、ガキの癖に、凄い力だと思ったよなぁ。
後から、ずしりと来る拳だったよな」
「そのガキだ」
「はぁ?!?」
「流石、猪熊。記憶力は桁外れだなぁ……!!! って、阿山っ!
俺は、未だに怪我が治ってないんだぞ!」
「お前には常に必要だろが」
慶造の蹴りが、隆栄の頭上で空を切っていた。
「ったく。危うく記憶が無くなる所だったぞ」
ふてくされる隆栄を尻目に、慶造と修司は話を続ける。
「まさか、数年で、こんな荒くれ少年になるとはなぁ」
修司は呆れていた。
「それで、何がある?」
きょとんとした感じで慶造が尋ねる。
「ほんとぉに、忘れてるみたいだな。その時のガキの言葉」
「???」
「慶造を見つめて…俺は、こいつを許せない…って言ってたんだぞ?」
「…覚えてないな…」
「慶造の事を許せないということは、慶造を見た途端、
どうなるか解るだろ?」
慶造は、一点を見つめたまま、硬直していた。
「って、阿山ぁ〜?? おぉぉいい!! 阿山って!! …あかん、
戻ってけぇへん…どうする?」
「暫く、そっとしておけ」
「そうだな」
慶造は自分の頭の中にある考えを整理していた。
俺を許さない。 そのガキは、真北の弟。 ということは……。 真北を殺した俺を許さないって事か…。 でも、生きてるよな…真北は。 じゃぁ…どうなるんだ?? 兄弟の再会を考えてるが、見送った方がいいかもしれないな…。 う〜ん。 でもなぁ、ちさとと俺の思いだよな。 これは、真北に相談……。 いやいや、それは出来ない。 でも、真北自身の事だし…。 俺が介入してもいいのだろうか……。
慶造は腕を組み、眉間にしわを寄せながら、首を傾げて考え込み始めた。 そんな慶造の様子を眺めている隆栄と修司は、慶造の仕草一つ一つに何か笑いを感じていた。
「なぁ、猪熊」
「ん?」
「引き戻した方が、ええんちゃうか?」
「…そうするよ」
修司は、一呼吸置いて、慶造を呼んだ。
「慶造。で、どうするんだ? 山中が指示を出したんだろ?
組員総出で探して、連れてくるぞ。…大丈夫なのか?」
「何が?」
慶造が現実に戻ってくる。
「ほら、そのガキ。阿山組系列の組員を片っ端から倒してるんだろ?
本家の組員と知ったら、それこそ、手加減無いかもしれないぞ?」
慶造の顔から血の気が引いていく。
「そこまで、考えてなかった……中止させろ!!」
真北に知れたら、それこそ、俺が危険だろがっ!! 兄弟揃っての拳は要らん!!
しかし、慶造の中止命令は、一足遅かった。
芯が大学に通いだしてから、二ヶ月が経った頃だった。空梅雨と言われている時期。 芯は、やってしまった。 街で見かけた阿山組組員とやりあって、相手を気絶させてしまった。
「…あちゃぁ〜、力加減が解らなくなってしまったよ…。…おぉおい、
あんちゃぁん??…駄目だ…目を覚まさない…。仕方ないかぁ」
そう言って、気絶している阿山組組員を背負って、何処かへ向かって歩いていった。
「本部は、そこだよな……」
芯は、自分の拳で気を失った組員を背負って、阿山組組本部までやって来た。
「げっ! あいつ……!!」
「山中さんに、知らせろっ!」
芯の姿に気付いた門番が、忙しく動き始める。 芯は、本部の門の前に立ち止まり、門を見上げた。
ここが、例の場所……そして……。
奥に続く道を目で進み、その突き当たりにある屋敷を凝視した。
兄さんが過ごしている場所…、あの阿山慶造が住む家……。
芯の眼差しが鋭くなった。 まるで、血に飢えた豹のように……。
(2014.11.25 第六部 第二十三話 改訂版 UP)
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