第七部 『阿山組と関西極道編』
第二十四話 澄み渡る青空のように
まさが復帰。
天地山ホテル支配人として、張り切るまさ。 いつもの支配人が戻った! 誰もが思っているものの、心配顔の少女が居る………。
ホテルのロビーに真子と春樹が降りてきた。 仕事中のまさが、真子に気付き振り返る。いつもなら、真子に駆け寄るが、この日は違っていた。まさは、支配人の雰囲気のまま真子に笑顔を送り、そして、仕事に戻る。
「だから、大丈夫だと言ったでしょう?」
春樹が、真子の耳元でそっと言った。 真子は、頷き、春樹に微笑む。
「うん」
「あとは、真子ちゃんの問題ですよ」
と春樹が尋ねると、真子の表情が暗くなった。
「部屋に戻りますよ」
「…うん」
春樹は、真子と手を繋ぎ、エレベータホールへと去っていく。 その気配を感じながら、まさは仕事を続けていた。
お嬢様が、いつまでも心配するから…。
そう言って、またしても体に無理をして、仕事に復帰していた。 春樹が止めても、店長が言っても、まさは聞く耳を持たない。 まぁ、解っている事だが…。
それなら、元気な所を見せろ。
と春樹が言うと、まさは意固地になり、そして、今に至るのだった。 まぁ、元気になったのは、本当の事だが……。
真子と春樹は部屋に戻ってきた。ベッドに腰を掛ける二人は、暫く何も話さなかった。 春樹は、真子が言葉を発するのを待っていた。 真子を見つめる。
春樹は、真子を見つめる……見つめる………見つめ……。
「……学校………」
真子は、そう発するだけだった。
「無理に…行くことないですよ、真子ちゃん」
春樹の言葉に、真子は顔を上げた。 その眼差しは、潤んでいた。
「真子ちゃんが学校に行きたいと、ぺんこうから聞いて、
今の学校を薦めたのは私ですよ。…私に気を遣うことは
しないで下さい」
「そんなことない。…学校…楽しいもん。今まで知らなかった事や
真北さんやぺんこうやくまはちに習わなかった事もたくさん習った。
だから……」
「でも、真子ちゃんまで、私と同じように、ここへ来たのに?」
真子は照れたように首をすくめた。
「…誰の声も……聞きたくなくて…」
「そうですよね。私も、誰にも逢いたくなかったんですから」
「私にも?」
真子が尋ねると、春樹は微笑むだけだった。
「それで、真子ちゃん…どうしますか?」
「…解らない…」
「……真子ちゃん」
「はい」
「もう、応えが出てますよ」
「えっ?」
「迷うということは、学校に行きたい気持ちが、まだあるって事ですよ?」
「…楽しいもん…」
「それなら、今まで通りに…」
「でも、もう…耐えられない……。みんなの心の声に……」
「真子ちゃん…?」
真子の声は震えていた。思わず春樹は、真子を抱きしめる。
「無理させていたんですね……真子ちゃん。…申し訳ない…」
「真北さんっ!! うわぁぁぁん……」
真子が突然、火が付いたように泣き出した。春樹には解っていたのか、真子をあやすように、優しく背中を叩いていた。
一人で堪えて……。
春樹の腕に力が入った。
廊下では、三人の男が立ちつくしていた。 遅れて到着した、芯、向井、そして、八造の三人。 もちろん、真子のことを心配しながらも、芯の卒業試験が終わるのを待ってから、やって来た。
「まぁ、その…取り敢えず、隣だな」
芯が呟くように言った。
「あぁ」
八造と向井が返事をし、そして、三人は、真子の隣の部屋へと静かに入っていった。
荷物を降ろし、コートを掛ける。芯がコーヒーを用意し始めた。
「まだ…泣いてる…」
八造が静かに言った。 隣の真子の部屋に通じるドアから、真子の泣き声が漏れてくる。
「あの人に…任せておけばいいって、くまはち。
お嬢様とは一番長い付き合いなんだから……」
「……あぁ…」
八造の目の前にコーヒーが差し出される。
「いや、俺は…」
「ここに来たときは、解放されてるんだろ? それに今は大丈夫だし」
「……そうだが…」
