第八部 『偽り編』
第十九話 作戦に向かって
二学期が始まった。
真子は新学期の用意をして、政樹と一緒に玄関までやって来た。
「お嬢様、二学期ですね」
玄関で話し込んでいた組員が二人に気付き、真子に声を掛けた。
「はい。行ってきます!」
「お気をつけて」
元気よく、それも笑顔で、真子が挨拶をした。 その場に居た誰もが、真子の変化に驚いていた。 今まで自分たちに笑顔で挨拶をしたことはない。 どうやら、お世話係の政樹が影響している様子。 駐車場へ向かう真子と政樹を見送る組員達。そこへ、北野がやって来た。
「おはようございます。稽古は九時ですね」
「あぁ、おはよう。…お嬢様は行ったのか?」
北野は真剣な眼差しで尋ねる。
「はい、今」
そう応えると、玄関の前を政樹の車が通りすぎていった。その車を深刻な眼差しで見つめる北野。
「……北野さん、どうされたんですか?」
「ん…あぁ、先日の地島の態度が気になってな。それに、
稽古の時の姿も気になるんでな。」
「あの剣幕ですか…。確かに、今までひ弱な雰囲気があったのに、
あの時は全く違ってましたね。私たちは、四代目の拳を受けた事が
地島さんに変化を与えたと話していたんですが…」
「あの態度というか雰囲気は…噂に聞いたことのある人物と
よく似ていたからな……。ちょいと気になってな」
「四代目にお聞きになっては、どうでしょうか」
「もし、俺の考えが当たっていたら、四代目に伝えるつもりだ。
その間、俺は一人で調べるから」
「私も協力いたします」
「…いいのか?」
「お嬢様のため…でしょう?」
組員が、北野の思いに気付いていたのか、ちょっぴり意地悪そうに尋ねる。 それには、北野は苦笑い。
「兎に角、今日は出掛けるからな」
「はっ」
北野と組員は、そのまま何処かへ出掛けていった。
政樹運転の車が、真子の通う学校に到着する。真子は、笑顔で車から降り、校舎へと向かっていった。 真子が校舎に姿を消すまで見送った政樹は、アクセルを踏んだ。 そのまま、本部へ戻る政樹。そして、その足で、稽古場の道場へと向かっていった。
道場では、やっぱり喧嘩嫌いを演じている。 相手に拳を向けるのは嫌だ、という雰囲気を出しながら、基礎を学んでいた。 本来なら、稽古で体を鍛える必要はないのだが、喧嘩では相手を倒した事はあるが、基礎から学んだことは無かった。 自己流。 その自己流で、敵を容易く倒す男が、基礎を学ぶということは……。
政樹の体が宙を舞う。そして、壁にぶつかった。
「地島ぁ、それで本気なのか?」
組員や若い衆の稽古を付ける勝司が静かに言った。 政樹は、勝司が正体に気付いている事は知らない。 政樹の正体に気付いているのは、慶造だけ。そう思っている。
「本気です。…これ以上は…!!」
と口にする政樹の胸ぐらに、勝司の手が伸びてくる。その手を政樹は掴み、勝司に蹴りを見舞う。 その素早さは、勝司の想像以上だったが、
「!! …まだ、あまいな…」
受け止めていた。 そして、勝司の拳が、政樹の腹部に向かって差し出された。 しかし、それを、政樹は受け止めた。
勝司の口元が、少しつり上がる。
なるほど。こういう場合でも、演じてるわけか…。
勝司は姿勢を整えた。
「今日は、これまで」
道場に、勝司の声が響き、そして、
「ありがとうございました!」
組員たちの声が大きく響く。
政樹は、他の若い衆と一緒に、道場の掃除をしていた。
「地島さん、めきめきと強くなっていきますね」
若い衆の一人が声を掛けた。
「そうですか? 山中さんに、倒されてばかりですよ」
「山中さんが、相手にするのは、見込みがある人だけですよ。
俺なんて、とうてい…」
「踏み込みが甘いんだと思いますよ。そうですね……」
そう言って、政樹は、その若い衆の弱点を述べ始めた。
北野と組員は、砂山組組事務所の近くに立っていた。 事務所の出入りをする人物を観察する。 組事務所のドアが開いた。 それに気付いた北野と組員は、さりげなく目線を逸らす。
