第六部 『交錯編』
第二十七話 真子の想いが爆発っ!
慶造の部屋。 芯が慶造に、真子の悩みを相談していた。しかし、慶造から帰ってくる言葉は、
真北に相談だな…。
常にそうだった。 呆れる芯は、口にしてはいけないと思いながらも、この日はとうとう、
「慶造さんは、何でも真北さんに相談されるんですね。
あなたが、お嬢様の父親のはずでしょう? なのに、なぜですか?」
口にしてしまった。 しかし、その言葉に対して返ってきた言葉も、春樹に関する事。それには、流石の芯も呆れてしまうが、慶造に痛いところを突かれてしまった。
なぜ、そこまで真北を目の敵にするんだ? …理由があるのか?
返す言葉が見つからない芯。 確かに理由はある。だが、それは、ここでは証せない。 あの人が、きちんとわきまえたから。…それも、自分のことを考えて…。 話をそらさなければ…。 そう思った矢先、慶造の口から発せられた言葉に、芯は度肝を抜かれてしまった。
「…兄への…仕返し…か? …それとも、俺への復讐か?」
「…!!!!! 兄…とは…? それに、どうして、私が慶造さんに…」
「お前の事を調べたら、自然と解ることだろう? 何も知らずにお前を
ここへ招くわけがないだろうが。そして、大切な真子の側に
近づける事もしないさ」
芯は口を一文字にし、何かをグッと堪える。 口を開けば、怒りをぶつけそうだった。
「俺を誰だと思っている。…俺が生きている世界では
相手のことを全て調べなければ、身の危険に繋がる。
当たり前のことさ。情報は…大切だろう?」
「それは、いつからですか? もしかして…」
「真北の立場上、あまり言えないが」
「特殊任務の事ですか?」
「……知っていたのか」
「その任務の方に守られていました。あなたたちのような
人の迷惑を考えない輩から、私を守るために、常に…」
「真北もな」
「!?」
慶造の言葉に更に驚く芯だった。 まさか、自分の前から姿を消し、生きている事を隠していた兄が、自分を守っていたとは、思いもしなかった芯。慶造の言葉を聞いた途端、自分が知っている特殊任務や警察関連の人達以外の気配を感じていた事を思い出し、それが、懐かしい何かを感じさせるものだという事も思い出していた。
兄さん……
口にしたい言葉を飲み込み、拳を握りしめることで、その思いを閉じこめる芯。
「それなら、どうして、私なんかを、この場所に招いたんですか?
あなたへの復讐心もあること…御存知のはずです」
「あぁ。知っているよ。俺を憎んでいる事をな。だが、それは、
大切な兄を殺した男への復讐心なんだろ? でも、その兄は
生きていた。それを知ったら、その復讐心なんか消えるはず。
俺は、そう思って、真北の大切な弟…お前を招いたんだ」
そう語った慶造は、とてもやわらかい表情で芯を見つめていた。 まるで、春樹が真子を見つめる時のような雰囲気。
どうして、こんな人が、やくざの…それも組長として生きているんだろう…。
芯は不思議な感じに包み込まれていた。 心に根付いていた慶造への復讐心。それが、まるで、氷が溶かされるかのような感じで消えていくのが解る。
あの人が、慶造さんに力を貸している思いが解った気がした。
「それに、一石二鳥だと思ってな」
慶造が言った。
「一石二鳥? 何と何ですか?」
思わず尋ねる芯だったが、慶造は惚けただけだった。
「ったく、呆れますよ、慶造さんには」
「呆れてくれ。それが、俺だからな。そうでもしないと、俺自身が
真子を哀しませてしまう行動に出てしまうんでな」
慶造の表情が、がらりと変わった。 それこそ、極道の親分だった。
「…で、これからは、どうするつもりだ?」
「どうする…とは?」
「真子を利用して、真北を陥れようって魂胆か? そう簡単に事が
運ぶとは思わないがなぁ。…相手は真北だぞ?」
慶造の眼差しは、とても鋭く、芯は、この時、慶造の考えが解らなくなっていた。
屋敷内の回廊が、ざわつき始めた。組員達が、徐々に集まり始める。廊下の先から、何やら険悪なオーラが漂い始めていた。
向井と健が、廊下でばったりと会い、それぞれが道を譲らず、向かい合って立ち止まる。
健は向井を睨み付ける。 向井も負けじと睨んでいた。 お互い何も言わず、ただ、睨み合っているだけ。その雰囲気が、険悪なオーラを屋敷内に漂わせていた。 先に口を開いたのは、健だった。
「お前、俺に何か言いたいのか? いつも俺を睨んでるよな。
言いたいことがあるなら、はっきり言ってもらいたいんだがなぁ」
健は、向井の顔にかなり近づいて威嚇する。向井は、動じることなく、健に応えた。
「別に…。ただ、お嬢様が怖がっているようなことをしていたからだよ。
それに、…これが、俺の面だ。そういうお前こそ、俺に何か言いたいのか?