「くまはちは、お茶の方が好きなんだっけ?」
向井が言った。
「特に好みは無いが…」
と答える八造は、やはり、いつもと違っている。
「…〜〜っ!! ったく、落ち込みすぎだっ!」
芯が八造の髪の毛をぐしゃぐしゃにする感じで、頭をなで続ける。
「って、やめろっ、ぺんこうっ!! こらっ!」
「やめんっ」
ちょっぴりだけ、ふんわりとした雰囲気が漂い始めた。
まさが、真子の部屋の前にやって来た。ドアの向こうからは、何の気配も感じない(春樹と芯の険悪なオーラの事)為、少し足を先に延ばし、隣の部屋をそっとノックする。 ドアが開き、八造が出てきた。
「やはり、こちらでしたか。よろしいですか?」
「はい」
まさが、八造たちの部屋へと入ってくる…が、なんだか違和感がある…。
「………何も三人が三人ともお嬢様の部屋に向かって
座ること無いんじゃありませんか?」
芯と向井、そして、八造の三人は、並ぶように座っているらしい。それも、まさが言ったように、真子の部屋がある方に向かって…。
「やはり心配ですから…」
芯が静かに応える。それには、まさは苦笑い。
「私が拍車を掛けてしまいましたから…。本当に…」
「支配人は悪くありませんよ。…私も……悪いですから」
寂しげに、芯が言う。
「…なので、こちらに来るときに、むかいんと俺は
封印してきたんですよ…」
「封印?」
「えぇ。…例の抗争で使った武器を……ね」
「そうですか。…私も安心しました」
まさが笑顔で言った。
「………眠った…」
八造が言った。 まさと芯の会話を聞きながらも、真子の様子を伺っていたらしい。先程まで聞こえていたすすり泣く声が、聞こえてこない。
「そのまま、真北さんも眠りましたね」
そう言って、まさは、真子の部屋に通じるドアを開ける。 四人の男が、覗き込む……。 まさの言った通り、真子に添い寝をしながら、春樹も眠っていた。 春樹の腕は、真子の体をしっかりと包み込んでいる。 まさは、そっと近づき、春樹と真子に布団を掛け、暖房を調整してから、隣の部屋へと戻っていった。
「真北さんは、お嬢様と話し合うと言っていたんですが、
結論は出なかったみたいですね」
まさが静かに言った。
「学校を辞める……か。…通い始めた頃のお嬢様の表情…
未だに覚えてる。いつも以上に笑顔が輝いていたのに。
今は、笑顔が減ってしまった。……お嬢様の悩みの相談を受けて
四代目に話した事……後悔してるよ…」
芯は頭を抱え込む。
「お嬢様の笑顔を取り戻すことが出来ない…。悩み事も
解決してあげることが出来ないなんて……俺……。
…自信無くすよ…」
「ぺんこう……」
真子のことを聞き、そして、相談を受けなかった事、真子と話していながらも、真子の悩みに気付かなかったこと。芯は、自分を責めていた。 落ち込みっぱなしの芯を勇気づけようと、親友の翔と航も頑張ったが、芯は、いつになく激しく落ち込んだまま。その事を知った春樹が、芯に喧嘩を嗾けた。しかし、それでも芯は…。
「誰もが落ち込んで当たり前ですよ」
まさが、優しく言った。 その声が、芯の心に突き刺さる何かを少しだけ、溶かした。 芯は顔を上げ、まさを見つめる。
「そういう時の為に、ここがあるんです。お嬢様も少しずつですが
元気を取り戻していました。…しかし、私が……」
「そのお話は、真北さんが出発する前の日に、仰いました。
支配人こそ、無茶しすぎですよ」
八造が言うと、まさは、照れたように目を反らす。
「……で、その……助かります」
「…はい?!」
「実はですね……その…お嬢様に元気を取り戻した所を
見せる為に、…無理しちゃいまして〜」
「って、支配人っ!!!」
八造、芯、向井の三人は、声を揃えて、ちょっぴり怒鳴った。
支配人室では、芯と八造が、まさの代わりに仕事をしていた。 向井は厨房で疲れが吹き飛ぶ料理を作って、支配人室へと戻ってきた。 まさは…。 向井は支配人室の奥にある部屋へと向かっていく。
