第七部 『阿山組と関西極道編』
第十七話 終止符は拳で
橋総合病院・手術室前。
水木たちが、深刻な面持ちで、手術中のランプを見つめていた。水木組に混じって、須藤と須藤組の組員も、深刻な面持ちをしている。 未だに消えないランプを見つめる者達の額に汗が浮かんでいた。
夏の暑さを少しでも和らげようと、病院内は冷房が効いている。なのに、誰もが汗をかいていた。
ランプが消えた。 その途端、誰もが息を飲んだ。 手術室のドアが開き、橋が出てきた。
流石や…。あいつのお陰で……。
人の気配を感じ顔を上げる。
「橋先生!」
名前を呼ばれ、目の前に集まる見慣れた顔を見て、歩みを停める。
「腕は繋がったで」
そう言うと、誰もが安堵のため息を漏らした。 水木の腕の中で震える桜が、
「ほんまか? ほんまに……大丈夫なんやな!」
何かを乞うかのように尋ねてくる。
「あぁ。鋭い斬り口やったから、繋げるのも簡単やったで」
「それは、先生の腕が良いからや。…ありがとな」
桜は、安心したように言った。
「血管も神経も大丈夫やから。桜さんも、ゆっくりしとき」
橋の笑顔で、桜は本当に安心したのか、その場に座り込んでしまう。
「わっ、桜っ!」
「姐さんっ!!」
「大丈夫や。安心したら、急に……」
桜は微笑んだ。
「そやけど、お前ら無茶しよるのぉ〜。俺、休み無しやで。
ほとんどの奴が、腕の腱を切られてたな。まぁ、そっちも
大丈夫やから」
「…銃を向けた奴らは、みなですわ。わしと水木は、銃をぱっくり
二つに切り落とされただけなんやけどな…」
須藤が静かに言う。
「…その男が、西田の腕を…な」
須藤の言葉で、落ち着いたと思われた桜が、再び震え出す。 その瞬間を思い出したらしい。
「桜さん、大丈夫ですか? 少しお休みになられた方が…」
橋が声を掛ける。
「うちは、大丈夫や。…ただ、怖かっただけや…あの…緑の男が…。
あんな恐ろしい男……初めてや。…この世界に生まれて育ったのに
…慣れてるはずやのに………」
「あぁ。確かにな」
「…阿山組…か」
橋が呟く。その途端、雰囲気が一変した。 先程まで、桜を心配していた優しさ溢れる雰囲気は、微塵も感じない。
「橋先生?」
「あん?」
「どうされました?」
水木に声を掛けられ、我に返る橋は、
「…あ、あぁ。何も…」
橋の想いは、水木達も知っているだろうが、敢えて誤魔化した。
「しかし、青虎さんがやられたとなると、お前らもやばいんちゃうんか?」
「えぇ。今回の抗争は、分が悪すぎますよ。…しかし、青虎が、
やられて、少し安心しとりますわ」
「なんや? お前ら自身が争わんでええからか?」
「それもありますが、青虎の単独行動が、勃発の原因やからですよ。
…勝手に阿山組の娘を狙ってからに…」
水木の言葉で、橋は、阿山組に対して抱いている怒りよりも、命を狙った事に対して、怒りを覚えた。 確かに、自分も、医者としてあるまじき想いを抱いた事がある。 だが、その想いは、一人の男の助言によって、別の物にすりかえられた。 だから、今、自分の地位があり、その男にも感謝をしている。 色々と思う事はあるが、橋は、今の自分の立場が優先する。
「…ええかげんにしとけよ。命の重さ、真剣に考えろよな」
「えぇ。そうします」
「取り敢えず、西田くんは…」
と橋が説明を始めようとしたとき、一人の男が駆けてくる。 誰もが、その足音に振り返る。駆けてくる男は、水木組組員の佐野。西田とは兄弟分の組員だった。
「兄貴!」
「どうしたんや?」
「…西田、どうなんですか?」
手術中のランプが消え、橋が居ることに気付き、尋ねた。
「腕は繋がったよ」
「そうでっか。橋先生、ありがとうございます」
佐野は深々と頭を下げた。
「なんや?」
水木が尋ねる。
「…その…阿山組の小島って奴が、暴れ回っとるんですわ」
