第七部 『阿山組と関西極道編』
第三話 娘を箱に??
阿山組本部の朝。
いつもの通り、組員や若い衆の朝稽古の掛け声が聞こえてくる。 芯は、真子の部屋をそっと覗いた。
ったく……。
春樹は、真子が眠るベッドの下に座り、ベッドに俯せで眠っていた。八造は、朝のトレーニングに出掛けている。慶造と芯が語り合っていた縁側に足を運び、トレーニングに出掛ける間、芯と交代したいと告げて、出掛けていった。八造に言われなくても、八造のトレーニングの時間は知っている芯。 交代するつもりだったのだ。 芯は、春樹の肩に何か掛けるものを探していた。 春樹が目を覚まし、寝入っていた事に気付いたのか、慌てて体を起こした。
「いてっ!」
痛み止めは切れている。
「怪我していること、忘れないでくださいね」
その声に更に驚いた春樹だった。
「そっか。朝……」
「お嬢様は一日休めば、大丈夫でしょう。後は私に任せて
あなたもお休み下さい。これ以上は…」
「熱を出した時の真子ちゃんとは、初めてだろ?」
「看病は慣れてます」
芯の言葉に、春樹は何も言えなくなり、
「…すまん…」
小さく呟くのが精一杯だった。
「慶造さんが、料亭の御主人に例の物を用意させると
仰ってましたが、…例の物とは?」
「特製熱冷まし。薬よりも効果があるんだってさ」
「栄養ドリンクのようなものですか?」
「自家製のな」
芯と話している春樹は、傷口に手を当てている。
「本当に大丈夫ですか?」
心配そうに芯が尋ねるが、応えは決まっている。
「大丈夫だ」
「早く医務室に行くか、御自分の部屋に戻るかしてください」
芯の言葉に素直に従う春樹。 春樹の仕草で解る。…かなり痛いのだろうということが。
「山本先生も、程々に休んでくださいね」
「解ってます」
刺々しい言い方だが、春樹には優しく伝わっていた。 真子の頭をそっと撫で、額で熱を確認する。 まだ高い。 愛しむかのように、頬を撫で、軽く口づけをした後、春樹は真子の部屋を出て行った。 芯は、真子の側に腰を下ろす。そして、手の甲で真子の熱を確認する。 高いのは解る。真子の頭の下にある氷枕は、先程替えたばかりのため、まだひんやりとしている。 そっと布団を掛け直した時だった。
「ん……」
真子が目を覚ました。一番に飛び込んできた芯の顔をじっと見つめている。
「すみません、起こしてしまいましたか?」
「…ぺ…ん……こぉ…。おはよう」
「おはようございます。…っと、起きては駄目ですよ」
真子は起き上がろうと体を動かしていた。
「だって、…がっこぉ……」
「お嬢様、今日はお休み下さい。熱が出てるんですよ?