「失礼します〜…って、横になっているようにと言われたでしょう?」
「あっ、いや、その……」
芯から横になるように言われたものの、他のことも気になるまさは、起き上がって、何やらごそごそと…。 もちろん…。
「支配人っ!!! お嬢様に言いますよ!」
芯が脅してくる。
「ぺんこうぅ〜それは〜」
なぜか、たじたじのまさ。 そのやり取りは、八造の笑いを誘う。 笑いを堪えながら、まさの仕事をてきぱきとこなしていく八造だった。
向井の料理で、少しばかり元気を取り戻した、まさは、少しばかり横になっていた。
取り敢えず、言われた仕事を終えた芯と八造は、奥の部屋に顔を出した。
「……むかいん、入れただろ?」
芯が静かに尋ねる。
「…気付かれると思ったけど…」
向井が、そっと言った。
「それに気付かない程、お疲れだったんだな。
俺達の気配に気付かない程、眠ってる……」
八造が言ったように、まさは、横になった途端、眠りに就いていた。 その表情は、とても柔らかく、観ている者の心を和ませる。
「支配人…か」
芯が呟いた。
「そうだろ?」
「…ん? あ、あぁ…そうだな。……俺も、こうなりたいな…」
「こうって…支配人にか? 教師は?」
向井が驚いたように尋ねると、
「違うよ。観ているだけで、心が和むような存在。
……天地山の空気が、このような表情にさせるんだろうな。
封印したけど、未だにこの手に残ってるよ……あの時の…」
芯は自分の両手を見つめた。 ふと、その手が真っ赤に染まったように見えた。 思わず目を瞑る。
「お嬢様の為に……そして、四代目の思いを守るために」
悩みが弾けたのか、その言葉は力強く感じられた。
「あぁ」
それに応えるかのように、八造と向井が応えた。
まさは、目を覚ます。
う〜ん、良く寝た………寝た?!??
驚いたように起き上がり、時計を見る。 午後六時を指そうとしている所。
……むかいん…か…。やられたっ!
参ったという表情をしながら、支配人室へと顔を出す、まさ。そこでは、八造と芯が、くつろいでいた。
「お目覚めですか?」
芯が尋ねると、
「…ったく、気付かない程、疲れていたんですね、私は」
まさが、参ったように応えた。
「私もくまはちも頼んでませんよ。…むかいんの判断ですね」
「恐らく、料理長も気付いていたのかもしれませんね。
私も反省しなくては…。みなさんに心配させないように」
「お嬢様に気付かれたら、それこそ…」
「気付かれる前で良かったです。……ところで、むかいんは?」
「厨房ですね。支配人だけでなく、お嬢様と真北さんも
目を覚ます時間だと言って、元気が出る料理を作りに…」
「久しぶりなので、腕が停まらないかもしれませんね」
「そうかもしれません」
笑いが起こった。
真子の部屋へ、まさと芯、そして、八造がやって来る。まさがノックをすると、春樹の声が聞こえてきた。 ドアが開き、春樹が顔を出す。
「………お前らも来たのか…」
まさの後ろに居る二人の男を見て、冷たく言った。 思わず怒りがこみ上げる芯だが、それをグッと堪えた。
「心配ですからね。あなた一人では」
と応える声には怒りが籠もる……。
「お嬢様は、どうですか?」
その場の雰囲気を変えるかのように、まさが尋ねる。
「まだ、泣いてる」
春樹が静かに応えた。
「そうですか…」
そう言って、暫く考え込むまさは、意を決したような表情をして、部屋へと入っていった。 真子が寝ているベッドに近づく。真子は布団を引っ被っていた。頭があるだろう場所に顔を近づけ、
「お嬢様、むかいんが張り切ってるんですが…」
優しく声を掛ける。
「むかいんの料理…久しぶりでしょう? 元気になりますよ」
『……だって…むかいん…来てないもん』
「来てますよ。ぺんこうもくまはちも」
と言った途端、真子が、ガバッと起き上がる。
「うわっぷっ!!」