…あ、あぁ、あれかぁ。お嬢様と接する時間が長いから…嫉妬してるのか?
もしかして、…お嬢様に、手を出したいから、接する男を尽く苛めるわけか?
お前のような、おちゃらけた男を、お嬢様が好きになる訳ないだろが」
「なんやとぉ〜?? てめぇ、お嬢様を馬鹿にしてるだろっ」
「いいや、お前を馬鹿にしてるだけだが…解らないのか?」
向井の言葉に、健は怒りが沸々とこみ上げてくる。 向井自身も、自分に苛立ちを見せていた。 言いたいこととは反対の言葉が、勝手に…口から飛び出していた。 向井は、突然、胸ぐらを掴み上げられた。 それに反応するかのように、掴む手を両手で握りしめた。 健が、向井の胸ぐらを掴み上げていた。しかし、それと同時に、向井に手を握りしめられた。その力は、健の想像を遙かに超えている。健の手は、向井の胸ぐらから外された。 健の手を放した向井は、その瞬間、拳を握りしめ、健を殴ろうと………。
「駄目っ!!!!」
甲高い声が、本部内に響き渡った……。
慶造の部屋では、芯と慶造が、静かに話し込んでいた。 慶造の言葉に、芯は、軽く息を吐き、
「それくらい、慶造さんに言われなくても、私の方が良く知ってますよ」
自慢げに言った。
「そりゃそっか。俺よりも、長い付き合いだよな」
「えぇ」
「……でも、真北に仕返しをするなら、協力してやろう」
「えっ? どういう…事ですか? あなたも、あの人を恨んでいるんですか?」
芯の問いかけに、ただ微笑んでいるだけの慶造。 慶造の考えが解らない芯は、大きく息を吐いた。
「兎に角、真子の学校の事は心配するな。なんとかするから。
真子にも伝えてくれよ」
「はっ。ありがとうございます」
「それよりなぁ……」
慶造の口調が、変わった。 まるで、芯を大切に想う者のような雰囲気に………。
「真北が心配してるぞ」
「…また、それですか……本当に、慶造さんは……?!」
芯は、部屋の外から聞こえてくる声が気になり、その方向に目をやった。
お嬢様…?
本部内に響き渡った甲高い声。
その声の主は、真子だった。真子は、下唇を噛み締めて向井を見上げている。
「向井さんのその手は、殴る為の手なの? そうだったの?」
「お嬢様……」
「そんなそんな…そんな手で、料理なんか作れないよ!!!」
真子の叫び声が、本部内に響いていた。その声に驚いた組員達が、更に集まって来た。
芯は思わず腰を上げた。
「すみません、失礼します!!」
慌てたように部屋から出て行く芯。慶造にも、その声が聞こえていた。
一体、何が起こってる…??
最愛の娘・真子の声が、それも悲痛な声が、屋敷中に広がっていた。 真子が、誰かを怒っている。
真子…どうした?
気になる慶造は、立ち上がり、部屋を出て行った。
隣の料亭で、笹崎と話し込んでいた春樹は、重い腰を上げて、真子の所へ向かおうと渡り廊下を曲がった時だった。
……この声…真子ちゃん?
