第六部 『交錯編』
第三話 弟? 弟分?
この日、演芸場は、とても賑やかだった。
年二回開催される演芸大賞。この日がそうだった。この大賞に選ばれるのは、日々、人々を笑いの渦に巻き込み、心を和ませ続ける芸人に送られるという、芸人にとっては、絶対に手にしたい賞の一つ。それも、お笑いの世界で生きているなら、絶対に。
その楽屋には、たくさんのお笑い芸人が大賞を狙い、パートナーと最後の仕上げをするために、緊迫した雰囲気が漂っていた。 その中の一人…若手の中でも、一目置かれる存在である男が居た。
楽屋の隅にちょこんと座り、一通の手紙を眺めていた。 唇を噛みしめ、何かを堪えている。 楽屋のドアがノックされた。なのに、男は、返事もせず、そして、動こうともしなかった。
「おぉい、健ちゃん」
ドアが開き、楽屋を覗き込んだのは、霧原だった。もちろん、この霧原もお笑い芸人。そして、楽屋の隅にいる健という男とコンビを組んでいるのだが…。
健は、名前を呼ばれて、ゆっくりと顔を上げた。
「ったく……こんな大事な日に、それはないだろが…」
そう言いながら健に近づいていく霧原は、健が手にしている手紙に気付く。
「ごめん……。でも、健ちゃん。その為にも頑張ろうや」
優しく声を掛ける霧原に、健は堪えていた涙を流してしまった。
「大賞取って、俺達が主役の番組ができたら…絶対に招待するって…
俺、ちさとさんに約束したのに…だけど……だけど……」
健の声は震えていた。 健が手にしている手紙。それは、熱烈なファンからのファンレターでもなく、抗議の手紙でもない。 自分がお笑いの世界に飛び込む前に、優しく接してくれた、極道界で生きる女性・阿山ちさとからの、応援メッセージだった。大きな舞台の前には必ず、緊張を解すために、目を通してる手紙。しかし、今、手にしている手紙は、ちさとが亡くなる前の日の消印が押されていた。
次こそ、大賞取れるぞ! がんばれ!
手紙の最後は、そう締めくくられていた。 その大賞を狙う日が、やって来た。
ちさとが亡くなったという知らせは、霧原から伝えられた。 初めは嘘だと言って、耳を傾けようともしなかった健。 芸人の中には、極道の世界と知り合う機会がある。その者が、小さく呟いた言葉に、健は発狂した。 突然の健の狂乱に、その場にいる者は、驚いたが、 「次のコントの練習なので」 霧原が、そう言って、その場をしのいだ。 その日に届いた手紙が、それだった。 それから、健は、何かを忘れようとするかのように、人々を笑わせ始めた。 師匠や観客は、健の芸に磨きが掛かったと喜んでいたが、コンビを組む霧原には、そう受け取れなかった。舞台の袖に入った途端、表情ががらりと変わり、暗い雰囲気になる健を見ているだけで、霧原は辛い。それでも、健は、このお笑いの世界で頑張ろうとしていた。
「健ちゃん、今日が本番やで」
霧原が言う。
「解ってるよ。…他の誰よりも、俺……みんなを笑わせてやるっ」
そう意気込んだ時だった。 一人の男が、楽屋に顔を出した。
「やっほぉん。おひさぁ〜」
「…!!! 兄貴っ!」
「栄三さんっ!」
楽屋に顔を出したのは、健の兄・栄三だった。いつもながら、軽い口調で、健の楽屋に顔を出した。
「栄三さん、また、こちらで仕事ですか?」
健の楽屋に顔を出すときは決まっていた。 情報収集の仕事で、近くに来た時は必ず、健の様子を伺いに、そして、観客の反応を伝えにやって来る。霧原は、そう思っていた。それに、この日は、芸人にとって、大切な日でもあるから…。
健は、栄三を見つめていた。 栄三は、いつものような表情をしているが、健には解っていた。 健は、ちさとからの手紙を丁寧に畳み、そして、懐にしまいこんだ。スゥッと立ち上がった健は、栄三の側に歩み寄る。
「ん? どうした、健。緊張してるんか?」
優しく語りかける栄三。
「兄貴」
「ん?」
「戻るから……」
静かにそう言って、健は栄三の横をすり抜けて楽屋を出て行った。
「健ちゃん?!」
健の急な行動に、霧原は慌てる。
「すみません、失礼します。舞台が終わるまで、いつものように」
「あぁ、そうしてるよ」
栄三に一礼し、霧原も楽屋を出て行った。
健……?