真子の布団を顔面で受け止めた、まさ。 まだ、本調子でない事が解る三人の男……。
ったく……。
呆れたように、項垂れる春樹。 真子は、入り口に立つ芯と八造に気付き、ベッドから飛び降りた。
「ぺんこう! くまはちっ!」
「!! お嬢様っ!」
ぺんこうがしゃがみ込み、真子を受け止めた。
「ごめんなさい……何も言わずに……家出しちゃって……。
何も相談せずに……ごめんなさい、ごめんなさいっ!!!」
「お嬢様……。そうですね。…次からは、私に相談してくださいね」
芯は真子を抱きしめた。
「…私の方こそ、申し訳ございませんでした。お嬢様の悩みに
気付くことなく…いつものようにお話をしてしまって…」
真子の肩に顔を埋める芯。 流れそうになる涙を誤魔化していた。
泣いてるぞぉ、これは…。
真北さん、口にしないでくださいねっ。
解ってるっ。
春樹とまさが、誰にも聞こえない程の声で、話していた。 真子は、芯から離れ、八造の足にしがみつく。 八造は、少し躊躇いながらも、真子を抱き上げた。
「くまはち……ごめんなさい……」
「これ以上、心配掛けないで下さいね、お嬢様」
心に響くほどの優しい声で、八造が言った。 真子は、コクッと頷いて、八造の胸に顔を埋めた。 その仕草で、解る。 八造の勇気をもらうため、真子が顔を埋めた事が…。 八造は、心で真子に話しかけていた。 真子の体が少し震えた。そして、顔を上げる。 その表情に笑顔が戻っていた。
「もぉ〜くまはちぃ、駄目でしょぉ」
「反省してます」
「えっ? 何? 真子ちゃん、何の話?」
「内緒!」
「知りたいなぁ〜」
「駄目ぇ〜」
春樹と真子、そして、八造の三人で和んでいると、やはり、芯は……。 その時、真子のお腹が鳴った。
「あっ……ごめんなさい…」
「夕食の時間ですからね。むかいんが待ってると思いますよ」
まさが言うと、真子の笑顔が更に輝いた。
「行こう!」
「そうですね」
「うん!!」
真子の明るい声が、その場に居る者の心に明るい光を誘い込む。 先程まで心配していた事はどこへやら。 誰もが、明るい表情で、ホテルのレストランへと向かっていった。
その日の夕食は、テーブルに並びきらない程の種類があり、そして、厨房の食材を全て使い切ったのではないかと疑うほどの量があった。
「むかいん、張り切りすぎ!」
真子の明るい声が、レストランにも光を差し込んだ。
天地山の頂上。 この日も素敵な自然が、人々の心を和ませていく…。
雲が流れる。
頂上の見晴らしの良い場所では、真子だけでなく、芯、八造、向井の三人も居た。 まさは、もちろん、支配人としての仕事中。それを見つめる春樹の姿も、そこにある。
雲が流れる…………。
「そうですね……」
やっと心も落ち着いた真子は、芯たちに、家出の理由を話した。 芯たちは、理由をそれとなく知っていたものの、真子の口から聞くことで、新たな気持ちを抱くことが出来た。 真子から話を聞いて、しばらくの間、沈黙が続き、そして、芯が口を開いた。
「…学校を辞めなくても大丈夫ですよ」
芯が言う。
「でも…みんなの心の声が聞こえるの……もう、聞きたくない」
「まぁ、確かに、それは事実ですが…」
「……うん、解ってる。…でも、目で見ている表情と違うんだもん。
それが…嫌だな…」
「本部では、声が聞こえない時もあるんでしょう?」
「気を張りつめていたら…」
「……疲れるから、辞めろと言ったのは、ぺんこうだろが」
八造が発する。
「まぁ、なぁ。…だからって、学校で一日中は、疲れるよな…」
芯は、再び口を閉じた。
雲が流れる。 雲が、流れる。
「授業中は、どうですか?」
「先生のお話を聞いてるから、何も聞こえないよ?」
「そうですか。…解りました」
「はい?」
「お友達と接する時だけ、気を張りつめれば、心の声は
聞こえないかもしれませんね」
「………そっか!!」
芯の言葉で、真子は何かに気が付いた。
「休み時間だけだもん。…友達が側に来たら気を張りつめれば
