第二部 『三つの世界編』 第十話 すれ違いの代償 「では、行ってきます!」 明るい声が聞こえてくる。出掛ける準備を終え、廊下に出た途端、ばったりと顔を合わせた、ちさとと慶造。 年末年始。世話になる人や親しく付き合う親分達への挨拶回りで、ちさとと一緒に過ごす時間が無いほど忙しい慶造。 ちさとが、猪熊家に出掛ける頃を見計らって、せめて、笑顔だけでも…声だけでも…という気持ちで、廊下で待っているのだが…。 「気を付けてな」 「慶造君、今日は…?」 時間あるの? ちさとの言葉、そして、上目遣いの目に含まれる意味。 「まだ、駄目かもしれない。御免。何か?」 「…ゆっくりしてもらいたくて…」 「いつもありがとう。おっと、早く行かないと、剛一くんたちが待ってるよ」 「そうだね! あっ、忘れてた! 慶造君」 「ん?」 「春子さんと話していたんだけど、お正月…」 「そっか。猪熊んとこは、いつも家で作ってるんだよな、おせち料理」 「だけどね、ほら。料亭で宴会するって話を聞いたから、春子さんに 話してたら、剛一くんたちも宴会に参加したいと言い出しちゃって…」 少し言いにくそうなちさとに気が付いた慶造は、笑顔で応えた。 「笹崎さんに相談してみる? 初めてだから、どんな賑やかさになるか 解らないからさぁ。それに、子供達も楽しめるか解らないし…」 「今、いいの?」 「それは、ちさとちゃんの方だけど…」 「宴会の相談してたって言えば、剛一くんたちも許してくれると思う」 「それなら、良い返事じゃないと駄目だよなぁ〜」 「………そっか」 そんな話をしながら、慶造とちさとは、本部の隣にある高級料亭・笹川に向かって渡り廊下を歩いていった。 高級料亭・笹川 「おはようございます」 慶造とちさとの姿を見た若い料理人が、丁寧に挨拶をする。 「おはよう。笹崎さん、居る? 宴会の話なんだけど…」 慶造が優しく声を掛ける。 「はっ、すぐに」 若い料理人は、奥の部屋へと小走りに向かっていった。 笹崎を待っている間、慶造とちさとは、料亭内の様子を見渡していた。 朝の支度に忙しく動く者、客を迎える為の準備をしている者、それぞれだった。 その者達は、二年前まで、極道の世界で生きていた……。 「おはようございます、四代目。宴会のお話ですか? 準備は…」 「そのさぁ、宴会に子供達って、参加できそう?」 慶造の言葉と、ちさとの恐縮そうな表情で、子供達が誰の事を挿しているのか察する笹崎は、少し考えて応えた。 「参加は可能ですが、集まるのは、強面の者達ですよ? いくら、猪熊さんの 顔で慣れてるからといって、少し無理があると思いますが…」 「どうする、ちさとちゃん」 「剛一くんが納得するかな…」 「女性と子供だけのお部屋を用意致しましょうか? その方が、更に楽しめるかと 思いますが…」 「よろしいんですか? 年始は予約で一杯だとお聞きしたんですけど…」 ちさとが尋ねる。 「えぇ。大広間を一部屋分だけ減らせば、大丈夫ですよ」 「ほんと?」 「はい。では、そのようにご用意させて頂きます、ちさとさん」 「ありがとうございます!」 「ちさとさん、その…やめてください」 「はい?」 笹崎の言葉の意味が解らないのか、ちさとは、首を傾げていた。 「私には、そのような態度を慎むようにと…それに、ちさとさんは、もう…」 「それでも、笹崎さんには…」 「四代目の妻なんですよ? いつまでも、そのような態度では…」 「笹崎ぃ〜、また、それをぉ〜」 慶造の怒りの言葉。 それには、流石の笹崎も恐れてしまうが、慶造の隣でふくれっ面になっているちさとを見ると、笑みを浮かべてしまうのだった。 「慶造君、また、そうやって!!」 「いや、その……」 「いくら何でも、お世話になった笹崎さんには、そのような態度は取れないでしょう!」 