健の表情は、これから舞台に立ち、人々を笑いの渦に巻き込もうとする雰囲気ではなかった。そして、自分に言った言葉。 戻るから……。
健、お前、何を考えているんだよ…。
栄三は、健が向かった先を見つめていた。
パステル調のかわいい服を身につけた中学生くらいの女の子が、足取り軽く演芸場に向かって歩いていた。急に歩みを停め、振り返る。
「もぉ〜先生! ここまで来たんやから、諦めぇやぁ」
女の子が見つめる先には、ビシッとスーツを着こなした一人の男が立っている。そして、照れたような呆れたような表情をしていた。
「やっぱり、俺には似合わんって。仕事に…」
「もぉ〜っ!!」
女の子は、男性の腕を掴み、寂しげな眼差しで見上げていた。
「約束やんかぁ。退院祝いに連れてきてくれるって!
それに、加わって、先生も一緒っていうのがぁ〜」
辺り構わず大きな声で言う女の子に、男性は、
「あがぁ、解ったって。もう、声を張り上げるなっ! …誰かに……」
見られたら…と言おうとしたが、既に遅く…。
「よぉ〜、院長! 仕事一筋の男が、デートかぁ?」
げっ…水木…。
男に声を掛けてきたのは、演芸場がある街を仕切る極道・水木組組長の水木龍成だった。声を掛けられ、そして、女の子に腕を組まれている男性こそ、大阪にある橋総合病院の院長・橋雅春。凄腕の外科医でもある。
「ちゃうわい。退院祝いや」
なぜか反論する雅春。
「デートやんかぁ! 先生ひどぉ〜い」
うるうるとした眼差しを向ける女の子。
「院長、こぉんなかわいい子を泣かしたら、あかんでぇ〜」
「水木ぃ〜。てめぇ〜と一緒にすんなっ!!」
と言いながら、水木の腹部を蹴り上げる雅春だった。
「じゃぁ、行こうか」
その場の雰囲気を変えるかのように、雅春が女の子に声をかける。女の子は、嬉しそうに微笑み、そして、演芸場へと入っていった。
「あの院長〜、手加減っつーのん知らんのかっ」
「兄貴、生きてますか!!」
心配そうに水木の顔を覗き込むのは、水木組若い衆・西田だった。
「大丈夫やって。…ったく、隣の席にならんかったら、ええんやけどな…」
そう言って、水木たちも演芸場へと入っていった。
水木の心配は、的中する……。
大賞を狙うだけあって、集まる観客は、ファンだらけ。応援する芸人が出てくるのを、わくわくした眼差しで待ちわびている。しかし、その中の一角だけ、険悪なムードが漂っていた…。
「……なんで、院長と隣なんや…」
「それは、こっちの台詞や」
本当に隣同士になってしまった水木と雅春。一緒に座る西田は、水木をなだめるように声を掛けている。しかし、雅春の隣に座る女の子は、舞台に釘付けだった。
「先生、健ちゃんと霧ちゃんの出番は、いつなん?」
「ん〜」
プログラムのページをめくる雅春。
「結構人気が出とるし、期待の芸人やし、そんで、今回の
大賞は、間違いないから、最後の方やろな」
水木が変わりに応えた。
「おっちゃん、お笑いの通やな! ほんま、先生あかんわ…」
「ほっとけ」
雅春がふてくされたように応える。
「そりゃぁ、仕事一筋の男やもんなぁ〜、無理やって。
まぁ、医学の事、特に外科的な事なら、一番やろな」
「水木、それ…誉めとんのか?」