「行ってらっしゃいませ」
組員達に見送られ、砂山と地島は二人の組員と一緒に、車で何処かに出掛けていった。 少し間を置いて、北野と組員は、事務所の前に歩み寄る。そして、外で待機している組員に声を掛けた。
「なぁ、あんた、…政樹って組員…知ってるか?」
「……誰や、お前は…」
「あっ、すまん。ちょっとな、政樹に用があるんだけどなぁ」
「…だから、誰やと聞いてるっ」
「…俺の…スケが、そいつに寝取られてなぁ……」
北野は、砂山組組員を睨み上げた。
「…政樹さんなら、今、仕事で、離れてます!」
「どこに居る?」
「それは……その……」
「……なんなら、お前が、そいつの代わりに……」
北野は指を鳴らした。その途端、砂山組組員の顔色が変わった……。
北野は車に戻ってきた。 同行していた組員が運転席に乗り込む。
「居なくなった時期と、地島政樹が来た時期が一致してますね」
組員が言った。
「そうだな。…やはり、地島政樹の行動を見張るべきか…」
大きく息を吐き、北野は組員に指示を出す。 車は本部に向かって走り出した。
本部に戻った北野が耳にしたのは、稽古の後、政樹が若い衆にそれぞれの弱点を教えていたという行動。教わった若い衆にどのように教わったのか尋ねると、政樹が教えた事は、確かに、その若い衆の弱点だった。それらを克服したとも言う若い衆。その言葉に、北野は、
確かに、こいつの弱点は、そこだが、…観ただけで解るのか…?
自分の思った事を発せずに、
「その通りだな。明日からの稽古が楽しみだ。
俺は手加減せんぞ」
そう告げて、その場を去っていった。 その足で、慶造の部屋に向かう北野は、勝司と出逢う。
「一人で、何を調べてる?」
勝司が静かに尋ねた。
「すんません…勝手に行動をしてしまいました。…その…。
お嬢様の世話係の地島のことが気になりまして、砂山組に
調べに行ってました」
「北野…勝手な行動をするなっ。お前の身が…」
「それを承知で、行動しました」
勝司は、ため息を吐いた。
「あのな、北野」
「…稽古後の、地島の行動、お聞きになりましたか?」
「あぁ。若い衆の弱点を教えたそうだな」
「喧嘩嫌いの稽古したての男が、述べそうな事じゃないと
私は思います。その弱点は、確かに、そいつらの弱点です。
そんな事を教えることができるのは…」
「基礎を覚えるのが早いだけだろ。今日は俺が手合わせしたところだ」
「えっ?」
「そういうことだ。察しろ」
「はっ」
「四代目が出掛けるんだが、北野、準備しろ」
「すぐに!」
そう言って、北野は、出掛ける準備に入る。
「ったく……俺の稽古が拍車を掛けたって事か…。
本来の姿が、あいつらに知られたら、それこそ……
厄介だな…」
勝司に悩みが増えてしまった…。
政樹は徒歩で、真子を迎えに行く。 今朝方、真子に言われた事があった。
『帰りは徒歩がいい!!』
その望みを叶えるために。 下校時間に合わせて、てくてくと歩いていると、とある路地を曲がった所で、
「!!!」
男に銃を突きつけられた。 政樹は、フッと息を吐き、そして、目にも止まらぬ早さで、目の前の男に蹴りを見舞う。
「健在か…」
その声に振り返ると、そこには地島が立っていた。
「兄貴…一体…」
「腑抜けになったのかと思ってな。…遊園地での姿が気になっただけだ」
「それは、仕方のない事です」
「で、その後…どうなんだ?」
「まだ…!!」
地島は、政樹の腹部に拳を入れた。
「政樹ぃ、さっさと行動に移せや」
地を這うような声で、地島が言う。 その声には逆らえない政樹は、唇を噛みしめ、目を反らした。 その顎を掴まれ、地島の方へ顔を向けさせられた。
「目…逸らすということは、…やる気…無いって証拠だな」
「そ、それは…」
「あんなガキに…惚れたのか?」
政樹の目が見開かれた。
「図星か…」
地島は、勢い良く政樹を壁に向かって放り投げた。
!!!