心の声は聞こえないよね。…それに、疲れた時は、静かな場所に
行けば、気を張りつめなくてもいいんだ!」
「そうですよ、お嬢様」
「ぺんこう!」
真子は芯に振り返る。
「ありがとう!!」
嬉しさのあまり、真子は芯に抱きついた。
「お、お嬢様っ! また、下に落ちますよ!!!」
「大丈夫だもん! ここは、安全。危ないところには、まささんが
ロープを張ったから!」
真子が指をさすところ。 そこは、真子とまさが崖下に落ちた場所だった。 確かにロープが張られ、危険の文字も付いていた。
対応早い……。流石だな…。
誰もが、感心していた。
「しかし、静かな場所は、ほとんど無いんじゃありませんか?」
八造が心配そうに尋ねると、真子は、にっこり微笑んで応えた。
「図書室、とても静かだもん。それに…本を読む声しか
聞こえてこないし……。本を読むことに集中したら
何も聞こえないから!」
「そうですか。それは、安心です」
八造も笑顔で応えた。 …と、その八造の笑顔は、とても魅力的…。
「…くまはち、気をつけろ」
「はい?」
「同じ男でも………惚れそうだ」
「俺も…」
芯と向井が、目を反らしながら言った。
「いや、俺は……その気はないぞ…」
真面目に応える八造に、芯と向井は笑い出す。
「あったりまえだっ!!」
三人の大人な会話に付いていけない真子は、目をパチクリさせて、三人をそれぞれ見つめていた。
支配人室。
春樹は、まさの仕事っぷりを見ていたが、飽きてきたのか、ソファから立ち上がり窓際に歩み寄る。そして、窓からゲレンデを眺め始めた。
「一望…出来るんだな」
「そうでなければ、お客様の顔を拝見できませんからね」
仕事をしながらも、まさは応える。
「お嬢様の部屋からも、ゲレンデを眺めることが出来ますが、
ここのように隅々までは見ることは難しいでしょう」
「…あぁ」
「真北さんも、御一緒されれば、よかったんですよ。
たいくつでしょう?」
「まぁな…」
「しかし、むかいんの料理が、お嬢様の笑顔を取り戻す
きっかけにもなるとは、本当に驚きました。むかいんは
他の料理人に無い、何かを持っているんでしょうね」
「…そうだろな…」
まさに対しての春樹の返事は素っ気ない。 まさは振り返る。
って、真北さぁん……。
春樹は、ゲレンデを眺めて微笑んでいた。その途端、まさは、春樹の素っ気ない返事の理由がわかった。 まさも窓に歩み寄る。 窓から見えるゲレンデには、真子達の姿があった。 表情まで確認するのは難しいが、真子が楽しんでいる事は目に見えて解る。その真子から離れないようにと付いているのは、芯、八造、そして、向井の三人だった。それぞれが、ゲレンデを滑りながら、真子と楽しく話してるらしい。真子は、時々振り返りながら、ゲレンデを滑っていた。
「ちゃんと前を見ないと…」
まさが呟く。
「転けやしないさ」
春樹が言ったように、真子がバランスを崩しそうになると、芯か八造が、真子を支えていた。
「…元気……取り戻したようですね」
まさが静かに言った。
「……そりゃ、そうだろ。…天地山なんだからさ」
「経験者は語る……って事ですね?」
「…まぁな〜」
真子達はゲレンデを滑り降りてきた。そして、再びリフトへと向かって滑っていく。
「なぁ、まさ」
「はい」
春樹は、まさを見つめていた。
「…ありがとな…」
そう言って、春樹は支配人室を静かに出て行った。
「コート着て下さいね!」
『解ってるっ』
春樹の足音が、一度、真子の部屋に向かっていき、そして、そのままエレベータホールへと向かっていった。 春樹が向かう場所は解る。 あの『和』に入りたいのだ。 まさは、ゲレンデを見つめた。 真子達が再び滑り降りてきた。その真子が向かう先は、ホテルの入り口。そこには、春樹の姿があった。 春樹が真子に、何かを告げた。 真子は首を横に振り、リフトの方を指し、そこへ向かって滑り出す。芯と向井も付いていく。八造は、春樹に一礼して、真子達を追いかけていった。 真子達がリフトに乗った後、春樹は、支配人室を見上げてくる。 それだけで、真子と春樹の会話が解ったまさは、頷いた。