「医者としては誉めとるけど、人としては貶してるんやけどな」
「……てめぇなぁ〜」
雅春の拳が振り上げられると同時に、お囃子が聞こえてきた。雅春は、思わず姿勢を正す。女の子は、更にわくわくとした眼差しになり、舞台に釘付け。その女の子の横顔を見つめる雅春は、昔の事を想いだしていた。
あいつも、お笑い…好きだったよな…。
雅美……。
舞台の上では、芸人が観客を笑わそうと、おもしろ可笑しく芸を披露していた。 客席は、笑いで包まれていた。
健と霧原の楽屋。
健は一点を見つめ、気を集中させていた。 それは、今までに見た事のない姿だった。 好きな芸を披露するのに、緊張せぇへんって! それは、健の口癖。もちろん、健は舞台に立つ時も緊張しないようで、側に居る霧原も、それにつられるように、緊張したことは無かった。 しかし…。
「健ちゃん、霧ちゃん、出番です!」
係の者が声を掛けてくる。 健は気合いを入れ、そして、霧原を見つめ、頷く。 健は、楽屋の入り口に立ったままの栄三を見つめる。
「大賞、取ってこいよ」
栄三が言った。
「当たり前や! 俺をだれやぁ思てるねん!」
輝く笑顔を見せ、健と霧原は、楽屋を出て行った。
「健!」
栄三の呼び声に、後ろ手を上げて走っていく健。
「ったく、好きなんだから…」
そう呟いて、栄三は観客席へと向かっていった。
「……真北さん…」
扉の側に立っている男に気付いた栄三。その男は、栄三を追いかけてきた春樹だった。
「ったく。深刻な表情で本部を出て行くから、心配しただろが」
優しく微笑む春樹に、栄三はフッと笑う。
「そりゃぁ、最愛の弟の大切な舞台だから、深刻にもなるでしょう?」
「まぁ、そうだな。…今日だったんだな…大賞は…」
「えぇ」
ちさとさんが、一番気にしていた日…。
春樹と栄三は、知っていた。 ちさとが時々、手紙を送っていた事を。
「入りますか? そろそろ出番ですから」
栄三がドアに手を掛ける。
「いいや、俺は、立ち見なんでな」
「そりゃぁ、ファンが席を陣取りましたからねぇ」
「栄三のチケットは、健ちゃんから?」
「実は、桂守さんから」
「もしかして、霧原くんが?」
「来るわけ無いのを解っていながら、いっつも送ってるそうですよ」
「なるほどね」
会場から、大きな拍手が聞こえてきた。
「次やろ? ほら、行けよ」
春樹が言うと、栄三は照れたように微笑み、そして、ドアを開けて入っていった。
「なんか、入りづらいんでなぁ〜俺」
呟くように言った春樹は、演芸場を出て行った。 客席に入った栄三は、かなり良い席に座る。それも一番前だった。
「あいつは、阿山組の小島…」
水木が、栄三の姿に気付き呟いた。その声に反応した雅春は、水木が見つめる先に目をやった。
「先生、健ちゃん!!」
健と霧原が舞台に立った。それと同時に会場は割れんばかりの拍手に包まれる。思わず耳を塞ぐ雅春は、先程の水木の言葉をすっかり忘れていた。
「うわぁ〜、すんごい拍手や〜」
「ほんまやわ。……って、また、一番前に居るしぃ〜」
そう言って、舞台の上から、客席に居る栄三を指さす。もちろん、栄三は、追い払うような仕草をしていた。 健は、栄三を見つめていた。 その眼差しは、何か寂しげだった。
健…?