「笹崎さんが、言うんだから、いいだろぉ」 「ったくぅ〜もう、知らないっ!」 プイッとそっぽを向くちさとに、慶造は、たじたじ…。 足音が近づいてきた。 「ちさと姐さん、こちらでしたか!!! わっ、すみません、その…!!!」 駆けてきたのは、川原だった。ちさとの側にいる慶造だけでなく、元親分だった笹崎の姿を見て、硬直していた。 「ちさとさん、剛一君のところへ行く時間過ぎてますよ」 「ちゃんと良い返事を持って行くから大丈夫です。では、笹崎さん、 お世話になります!」 ちさとは、深々と頭を下げる。 「こちらこそ、お楽しみ下さいませ。剛一くんにも宜しくお伝え下さい」 「はい! …慶造君、今日も夕方になるんだけど…やっぱり遅くなるの?」 「大晦日まで掛かると思う。ごめん」 「決して、無理しないでね」 「あ、あぁ。気を付けて」 「行ってきます!」 ちさとは、かわいらしく手を振り、川原は、深々と頭を下げて、料亭を後にする。 残された慶造と笹崎は、同時にため息を付いた。 「慶造さん、本当に態度を改めて下さい」 「そう言われても、やっぱり難しいですよ。笹崎さんを呼び捨てるなんて…」 「先ほどは、良い雰囲気でしたよ」 「だからぁ、何度も申してるように、笹崎さんは、もう極道とは関係ないから、 そう呼ばなくても良いと思うんだけど、駄目かなぁ」 「ったく、慶造さんには、負けます」 優しく微笑む笹崎だった。 「月日の流れるのも早いですね。あれから二年。この料亭も、やっとこさ 軌道に乗り始めました」 「その記念として、宴会って、笹崎さんも無茶を言うんだから…」 「それより」 「はい?」 「いつになったら、お二人とも呼び方を変えるんですか? ご夫婦になられて 三ヶ月経ちますよ」 「まだ三ヶ月だって。いいだろが、どんな呼び方でも。笹崎さんだって…」 「喜栄、あなたの仲ですよ、慶造親分」 二人の会話に割り込むように、笹崎の妻・料亭の女将も兼ねている喜栄がやって来た。 「おはようございます。お忙しい時間にすみません」 慶造が丁寧に言う。 「……やっぱり、私にとっては、いつまでも子供に見えますよ、あなた」 「ん? そうか? 立派な四代目だと思うけどなぁ」 「って、お二人で、何の話ですか!!」 「慶造親分の四代目としての貫禄ですよ。なんやかんやと四代目を継いで もうすぐ五年になろうとしてるでしょう? それで、毎晩その話になって…」 「……喜栄さん、私の話じゃなくて、他の話があるでしょう?」 「ないもん」 あっけらかんと言う喜栄に、慶造は項垂れた。 「駄目だ…やっぱり、喜栄さんには敵わないぃ〜」 「喜栄の方が、貫禄っ……うぐっ……」 「じゃぁ、私は準備があるから。今日も忘年会で忙しくなりますよ!! 慶造親分も、ご無理なさらずにぃ〜」 「いつもありがとうございます」 喜栄は、その場を去っていった。 「大丈夫ですか?」 笹崎は腹部を抑えて前のめりになっていた。喜栄から強烈な拳を頂いた様子…。 「こんな夫婦には、ならないように…気を付けて下さいね」 「は、はぁ……」 再び足音が近づいてきた。 「おっはよぉ〜ん!!」 朝から気の抜けるような感じで声を掛けてきたのは…。 「小島さん、今日は早いですね」 力が抜けたように項垂れる慶造に変わって返事をする笹崎。 「そうですか?」 益々、いい加減さに磨きが掛かってますが…。 ほっといたほうがいい。 笹崎と慶造は、隆栄に聞こえないくらい小さな声で話していた。 「四代目、宴会の話ですか?」 「あぁ。…あっ、そうだ。美穂ちゃん、時間あるんか?」 「…時間はあるけど、体力がなぁ〜」 「まだ、駄目なのか?」 「まさか、そこまで弱るとはなぁ」 「栄三くん、面倒見がいいようですね、小島さん」 「あぁ。