「小島? 阿山のボディーガードやろ? 銃弾に倒れたんとちゃうんか?」
「その息子ですよ。…手ぇつけられまへん」
「はあ? 単独かいな」
「えぇ。すでに、川原親分、藤親分、そして、谷川親分がやられて……」
佐野が、目線を送る先。そこには、組員に支えられながら、よたよたと歩く川原、藤、谷川の姿があった。水木、桜、そして、橋は、その姿に凝視する。
「なんや、お前ら、不甲斐ないな。相手は一人やろ?」
水木が呆れたように言った。
「お前なぁ、気ぃつけや。あいつ、半端とちゃうで」
腹部を押さえながら、力無く言う川原。
「こっちの言い分に聞く耳もたんぞ」
支える組員の手を振りほどきながら、ソファに腰を掛ける藤は、口から血を吐いた。
「若い衆じゃなくて、俺ら親分を直接狙ってきよる。それも、素手やで」
谷川が、頬を押さえながら、水木を見つめた。
「…ったく…。わし、休まれへんやないけ…」
橋は、呆れたように項垂れ、ストレッチャーを用意して、川原、藤、谷川を治療室へと運んでいった。
「桜、お前は、西田に付いたれ。わし、ちょいと行ってくるわ。
残りは、俺と須藤やろ」
「あんた…気ぃつけや」
「あぁ。佐野、お前ら、案内せぇ」
水木のドスの利いた声が、廊下に響き渡った。
駐車場へ来た水木は、運転席の乗り込む。助手席に佐野が座った途端、アクセルを踏んだ。
「谷川んとこに来たんやったら、事務所に来たんちゃうか?」
「現場を観れば、居ないことは…」
「……そうやな」
抗争現場を観て、そこで行われた事を知れば、水木組の連中、そして、組長である水木が、組事務所に居ない事は、誰でも判ること。 それが、阿山組では情報通だと言われている小島なら、深く考えなくても、解るだろう。 水木は、暫く何も話さない。
「……緑の事……聞き出せたら…ええな」
そう呟く水木。
「兄貴、それを知って、どうされるつもりですか?」
「同じ目に遭わせてやる……それだけだ」
「…そうですね……。ということは、斬って、繋げるんですか?」
すっとぼけた質問をする佐野に、水木は、微笑んだ。
「その通りや」
笑って応える水木に、佐野は、笑っていた。
水木が車を走らせている頃、須藤組組事務所の応接室に、栄三の姿があった。 須藤組組員に囲まれているにもかかわらず、恐れる事無く、目の前に居る須藤を見つめていた。
「川原、藤、谷川。……で、俺と水木にも同じ事を
やるつもりなんか?」
「すでに、三人に同じ事言ってるんですけどねぇ〜。
そちらも、御存知でしょう?」
「まぁな。…その話をしようと準備をしていた時に、あの事件。
…それよりも、小島隆栄さんは、どうですか?」
「無事ですよ。ご心配、痛み入ります」
「かなり撃たれたはずですが…やはり、準備はしておられたのか」
「それなりに」
沈黙が続く。
「小島」
「ん?」
「こいつらに囲まれて、恐れないとは……こっちが恐れ入るよ」
「殺気も感じない連中に囲まれても、恐れるものはないですなぁ」
「それでも、俺に…手を出そうというのか?」
「場合に……よっては…ですよ」
須藤は大きく息を吐いた。
「なぁ、小島栄三」
「ん?」
「弟は、その後…どうしてる?」
「…弟?」
「これでも、情報は耳に入ってる。…弟が、どんな思いでお笑いの
世界で頑張っていたのか…。なのに、お前の思いだけで、
弟の夢を壊し、そして、今……………っ!!!」
と話していた時、突然、腹部に痛みを感じた。前のめりになった途端、背中に強烈な痛みが走る。
「てめぇっ!!」
組員達が殺気立つ。その殺気を感じた時、須藤は跪いていた。
「…俺の思いを知らねぇのに…、健の事を言うなよ…な」
「って、怒りは、そっちかよっ! ……!!!」
須藤は胸ぐらを掴み上げられた。 それを観た組員達が、一斉に栄三の体に手を伸ばし、須藤から引き離そうとした。
えっ!?