にっこりと笑った健は、コントに戻る。
「健ちゃん、今日は輝いてるね!」
女の子が、雅春に言う。
「あぁ、そうやな。俺、笑えるで」
「ほんと?」
「大賞、間違いないで」
「うん!」
嬉しそうに返事をして、女の子は、舞台の上の二人に釘付け。 栄三も、健と霧原の姿を見つめていた。もちろん、腹を抱えて……。
「それでは、大賞の発表です!」
会場が暗くなり、一組の芸人にスポットライトが当たる。
「健と霧原のお二人です!!!」
割れんばかりの拍手の中、会場のファンが、思いっきり喜ぶ。 雅春の隣に座る女の子は、喜びのあまり立ち上がって拍手をしていた。 栄三は、にやりと微笑んでいた。 舞台の上では、健と霧原にお祝いの言葉を贈る芸人や司会者が居た。そして、大賞の盾と商品、大きな花束を受け取る健と霧原の姿があった。
「健ちゃん、喜びの声を一言!」
司会者にマイクを渡された健は、おしりをフリフリしながらマイクを受け取り、そして、舞台の中央に立った。 大きく息を吸い、そして…、
「みんな、応援ありがとう!!」
喜び溢れる声で、そう言った健は、マイクを司会者に返し、そして、笑顔満面に大きく手を振って舞台を去っていった。
「あれ? 健ちゃん?!」
健の行動に驚いた司会者は、健を呼び止めようとするが、終わりの時間が迫っているのか、司会進行に戻っていた。
健の行動を客席から見ていた栄三は、舞台の袖に隠れる瞬間に見せた健の寂しげな表情に気付いていた。舞台に残された霧原に目をやり、栄三は、健を追いかけるように会場を出て行った。霧原も、舞台の上の芸人に紛れるかのように舞台を去っていった。
楽屋に通じる廊下。
健は、楽屋に向かって走っていた。その健を追いかけるように栄三と霧原が走ってくる。
「健!」
「健ちゃん!!」
呼ばれて歩みを停めた健は、振り返る。 その顔は、涙で濡れていた。
「健…」
「兄貴、最後に寄りたいところがあるんだけど、いいかな?」
涙を拭いながら、健が言う。
「健、お前の考えを言えよ」
「戻ると言っただろ?」
「何にだよ」
と問いかける栄三は、健に指をさされていた。
「お、俺?」
「兄貴、ここに来たのは、俺の大賞を取る姿を見に来ただけじゃないだろ?
その足で、この近くに会社を構えた…黒崎に……」
「栄三さん、本当ですか?」
健の言葉に霧原が驚いたように声を挙げた。
「……兄貴に付いていくよ。…だけど、それは、兄貴のこれからの
行動に協力する為じゃない。俺も兄貴と共に生きていく為だ」
「健、でも、それは…」
「思い立ったら直ぐに。霧原…ごめん。俺…振り回してばかりだな」
「健ちゃん。気にしなくていいよ。俺だって、気にしていたから」
栄三の行動、そして、考える事はほとんど解る霧原。それは、栄三を生まれたときから見ていたからである。 だからこそ、ちさとが亡くなった後の行動も解る。健の言葉に、優しく応えた霧原は、壊れ物を包み込むかのように、健を抱きしめた。
「霧原…」
その声は震えていた。
「ほな、師匠に挨拶せな…。これ、渡しに行こう」
健は、今もらった大賞の盾を霧原に見せる。
「そうですね」
健と霧原は、微笑み合い、そして、楽屋に戻り荷物を手に取った。 舞台の芸人が楽屋に戻ってくる前に、健と霧原、そして、栄三は、演芸場を後にした。
その日以来、健と霧原の姿は、テレビ画面から消えた……。
健は、師匠の前で頭を下げていた。 師匠は、健を見つめている。
「解った。だけどな、健。これだけは忘れるな」
健は顔を上げ、師匠を見つめた。
「決して、人を傷つけるような事だけはするな。
その手を血で染めるなよ」
「師匠…」
「お前の実家の事は、知っている。霧原の立場を聞いた時に
調べてみた。…極道に知り合いが居るから、その世界での話も知ってる。
だから、お前が何を思い、飛び出した世界に戻るのかも解る」
師匠は、健の頭をそっと撫でる。
「これでも俺は、お前の親だからな」
「師匠。…ありがとうございます」
「その俺よりも大切な者を守る為なんだろ?」
「はい」
兄貴…。
「健。これは預かっておくから」
目の前に差し出された大賞の盾を手に取る師匠。