真子の甲高く、それでいて、悲痛な声が、春樹の耳に届いていた。 真子の所へ向かう足が、少し速くなる。
真子の声よりも、甲高い音が、二つ、響き渡った。 真子は、周りの組員に気付いていないのか、向井と健に歩み寄り、向井の頬を引っぱたき、その勢いのまま、健の頬まで引っぱたいた。 その光景に、集まった組員達は、思わず首を縮め、そして、驚いていた。 一番驚いているのは、真子に叩かれた向井と健だったが……。
「…そんな目つきで、歩いているから、喧嘩になるの…。…怖いんだから…。
どうして、そんな目つきで…」
「そ、それは、…やくざですから…」
健が、静かに応えた。
「やくざ同士でも、笑顔で話せないの? …同じ仲間でしょ?
…向井さんは、料理人でしょ? その手は、料理を食べた人たちの
笑顔の為にあるんでしょ? 健さんだって、向井さんの料理、
おいしいって言っていたじゃない…。…なのに……なのに…、
気に入らないからって、喧嘩することないでしょ?」
真子は、何かを絞り出すように、二人に言い続ける。
「話し合えば、分かり合えることもあるのにこんなこと……もう…止めてよ…。
…そんな手で作った料理なんか…もう、食べたくない…」
真子は、涙を流してしまった。
「お、お嬢様……。すみません……」
向井は、頭を下げる。健は、真子が見せる初めての感情に驚きを隠せなかった。
真子の頬を、滝のように涙が流れ、そして、床を濡らしていく。流れる涙を拭いもせず、凛とした表情で、向井と健を見つめていた。
集まる組員をかき分けて、芯が真子の前にやって来た。
「お嬢様」
芯は、真子を呼ぶと直ぐに、抱きかかえた。泣きじゃくる真子は、芯の肩に顔を埋めて、更に激しく泣き始めてしまった。
「お嬢様、泣かないでください」
芯が優しく、声を掛けた。真子に掛けた声とは反対に、向井と健を睨む芯の眼差しは、氷のように冷たかった。
少しざわつく場所に近づく慶造は、目に飛び込んだ様子に驚いていた。
芯が泣きじゃくる真子を抱きかかえ、一点を睨み付けていた。 その眼差しこそ、慶造の背に冷たい物が走るほど。慶造は、芯が見つめる先に目をやった。 そこには、自分の手を見つめて、何かに後悔したような表情をしている向井と、芯に何かを言いたげな表情をして立ちつくしている健の姿があった。
「一体、何が遭ったんだ」
周りに集まる組員に慶造が尋ねる。
「!! 四代目っ!」
「なぜ、真子が泣いてる?」
「そ、その…向井と健ちゃん…とうとう、手を上げそうになって…。
今にも…という時に、お嬢様が二人をお止めになられました」
「二人の喧嘩を真子が止めた?」
「はい」
真子…何を考えてるんだ?
芯は、真子を真子の部屋に連れて行く。暫くして、真子の部屋から出てきた芯の行動を見つめる慶造。
芯は、未だに立ちつくしたままの向井と健の前に立つ。
「はぁ〜、あのなぁ。睨み合うのは良いが、お嬢様の前では
絶対にするなと、あれ程言ってあっただろうがっ。それも
お嬢様の部屋の近くで、何をしてるんだよっ」
「悪かった…俺……」
「向井さんも、健さんとは、話し合わないと…と言ってたでしょう?
なのに、どうして…」
「こいつの顔を見た途端、思っていた事とは別の言葉を発していた」
向井の言葉に、芯は大きく息を吐いた。
「ったく。健さんも言われていたでしょう?」
「うるさいっ! 俺の心を逆なでするような言葉を発したのは
こいつの方が先だっ!! 俺は、ただ……」
怒鳴る健だったが、芯の眼差しに射られ、思わず口を噤んでしまった。
「いいな、もう、これっきりにしろよ。これ以上、お嬢様の笑顔を
減らしてどうするんだよっ! 笑顔の為に料理を作ってるんだろ?