ふらふらしてませんか?」
「う〜ん、なんとなく…でも、学校……歩いていくのぉ。
今日は、ぺんこうが一緒なの?」
「一日、家ですよ」
「学校は?」
「お休みすると連絡入れてます」
「行くのぉ」
「駄目です」
少し強い口調で芯が言う。それに驚いたのか、真子は首を縮めてしまった。
「あっ、すみません…怒ったのではございませんよ。
熱を出して弱った体で学校に行くと、他のみなさんが
心配なさりますよ? それに、もしもの時に、ご迷惑が
掛かります。なので、病気はしっかりと治してからにしましょう」
優しく声を掛ける芯。 その表情に、真子は驚いてしまった。 とても温かく、見ているだけで、心が和んでいく。 それに…。
「ぺんこう……」
今まで真子が感じていた恐ろしいまでの何かが無くなっている。真子は、何かに驚いたような感じで、ぺんこうの名前を呼んだ。
「はい、なんでしょうか?」
「あの……今日一日、一緒に居てくれるの?」
うるうるとした目で、訴えてくる真子。 芯の心臓が高鳴った事はいうまでもない。
「えぇ。私でよければ。でも、こちらで勉強させてもらいます」
「うん。机……使ってね」
「お借りします」
輝かんばかりの笑顔を真子に向けて、芯は応えた。すると、真子は布団を引っ被った。
「お、お嬢様???」
真子の仕草に慌てる芯。 笑顔で応えたのに、なぜ、そうなるのか。 芯には不思議に思えて仕方がないものだった。 真子の部屋がノックされた。 芯がドアを開けると、向井がお盆を持って立っていた。そのお盆には例の物だけでなく、一人分の食事も乗っていた。
「ぺんこうの分も持ってきた。お嬢様はどうだ?」
「目を覚ましたけど、熱は未だ下がらないよ。…これか?」
「あぁ。おやっさん特製の熱冷ましだそうだ。これからは、
俺が作っても良いと許可も頂いた」
「それ程貴重な料理なのか…」
「慶造さんが子供の頃からの特別な料理だそうだ」
「すごいな」
芯が言った『すごい』とは、それ程の料理を伝授した向井に対してだった。 なのに、
「すごいだろぉ。歴史があるし、それに、体にも良いんだよ」
と、向井の頭には、料理の事しか無かった。
「むかいん…」
部屋から、真子の弱々しい声が聞こえてきた。
「お嬢様、起きては駄目ですよ!!」
向井が慌てたように声を掛ける。
「ぺんこうの御飯…」
「用意してますよ」
「むかいんの分は?」
「既に終えました」
「一緒に…」
真子が何を心配しているのか、芯には解る。
「私は一人でも大丈夫ですよ」
芯が言った。
「いいの?」
「お嬢様が、これを飲み終わるまで一緒ですから」
「…そっか…そうだね」
「だけど、これを飲み終えたら、着替えて直ぐに眠ること」
「はい」
真子はベッドに座り、向井が差し出した特製料理を受け取った。芯は部屋の中央にあるソファに腰を掛け、朝食を並べる。
「いただきます」
真子と芯の声は揃っていた。 真子は直ぐに飲み終える。
「ごちそうさまでした」
向井は、真子のタンスを開けて、着替えを取り出す。そして、真子に手渡した。
「それでは、お嬢様、ゆっくりと休んでくださいね」
「ありがとう、むかいん」
「ぺんこう、廊下でいいから」
「あぁ」
部屋を出て行く向井に、軽く返事をする芯。真子に振り返ると、真子は、ボケェ〜としながら着替えていた。芯は素早く側に寄り、着替えを手伝う。真子の肌に触れるだけで解る。 本当に熱が高い。 体に浮かぶ汗をそっと拭き取り、真子に服を着せる。そして、ベッドに寝かしつけた。
「お休みなさいませ、お嬢様」
「お休みなさい…」
真子は横になった途端、すぐに眠りに就いてしまった。 真子の寝息を耳にした芯は、ソファへ静かに戻り、朝食を口に運び始めた。
医務室のベッドに横たわり、スゥッと眠っているのは、春樹だった。 美穂が片づけをしている時、慶造がやって来る。
「どうだ、様子は」
「珍しく大人しいわ…」
「相当酷かったのか?」
「例のことで悪化させちゃったのよ。普通なら、重体よ」
「こいつは、くたばらんからなぁ」
「そうね。…真子ちゃんは?」
「ん…笹崎さんが向井くんに、特製を伝授した。今頃
向井君が作った特製を飲んで、眠りに就いてる頃だろうよ」
「学校行くぅ〜って、山本くんを困らせてるんじゃない?」