「師匠…預かるとは…?」
師匠の言葉が気になる健は、そっと尋ねていた。
「いつでも戻ってこいってことだ。この世界が一番…
好きなんだろ?」
参ったな…。
師匠の言葉に、健は脱帽する。
「本当に、師匠は、私の事を隅々まで御存知なんですね」
「当たり前だ」
師匠と健は微笑み合った。 健は再び姿勢を正す。
「師匠。お世話になりました」
再び深々と頭を下げる健。
「元気でな」
静かに言った師匠の言葉が、健の心に響いていた。 そして、健と霧原は、師匠の前から姿を消した。
窓に歩み寄り、下に見える健と霧原の姿を見つめる師匠は、名残惜しそうな表情をしていた。 健は、霧原と時々楽屋に訪れていた男と一緒に去っていく。少し歩いた所には、刑事らしき男が立っていた。健は、その男とも親しく話し去っていく。
健、霧原。無茶はするなよ。
棚の上に飾った盾が、とても輝いていた。
阿山組本部・慶造の部屋。
慶造は、深刻な表情をして座っていた。その目の前には、栄三と健、そして、霧原の姿があった。もちろん、三人の横には春樹の姿もある。 健が深々と頭を下げ、
「お願いします!」
ハキハキと言った。
「真北、なぜ止めなかった」
低い声で慶造が言う。
「そこまで監視はしてない」
冷たく応えた春樹。どうやら、春樹が栄三を追いかけて、大阪に行っている間、慶造が厚木たちと、無茶苦茶な行動に出た様子。その報告を受けた直後の事だった為、慶造に対して、冷たい態度になってしまう。
「あのなぁ〜真北」
慶造が声を掛けても、冷たい眼差しを向けるだけ。 その雰囲気の中、健が口を開く。
「四代目。俺は、未練ありません。それに頂点に立ちましたから。
次の世界で生きていきたいんです」
「健、俺が心配してるのは、小島の事なんだよ」
「親父のこと…?」
「勘当されて、健は何処で暮らすつもりだ?」
「それは、ここで。一から修行をしたいんです」
「お前の事は、ここに居る連中は、知ってるんだぞ。それでもか?」
「はい。それが、この世界の仕来りです。守るのが筋だと思います」
「そうか…解った。…霧原は、どうする?」
「私は、桂守室長の指示を待ちます」
慶造は、大きく息を吐く。
「ったく、どいつもこいつも…ちっ!」
舌打ちをして、立ち上がる慶造は、窓の外を見つめた。
どいつもこいつも、この世界に戻ってくる…。 血で染まった、この世界に…。
庭を見つめると、そこには、真子と八造の姿があった。八造の庭の手入れを見つめている真子は、なにやら八造に話しかけている。
「真北ぁ〜」
「大丈夫だ。八造くんは、真子ちゃんの事しか考えてないから」
「今年は、行くのか?」
「ん?」
慶造は、春樹に振り返る。
「天地山」
「まさが待ってるよ。真子ちゃんの為に飛びっきりのものを
用意してるってさ」
「そうか……八造が一緒なら、俺達は辞めておくよ」
「はぁ? 慶造こそ、安らぎが必要だろが」
「いいんだって」
そう言ったっきり、慶造は何も言わなくなり、窓の外を見つめた。
「栄三」
「はい」
「真子に健を紹介してくれよ」
「えっ? 健をですか?」
「お前の側に居るなら、必要だろが」
「あっ、いや、…そうですが………」
栄三は、健を見つめる。 栄三が口を噤んだことで、慶造は気になり振り返る。
「何かあるんか?」
「あの…この面…」
栄三が静かに言う。
「面?」
そう言われて、慶造は、健を見る。
「普通だろが」
「あっ、いや…でも…こいつは……」
慶造は、健をジッと見つめる。
そう言えば…テレビ画面で観るよりは、面が……。
「健。何も面まで、この世界に合わせなくてもいいぞ」
「四代目…ちゃいますって……」
軽い口調で栄三が言った。
「はぁ?」
「これが、こいつの本来の顔なんですよ…」
「……そうだったのか?!?!??」
驚いたように声を挙げる慶造に、健は苦笑い…。
「はぁぁぁぁぁあ……。ということは、栄三も小島も…そうなんだな…」
「…俺と親父じゃなくて、…お袋なんだけど……」
「そういや、健ちゃんは、美穂さん似……」
いつもは笑顔しか見せない阿山組の専属医であり、栄三の母である美穂。
美穂さんって、そんなに恐い顔をしていたっけ…??