笑顔を増やす為に、お嬢様の好きなことを探してるんだろ?」
「それはそうだが……」
向井と健は、同時に発し、俯いてしまった。
芯が向井と健をしかりつける様子を見つめていた慶造。
流石、真北の弟だな。
「…今、俺の弟だと改めて思っただろ?」
「!!! って、真北っ!! いつの間に?」
「真子ちゃんの声が聞こえたんだよ」
「本当に地獄耳だな」
「地獄耳じゃなくて、耳が良いだけだ。…何が遭った?」
「真子が、健と向井の喧嘩を止めたらしい」
「真子ちゃんが???? やはり、山本に格闘技を習い始めた事が
その行動に出る羽目になったのか…?」
「驚く事無いだろが。八造と栄三の喧嘩も止めるんだぞ、真子は」
「……そうだった。……で、慶造は、そこで何をしてる?」
「そういうお前こそ、どこに向かっている? 俺に報告は無しか?」
「解ってる事を聞くな」
「真子は、未だ落ち着いてないかもなぁ」
「じゃぁ、慶造が行くか?」
「うっ………。真北、後を頼んだ」
そう言って、慶造は踵を返して、自分の部屋に入っていった。
「ったく」
呆れたように頭を掻いて、春樹は芯たちの所へ歩み寄る。
「山本先生、それ以上、この二人を怒ると、真子ちゃんが
余計に心配するよ、例のことで」
「真北さん……。そうですね、すみません。しかし…」
「大丈夫だって。ちゃぁんと反省…するだろ?」
優しく言った感じだが、芯よりも鋭い眼差しが、向井と健を射止めていた。
「深く……します…」
呟くように、向井が言った。
「申し訳御座いませんでした」
健が、やっと反省した。
「真子ちゃんは?」
「部屋に。二人の事を叱ってくると言って、出てきましたが、
まだ、泣いてます。…これ以上、俺には…」
「あとは、任せなさい」
そう言って、春樹は、真子の部屋に入っていった。 芯、向井、そして、健は、静かに閉まるドアを見つめる。
「後は、真北さんの言葉次第か…」
芯が呟いた。
春樹が部屋に入ると、真子は、ベッドに腰を掛けて、泣きじゃくっていた。
「真子ちゃん、向井くんも健も、深く反省してるからね」
その声に、顔を上げ、初めて春樹が来たことに気付いた。
「まきたぁん!! …うわぁぁあん!!!」
更に真子が泣き出してしまった。思わず真子を抱きしめる春樹。真子は、春樹の胸に顔を埋めたまま、泣き続けていた。
少し落ち着いた真子は、春樹が持ってきたオレンジジュースを一口飲んだ。
「落ち着いた?」
春樹の声に、真子は、そっと頷いた。
「二人が怖かった?」
真子は首を横に振る。
「そうだよな。怖かったら、怒らないよなぁ」
「……向井さんを……叩いちゃったの……」
「あらら…」
「健さんも……叩いちゃった……」
「そりゃ二人とも落ち込むわなぁ」
と春樹が言った途端、落ち着いた真子が、再び激しく泣き始めた。
「わわあわわっ!! 真子ちゃん!! ごめん、ごめん!!!!」
春樹の言葉で、真子が泣いた。 その事で、真子が何故激しく泣いているのかが判った春樹。真子を力一杯抱きしめ、
「真子ちゃんは悪くないから、ほら、泣かないの」
「お二人に……えぐっ……ごめんなさい……ふぇっ……って
ごめん…なさい……しないと……えぐっ……」
泣きじゃくりながら、真子が言う。
「真子ちゃんの思いは、二人に通じたから、真子ちゃんが謝ると
二人とも、どうして怒られたのか、判らなくなるよ?」
「…そ……、そう…な……の?」
涙目で、春樹の胸元から、春樹を見上げる真子。 その表情は、なぜか、色っぽく…… 春樹の鼓動が、高鳴った瞬間だった。 ぐぅぅぅぅっと堪え、飛び出しそうな思いを抑え込む春樹は、落ち着いた声で、真子に言う。
「まきたん」
「はい」
「………ありがとう…………」
「真子ちゃん?!???」
真子は、泣き疲れたのか、急に眠ってしまう。
ったく……。
真子の頬に伝う涙をそっと拭い、目から溢れる涙も拭った春樹は、真子の寝顔を見つめ、そして、額に軽く口づけをする。真子をベッドに寝かしつける…が、真子は春樹の服をギュゥゥゥゥゥッと握りしめたまま寝入ってしまったものだから、春樹は、真子から放れられない……。 仕方なしに、春樹は、真子の隣に寝転んだ。
中々廊下に出てこない春樹が気になった芯は、真子の部屋をそっと覗き込む。 春樹が真子に寄り添って寝転んでいるのを目の当たりにした。
「って、何やってるんですかっ!」