須藤は、今、瞬間的に観た光景を疑った。
かなりの人数で、栄三を囲んでいた。 その人数の二倍の数になる手が、栄三に伸びていたのだが、一瞬のうちに、その手が視界から消え、誰もが倒れていた。 一瞬の出来事。 須藤は、自分が置かれている状況を忘れ、組員達を心配する。
「お前ら、大丈夫か!」
「って、自分の心配は、せんのか? 須藤っ!」
「組員あっての俺だっ! 組員の方が心配やろがっ!」
その言葉を聞いた途端、栄三のオーラが一変した。
「…水木は、どの病院に行った? …案内してもらおうか…」
「水木にも、同じ事をするつもりか?」
「青虎の次に厄介な男だろうが」
「…言えないな」
栄三は、更に胸ぐらを掴み上げる。
「もう一度…尋ねる……。水木は何処だ?」
「言えんな」
と応えた途端、須藤は、渾身の力を込めて、栄三の腕から逃れた。そして、拳を勢い良く突き出した。…が、その拳は、いとも簡単に、栄三に受け止められた。須藤の拳を受け止めた栄三の手が再び、胸ぐらに伸びてくる。 その手を掴もうとした須藤。しかし、栄三の手は、須藤の襟首を掴んできた。 猫が首を掴まれた時のような感じで、栄三は、須藤を事務所から引きずり出した。そして、外に出た途端、手を離し、目にも留まらぬ速さで、拳を連打した。
床に倒れていた組員のよしのと、みなみが追いかけていく。
「おやっさんっ!!」
地面に横たわる須藤を守るように、よしのとみなみは、立ちはだかる。
これ以上、手を出すなっ!
と目で訴えていた。 痛々しい表情をしながらも、親分を守る二人を見て、栄三は、興味を殺がれたのか、軽く息を吐いて、一歩踏み出した。
須藤の言葉を待つ…か…。
そう思いながら歩き出した時、突き刺さるような眼差しを感じ立ち止まる。 振り返ると、そこには、
「……水木………」
事態を重く観て、須藤組組事務所に駆けつけた水木の姿があった。
「…俺に、用事やろ、小島栄三」
「あぁ」
「で、目的は?」
「…終止符を打ちに来た」
「お前一人でか?」
「そうだ。…こんな無意味な争いは、もう止めにしたい。それを伝えに来ただけだ」
「…あのなぁ〜。伝えるっつーんは、口だけやろ! なんで親分連中に鉄拳を
振るってるんや!!!」
「……口より、先に手が出ただけや」
いつものように、軽い口調で応える栄三に、
「お前、いい加減なやっちゃなぁ」
水木も、釣られたような口調で言った。
「その通りだ。…で、お前はどうする?」
「…条件は、なんだ?」
水木は、静かに尋ねた。
「……解っている事を、敢えて訊くのか?」
「これは、阿山の意志か?」
「……敢えて…言わんと…あかんのか?」
「断る…と言ったら?」
栄三は、拳を握りしめる。
「…そういうことか。結局は、それで、事を納めるんやな…」
水木は、寂しそうな表情をして、俯いた。
「解った。考えとく」
水木が、言った。 その途端、栄三は、にやりと笑って、その場を去っていく。
「須藤、大丈夫か?」
水木は、暢気に須藤に尋ねた。須藤は、自分を支えるよしのとみなみを押し退けて、水木に歩み寄り、胸ぐらを掴み上げた。
「てめぇには、威厳っつーのがないんか! 簡単に考えとくなんて言うなよぉなぁ!!」
「…俺、痛いのいややもん」
あっけらかんと言う水木に怒りを覚える須藤は、更にきつく水木の胸ぐらを掴み上げた。
「水木ぃ、てめぇのその性格、なんとかせぇよぉ…」
そう言って、須藤は気を失った。
「須藤!」
水木は、慌てて須藤を支え、車に運び込み、再び橋総合病院へ向かって行った。