「山本くんの言葉には素直だから、大丈夫だ。ゆっくり休むよ」
「それなら安心ね」
「まぁな」
そう言った慶造は、春樹を見つめる。
「どうしたの?」
「本当に熟睡してるんだな」
「まぁね…ちょこぉっと…」
「おいおい……」
どうやら、例のものを使ったらしい。 慶造は解っていても、それが春樹から許可を得ている為、それ以上何も言わなかった。慶造が呆れたのは、そこまでしないとゆっくり眠れないという春樹の事だった。 最愛の弟が、最愛の娘と二人っきりということが、気になって仕方ない様子。
「真北が安らげる場所…どこなんだろうな…」
そう呟いて、慶造は医務室を去っていった。
「真子ちゃんの所でしょうね」
美穂が、そっと応えた。
芯は、食べ終わった食器をお盆に乗せ、真子の部屋を出て行く。食堂に届けた後、自分の荷物を置いている真子の隣の部屋へ入り、勉強道具を取り出し、真子の部屋へと戻ってきた。 真子の様子を伺い、そして、真子の机を借りて勉強を始める。
真子が目を覚ます。寝起きの為、いつも張りつめている気が緩んでいた。 その時、真子の耳に聞こえてくる言葉があった。 芯が勉強をしている言葉だった。 真子は、それ程まで芯が集中していることに気付き、そっと体を起こした。 聞こえていた声がピタッと止んだ。 芯が振り返る。
「お嬢様」
芯が側に近づいてきた。そして、真子の額に手を当てる。
「熱はかなり下がりましたね。安心しました」
「あの…」
「だけど、お一人では歩いては駄目ですからね、大事を取りましょう」
「ぺんこう、お勉強……邪魔しちゃった?」
「えっ?」
「その……」
真子が言いにくそうに首を縮める。その仕草は、とある時だけにしか見せないもの。 芯は解っている。 ちらりと見上げた真子に、飛びっきりの笑顔を見せる芯。
「すみません。私の声で起こしてしまったんですね」
「違う。その……難しいな…と思って」
「難しい?」
「うん。大学って、難しい言葉ばかりなんだね。びっくりした」
「そりゃぁ、大きく学ぶって書きますからね」
「……!! そっか!」
芯の妙な言葉に納得する真子だった。
「あのね、ぺんこう」
「はい」
「……何か……あったの?」
「えっ?」
芯は、ふと心で考えそうになった事を停める。 真子に聞かれては駄目な事…赤い光の事…。
「何も御座いませんよ」
と応える芯に、真子は、言いにくそうな表情を見せる。
「あのね……その……ぺんこうが……」
真子は、自分が思った事をどう表現して良いのか解らない様子。
「私が、なんでしょうか?」
「…明るくなったと思って……。…ごめんなさい。うまく言えなくて…」
「…お嬢様……?」
真子の顔は真っ赤になっていた。芯は、それが、熱をぶり返したと思ったらしい。
「お嬢様、顔が真っ赤ですよ!! やはり、起き上がるのは
まだ早いんです! 早く横になってください」
なぜか焦るように言う芯。そんな芯が可笑しかったのか、真子が急に笑い出した。
「…お、お…お嬢様ぁ???」
「だって、ぺんこうの顔が〜」
真子の笑いは止まらない。
「そんなに変な顔をしてますか??」
「うん」
「………」
「あっ」
芯の怒りを感じたのか、真子は笑いを止めた。 芯は、なぜかふくれっ面…。
「ごめんなさい……その……。…ぺんこうの笑顔に
照れちゃった!」
かわいく微笑む真子だった。
「だって、ぺんこうが笑っているところって、あまり観たこと無かったから、
その……素敵だな…と思って……」
「お嬢様……私、笑った事、ありませんでした?」
「うん」
真子の声は弾んでいた。
「それよりも、お腹が空いたのではありませんか?」
「……そうみたい……ぺんこうも?」
「えぇ。むかいんに頼んで来ましょうか?」
「いいの? むかいん、料亭で忙しいんでしょう?」
「お嬢様からのお願いは、断りませんよ。では行ってきます」
「お願いします」
芯は、真子の部屋を出て行った。 廊下を歩きながら、芯は高鳴る鼓動を抑えるかのように、大きく息を吐いていた。 真子に笑顔のことを言われた時、自分が抱いていた気持ちを悟られそうになった。 春樹が真子に対して抱いている気持ちが解った事で、芯自身も心の呪縛が解けた事は知っていた。