芯が春樹に近づき、小声で怒鳴った。
「真子ちゃんが放してくれない。寂しいときは服を握りしめて
眠る癖があるんだよ。……それは、ちさとさんが亡くなってから
激しくなった。無理に引き離せないだろ…想いが解るだけに」
「そうですが……その……」
「二人を叩いてごめんなさい…だってさ」
「悪いのは、あの二人なのに?」
「原因は、いつものことか? そうならないようにとお前に頼んだだろ」
「向井さんも健さんも、お互い理解して下さいましたよ。だけど、
心に秘めた思いは、顔を合わせた途端、どうしても表に飛び出して
行動に移ってしまいますよ。…俺だって……」
「俺を殴りたいか?」
「殴りましたけど、まだ足りませんね」
冷たく応える芯に、春樹は優しく微笑んでいた。 その微笑みが、芯の怒りに益々火を付けてしまう。
「ほんとぉぉぉに、腹が立ちますよ、あなたにはっ」
「冷たいなぁ〜ほんとに」
「冷たくなる原因は、御存知でしょうがっ。それよりも、
二人には、これからの事を話し合ってもらいますから」
「あぁ、俺が言うより、歳が近いお前の方が、落ち着けるだろうから、
頼んだぞ。……そういうの、得意だろ?」
部屋を出ようと立ち上がった芯の背中に言う春樹。芯はドアを開け背を向けたまま、
「私は、止められる方でしたよ」
そう言って、振り返る。
「あなたも御存知でしょう?」
ちょっぴり微笑んだ芯に、春樹も微笑み、
「あぁ、そうだったな」
優しく言った。 芯は部屋を出て、ドアを閉めた。
いっつも、止められてたな……、幼い頃から。
春樹は、そんなに遠くない昔を思い出していた。
その夜、真子は春樹と一緒に布団の中に居た。中々眠れないのか、春樹を見つめ続けている。
…そう見つめられると…その…。
「真子ちゃん、早く寝ないと…」
「眠たくない…」
「……夕方まで眠ってたもんねぇ、泣き疲れて…」
「もぉっ」
真子は、ふくれっ面になる。
ふふふ。
春樹は、嬉しい気持ちをグッと抑えながら、真子を腕の中に包み込んだ。
「まきたん」
「ん? お姫様、どうしました?」
「向井さんと健さん…仲良くしてくれるかな…」
「真子ちゃんの言葉で反省してるようですよ。明日から楽しみですね」
「うん」
真子の元気な返事に、春樹は益々……。
「まきたん…くるしいぃぃ」
「ごめんごめん」
グッと抱きしめた腕を、ちょっぴり弛める春樹だった。
真子の部屋の隣に居る芯は、ひしひしと伝わる春樹の真子への思いに、複雑な気持ちを抱いていた。
なぜ、そこまで、お嬢様を大切に…それも、俺の事よりも……。
眠れないまま、朝を迎えた。
次の日の朝。
朝の稽古を終えた真子は、芯と一緒に汗を流し、お風呂場から出てきた。
「それでは、十時から、勉強を始めますので、それまで
ごゆっくり、おくつろぎ下さい」
「はい。漢字の書き取りでしたね。予習しておきます」
「では、後程」
真子は芯に一礼し、部屋に向かって歩き出す。
あっ。
廊下の先に、健の姿を見つけた。 健も真子の姿に気付いたのか、振り返っていた。
「お嬢様、おはようございます!!」
健の元気な声に、真子の表情が輝いた。
「健さん、おはようございます! 今日も良い天気ですね!」
「はいなぁ〜」
そう言って、真子に近寄り、笑顔を向けた。
「今日のご予定は?」
健が尋ねる。
「少しお腹が空いたので、軽く何かを食べようと思ってます。
健さんも、一緒に食堂へ行きますか?」
「そうですね、御一緒致します」
健と真子は、並んで食堂に向かう。
「おはようございます」
真子が挨拶をしながら食堂へと入っていった。
「おはようございます、お嬢様」
そう言って、厨房から出てきたのは、向井だった。 その表情は、なぜか、とても輝いていた。
「軽く何かを食べたいんですが、ございますか?」
「ありますよ。…健も何か食べるか?」
「…ん、…あ、あぁ…よろしく。お嬢様と同じでいい」
「すぐ用意するよ。お嬢様、いつもの席でお待ち下さい。
今日のお勉強は?」
「十時から部屋です」
「体を動かす御予定はごさいますか?」
「午後は、山本先生が外出されるそうです」
「ということは、くつろがれるんですね」
「はい」
「では、その予定で…」
「向井さんは、料亭でのお仕事は?」
「ございますよ」
真子と話ながら、料理を用意する向井。 前日とは全く違い、その雰囲気こそ、心が和むものだった。 笑顔で料理を作る向井は、前日の真子の言葉で、心にあった何かが弾けた様子。