再び、橋総合病院。
怪我人全員の治療を終えた橋は、自分の事務所に戻って来る。 ソファに、ドカッと座り、そのまま疲れたように寝転んだ。
ここまで疲れたのは、初めてや……。
天井を見つめながら、ふと思うこと。 それは、亡くなった親友・真北春樹の事。
もし、あの時、運ばれていたら、これ以上に疲れていたのかも知れないな…。
何かに没頭することで、親友の事を忘れようとしている橋。しかし、忘れたい言葉を、執拗に口走る連中が居る。それが、関西極道の水木達。 忘れたくても、忘れられない。 その想いからの応えが、
知ってる者を哀しませるな。
だった。極道の世界で生きている者に、命の大切さを訴えても無駄なことは解っている。だが、訴えずには居られない。 これ以上、自分が知っている者を失いたくないという想いから……。
真北…お前が生きていたら…。 この状況………鉄拳で終わらせるんだろうな…。
フッと笑いがこみ上げる。 未だに、話しかけている自分に……。
橋は、まだ、知らない事だが、彼は生きている……。
橋の思った通り、阿山組と関西極道の争いは、鉄拳で終わっていた。
夜。 阿山組本部の例の場所では、いつものように、煙草を吹かしながら、二人の男が語り合う……。
「傷に響くぞ…」
「俺の体だ、ほっとけ。お前こそ、真子の為に禁煙してたんじゃ?」
「吸わずにいられるかっ!」
「はいはい」
二人は同時に煙を吐き出した。 白い煙は、空へと昇り、自然に帰っていく…。
「栄三の鉄拳の効果…か」
慶造が呟いた。
「で、来週に集まるのか? それも、ここに」
「あぁ。真北も出席だぞぉ」
「俺は関係ない」
「大いにあるだろが。…奴らは、お前の本来の姿を知らないからなぁ。
……まぁ、本能は知ってるだろうがな」
「元刑事扱いだったよな」
「あぁ」
「そっか……」
煮え切らない雰囲気に、慶造は、ちらりと春樹を見た。 春樹は項垂れ、そして、口を尖らせている。 何か深く考えているのだろう。慶造は、何も尋ねず、再び夜空を見上げた。
「真子ちゃん……」
「……ん?」
「……真子ちゃん…落ち着いて良かったよ」
「うわべだけだろうな」
「子供に気を遣わせるな」
「悪いと思ってるよ…」
「小島さんと猪熊さんの事……」
「って、ほんと、あの二人は、目覚めた途端、付き添いの二人に
何を言うかと思ったらぁぁっ!!」
「それが、あの二人だろうが」
「感謝の言葉の一つくらい、出ても良さそうだろが」
「……慶造にも言える事だぞ。…似た者同士がっ」
「はぁ?」
何を訳の解らないことを…という表情で、春樹を観た慶造。しかし、春樹は、未だに口を尖らせていた。
「……何を深く考えている?」
静かに尋ねてみた。
「俺も杯……するのか?」
「いらんやろ。側に居るだけで、ええやろな」
「そんなもんか?」
「そんなもんだろ」
「……そうか…」
「……………って、悩みは、それか?」
「まぁな…。…そろそろ夏休みが開けるな…と思ってな」
「そうだな」
「真子ちゃん…大丈夫かな…」
「…大丈夫だろ…」
「…なら、いいんだが………」
二人は、同時に夜空を見上げた。 想いは同じ。 大切な娘の笑顔を、また、失うところだった。そんな自分を責めていた。
その日は、真子の学校の登校日。 夏休みを無事に過ごしているのかを確認する為、そして、だらけた生活を元の生活に戻す為の準備の日。