背中を強打した政樹は、顔を歪めた。 今朝方の勝司との手合わせで、背中を痛めていた。
「政樹……。お前が実行に移さないなら、こっちが仕掛けるぞ」
「!!! 兄貴、それは…」
「…まずは、お前が体を張って守るべき…あのガキからだなぁ」
そう言って、不気味に口元をつり上げる地島に、政樹は思わず、反論してしまう。
「それは、やめてくださいっ! お嬢様に何か遭ったら……」
「何か遭ったら?」
「お嬢様が…哀しんでしまう…」
「…はぁ????」
政樹の妙な言葉に、地島は突拍子もない声を張り上げた。
「お前や阿山じゃないのか?」
「違う……。お嬢様は、自分を守ろうとする相手を守るような
人なんです。…だから、俺が……」
「ガキを狙ったら、政樹が守る。ガキを守る政樹を守る…という事か?」
「はい」
「それなら、作戦通りに行くだろが。ガキが怪我をすれば…」
「俺が……怒りますよ…」
「相手を滅多打ち…ってことか」
「えぇ」
政樹が反抗的な態度を見せる。
「政樹ぃ」
「はい」
「言ってることと、やるべきことと、行動が、バラバラなんだが…。
自覚あるのか?」
「あります」
「やるべきことは?」
「お嬢様を利用して、阿山を陥れる…チャンスなら、命を…」
「それが解ってるのに、実行しないのは、なぜだ?」
「それは、解りません……」
「そのガキを利用したくないだけだろ?」
「………それは…」
「ふっ、まぁいい。お前がそのつもりなら、俺は、俺のやり方に
切り替える。……まぁ、せいぜい、お嬢様を守ってくれよ、
なぁ、政樹」
政樹の肩をポンと叩いて、地島は去っていった。
兄貴……やはり、その考えは…。
政樹は、それ以上、何も言えなくなった。 ふと何かを思い出し、時計を見る。
しまった!
政樹は、真子の下校時刻が近づいている事に気付き、急いで駆けていった。 その様子を、地島と砂山が見つめていた。
「守るなら、車で迎えに行けよなぁ、政樹…」
「…で、地島、今から実行か?」
「えぇ。だからこそ、こいつらを用意したんですよ」
地島が見つめる先には、大柄の男が三人立っていた。
「政樹を程々に倒せる奴らですよ。そうでもしないと、
政樹のこと…あのガキを守るために、敵を倒しますからね。
いくら、喧嘩が嫌いな男を演じていても…」
そして、地島達は、真子の通う学校へと向かっていった。
真子が校舎から出てきた。いつも待ち合わせる場所に歩いていくと、そこには、政樹が立っていた。 額に汗が光っている。
「まさちん!」
「お疲れ様でした! お帰りなさいませ」
真子に呼ばれて、政樹は深々と頭を下げて迎え……。 その途端、脛を蹴られる。
「あっ、すみません…その…つい…」
真子に対する態度は、敬ってはいけない…。つい癖で、敬ってしまう政樹は、毎度毎度、真子から蹴りを入れられていた。
「もぉっ!」
「すみません」
「やっぱり、歩くのは…暑かった?」
「はい?!」
「まさちん、汗を掻いてるから…」
真子は、ポケットから猫柄のハンカチを出して、政樹の汗を拭こうと手を伸ばした。 しかし、政樹は背が高い。真子の手は政樹の額にまでは届かなかった。
「これで、拭いてね」
「これから帰るんですよ。もっと汗を掻きますよ」
「そっか。…それなら、日陰を歩こうね!」
「そうですね」
真子の笑顔に釣られて、政樹も微笑んだ。 しかし、心配な事がある。 ここに来る途中で出逢った、地島の事。 長年、地島の側に居た政樹だからこそ、地島の行動は読める。 この帰りに、何かを用意してるかもしれない。 そう考えていた。 真子と並んで校門を出る政樹。 その政樹の手を真子が掴んできた。
「あのね、あのね!」
真子が、学校のことを語り出した。 政樹は、上の空で聞いている。 何処かに、身を潜めているかもしれない。本部までの道のりは、地島も知っている。
その途中で…。
そう考える政樹は、真子が力強く握りしめてきた事で、我に返った。 真子に目をやると、真子が何かを見つめて怯えていた。
「お嬢様?」
真子が見つめる先に目をやると、そこには、大柄の男が三人立っていた。
まさか、兄貴が用意した……。
真子が驚いたように顔を上げた。 政樹の心の声が、大きく聞こえていた。
まさちん…どういうこと?