助かるよ。これも、ちさと姐さんのお陰……って、今日もか?」 「そうだよ」 「ったくぅ〜。いつまで続けるつもりなんだよ」 「剛一くんに泣かれたくないらしいよ」 「猪熊よりも懐いてるもんなぁ〜。猪熊、最近嘆くこと多いけど、 やっぱり、それが原因なんか?」 「さぁな、俺には嘆かないけど…」 「四代目、食事は、まだですか?」 笹崎が、突然、尋ねた。 「まだ」 「それなら、用意致しますよ」 「ん?」 短く言って隆栄を指さす慶造。 「かしこまりました」 「やった、ラッキー」 なぜか喜ぶ隆栄だった。 そして、慶造、笹崎、隆栄の三人は、料亭の奥の部屋へと向かって歩いていく。 「で、小島、用事か?」 「その通り。急に連絡入ってな、今日、三軒追加」 「時間調整してくれよ」 「まっかせなさぁい」 猪熊家。 ちさとが、やって来た。 「おはようございます」 その声と同時に、部屋の奥から足音が近づいて来る。剛一、武史、修三が駆けてくる。 「ちさとねぇちゃん!! おはようございまぁす!」 「おはよう」 「川原兄ちゃん、おはようございます!」 「おはよう。では、ちさとさん、私は…」 「帰っちゃうの?」 寂しそうな声で言う武史。 「あっ、いや……その…」 なぜか焦る川原。 「今日もご一緒なさったら、どうですか? 武史くん、川原さんの事が 好きみたいだから」 「いや、その…」 「俺から、言っておくから、今日も頼んだよ」 修司が顔を出す。 「猪熊さん…おはようございます」 「おはようございます、ちさとさん。今日も宜しくお願いします」 「また、そのような言葉で……」 「四代目に怒られるは、私ですから。川原、それでいいよな」 「はい。お言葉に甘えます」 「じゃぁ、行ってくるよ」 「行ってらっしゃいませ」 剛一たちは、修司を丁寧に見送った。 「……すっかり雰囲気変わっちゃった…」 剛一の後ろ姿を見送りながら、ちさとが言った。 「そうですね。でも、そうじゃないと、四代目を守れませんから」 川原が応える。 「なんだか、高校生の頃の姿が嘘みたい」 「先代のボディーガードだった猪熊さんとは違ったオーラですね。 笹崎親分もおっしゃってました。四代目に近づく輩には、容赦ない… そんな雰囲気だと…」 「何も、あのように…」 「私が居たからですよ」 「そうなの?」 「四代目と小島さんが一緒だと、阿山トリオですから」 「それもそうね。…さぁてと、剛一くん、嬉しいお知らせあるんだけどぉ」 ちさとは、かわいらしい笑顔で剛一に話しかけた。剛一たちの目がランランと輝いたのは、言うまでもない。 川原は、剛一と武史の冬休みの宿題を見ている。その傍らで遊ぶ修三、志郎と章吾にも目を配る川原に、優しい眼差しを向けながら、臨月の春子の手伝いをしているちさとだった。 「でも、私は参加できないかもぉ」 春子が言った。 「臨月には、無理なのかな…」 「急に産気づいたら笹崎さんに心配掛けちゃうよぉ」 「そうですね…。美穂さんも未だ、体調が悪いようだし…」 「ちさとちゃんと一緒なら、剛一たちは、喜ぶけどね。だけど、笹崎さんも よく解ったねぇ。流石というか…」 「それには、私も驚いた」 「四代目、今日も遅いの?」 「去年と違って、更に忙しくなってるみたい。付き合いも大変だなぁ。 本当なら、私も一緒に行くべきだと思うんだけど、慶造君が 来なくていいって…」 「そう言うと思うよ。ちさとちゃんには、染まって欲しくないって言ってるから。 なのに、どうして〜」 「まだ、聞くんですかぁ?」 ちょっぴり照れたように言うちさと。 「何度聞いても不思議だもん」 「慶造君が四代目になる前から決めてたことだから…。進学先に 付いていくって…」 「それって、将来、一緒に暮らすつもりだったんだ…」 「うん。