もちろん芯は未だ、休みのため、真子の送迎を買って出る。 芯の車で学校に到着した真子は、笑顔で手を振って校舎に向かって走っていった。 真子を見送る芯の表情は、本当に…………春樹に似ていた。
教室に入った真子は、クラスメイトと挨拶を交わし、席に着く。 しかし、この日のホームルームは、真子にとって、とても辛いものになるとは、この時、真子は想いもしなかった。
帰宅時間。 真子の学校のロータリーに、栄三の車が入ってきた。 定位置に停め、真子が来るのを待つ二人。 助手席には、八造が座っていた。 ちょっぴり不機嫌な八造を観て、栄三は嘆くように呟いた。
「急に迎えに行けなくなったからって、何も…」
「未だ、言うんか、えいぞう…」
「俺一人で大丈夫やろぉ」
「お前一人では大丈夫じゃないから、俺がぁ……。
って、なんで、俺は、お前と行動を共にしないと駄目なんだよっ!」
「真北さん命令やろぉ。怒るなよぉ」
「うるさいっ!」
そう言って、八造は、車を降りた。
栄三の関西での行動を大目に見るための条件として、一人にさせない事が、付いていた。その為、真子のボディーガードである栄三の立場を利用して、八造を側に付けることにした春樹。ここ数日、栄三と行動を共にしている八造は、真子が居ない場所では、凄く不機嫌だった。
「おや、桜小路お嬢さまのご帰宅だぁ」
栄三が、軽い口調で言った。その途端、栄三の表情が変わる。 麗奈が、栄三の方を見つめていた。そして、ツカツカと近づいてくる。
「やばっ、聞こえたか?」
そう呟き、口を噤む。しかし、麗奈は、車の側に立つ八造の前にやって来るだけだった。
「確か…阿山さんのボディーガードの方ですよね」
「そうですが、まさか、お嬢様に…」
八造の表情が変わる。そのオーラを感じたのか、栄三が車から降りてきた。
「何か遭ったのか?!」
栄三が尋ねた。
「体は大丈夫だろうけど、もしかしたら…」
「……まさか、いじめに?」
「それに近いかもしれないわね。だって、あなたがたの関西での
行動は、ご父兄の方々に知られてますでしょう? それが、阿山さんに
どう影響していくのか、考えた事…無かったの?」
「…どういう事だ? 場合によっちゃぁ…」
栄三に怒りのオーラを感じた八造は、栄三を睨み上げた。 その眼差しに、栄三は、怒りを抑える。
「そういうことが、阿山さんに影響してるのよ!」
なぜか、麗奈は怒っている。
「怒らないから、教えてくれ。お嬢様に何があったんだよ」
栄三が強い口調で尋ねるが、麗奈は、知らん顔をする。
「このガキャァ…」
と栄三は怒りを露わにしたが、麗奈の話を聞こうとしている、八造の恐ろしいまでのオーラに、気圧された。
「桜小路さん、教えてください。お嬢様に…」
「今、担任の先生と話してるから、来るのは、まだかかるわね。
……実は、ホームルームでね……」
麗奈が静かに語り出す話に、八造と栄三は、唇を噛みしめた。
麗奈の迎えの車が去って暫くしてから、真子が姿を現した。八造は、真子の姿に気付き、一礼する。 真子は笑顔で手を振って、駆けてくる。
「くまはち! ただいま!」
「お疲れ様でした」
「えいぞうさんと一緒なの?」
運転席にいる栄三に気付き、真子は手を振った。 八造に迎えられ、後部座席に座る真子は、
「ただいま! もしかして、ぺんこう、勉強に必死になってるとか?」
「そうですね。夜には帰ると言ってましたから」
「いいのかなぁ。お勉強…忙しいのに…」
「気になさることはありませんよ」
真子と話ながら、八造が乗り込んだのを確認して、アクセルを踏む栄三。 少し、寂しげな雰囲気の栄三が気になる真子は、そっと声を掛ける。