そう尋ねたいが、真子は言えなかった。 政樹の表情が、真子を守ろうとしている。 目の前の男達を睨んでいた。 それは、真子が知っている政樹の表情ではない。
北島……政樹?
真子は、政樹の更に奥に秘めた心の声を聞き取ってしまった。 政樹は真子を抱きかかえた。
「まさちん?!」
「学校まで逃げます!!」
そう言った途端、政樹は踵を返して走り出す。 しかし、その足を鞭のような長いもので取られてしまう。 真子を守るかのように地面に倒れた政樹。 男が放った鞭が、政樹の背中を叩いた。
「うぐっ…」
そこは、打ち身で痛む所。 政樹は思わず呻いてしまった。
「まさちん……。狙いは…私なの…だから…」
「駄目です。…それでも、お嬢様を守るのは…」
「嫌…私を守って…怪我をするのを観たくない!
まさちん、離して!!!」
「離しませんっ!」
「離してよぉ!!!」
「駄目です………」
そう話している間にも、政樹は鞭で叩かれていた。その振動が、政樹の体から、真子に伝っていた。真子は政樹の腕から逃れようと暴れ出す。それでも、政樹の腕は離れなかった。
「少し…目を瞑ってもらえませんか…お嬢様…」
「えっ?」
「奴らを……」
「………まさちん……」
政樹の呟きに、真子は、そっと頷いた。 その途端、政樹は体を捻り、男達から距離を取った。 真子の背を壁にぴったりと付け、座らせる。
「ここから、絶対に動かないでください。そして、目を瞑って…」
真子は、政樹に言われるまま、目を瞑る。 その途端、真子の前から人の気配が消えた。 真子は耳を塞ぐ。しかし、塞いでも聞こえてくる声があった。 一人の声が消えた。 その途端、二人の声が怒りへと変わる。しかし、その二人の声まで消えてしまった。
まさちん……。
真子は耳を塞いでいた手を離した。 何も聞こえてこない。
まさか…まさちん…!!
顔を上げようとした、その時だった。
「お嬢様。帰りましょう」
政樹の声が聞こえた。 真子は、そっと目を開ける。 目の前に、政樹の笑顔があった。
「!!! まさちん!」
真子は思わず、政樹に飛びついた。
「っっと! お嬢様ぁ」
「無事? 怪我…大丈夫?」
「はい。大丈夫です。ですが、私が良いと言うまで、目を開けないで
下さいね」
そう言って、政樹は真子の目を塞ぎながら抱きかかえた。
「まさちん…どうして?」
「何も聞かないでくださいね」
優しく言って、政樹は歩き出す。 その途中、足下に転がる男に蹴りを見舞いながら……。
政樹と真子の姿が、角を曲がった。 その途端、別の角から、地島が姿を現した。
「…ったく……結局は守るんだな…」
そう呟いて、地島は後ろに目をやった。 そこには、大柄の男が三人立っていた。
「俺達だけが狙ってるわけじゃないんだな…地島」
その男達の側に立つ砂山が言った。
「そのようですね」
地島が目をやった場所。そこには、両手両足をへし折られ、顔面から血を流して気を失って地面に横たわる大柄の男達の姿があった。地島が用意した男とよく似た格好。しかし、その姿は、鼻が高く、金髪だった。
「一体、どこの連中に狙われてるんだ?」
砂山が呟いた。
本部に近づいた所で、政樹は、真子の目から手を離す。 手のひらに、水を感じていた。
「お嬢様、泣きやんでください。私が慶造さんに怒られます」
「だって……心配……だったんだも……ん」
「あれから、体を鍛えてますので、ご安心ください」
「でも、急に、あの体格の人を相手にするのは…」
「今の稽古では、山中さんを相手にしてますよ?」
「…そ…そうなの????」
真子は、驚いたような表情で首を傾げながら、尋ねてしまう。
「えぇ」
ちょっぴり得意気に、政樹は返事をした。
「でも……明日から…車に…する…」
「そうですね」
「あっ、でも、車の時の襲われたら、逃げられないよね…。
やっぱり、歩く…」
「それは、駄目です」
「…今日のこと…お父様に報告するの?」
「はい」
「怒られる……」
「大丈夫ですよ。ちゃんと言葉通りに行動しましたから」
「でも……」
真子の心配する表情を気にしながら、政樹は本部の門をくぐっていく。
まさちん……。
真子を部屋に連れて行った後、この日の世話をし、夜、慶造の部屋へと向かっていった。
真子は、悩んでいた。 この日に聞こえた政樹の心の声。
兄貴が用意した連中じゃない。
また、他の組織が狙ったのか…。
この状況を兄貴に言うべきか?