その手は、人を殴る為の手…なの…………か。
向井の表情を見つめ、そして、向井と話す真子の表情を見つめながら、健は、前日の真子の言葉を思い出していた。
お嬢様の優しさに、応えなければ……。
自然と顔が綻ぶ健だった。 その思いが、自然と行動に出ている事に気付いたのは、強烈な痛みを背中に感じてからだった。
「山本先生っ!!」
その声に、真子が振り返る。 向井も手を止め、声の方に目をやった。 食堂に居る組員が、芯の前に立ちはだかっている。他の組員が、しゃがみ込み、誰かに声を掛けていた。 床には健が横たわっている。
「山本さん、落ち着いて下さい!!」
「…うるせぇ…どけよ…こるるぁ〜」
地を這うような声に、組員は一瞬だが身を縮める。しかし、そこは元笹崎組の組員(食堂に居る組員は、料理の腕を見込まれて、本部の食堂で料理担当をしている。もちろん、笹崎組に居た者達)。芯の恐ろしいまでのオーラには恐れても、身を引こうとしない。
「…山本ぉ〜、お前な、急に何するねん!!」
健が怒りを含んだ言い方をしながら、立ち上がる。そして…、
「うわぁっ!! 健ちゃん、駄目だって!!」
組員が止めるのも空しく、健は、組員の横をすり抜け、芯に拳を突き出した。 その拳は、いとも簡単に、芯に止められる。そして、目にも止まらぬ動きで、芯は健の胸ぐらを掴み、自分に引き寄せた。
「…今、何をしようとした……あ?」
「俺は何も…」
「それじゃぁ、無意識か…?」
「ほへ?!」
「お嬢様を…抱きしめようとしただろ?」
「そんなん、真北さんも、八やんもしてるやん。
俺だって、ええやろ!!」
「お前だけは、許さん」
「なんで、俺だけやねん。それもあんたが、そんなこと言うん?」
健の言葉に、我に返った芯。 確かに、真子を抱きしめる仕草は、春樹も八造もしている。 なのに、どうして、今、健の行動を見た途端、蹴りを…?
「じゃかましぃっ!」
健の腹部を蹴り上げて、芯は手を放す。
「うぐっ……。……てめぇ〜〜」
芯は、踵を返して食堂を出て行った。
「健ちゃん!! 大丈夫か!!」
心配した組員が駆け寄るが、健はそのまま気を失ってしまった。
「健!!!!」
誰かの声が、遠くに聞こえた……………。
芯は、真子の部屋に、たった一人で姿勢を正して座っていた。 時間を確認する。 十時半を過ぎていた。
「はぁ〜」
大きく息を吐いて、姿勢を崩す。 十時から勉強の時間。 そう伝えたのに、勉強を教える相手は、部屋に戻ってこない。 それもそのはず。真子は、その日の朝にあった食堂での一悶着で、気を失ってしまった健を心配して、未だに医務室に居るのだった。 芯は暇をもてあまして、教科書をパラパラとめくり始めた。
怒ってるのかな……。
真子の行動が気になるのか、芯の心に不安が過ぎる。 なぜ、不安になるのか、我に返った芯は不思議に思っていた。 最近、真子に対する自分の心が変わっている。 独占欲では無いことは解るが、真子の側に居る者に対して怒りの思いが沸き立っている。そして、真子に対する行動や仕草まで。 真子に危険だと思う行動は、思わず阻止してしまう。 真子に触れるようなら、それこそ、拳を握りしめてしまう。 しかし、それは、春樹以外の人間に対してだった。 芯は腕を組んで考え込む。
解らない……。
そう思った途端、机に突っ伏してしまった。ふと、ドアの方に顔を向け、ドアノブを見つめる。 動く気配すらない……。
これは、嫌われた……か……。
なぜか、寂しい思いに駆られていた。
真子は、机に突っ伏して眠っている芯の顔を覗き込む。
「どうですか、お嬢様」
そっと声を掛けるのは八造。
「熟睡してるみたい」
「起こしては、かわいそうですね」
「うん。……怒ってるのかな……」
「どうしてですか?」
「約束の時間……守らなかったから…」
「それは大丈夫ですよ。山本先生は、お嬢様には怒りませんから。
怒るとしたら、健に対してでしょうね」
「…どうして、八造さんも山本先生も向井さんも、健には冷たいの?」
うっ、それは、応えられません……。
八造たちの思いは、一つ。 真子に手を出すな。 健の『女性』への手の早さは、阿山組内では、凄く有名だった。その健の思い人の事も、誰もが知っている。その二つをひっくるめて考えた結果、
健を真子に近づけるな!