どうしてって聞かれると、応えられない…どう話していいのかも 解らないんです。…ただ、こう…引き寄せられるものがあったの…。 だから、慶造君が四代目を継いでも、…私の父や山中さんが亡くなっても 慶造君の側から離れたくなかった…。それに、このままずるずると お世話になってることが嫌だったの」 「だから、二十歳になった途端、その話をしたんだ…」 「それに…」 「初めての人が……」 春子が言い終わる前に、ちさとが照れたように言う。 「もう、言わないでください!!」 そんな仕草が、かわいらしく思う春子だった。 「うおぉ?!!」 春子が声を発する。 「どうしたの?」 驚いたようにちさとが尋ねる。 「また、暴れてる。ったく、この子は、今までの中で一番暴れん坊かな…」 春子は、大きなお腹を見つめ、優しくさすっていた。 「どうだろ…剛一くんには、負けると思うよぉ」 ちさとも同じように春子のお腹をさする。 「そうかなぁ〜。修ちゃんには、似ないで欲しいな…」 「あら、どうしたんですか?」 「う〜ん。最近、冷たいから…」 「そうなんですか? …私から、言っておきます」 「あっ、それは…」 ちさとと春子の居る部屋へやって来る川原、そして、剛一たち。 「おなかすいたぁ」 武史が言った。 ちさとが、台所で昼食の準備をしている。その後ろ姿を見ているのは剛一だった。武史たちは、川原と遊んでいた。 「剛一くんは、一緒に遊ばなくてもいいの?」 「うん。ぼくは、ちさとねぇちゃんと一緒がいいもん」 「ありがとう。もう少し待ってね………」 えっ?! ちさとは、目の前が急に暗くなったことに驚きしゃがみ込む。 「ちさとねぇちゃん!!!!!!!」 剛一の声が遠くに聞こえた……。 川原が駆けつけ、ちさとの側に座り込む。 「姐さん、姐さん!!」 川原の声に反応しないちさと。目を開けているが意識はない様子。ちさとの周りには、剛一たちと春子が心配そうに立っている。 「川原兄ちゃん…」 武史が心配そうに声を掛ける。 「病院に……って、俺、免許持ってないよ…。救急車だと……駄目だ…。 仕方ないっ!!」 意を決して、連絡を入れた先…それは……。 猪熊家の前に車が一台停まった。出先で連絡を受けた笹崎が運転席から飛び降り、猪熊家の玄関を勢い良く、くぐっていった。 「おやっさん!! すんません!!」 「様子は?」 ちさとが倒れた場所に向かいながら、笹崎は川原に尋ねる。 「呼びかけに反応するのですが、朦朧としてます」 「頭は打ってないよな?」 「はい。…四代目には?」 「まだ伝えてない。美穂さんが本部に来ると言ってるから、取り敢えず 本部に戻る。春子さん、剛一君、心配ないからね」 「お願いします」 笹崎は、ちさとを抱きかかえた。 「さ…さざ…きさん?」 「本部に戻ります。…何でしょうか?」 ちさとは、何か言いたげな目をしていた。 「…けい…ぞう……く……」 「解っております」 笹崎は、ちさとの言いたい事が解ったのか、言い終わる前に、優しく応えていた。それに安心したのか、ちさとは、そのまま眠ってしまった………。 阿山組本部・ちさとの部屋。 隆栄の妻・美穂が、ちさとを診察し終え、ちさとの体に、そっと布団を掛けた。 「特にありませんねぇ」 美穂が応える。 「そうですか…。しかし、急に倒れたそうですよ」 「もしかして、心の方かもしれないな…。ちさとちゃん、色々と大変だっただろうし、 何か悩み事があるかもしれない。それも、誰にも言えないような…。 笹崎さん、思い当たること、ありませんか?」 「そうですね…。不思議に思ったのが、慶造さんに付いていくというお話です。 慶造さんが自分のお気持ちを後にしてまで、断り続けたんですが、 それでも、ちさとちゃんは、言い続けてましたからね…」 「それは、隆ちゃんからも聞いてる。