しかし、お嬢様を使って、阿山慶造の命を…。
真子は耳を塞いだ。
「…こんなの……嫌だ……」
震える声で、真子が呟いた。
慶造は、政樹を見つめていた。 政樹は、慶造に深々と頭を下げている。
「頭、あげろ」
政樹は首を横に振る。
「真子は無事だったんだろが」
「はい。しかし、地島の兄貴の姿を観るまで、相手の正体に
気付きませんでした」
「まだ、残党が居るだけだろ。…しかし、お前らの作戦を
俺に打ち明けて…北島ぁ〜、どういうつもりだ?」
「お嬢様の……涙を観たくないだけです」
「真子の涙?」
「はい。もう……お嬢様の涙を観たくありません。だから…」
「北島ぁ」
「はっ」
「俺を直接狙うのは、構わないと言ってるだろが。…何度言えば解る?」
「兄貴に…伝えそびれてます」
「直ぐに伝えておけ。…真子を使うな…と」
「なぜ、そこまで……」
政樹が言うと、慶造は煙草に火を付けて、ゆっくりと煙を吐き出した。そして、
「俺以上に、厄介な男が居るんだよ。だからだ」
「……真北…という人ですか?」
「その通り」
「今は、海外で行動をしているそうですね。…一年以上掛かるとか…」
「そうだったんだが、向こうの行動がこっちに影響してることに
真北が気付いてしまったんだよ。それで、帰国が近い」
「えっ?」
「まぁ、その事は、真子には内緒なんだがなぁ」
「お嬢様はお待ちなのでしょう?」
「まぁなぁ。だが、真北のことだ。急に変更する可能性もあるからなぁ。
真子をぬか喜びさせたくないんだよ。…びっくりさせてやりたくてな」
「そうですか。それなら、私も口にはしません」
「そうしてくれ」
慶造は、煙草をもみ消した。
「だから、顔を上げろって」
政樹は顔を上げた。
「……体は大丈夫なのか?」
「これくらいは、平気です」
「しかし、その敵の素性を調べずに戻ってくるとはなぁ」
「失態です…。申し訳御座いませんでした」
「まぁ、お前が述べた特徴で、大体の察しは付いたから、
あとは、こっちが行動するのみだ」
「組長…」
「……あん? …みなまで言うな」
「すみません…」
「真子の就寝時間だろ、早く行け」
「はっ。失礼しました」
慶造に促され、政樹は部屋を出て行った。
真子は、少し寂しげな表情をして、くつろぎの場所に居た。 ふと、ため息を付く。
どうしよう……。
真子は悩んでいた。 以前から、政樹が慶造に対して何かを企んでいることは解っていた。そして、先日、政樹の正体が解った。そして、何を企んでいるのかも。 しかし、それを慶造に打ち明けるのは、もしかすると、政樹の身が危ないかもしれない。それと同時に、真子の前から去っていく事も考えられる。
それは、嫌。
政樹が、どれだけ自分のことを考えているのかは、解っている。 そして、守ってくれる事も。 もう一つ、真子は悩んでいた。 政樹は、その企みに対して、嫌悪感を抱いている。 すぐに実行することは出来たはず。 なのに、それをしないのは、恐らく、したくないという想いがあるからだろう。
そう言えば、ドライブ先で見かけた人物に記憶があった。 政樹がお世話係として、真子を学校まで見送った日、そして、先日の遊園地で、パレードの時。政樹とさりげなく話し込んでいた様子を覚えていた。
再び、ため息を付く真子。
「お嬢様、そろそろ部屋に戻らないと、体調に悪いですよ」
政樹が、そっと声を掛けてきた。
「…まさちん…」
政樹を呼ぶ声が、震えていた。それには、政樹が焦り出す。
「す、すみません!! お嬢様! お嬢様の時間を…」
「違うの……その…」
何か言いにくそうに、真子は口を噤んだ。 政樹は、真子の目線より下にしゃがみ込み、優しい眼差しで、真子を見上げた。
「悩み事なら、お聞き致しますよ。仰ってください」
「………まさちん…」
言えないよ…まさちんのことだから…。 どうしよう…。
真子は、何を言えば良いのか解らず、口を一文字にしてしまった。
「お嬢様。…私にも相談してください。お嬢様のお役に