「えいぞうさん。何か遭ったの?」
「はい?」
「いつものえいぞうさんじゃないから…」
「そんなことはありませんよ」
「でも……もしかして、お父様と真北さんに…」
「いいえ、何も」
「まさか、おじさん…」
「親父は、元気ですよ」
「……どうしたの? …私に言えないこと?」
ルームミラー越しに、真子が寂しげな眼差しで見つめてくる。 栄三は、ゆっくりと目を反らし、前を見る。
「お嬢様、どこかへ出掛けませんか?」
栄三は、話を切り替える。
「寄り道は怒られるから、駄目だよ?」
「気分転換に…」
真子の表情が、曇った事に気付いた栄三は、それ以上、何も言えなくなった。
「…すみません…お嬢様。実は、ホームルームでの課題を
桜小路令嬢から、聞きまして、お嬢様の事が心配で…」
「そうなんだ…」
真子は、少し俯き加減で、そう言った。 真子には、栄三と八造の心の声が聞こえていた。 真子が責められる事は無いのに、責任を感じ、それでいて、自分の意見をしっかりと伝えた事。 その中に含まれた言葉は…。
「学校…辞めること、ありませんよ、お嬢様」
「でも、もし…学校に…」
「そうならないように、慶造さんと真北さんが関西の人達と
話し合ってきたんですから。…その結果が、あの悲劇ですが、
それでも良い方向に向かってるんです。…お嬢様が仰ったように
これからを見つめて下さい。だから、お嬢様はお嬢様ご自身の事を
考えて、そして、楽しんでくださるだけでいいんです。
私たちに気を遣われることは…」
「私に出来ること……ないの?」
「お嬢様が楽しく過ごしてる事が、慶造さんの為になるんです。
だから、お嬢様、そのような哀しい顔をしないでください」
真子は、今にも泣きそうな表情をしていた。 栄三と八造の想いを、聞いてしまったのだ。 誰よりも…血の繋がる父親の事よりも、真子のことを考えている。 二人の心の中には、真子の事しかなかった。 しかし、その思いは、真子にとって、哀しいもの。 自分よりも、もっと大切な者が居るのに…。
「お嬢様、私は、親父に勘当されてるんですよ。そして、
お嬢様のことを一番に考えるように言われてます。
でも、親父に言われる前に、私は、お嬢様のことしか
考えていませんでした。親父の言葉は、きっかけにすぎません」
八造は、真子に振り返り、優しく言った。
「私もですよ。お嬢様のことは、生まれた頃から大切ですから」
「くまはち…えいぞうさん……」
「だから、泣かないでください」
二人は声を揃えて言った。 二人の熱い思いが伝わったのか、真子は、そっと頷いた。
「さぁて、どこに行きますか?」
「夜景が見たいっ!!」
真子は涙を拭きながら、栄三に応えた。
「かしこまりましたぁ。素敵な場所、知ってますよぉ」
と張り切る栄三は、進行方向を変える。
素敵な夜景が見える展望台は、たくさんのカップルで埋め尽くされていた。そこにやって来た真子たち。栄三と八造は、真子の両脇にそれぞれ立ち、真子が夜景を眺めている間、辺りをさりげなく警戒していた。
「ねぇ、くまはち」
「はい」
「あれは、なに?」
「あれはですね…」
真子の質問に直ぐに応える八造。 二人の和やかな雰囲気に、栄三は少し嫉妬していた。
ん? …何か……忘れている……。