慶造と春樹は、眉間にしわを寄せながら、首を傾げた。
そういや、頭が上がらないよな…美穂さんには…。
そう思った途端、二人は、頷いていた。
「まぁ、取り敢えず、真子に紹介………真北、いいだろ?」
「って、なんで、俺に尋ねるっ! 父親はお前だろが」
「真子の事を任せてるだろが!」
「あのなぁ、慶造ぅ〜」
「何度も同じ事を言わせるなっ!」
いつもの如く、睨み合う二人。二人のやりとりを初めて観る健と霧原は、きょとんとしていた。
「兄貴、兄貴……」
健がこっそりと栄三を呼ぶ。
「ん? なんだ?」
「二人…止めなくてええん?」
「いつもの事だからさぁ〜。ちゃぁんと止まるって」
「激しくなりそうなんやけど…」
「…来た…」
「ほへ?!」
栄三が呟くと同時に、慶造の部屋のドアが開き、修司が飛び込んできた。そして…。
ドカッ、ガシッ!!!
「!!!!!」
修司が、慶造の腹部に拳を入れ、その手で春樹の腕を掴む。
「猪熊さん」
「修司っ!」
「いい加減にして下さいね……」
静かに言う修司。それは、怒りを抑えている事が解るほど。
「…すごぉい…猪熊のおじさん…すごい……」
健が感激したように、言った。
「??? …って、健ちゃん! ……と、霧原っ。何してる?」
「いや、おじさん…その……」
「話は後で聞くとして…いつものことか?」
修司が慶造に問いただす。
「あぁそうだよっ」
短く応える慶造。
ったく…。
修司は、慶造と春樹から手を放し、窓の外に見える真子と八造に気が付いた。
「八造の奴…あれ程っ……!!!!」
修司は、窓を乗り越え庭に出ようとした。…が、両肩を掴まれていた。
「…慶造、真北さん。放してください」
「駄目だ」
慶造と春樹は声を揃えて言った。 修司の右肩を慶造が、左肩を春樹が掴んで、行く手を阻んでいた。
「お嬢様に必要以上に近づくなと言ってあるのに」
「気にするな」
またしても声を揃える二人。
「もし、お嬢様に手を出してしまったら…」
「それはない」
「お嬢様が恋をしたら…」
「まだ先の話しだっ」
「…………」
修司は振り返る。
「どうした?」
修司の呆れた表情を見て、問いかける時まで、声が揃う慶造と春樹。
「そこまで声を揃える癖に、いがみ合うな」
「……!!!!」
「…ちっ!!!!」
修司の言葉と同時に、慶造と春樹は、お互いの胸ぐらを掴み上げた。
「あぁのぉなぁ〜っ……!!!」
「おっと!」
「!!!」
修司の拳と蹴りが、慶造と春樹に向かっていくが、二人とも、それを予期していたのか、素早く避けた。
「あの……じゃれ合っている場合じゃ…」
と声を掛けた霧原。しかし…。
「うるさいっ!」
今度は、春樹と慶造、そして、修司からの怒鳴り声が部屋に響いていた。
「す…すみませんっ!!!!」
思わず恐縮する霧原だった。
八造と真子が、一緒に部屋に戻ってきた。真子の部屋のドアを開けた時、二人の男が近づいてきた。振り返ると、そこには、栄三と健が立っていた。 八造の顔が曇る。真子は初めて見る健に警戒するかのように、八造の後ろに身を隠した。
「栄三、なんだよ」
「八っちゃん、これ、新しく入った組員」
「初めまして。健です」
恐る恐る自己紹介する健。栄三の言葉を聞いていた真子は、八造の後ろから、ひょっこりと顔を出した。
「……まこ…です」
健よりも恐る恐る自己紹介する真子。
…か……かわいいぃ〜〜っ。
健の顔が、弛んでいく。その変化に八造は気付いていた。 八造のオーラが、徐々にボディーガードとしてのオーラに変化していく。
「お嬢様、お部屋に」
八造は、真子の目線にスゥッとしゃがみ込み、優しく声を掛けた。
「は、はい。しつれいします」
真子は、栄三と健に深々と頭を下げて、部屋に入っていった。 真子の部屋のドアを閉めた八造は、立ち上がり、そして、振り返る。
「……って、八っちゃん?? ちょ、ちょっと…」
八造は、拳を握りしめていた。そして、健を睨んでいる……。
「おい…健とやら……。てめぇ〜、お嬢様に何をするつもりだ?」
「えっ、そ、そ……」
「お嬢様を見て、何を思った?」
「あっ、その…か、かわいい…な……って…!!!」
と健が言った途端、
「うわっ!! 八っちゃん!!! 俺の弟っ!!!!」
ガツーン!!!! …パラパラパラ……。
「ひぃっ!!!!」
悲鳴にも近い声を発する健。その健の目の前には、八造の顔が! そして、顔の横には、八造の拳が壁に突き刺さっていた。
「栄三ぅ〜、お前なぁ〜。そういう大切な事は、先に言えっ!!」
壁に突き刺さっている拳を抜き取るや否や、栄三に裏拳を向ける八造。
バシッ!!