立ちたいんです。お嬢様の涙を少しでも減らしたい…。
だから、私にも…」
「…まさちん。…ありがとう。…大丈夫だから」
真子は、にっこりと笑って、そう言った。
「それなら安心です。…でも…」
「でも?」
「本当に悩み事があるときは、相談してくださいね」
「うん!」
「そうだ。お嬢様」
「はい」
「新たな映画が放映されてるんですが、どうですか?」
「楽しいの?」
「えぇ」
「こないだ、まさちんが観に行った作品?」
「はい。お嬢様にお奨め出来る楽しい作品でしたよ」
「それなら、行く!!」
真子の眼差しが輝いた。それに釣られるかのように、政樹の笑顔を見せる。
「あっ…でも……。お父様の許可…」
「それなら、ちゃぁんといただいておりますよ」
拳と蹴りも…ありましたけどねぇ。
政樹の笑顔の下には、その言葉も隠されている。 政樹の心の声は、真子には聞こえていなかった。 映画を観に行く。その事が、真子の能力を抑えていた。
そして、真子と政樹は、映画館に向かって出掛けていった。
慶造の部屋。 組員が、真子と政樹が出掛けた事を伝えに来る。
「解った。ありがとう」
「失礼しました」
組員が去っていく。 慶造の部屋には、またしても、修司の姿があった。
「…ったく、素直に、許可する…って言えないんか?」
修司が呆れたように言った。 政樹が、真子を映画に誘うと許可をもらいに来たとき、許可する前に、拳と蹴りを見舞っていた。 実は、反対だった。 政樹が打ち明けた、砂山組の企みを知ってからは、真子と政樹が出掛けるのは危険だと判断した。だが、政樹は、その作戦を実行したくない事を口にした。それでも慶造は信じない。
お嬢様を映画に…。 駄目だっ! お願いします。 許可しない。
そんなやり取りをしているうち、慶造は、怒り任せに政樹へ拳と蹴りを見舞う。 なのに、倒れる素振りを見せず、耐えていた。 その仕草に、政樹の言葉を信じる事にした慶造は、許可した。 そして、今…。
「修司だって知ってるだろが」
「北島は、実行しないと言ったんだろ?」
「それは、北島の思いだ。しかし、その北島が仕えてるのは誰だ?」
「砂山組幹部の地島だな」
「その地島の言葉に逆らうことは、できんだろ」
「だろうな」
「だからだ」
修司は、呆れたように項垂れた。
「…なんだよ、修司」
「まぁ、解るけどな、それでも、ここにいる間は信じてあげろよ」
「信じてる。本部内での話だがな」
慶造の言葉に、修司は何かに気が付いた。
「そっか。そういう事にもなり兼ねんってことか…」
「そうだ。だから、反対なんだよ」
「ったく……」
「まぁ、今回も、桂守さんが付いて下さるから、安心だがな」
そう口にしたとき、ドアがノックされた。 修司は、慌てて奥の部屋に入って身を潜める。
『北野です』
「入れ」
北野が、ドアを開け一礼して入ってきた。
「失礼します」
「…どうした?」
「その……御報告があります」
北野は、深刻な表情をしていた。
「何かあるのか?」
「はっ。その…お嬢様のお世話係の地島政樹の事です」
「地島? 真子と一緒に映画を観に行ってるぞ」
「その地島ですが、砂山組の幹部にそのような名前の者が居ます」
「あぁ、それは知ってるが……あの地島が砂山組の地島だと?」
「いいえ、その…」
慶造は、北野を見つめた。
「北野、砂山組の行動は、逐一監視しておくように栄三に言っている。
地島という男は、砂山組に居るぞ」
「その弟分だと思われます」
気付いたか…。まぁ、あれだな。
慶造は、政樹と話していた事を思い出し、そして、
「その弟分なら、暴れすぎて、刑務所に居るらしいな」
そう応えた。
「その噂…存じませんでした」
まだまだだな、北野は…。
慶造は、ふっと息を吐き、そして、真剣な眼差しで北野に言った。
「何か気になることがあったのか?」
「はい。先日、お嬢様を遊園地に連れていった日に見せた
あの恐ろしいまでのオーラです。そして、その後の、稽古での