それを真子に伝える言葉が見当たらなかった。 だけど、真子は、言葉で伝えなくても、感じていたのかも知れない。 今まで目にしたことのない、真子の表情もあった。
真子ちゃんの笑顔、素敵だから…。
春樹の言葉を思い出す。その通りだと思った。 今まで、自分の前では、真子が笑い転げるような事は無かった。 それを考えると、やっと、自分を受け入れてくれたのだろう。 なぜか、心が弾む。食堂へ向かう足取りも軽かった。
その日、真子の部屋で昼食、夕食を済ませた芯。次の日には、真子の熱も下がり、すっかり元気になった事で、芯は名残惜しそうに、自宅へと帰っていった。
「よぉ、芯」
帰ってきた芯に声を掛けてきたのは、航だった。
「ん?」
「長かったなぁ」
「お嬢様が熱を出してな」
そう語る口調が、いつもと違う。
「……何かあっただろ…」
「ほへ?!」
「明るい……」
そう言った航の方が暗い。
「どうした、航。……もしかして………また…フラれ…」
「うるさぁぁぁい!!」
航の雄叫びが、マンション中に響き渡っていた。
元気になった真子は、大事を取って、もう一日学校を休んでいた。 その間、一人で勉強をする。 特に難しい所はない。 それもそのはず。既に習ったところだから。 真子は、部屋を出て、くつろぎの場所へと歩いていく。 八造の部屋の前を通った時だった。 部屋の扉が開いた。
「お嬢様、どちらに?」
「わっ! びっくりした! くまはち、居たの?」
「えぇ。今帰ってきた所です。お部屋に向かおうと思ったんですが…」
「その…庭に出てもいい?」
「今日一日は、我慢してください」
八造のやんわりとした厳しい言葉に、真子はちょっぴりふくれっ面になる。 しかし、八造は、
「無理をして、熱をぶり返したら、学校を休むことになりますが、
それでもよろしいのでしたら、私が御一緒致しますよ」
「……部屋に戻る。…くまはち…」
「はい」
「何かお話してくれる?」
「えぇ。では、着替えてきますので、それまで、お待ち下さい」
「うん! お願いします!」
真子は輝かんばかりの笑顔を見せて、部屋に戻っていった。
あれ? お嬢様の笑顔……。
真子の笑顔が輝いていた事に、八造は嬉しく思いながらも、不思議に思っていた。 何が遭ったのか…。
それは、真子の部屋で、真子に語っている時に解った。 真子は、八造にだけ、静かに告げた。 芯の心の闇を感じなくなったことを。
それは、慶造の耳に、当たり前のように届く。そして、慶造と犬猿の仲である春樹にも……。
いつもの如く、縁側に腰を掛けて、夜空の月を眺めていた。
「流石の弟も、赤い光には負けるんだな」
慶造は煙を吐き出した。
「……慶造」
春樹は静かに呼ぶ。
「あん?」
「お前、あいつに何を言った?」
慶造が芯に話した内容を、知っているかのような雰囲気を醸し出している春樹。しかし、
「なぁんにも」
まるで、誰かに似た口調。軽い感じで返事をした。 細くて白い煙が二本、夜空に向かって立ち上っていく。 空に浮かぶ月が、ちょっぴり煙たそうにしていた。
「……いつもより、本数多くないか?」
春樹が、火を付ける回数が多い事に気付く慶造。
「本数減らして、禁煙するって言ったよなぁ」
「覚えてないな」
新たな煙草に火を付ける春樹。
「真子に怒られるぞぉ」
呟くように慶造が言った。
「いいんだよ」
と言いながら、あぐらを掻いて、空を見上げた。
「……こういうのも……嫉妬と言うのかな…」
寂しげに呟く春樹を見て、慶造は驚いた表情を見せた。
「…真北……。好きなやつでも出来たのか?」
「………あいつにな」
「あいつ?」
「………真子ちゃんにも…」
「真子に? …八造じゃないのか?」
「八造くんは、お兄さん的存在」
「…お前が恋人だろ?」
「あぁ。……ライバル……かな?」
「…意味が…解らん…」
真剣に考え込む慶造に気付き、ちらりと目をやる。
「……小島さんが言うように、本当に恋愛沙汰に疎いんだな、
慶造は」
「ほっとけ」
何かを誤魔化すかのように、煙草をもみ消した。
「…だから、誰と誰がライバルで、真子の好きな奴は誰だよ!」
「直接、愛娘に聞けばぁ?」
あまりにくだけた春樹の言い方に、慶造は、
「まぁきぃたぁ〜」
と、低い声で呼んだ。
夏が来た!