その裏拳は、栄三に受け止められていた。
「……弟って…確か…」
八造が言おうとした言葉を、眼差し一つで止める栄三。
何も言うな。
「…!!! 健、大丈夫か???」
足下に力なく座り込む健に気付いた栄三が声を掛ける。
「嫌やぁ…俺〜嫌やぁ〜〜。こんなん、嫌やぁ〜!!!」
「す、すまん……その……」
なぜかたじたじする八造。
「ここまで、せんでええからな、健」
その場の雰囲気をがらりと変えるかのように、軽い口調で栄三が言った。健は思いっきり頷いていた。
「おいおい…本当に、大丈夫なのか?」
八造たちの様子を見ていた慶造が、心配そうに言った。
「…八造には歯止めを利かせる事を覚えてもらわないとな…」
困ったように修司が応える。
「健も、相当出来る奴だな」
八造の拳を寸での所で避けた事に気付いている春樹が言う。
「まぁなぁ。小島の息子だし」
慶造が応える。
「霧原は、本当に、それでいいのか?」
少し離れた所に立っていた霧原に、慶造が尋ねた。
「はい。桂守室長がおっしゃるなら、その通りに致します。
…私は異国の血が流れる者なので…。室長のお気持ちに
お答えして、懐かしい場所へ戻ります」
「健が…寂しがるだろ?」
「お笑いの世界に居た時から、常に、栄三さんの事を考えておられましたよ。
そして、隆栄さんの事もです。その為に、お笑いの世界で頑張っていた
ようなものなんですから」
霧原の言葉には、寂しさが漂っていた。
「せめて、小島にだけは伝えて行けよ」
「心得てます」
「健には言わないのか?」
「永遠に逢えなくなる訳じゃありませんからね。では」
一礼し、霧原は姿を消した。
「……あの動きは健在か…」
慶造が呟きながら、真子の部屋の方を見つめていた。 八造と軽く会話を交わして、栄三と健は、その場を去っていく。 八造は、体勢を整えて、真子の部屋から少し離れた所で待機するように立っていた。
「じゃぁなぁ」
軽く手を上げながら、春樹が真子の部屋に向かって歩き出した。 八造に何かを話した後、春樹は真子の部屋に入っていく。八造は、その場を去っていった。
「真北さんは、何を?」
「さぁな」
慶造が一歩踏み出した。
「なぁ、慶造」
「ん?」
「小島には、どう伝えるんだよ」
「耳に入るまで、放っておけ」
「うわぁ、冷たぁ〜」
「小島の事だ。いちいち言わんでも、解ってるやろ」
「そりゃそうだけど、幹部達には、どう伝えるつもりだ?」
「栄三の弟分」
「さよか……」
慶造と修司は、慶造の部屋へと入っていった。
暫くして、何も知らない隆栄が、本部へやって来た。 そして、いつもの調子で、慶造の部屋へと入っていき………。
『てめぇの軽い口調、なんとかせぇっ!!!』
慶造の怒鳴り声が、部屋の外へと聞こえてきた。
(2005.2.1 第六部 第三話 UP)
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