仕草。それらを考えて、もしかしたら…と思い、調べました」
「で?」
「砂山組の北島。その男が砂山組から姿を消したのは、
ちょうど、お嬢様のお世話係として来た時期と重なります。
なので、気になりまして…。塀の向こうという噂は
耳にしませんでした」
「そうか。…そこまで調べていたとはな。…しかし、この世界のことだ。
あの地島には気を付けるさ。…北野も、あの地島には、気を付けてくれ」
「しかし、お嬢様から片時も離れません」
「そうだったな。お世話係だから、そうなるのも仕方ないか」
「ですが、あの地島なる男の素性、更に詳しく調べておきます」
「頼むぞ」
「御意」
そう言って北野は、慶造の部屋を出ていった。
ため息を付く慶造。
「やっぱり、真北…お前が居ないと…な…」
慶造は項垂れた。 修司が、奥の部屋から顔を出す。
「いい加減、真北さんに頼るのは、やめておけ。北島の事だって
お前が一人で決めたんだろが。今更、嘆く必要はないだろ!」
「まぁなぁ。…北野達が気付いて、北島に攻撃してみろ」
「そうなりそうだな」
「本部内で暴れて欲しくない」
「…なるほど、そうだな」
「一番、影響するのは…真子だからな…」
「益々、笑顔が減ってしまう」
「あぁ」
二人は、同時にため息を付いた。
「難しい問題だな、慶造」
「……あぁ」
「……お前が持ち込んだんだから、お前が解決しろよ」
「………。…つめたぁ……」
慶造は呟いた。
その頃……。
とある国の空港。 そこに、春樹と隆栄の姿があった。その二人を見送るように、和輝と霧原が立っていた。
「真北さん、隆栄さんのこと、宜しくお願いします」
和輝は深々と頭を下げた。 本来なら、隆栄の側に付くべきなのに、それが出来ない。 なぜなら…、
「お世話になるのは、私の方ですよ、和輝さん」
春樹の代わりをし、春樹を無理矢理帰国させるからである。
「後は、お任せ下さい。お嬢様に影響がないよう、行動します」
自信たっぷりに、和輝が応えると、春樹は苦笑い。
「隆栄さん。絶対に…」
「五月蠅い。聞き飽きた」
どうやら、体に無理するな…という言葉を、和輝は口を開く度に、言っていた様子。
いつもいい加減な隆栄が、真面目に応えていた。それには、春樹も霧原も笑みを浮かべた。
「霧原、これからも宜しくな」
春樹が言うと、霧原は笑顔になった。
「健ちゃんに、宜しく伝えてくださいね」
「あぁ。じゃぁ、またな」
春樹は軽く手を挙げながら、背を向ける。
「例の事、頼んだぞ」
霧原にしか聞こえない声で、隆栄が言うと、霧原は軽く頷いた。 そして、春樹を追うように歩き出す。
二人が乗り込んだ飛行機が、飛び立っていった。
その飛行機を見送る和輝と霧原は、背伸びをする。
「しっかし、大丈夫なのかなぁ、真北さん」
和輝が言った。
「大丈夫だろ。こっちに来たときは…」
と霧原が口にした途端、
「…大変だったらしいぞ…」
和輝が言った。
「…やっぱりな…」
二人が口にした事。 それは……。
「……よく一人で……向かいましたね……」
飛行機の中、隣の座席に座る春樹に、隆栄が呟くように言った。
「う、う、うる……さいっ! 話しかけるなっ!」
春樹の声は上擦っていた。
「大丈夫ですって…この高さから落ちたら…」
「そんな話をするなぁ!」
「ったく…それなら、何も…」
「飛行機の方が早いだろが…船なんか……」
「だったら、眠ってくださいよ。その方が、こっちも…」
「ね、眠れたら、眠ってるわいっ!」
「……ったく……」
高所恐怖症。 それなのに、飛行機での移動。 春樹が高所恐怖症だということを、すっかり忘れていた隆栄は、雲の上を飛んでいる間、ずぅぅぅぅぅっと春樹に気を遣っていた為、日本に着いた時には、
「……一番…疲れた……」
疲れ切っていた…。
(2006.7.18 第八部 第十九話 改訂版2014.12.12 UP)
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