夕方までですか…。
まさは、厨房に内線を掛ける。
「原田です。午後七時に五名で予約お願いします」
真子達は、夕日が空を紅く染めるまで、ゲレンデで楽しんでいた。
真子の部屋。
芯が、鋭い眼光で何かを睨んでいる。 春樹が、口を尖らせて、一点を見つめていた。 向井は、ハラハラした表情をしている。 八造は、背後に何かを守るように手を広げていた。
「くまはちぃ〜」
その背後から、真子の声がした。八造は、ちらりと振り返り、首を横に振った。
「それでも…ねぇ、お願いぃ」
八造は、真子を見つめた。 真子は、潤んだ眼差しで、八造を見つめている。
お嬢様…その眼差しは……。
八造は躊躇うが、意を決して、その場を動かない。
「むかいん〜」
「私では無理です」
「…まささんに…」
「お仕事中ですから…」
八造が応えた。
「私が」
「支配人に止められてますよ?」
「それでも…」
「大丈夫です」
「…心配…」
と言う真子に振り向き、八造は真子を抱きかかえた。 何かを思いついたらしい。
「むかいん、温泉に行くぞ」
八造の言葉で、八造の考えに気付いた向井は、
「そうだな」
と応えて、部屋を出ようと歩き出す。
「待てや」
芯と春樹が同時に言った。それと同時に歩みを停める八造と向井。
「なんでしょう」
と応える八造の声は、とても低い…。 怒りを抑えているのが、ありありと判るほど……。
「お前らだけで、温泉は許さん」
春樹が言った。
「……はぁぁぁぁぁぁ」
大きく息を吐く八造は、真子を床にそっと下ろし、芯と春樹に振り返った。 その表情は、睨み合っている芯と春樹以上に恐ろしく…。
「待ってられませんから」
八造がゆっくりと言った。
「あのなぁ」
芯が言う。
「………あのなぁ…は、私の方ですよ……いい加減に…
していただけませんか? どうして、お二人はいつも…いつも…」
と言う八造の拳が、プルプルと震え出す。
「お嬢様と一緒に温泉に入るのは誰か…と決めるだけなのに、
どうして…そこまで……」
「くまはちぃ、考えろよ。真子ちゃんもそろそろ……なんだぞ」
「そうですね」
「だから、一緒に入るのは…」
「別によろしいじゃありませんか」
「って、くまはち、お前なぁ、慶造に言われた事…忘れたんか?」
「覚えてますよ」
「それなら、お前が一緒に…」
「みんなで一緒に入ったらいいんでしょ? いつもそうしてたのに」
春樹と八造の言い合いに、真子が口を挟んだ。 八造の言うとおり、芯と春樹は、真子と一緒に温泉に入る事で、睨み合ってしまったらしい。 真子はこの年、十一歳になる。 体もそろそろ大人への準備を始める時期になる。 幼い頃からお風呂に一緒に入っていた春樹は、少しずつ気にしていた。 もちろん、芯とも本部に来たときに、真子は一緒に入ってる。 八造も時々……。 しかし、天地山の温泉では、みんなで一緒に入っているのだが、なぜか、この日は言い合っている。
「真子ちゃん…」
「…みんなの考え…よく判らないけど、私は気にしないよ?」
私たちは気になるんですけど…。
真子の言葉に、そう思った春樹達。その『心の声』は、真子には聞こえている。 真子が突然笑い出す。
「お嬢様?」
「真子ちゃん??」
真子があまりにも笑うものだから、誰もが不思議に思ってしまう。 しかし、涙が出るほど笑っている真子を見て、誰もが心を和ませた。 先程までの険悪な雰囲気はどこへやら。 いつの間にか、笑みを浮かべている男達だった。
この様子を、廊下で伺っていた、仕事中のまさ。 真子の笑い声を耳にして、
お嬢様、やっと落ち着かれましたね。