慶造くんが、凄く悩んでいたって。だけど、 自分の気持ちを優先しろと、しつこく言ったら、渋々納得したって…。でも、 その後から、慶造君、忙しくなって、ちさとちゃんと中々ゆっくり過ごせない ようだとも言ってたよ。…それが、ちさとちゃんを悩ませてるのかな…」 笹崎は、フッとため息を漏らす。 「尋ねても無理だろうな…」 「私から尋ねましょうか?」 「美穂さん…」 「私、医者だからさぁ。これくらいは、大丈夫だけど…」 「お願いします。慶造さんに知られる前に…」 「解りました」 笹崎は、美穂にちさとの事を任せて部屋を出て行った。 美穂は、眠るちさとをしばらくの間見つめていた。その目線に気が付いたのか、ちさとが目を開ける。 「…あ、あれ? 美穂さん?」 「気分はどう?」 「大丈夫です。……美穂さん、体調が悪いとお聞きしてますよ?」 「今日は元気だからね。ありがとう」 ちさとは体を起こす。 「あっ、剛一君……」 「自宅に居るよ」 「そっか…」 徐々に自分が倒れた時の事を思い出すちさとに、美穂は、優しく尋ねる。 「ちさとちゃん。…何か悩み事あるでしょ?」 「えっ?」 「それ程、悪いところは見あたらないのに、急に倒れたのには、 何か訳があるのかなぁ〜と思ってね。やっぱり、慶造君が…」 「慶造君は関係ありません!」 火がついたように否定するちさと。美穂は冷静に質問していく。 「…慶造君に言えなくても、私には教えて欲しいな…。ちさとちゃんの ここに秘めていること」 美穂は、ちさとの胸を指さした。その途端、ちさとの目から、溢れるように涙が流れてきた。 阿山組本部の玄関に高級車が停まった。若い衆たちが出迎える……。 「お疲れさ……」 声を揃えて深々と頭を下げると同時に、後部座席のドアが開き、慶造が怒鳴りながら降りてきた。 「もう、何も言うなっ!! 兎に角、俺は反対だっ!」 そう言って、勢い良くドアを閉め、玄関に向かって歩き出す。すぐに後部座席のドアが開き、修司が怒りを抑えるような雰囲気で降り、慶造を追いかけていく。 「四代目!」 「うるさいっ!」 慶造の姿は奥へと消えていく。 「話を聞いてください!!」 修司は追いかけていく。 唖然とする若い衆。車の助手席のドアが開き、隆栄がのんびりと降りてきた。 「お疲れ様でした」 「はいよ。……ん? 美穂ちゃん、来てる?」 愛しの妻の雰囲気を肌で感じたのか、隆栄が若い衆に尋ねた。 「あっ、その……」 笹崎に、ちさとのことを口止めされている為、それ以上応えられない若い衆だった。 「新年会は明日なのになぁ〜」 何か勘違いしている隆栄は、玄関に入り、靴を脱ぐ。 「四代目と猪熊さん、何か遭ったんですか?」 隆栄の下で働く若い衆・岩沙洋行(いわさひろゆき)は、靴を整えながら、隆栄に尋ねた。 「ん、まぁな」 「組の存続に関わることでしょうか…」 「組よりも、阿山家と猪熊家の問題だな」 隆栄の答えで、慶造と修司が何に対して言い争っているのかが解る岩沙は、静かに言う。 「やはり、四代目は反対なんですね?」 「まぁな。いくら、ちさとちゃんと夫婦になったからって、猪熊が、あそこまで 態度を改めると、それまで築き上げてきた信頼関係も崩れるっつーこった」 「…小島さぁ〜ん、お願いしますよぉ。あのまま…荒れたままでしたら、それこそ…」 「解ってるって。お前らの訓練まで影響するもんなぁ〜。学生の頃なら、 猪熊の奴、四代目に手を挙げてたのに、今は違うもんなぁ〜。 抑えてる分、周りにきつくなるもんな。…俺に向ける拳も段々と強く…。 …って、のんびりしてる暇ないな…。美穂は何しに来たんだ?」 「はっ、その…実は…」 岩沙は、隆栄に、美穂が来た訳を、こっそりと話していた。 