子供達は、夏休みが近づくたびに、嬉しそうにはしゃいでいた。 もちろん、真子のクラスの生徒達も、はしゃいでいる。 しかし、真子には、そのはしゃぐ気持ちが解らない。 深刻な表情で、クラスメイトを見つめている。
「阿山さん、どうしたの?」
真子のことを常に気に掛けている女生徒が声を掛けてきた。
「あの……夏休みが解らなくて…」
「…えっ? …あっ、そっか。初めてなんだよね」
「はい」
「ほら、いつもは日曜日や祭日が学校休みでしょ?」
「そうですね」
「それが、長い間休みになるの。だから、みんな嬉しいんだよ!」
「……よく解らない…。夏の一番暑い時期に、設けられる休みが
どうして、嬉しいのか…」
どうやら真子は、夏休みという意味を辞書で調べたらしい。しかし、子供達がはしゃぐ気持ちまでは、書いていなかった。益々解らなくなる真子。先程よりも、眉間にしわが寄っていた。 まるで、誰かの表情を見ているようで……。
その誰かさんが、真子を迎えに行く。
春樹が、真子の通う学校の門の所で待っている。 帰宅する生徒達が徐々に校舎から出てくる。校門を出て、帰路に向かう生徒達を見守るかのように、春樹はそこに立っていた。 昔の癖……。 出てくる生徒達の表情が、いつも以上に輝いている事に、ふと気付く。 しかし、その要因が解らない。 不思議に思いながらも、待ち人の姿を目にした途端、その悩みは吹き飛んでいた。 待ち人が、自分に気付き、笑顔で手を振って駆け出す。 真子が、春樹に向かって駆けてきた。 抱き留めたい気持ちをグッと抑えて、春樹は笑顔で真子を迎える。
「お疲れ様でした。今日もしっかりと勉強しましたか?」
「はい。……あのね、真北さん」
「はい」
「お聞きしたいことがあるんですが…」
「なんでしょう」
「その………。夏休みって、……楽しいの?」
「いっ?!?!?」
真子の唐突な質問に、春樹の目が点に。
「真子ちゃん…?」
「あのね、八月が近づくにつれ、クラスのみんながはしゃいでるの。
それが、解らなくて。…夏の暑い日に、長い休みがあるから、
みんな待ち遠しいみたいなんだけど……よく解らなくて…」
なるほど、それで、子供達の表情が輝いてるのか…。
先程の疑問が解決された。 ちらりと真子を見るが、真子は真剣に悩んでいる様子。 兎に角、帰路に就くことにした。 真子と春樹は、並んで歩いていく。暫く歩いても、真子は考え込んでいた。本当に、春樹と同じ表情で…。
「真子ちゃんは学校に勉強しに行ってるから、解らないと思うよ」
春樹が声を掛ける。
「どうして?」
「勉強、楽しいだろ?」
「はい」
「学校で過ごしている間は、ほとんど勉強してるよね?」
「はい」
「それが嫌だなぁという気持ちになったら、解るよ」
「勉強が…嫌???」
真子は歩みを停め、首を傾げた。 春樹も歩みを停め、真子に振り返る。そして優しく微笑んだ。
「真子ちゃんには、難しいかなぁ」
「……夏休み……知りたい…」
「色々と楽しい事が、朝から夕方まで出来るからねぇ。
う〜ん、休日や祭日が、毎日続く事が嬉しいだけだろうけど」
「まきたんは…どうだったの?」
「私は勉強してましたよ」
「勉強を休んだことは?」
「息抜きに友達と遊びに出かけてましたよ」
と言った時に、春樹は思った。 真子には、同じ年代の友達は居ない。 友達と遊びたいから、一緒に学びたいからと、学校に行くことにした。 しかし、友達は中々出来ないらしい。 話はするものの、遊びに行ったりすることは、やはり、家柄が関係しているからか、誘われることもないらしい。 真子の事。 誘われても、家柄の事を気にして、恐らく断るだろうけれど……。