フッと笑みを浮かべて、その場を去っていった。 まさの姿が支配人室に入った頃、真子達が部屋から出てきた。 真子は八造と手を繋いで歩いていく。八造を見上げて、楽しく何かを語っていた。八造の表情も和らいでいる。その真子の横を向井が歩いていた。 芯と春樹は……。 ふてくされた表情で、真子達の後ろを付いていく。
「あなたが、あんなことを言うからですよ」
「ぺんこうが、反論するからだろが」
「あんな意見だと、反論するのは当たり前です」
「ったく、反抗的だな」
「そうならざるを得ないのは、あんたのせいです」
「うるさい」
「そうやって、すぐ、話を止めるんですね…」
「あのなぁ」
と言い合う二人は、突然、歩みを停めた。 真子が、振り返り、睨んでいる………。
「まだ……やるの?」
腰に手を当て、真子が言った。
「いいえ。仲良く致します」
芯と春樹が声を揃えて応えると、真子に笑顔が戻った。そして、芯と春樹に歩み寄り、二人の間に割り込んで、芯と春樹の手を握り、
「早く! 時間が無いよ!」
と、二人を引っ張って歩き出した。
「そ、そ、そうですね」
「急ぎましょう」
「湯上がりは、湯川さんの部屋で飲むんでしょ?
ねっ、くまはち」
「そうですね。私もお嬢様に怒られない年齢になりましたから」
「のんびりしてね!」
明るい声が、エレベータホールへと消えていった。
ったく……今夜も付き合う事に…なるんか…。
項垂れるまさ。 その訳は……。
グラスに氷が継ぎ足され、アルコールが注がれる。 そのグラスに素早く手を伸ばし、一気に飲み干したのは、春樹だった。
「飲み過ぎですよ…」
「じゃかましい」
「禁酒すると言って、ここから去ったのは、真北さんでしょう〜」
「ここでは、いいんだ」
「まった、強引に…」
「ほっとけ」
「ほっとけません」
「…酒に入れるなよ」
そう言って、春樹が睨み上げる。 睨まれたまさは、一瞬、身が縮んだ。
「御存知でしたか…」
「後で知った」
「そうでもしないと、あなたは底なしでしょう」
「俺より、芯〜」
「…八造くんもだから、今夜は湯川が倒れるでしょうね」
「そら、大変だな」
「他人事のように……」
真子を追いかけて天地山にやって来た春樹。 まさも体調を崩していた。その間は、まさの代わりや看病、そして、真子の看病もしていた。 すっかり元気を取り戻した二人。 それと同時に、春樹のたがが外れ、芯との事もあり、こうして、毎晩遅くまで、まさの部屋で飲んでいた。
「私はそろそろ寝ますよ」
「ん? もっと付き合えや」
「嫌ですよ。アルコールも終了です」
「まだ早い」
「私は明日、早いんですからね」
「俺は、関係ないぃ」
「私自身のことですからね」
ちょっぴり怒った口調になる、まさ。
「………なぁ、まさ」
「はい」
「…………真子ちゃん……本当に………落ち着いたのかな…」
いつにない、弱気な発言をする春樹に、まさは驚いた。
「真北さん…」
「……笑顔…だったんだよ。…学校のことを話していた時は…。
だけど、心に……悩みを押し込めていた…。…真子ちゃん…」
グラスを持つ手が震えている。 俯いている為、表情は解らないが、目が潤んでいるのは間違いないだろう。 まさは、春樹を見つめ、
「大丈夫ですよ。次は、ちゃんと相談します。そして、
家出もしませんよ」
その声は、春樹の心を温める。
「……やはり、ここは………素敵な場所だな…」
「ありがとうございます」
そう言って、まさは立ち上がり、奥の部屋へと向かっていく。ドアを開けたとき、何かを思い出したように振り返った。
「飲むのは程々に。…それ、本当に最後の一本ですからね。
では、お先に失礼します。お休みなさい」
まさは寝室へと入っていった。 静かにドアが閉まる。
「お休み…」
その声は震えていた。 床に一滴の滴が落ち、そして、弾けた。
(2006.2.28 第七部 第二十四話 改訂版2014.12.7 UP)
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