しかし、真子は、健とも仲良くしたいという思いがある。 健自身が、時々見せていた寂しげな表情が気になる真子。真子の前では笑顔を見せるが、一人になっているときの表情は、今でも寂しそうなものだった。 健の葛藤している心の声を聞いてしまった真子の思い。 それは、誰にも知られていない事。
「このままでは、体を壊しますから、何か肩に掛けてあげましょう」
八造は、真子の質問に応えず、話をそらす。
「そうですね」
そう言って、真子はベッドの上にある毛布を手に取り、芯の肩に掛ける。 それでも芯は目を覚まさなかった。 真子と八造は、静かに部屋を出て行く。そして、裏庭で体を動かし始めた。
芯は、懐かしい気配で目を覚ました。 自分の目線が、テーブルの高さである事に気付き、慌てて体を起こした。
「おっと!! 生きていたか」
「って、真北さんっ!」
「真子ちゃんは勉強の時間なのに、庭に居るから、どうしたのかと思ったら…」
「えっ?! ………あっ!!」
時刻は昼の十二時を回っている。
「お嬢様は?」
「八造くんと元気になった健と一緒に昼食中。山本先生の姿を
見掛けないので、出掛けたのかと思ったら、真子ちゃんの部屋で
眠ってると聞いてだなぁ。心配して駆けつけたんだが…。
ったく、ここに来てから、芯から眠ってないだろ?」
「…眠れるわけ…ないでしょう?」
「俺のことを気にするな、そして、気にしないと言ったのは誰だよ」
「そうじゃありませんよ。……俺の部屋、ここの隣でしょう?
それで、時々気になって…」
「ほぉう、……成る程ね。…すまんな、俺のオーラが強すぎか?」
「そうですよっ!」
そう言って立ち上がる芯。その時、肩から何かがするりと落ちた。
「…これ…」
「十一時に部屋に戻ったら、山本先生が熟睡してるから、
体を壊さないようにと思っての、真子ちゃんの行動」
「そうでしたか…」
「ったく、あまり、真子ちゃんに心配掛けるな」
春樹は、すぅっと立ち上がり、芯の頭を拳の後ろで軽く叩く。そしてドアを開けた。
「あっ、そうそう。食堂で真子ちゃんが待ってるぞ。
それと、健も元気だから、心配するなって。
あまり、真子ちゃんの居る所で自分の思いを健にぶつけるなよ!
真子ちゃんに平手打ちされるからなぁ〜」
「えっ?」
「八造くん、あれでも、真子ちゃんから何度も怒られてるからなぁ」
軽い口調でそう言いながら、春樹は部屋を出て行った。
ったく……。
健に対する自分の振る舞いを反省したのか、芯は頭を掻きながら立ち上がる。
ん?
ふとテーブルの上にあるメモに気付く。
山本先生へ。 起きられたら食堂に来て下さいね。 お食事の用意してますから。 でも、先に食べてますよ! すみません。 真子より。
お嬢様……。
そのメモを手に取り、芯は真子の部屋を出て行った。 自分の心を把握しないまま………。
(2005.6.11 第六部 第二十七話 UP)
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