「…夏休み…楽しむこと出来るの? もし、出掛けるなら、
お父様に言わないと…駄目だよね。こっそり出掛けたら
まきたんが怒られるよね…」
う〜ん、確かに。
真子は既にお見通しの春樹と慶造の言動。 解っていても、真子から言われると、何故か次の言葉が出てこない春樹だった。
「では、夏休みは、毎日遊びに行きましょうか」
「いいの?」
春樹の言葉に、爛々と輝く眼差しを向ける真子。 その眼差しに弱い春樹は、
「慶造の説得は得意ですからね」
と自信ありげに応えてしまった。
夏休みも間近。子供達の心も弾けまくっている。クラスメイトの様子を毎日観察している真子は、少しだけだが、夏休みが楽しいという事が解り始めた。 クラスメイトが家族旅行の話をしている。 海に行くとか、山に行くとか、田舎に帰るとか。中には海外に行くという話もあった。 一日の少しの時間が、遊びの時間だが、あちこちに出掛けて、時間を忘れてまで遊ぶことが出来る。 真子の頭は、そう理解していた。 いつになく、微笑んでいる真子だった。
この日の迎えも春樹だった。 あの日以来、毎日徒歩で登下校する真子。その真子に必ず付き添う春樹。本来の仕事が忙しくても、真子の送迎の時間だけは、きちんと作っている。
「お疲れ様でした」
「ありがとう」
「…ん? どうしたんですか?」
真子の声が、ちょっぴり寂しく感じたのか、春樹が尋ねる。
「あのね、…夏休みの宿題なんだけど、私が持っていない
文房具があるの」
「それが必要ですか?」
「楽しい出来事を絵日記にしないといけないんだけど、
絵日記帳……みんな持ってるの。…小学一年生の時に
購入して、それを六年間使うみたい。それをね、卒業するときに
先生のお返事と共に返してもらって、記念にするんだって」
「それは知らなかったなぁ。どんなものでもいいのかな?」
「絵日記帳になるなら、いいんだって」
「それなら、明日、買いに行きましょうか」
「真北さん、お仕事……いいの?」
と真子独特の尋ねるときの仕草。 少しだけ首を傾げて、尋ねる相手をうるうるとした眼差しで見つめる。 その仕草を観ただけで、誰もが心臓を高鳴らせてしまう。 そして、嫌と断ることが出来ない……。 …もちろん、この春樹も、そのうちの一人だった。
「仕事は休みですから」
休みではない。 真子の学校が休みの日は、春樹は朝から出掛けている。 それを知っている真子だからこそ、そう尋ねたのだが…………。
そして、真子と春樹は絵日記帳を買いに行くついでに、ドライブで気分転換をしに、出掛けていった。 春樹の車に乗り込んだ時の、真子の嬉しそうな表情を見つめながら、慶造は、春樹の車を見送った。
「……ドライブがメインだな、あれは」
慶造の小さな呟きは、一緒に玄関まで見送りに出ていた栄三の耳には届いていた。
「そりゃ、そうでしょう。四代目の行動に、真北さんは滅茶苦茶
怒ってましたからねぇ〜」
「そういう栄三こそ、一緒に行きたかったんだろが」
「当たり前でしょう。週に一回のお嬢様の送迎…あれからずっと
真北さんだけだったでしょう? お嬢様との会話も減りましたから
ふてくされますよ!」
「触れることは、許さん…言ったよなぁ」
「触れてませんよ、こちらからは」
「まぁ、栄三と一緒に居る時も楽しそうだから、俺は気にせん」
「有難い言葉です」
「…それよりも、真北が居ない間に、進めるぞ。後の行動は…」
「いつもの通り…ですね」
そう言って、慶造と栄三は、出掛けていった。