回廊をズカズカと歩く慶造に追いついた修司は、慶造の肩を掴んで歩みを停めた。 「待てって」 「うるさい。何度も言わせるなっ!」 「お前が嫌だと言っても、俺の家系は許されないことだ」 「それを辞めるようにと…俺は、あの時言ったよな? 子供達に、お前と同じ思いをさせるなと」 「あぁ。だからって、お前な、ちさとちゃんと夫婦になった途端、 逢う時間を削るほど、スケジュールを詰めることないだろがっ! それが、俺や剛一たちの為だということが、俺には腹立たしいんだよ!」 そう言って、修司は慶造を壁に押しやった。背中からぶつかる慶造。その痛さで顔が少し歪んだ。 「す、すまん…」 修司は、直ぐに謝った。 「俺たちの事は気にするな。慶造、お前の好きなように生きてくれよ。 お前の思うとおりに…。俺は、それに付いていくだけだ」 「それなら、お前の考え…捨ててくれよ、修司…」 「お前が、俺を修司と呼ばなくなるまで、捨てない」 「それじゃぁ…無理だな。俺が、お前を親友として扱わなくなれば、 それこそ、猪熊家の思いを貫こうとするだろうがっ」 「そぉんなに気になるんだったら、いっそのこと、四代目として命令しろよ」 「小島…」 二人の言い合いを阻止するように、隆栄が言った。 「猪熊、四代目の気持ち、知ってるだろが。それでもそうするつもりなのか?」 「あぁ。いずれは、必要な事だろ?」 「そうだろうなぁ。でもな、四代目は、その気…ないんだぞ。それが、どれだけ ちさとちゃんを苦しめてるか…」 「…小島、どういうことだよ…俺が、ちさとちゃんを苦しめてるだと?」 「ちさとちゃん、倒れたらしいよ。美穂が診察したらしいけどな…」 「倒れたって…」 隆栄の言葉に慶造は、今まで修司と争っていた事を忘れたかのように、焦った表情に変わった。 「今は落ち着いて眠ってるってさ。…体調じゃなくて、心の病」 「心? …いつも笑顔見せて、明るいのに…あの表情は嘘だったのか?」 「ちゃうちゃう。それは、阿山、お前が原因」 「俺?」 「ちさとちゃんな、夫婦になった途端、以前よりも自分を避ける阿山が 心配なんだとさ。夫婦になっては駄目だったのかと、ここんとこ ずぅぅぅぅっと悩んでいたらしいよ。誰にも相談出来ないから、色々と 考え込んで、それがたたって、急に倒れたってさ……って!!!」 隆栄の言葉を聞き終わる前に、慶造はちさとの部屋に向かって歩いていった。 「今は眠ってるって言ったのになぁ」 隆栄は、ぽりぽりと頭を掻いていた。 「小島ぁ、本当の事か?」 「まぁな」 「ちさとちゃんの側に居たら、抱きたくなる…まぁ、男の気持ちだよな。 そうなると、子供が出来た時を考えると、側に居るのが…って、 どう考えても、俺のことしか見えてないよな…」 「それもあるだろうけどさ、ちさとちゃんの哀しむ顔を見たくないんだろうよ」 「子供出来て、嬉しい事なのに、哀しむのか? …ちさとちゃん、子供が 嫌いって雰囲気無いぞ…。剛一があれだけ懐いてるんだぞ?」 「阿山組は、今や巨大化してるだろ」 「まぁな。慶造の思いを達成するには、必要だからな。関西に向けて…」 「そこで考えてみろ。この世界じゃ、命を奪うのが当たり前だ。それが、 血族だと尚更だろ」 「そうだよな。かつては、そういう連中が多かったよな。それを慶造が納めてきた」 「それは、関東の辺りだけで、西の方は、どうか解らんだろ?」 「………まさか、慶造…」 「そう。それが一番、そして、剛一君達のことを考えるのが二番。まぁ、どっちも ひっくるめてしまったんだろうなぁ。…ったく、阿山も自分の心に秘めて どうにもならんから、当たり散ら……」 そこまで言った隆栄は、突然腹部を抑えて座り込んだ。 「って、阿山っ! お前なぁ〜…って、どうした?」 