そう。 この二人。夜には本部に戻るから。と告げた一人の男の事をすっかり忘れていた。 真子のことを思うばかりに、真子を大切に想う、一人の男のことなんか、すぅぅぅっかり忘れていた。 それを思い出したのは、夜ご飯のことを考えた時。 慶造に連絡を入れたものの、向井に連絡していない。 その時に思い出した、芯の事……。
夜ご飯は栄三の馴染みの店で済ませて、本部に帰る。 門をくぐった途端、玄関先から発せられる異様な怒りのオーラに反応した栄三は、玄関を通りすぎる。 玄関先に、ちらりと見えた緑の服。
「ぺんこう、帰ってたんだ!」
真子は、そう言って、車を降りた。
「ぺんこう、お帰り!!」
楽しんできたと言わんばかりの笑顔で、芯に駆けていく真子。芯は、笑顔で真子を迎えるが、真子を抱きかかえ、真子の視野から自分の表情を隠した途端、少し先にいる二人を睨み付けた。 車から降りてこない二人。 それでも芯は睨み上げる。 それでも降りてこない…。
「あのね、あのね!」
真子が、夜景を見に行ったことを芯に話し始めた。 真子の声を聞いた途端、芯の怒りのオーラは消えた。
「おっかねぇなぁ」
栄三が呟く。
「俺も忘れてた…」
八造が言った。
「そりゃぁ、お嬢様の事を考えたら……なぁ…八やん」
「あぁ…でも、どうする、その話」
「隠すのは良くないだろ。俺から伝えておくよ」
「いつも悪いな、そういう事ばかり」
「気にするな。そういうのは、俺の方が……得意だろ?」
そういう軽い口調が嫌いな八造だが、この時は、
「そうだな」
短く応えて、車を降りた。
八造が、真子の部屋の前に来ると、部屋の中から、真子の笑い声が聞こえてきた。 真子と芯の時間の邪魔は出来ない。 そう想い、八造は、
「お嬢様。私は部屋に居ますので、何か御座いましたら
すぐにお呼び下さい」
ドア越しに、そう告げて、自分の部屋へと向かっていった。
真子の部屋では、芯が、ドアを睨んでいた。
俺が居るだろうがっ!
「ぺんこうが居るんだから、くまはち、ゆっくりすればいいのに」
芯の代弁かと思える発言をする真子。
「そうですね…」
と応えた芯は、真子に振り返る。
「お嬢様、どうされました?」
真子が少し寂しげな表情をしていた。
「……日曜日………」
「日曜日?」
「……関西の人達が来られるんだって…」
「それは、慶造さんから聞いております。何か……」
芯は、ハッと気付いた。 真子は気にしてるのだろう。 関西との争いの事は知っている。そして、買い物帰りの真子を狙ったのも関西の極道だった事も知った。 家に来るということは、慶造の命を狙っているのかも知れない。 真子は、そこを心配していた。 真子の考えが解った芯は、真子の頭を優しく撫で、顔を上げた真子に微笑んだ。
「大丈夫ですよ。関西の方々は、今までのことを謝りに、そして、
これから、争わないで過ごす約束をしに来るんです。
慶造さんの命は狙いませんよ」
「本当?」
「えぇ」
芯の力強い応えに、真子は納得したのか、笑顔を見せた。
「ありがとう、ぺんこう!」
更に輝く真子の笑顔に、芯は、思わず目を反らす。芯が目を反らした事を不思議に思った真子は、首を傾げて、芯を見つめていた。
心には思わない。 思えば、真子に悟られてしまう。
芯は、敢えて無心を選び、鼓動が落ち着くまで待っていた。
その夜。真子に添い寝をする芯は、眠れずに居た。
そして、関西の極道たちが、阿山組本部へと集結する日曜日が、やって来た。
(2005.12.30 第七部 第十七話 改訂版2014.12.7 UP)
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