春樹は、少し小高い丘の上に車を停めた。 街では珍しい場所。 その昔、慶造たちも訪れていた、今では住宅街になってしまった場所なのだが、住民の希望で、自然豊かな雰囲気を作り出していた。 振り返れば住宅街だが、丘の上から一望出来る景色は、夏の日差しで、緑が輝いていた。 その輝きよりも、輝いているのは、真子の笑顔だった。 あの日以来、真子の表情が明るくなった。 芯の心の闇が消え去ってから……。
「真北さん!」
春樹を呼ぶ声が弾む。
「はい、なんでしょう!」
その声に応えるかのように、弾んだ声で返事をする春樹。
「ぺんこうの大学は、どの辺りなの? ここから見ること、出来る??」
真子の質問に、ちょっぴり不機嫌な春樹。だが、真子が尋ねた内容は、芯の事。もちろん、
「あの辺りになりますよ」
と、悩むことなく応えていた。 時々、足を運んでは、芯が住む街の方を見つめ、何かを語っていたから、当たり前。
「ぺんこうも、もうすぐ夏休みだよね?」
「真子ちゃんが休みに入ってから、十日後ですね。だけど、」
「ぺんこう、勉強が好きだから、休みに入っても、図書館に
行くんでしょう?」
「その通りですね」
芯の行動は全て解っているかのように、真子が語っていく。 それ程、真子の心には、芯の事で満たされているのだろう。
いつの間にやら……。
やれやれといった表情で、春樹は芯が通う大学の方を見つめた。
「ここも綺麗だけど、やっぱり、まささんの所が素敵だね!」
「そうですね。今年の夏は、天地山に行きますか?」
「…行きたいけど……いいのかな…」
「真子ちゃんからのお願いは、まさは必ず叶えてくれますよ。
今夜にでも、電話してみましょう」
春樹の言葉に、真子は飛びっきりの笑顔を見せ、
「はい!」
元気よく返事をした。
「むかいんは忙しいのかな…」
「夏は客足が減るそうなので、時間があるでしょう」
「むかいんにも聞いてみるね」
「えぇ」
「……お父様は……」
ちょっぴり不安げな表情で、真子が言う。
「慶造は、どうだろう…」
春樹は、ちらりと真子を見る。
「聞いてみますか?」
それに対する返事は、中々来なかった。
春樹は、安全運転で帰路に就く。助手席に座る真子は、まだ悩んでいる様子。
「なるようになりますよ」
春樹は優しく声を掛けた。
「……うん」
「何か、悩みでも?」
「何か…忘れてるような気がして……」
「……ん…?」
真子に言われて、春樹も何か忘れている気がした。 時刻は夕方。 春樹と真子は朝からずっと丘の上から景色を眺めていた。ドライブに出掛けるつもりだったが、丘の上の涼しさと気持ちよさに負け、その場から離れなかった。 太陽が西に近づいた頃、やっと動き出した二人。 何かを忘れていた。 本来の目的を……。
「……あぁっ!!!」
真子と春樹は、同時に声を張り上げる。 春樹は、ウインカーを左に出し、左折した。そして、向かう先は……。
商店街。 その昔、時々足を運んだことがある商店街の駐車場に車を停めた春樹。 真子と春樹が忘れていたのは、真子の絵日記帳を買いに行くこと。
「これを買わないと、慶造が怒鳴るよな…」
春樹は呟きながら車を降りてきた。真子も車を降り、春樹に急いで駆け寄る。
「商店街の文具屋さんなら、色々な絵日記があるよね!」
「絵日記用のノートがあると思いますよ」
「かわいいのが欲しい〜」
真子は、かわいく微笑んで言った。
「真子ちゃんの気に入るノートがあれば良いけどなぁ」
「ある!」
そう言って、真子は商店街に向かって歩き出した。その足取りは、とても軽く…。
真子と春樹が、文房具屋に入っていった。 な、なんと、そこには、驚く人物が居たのだった!
(2005.9.23 第七部 第三話 改訂版2014.12.7 UP)
|