慶造を見上げる隆栄は、慶造の頬に付いている、真っ赤な紅葉に気が付いた。握りしめる慶造の拳は震えている。 「っと、ストップっ!!」 慶造が拳を振り上げる前に、修司が止めた。 「うっわぁ〜、美穂に、ぶん殴られたか…」 隆栄の言葉に、慶造のこめかみがピクピク……。 「知るかっ! そんなもん、阿山とちさとちゃんの二人で話し合えよ」 「…小島ぁ〜。その言い方は無いだろが…」 なぜか、修司が怒っている…。 「猪熊ぁ、これは、二人の問題だろ。いくら親友でも、これだけは、 首を突っ込めないだろが。夫婦げんかは犬も食わんってな…」 「夫婦喧嘩じゃないっ!!」 慶造の拳が飛ぶ前に、修司の拳が隆栄の頬に飛んでいた…。それが、隆栄の何かに火を付けたのか、隆栄は、振り向き様に、修司の頬を手の甲で引っぱたいた。 「〜〜っ……!!」 修司と隆栄は、お互いの胸ぐらを掴み上げる。 「…てめぇら、いい加減にせぇや…」 ボカッ、ガツッ……。 「…!!!!!」 「!!!!! 阿山っ!」 修司と隆栄は、自分の頭を抑えて座り込んでいた。 「…小島から、言ってくれよ…。美穂ちゃん、怒っていてな、ちさとちゃんに 逢わせてくれないんだよ…。話し合いたくても、無理だろ?」 「知らん」 「知らんって、お前なぁ〜」 「美穂が怒ったら、俺でも無理だって。美穂がおれるまで、頑張ってくれよ」 自分の頭をさすりながら立ち上がる隆栄。 「あのなぁ、たんこぶ出来るほど、強く殴るなっ。脳細胞が死ぬ」 「元々無いから、心配する事ないだろが」 「阿山ぁ〜〜」 「暫く、一人になる。誰も来るなっ」 そう言って踵を返した慶造の背中に向かって修司が声を掛ける。 「本部から出るなよ」 「…解ってる」 慶造は、回廊が囲む庭に出て、桜の木の側に立った。寂しげな雰囲気を醸し出す慶造を見つめる修司と隆栄。 「…なぁ、猪熊」 「ん?」 「その結果が、そうでも、そうでなくても、お前はお前の意志を貫くつもりだろ?」 「まぁな。慶造の怒りに、死ぬまで触れていても、俺の意志は変わらないからな。 お袋に…親父に誓ったから…。慶造を…阿山家を守っていく……それが… 俺の育った家系だ」 「剛一君には、どう伝えるんだよ」 「もう伝えてる」 「それで、ちさとちゃんから、離れようとしないんだな」 「それは、剛一の意志だよ。ちさとちゃんが好きなのは、本当だからさ」 「阿山に怒られそうだなぁ」 「慶造は、怒らないさ」 ちさとちゃんが離れようとしないからさ…。 「そうだな…。……っと、美穂に診てもらおうっと、でかいぞ、これ…」 「俺はいい。慶造を見てないと、あいつ、何をするか解らんからな」 「はいよ。じゃぁなぁ」 軽く返事をして、隆栄は、美穂の所へ向かって歩いていった。 ちさとの部屋の前に、美穂が立っていた。 「隆ちゃぁん、お疲れぇ。慶造君、機嫌悪いでしょ?」 「まぁな。阿山家と猪熊家の問題でな」 「……笹崎さんのおっしゃる通りなんだ…ちさとちゃんを避けてた理由」 「ということは…」 「ちさとちゃん、慶造君の気持ちを知ったから、落ち着いて眠ったんだけど、 私の気が治まらなくて、思わず………ね」 美穂は、平手で空を切って見せた。 「慶造にはするなよ。後で俺が迷惑だ」 隆栄は、頭のこぶを美穂に見せた。 「うわぁ〜今まで診た中で一番でっかぁい」 「だろぉ……いてっ!」 「またまたぁ、痛がってぇ〜」 「やめれぇ〜美穂ぉっ!! こらぁ〜っ!!!」 隆栄の痛がる仕草がおもしろいのか、美穂は、こぶを診ずに、触りまくっていた。 隆栄と美穂の二人だけの世界が醸し出す雰囲気は、ドアの向こうに居るちさとに伝わっていた。 いいなぁ……。 ちさとは、そっと布団を引っ被った。 (2004.2.28 第二部 第十話 UP) Next story (第二部 第十一話) |