第二部 『三つの世界編』 第十四話 心和む時間 新たな気持ちと共に、真北春樹は、新たな進路へと向かっていく。 特に変わった感じはないが、大学生になった春樹は、気持ちを新たに身につけた服を整える。 「よしっ! …芯〜、着替え終わったかぁ?」 隣の部屋を覗き込む。 「はい! おはようございます、おにいちゃん」 「おはよう、芯。今日も一緒に行こうな」 「はい!」 元気よく返事をした芯は、この春から幼稚園に通っていた。真新しい制服に慣れない感じで肩から掛けている幼稚園かばん。芯は、春樹の手を握りしめる。 「おにいちゃんは、きょう、おそいの?」 「う〜ん、早く帰って来て欲しい?」 「うん…だって、ママ…」 「そうだな。じゃぁ、帰りに、ママんとこ寄ろうか。寂しがってるだろうから」 「はい!」 春樹の母・春奈は、父が亡くなった後から、心身共に弱っていた。春樹の入学式と芯の入園式に出席した三日後、過労で倒れて、今、入院しているのだった。家計的には苦しい事は無いが、自分の力で生活をしたい春樹は、家庭教師というバイトを始めていた。教える相手は中学生。それも有名私立に通う生徒ばかり。 金になるから…。 春樹は、芯と一緒に出掛けていった。 「きょうね、おえかきするの」 「お絵かき?」 「おともだちのかお」 「むずかしそうだなぁ。お友達は、誰?」 「わたるくん」 「内海航(うつみわたる)くん?」 「うん。わたるくんね、いつもたすけてくれるんだ」 「ちゃんとお礼言ってるか?」 「いってるもん」 「喧嘩ばかりするなよぉ。俺が困るからぁ」 「しんは、なにもしてないもん。みんながするんだもん」 今にも泣きそうな芯を春樹は抱き上げる。 「御免、御免。お兄ちゃん言い過ぎたな。泣くなって」 「だって…だって……」 「芯は悪くないから。みんなと仲良くしろよぉ。…ほら、航くんだよ」 春樹が指さす所に、芯の幼稚園の友達の航くんが手を振っていた。 「しんくぅん!!」 名前を呼ばれて、芯は急に泣きやみ振り返る。 「わたるくん!」 元気に名前を呼び、春樹の腕から離れていった。春樹は、航の母に一礼する。 「おにいちゃん、いってらっしゃい!」 「迎えに行くまで、じっとしてるんだぞ!!」 「はぁい」 航と芯が歩いていく姿が見えなくなるまで見送る春樹は、駅へ向かって歩き出す。 「……遅刻…する…??」 ふと思ったのか、春樹は走り出した。 猪熊家。 修司と春子が靴を履き、立ち上がった。 「じゃぁ、剛一、よろしくな」 「はい。気を付けて行ってらっしゃいませ」 その時、家の奥から、小さな男の子が走ってきた。 「ママぁ」 「あら、八造、どうしたの?」 「ぼくもいく……」 八男の八造だった。まだ、三歳の八造は、母の側から離れようとしない甘えん坊だった。春子は、八造を抱きかかえる。 「修ちゃん」 連れて行こうよ。 春子の目は、そう訴えていた。修司は、少し困ったような表情をする。 「解ってるわよぉ。今日は、慶造君が用意してくれた大切な日だって。 剛一達だって、お留守番を承知してくれたから、二人っきりで…って」 「そうだけどなぁ」 修司は、春子にしがみついている八造を見つめる。八造は、春子の胸に顔を埋めた。 「…ったく…」 修司は、そう言って、八造の頭を優しく撫でる。 「八造、降りろ」 剛一が八造に言う。八造はふくれっ面になりながらも、春子から手を離した。 「八造、今日は、お父さんとお母さんの二人だけで出掛けるから、 みんなで留守番しようと言ったよな」 八造は頷く。 「だから、笑顔で見送ろうな」 八造は、首を横に振った。 玄関先でのやり取りに、武史たちが駆けつけてくる。 「はちぞぉ、よわむしぃ」 二つ年上の七寛が、ふざけたように言った。 ドカッ!! 「…う、うわぁ〜〜ん、はちぞぉが、なぐったぁ〜」 突然、八造に殴られて、七寛は泣き出した。 「わちゃぁ〜」 兄弟喧嘩が始まりそうな雰囲気に、修司は呆れてしまう。 「七寛ぉ、泣かないの」 春子が、七寛を抱きかかえて、優しく背中をさすりながら声を掛ける。 「八造、喧嘩は駄目だと言ってるでしょう? お兄ちゃんを殴らないの」 「よわむしじゃないもん」 膨れながら八造が言う。 「八造は、強い子だから、ちゃんとお留守番できるよね?」 春子が、優しい笑顔で話しかける。 「できる。ママ、パパ、いってらっしゃいませ」 「気を付けてください」 剛一が、七寛を春子から受け取りながら言う。 「剛一、今日一日ヨロシクね」 「はい」 「行ってくるよ。昼頃に三好が来るはずだから」 「お昼は、私が作ります」 「解ってる。様子を見に来るだけだよ」 「そうですか。解りました。お気を付けて」 剛一は、丁寧に頭を下げて、親を見送った。 玄関のドアが閉まると同時に、八造が奥の部屋へ向かって走り出す。 「八造っ!! …ったく」 「兄ちゃん、いいの?」 六男の正六が言った。 「暫く一人にさせてたらいいよ。いつものことだろ?」 「そうだね。はちぞう、ママが出掛けるときはいつも寂しがるもんね」 「…正六も、あの頃はそうだったぞ」 「えっ?!??」 「誰でもそうだって。母の愛を一番感じたい年頃だからさ」 「お兄ちゃんはどうだったの?」 双子の志郎と章吾が同時に尋ねる。この二人、全ての行動が、ほとんど同時になる様子。 「さぁ、覚えてないけど、そうだったかもしれないな。…さぁてと。 武史、修三、宿題は?」 「まだ」 「すぐする」 武史と修三が応える。 「志郎と章吾、解らないところ、教えるぞ」 「うん」 「同じ所だろ?」 「うん」 「正六、七寛を頼んでいいか? まだ泣いてる」 「いいよ、お兄ちゃん。はちぞうはどうするの?」 「一人で遊んでるだろうから、いいよ。危険な事は絶対にしないしなぁ〜。 お前らと違って、寂しがり屋のところ以外は、手が掛からなくていいよ」 「…兄ちゃん…ひどぉ〜」 武史達は、声を揃えて嘆いていた。 「本当の事だろが。ほら、行くぞ」 「はい」 剛一達は、ぞろぞろと歩いて奥の部屋へと向かっていった。 修司運転の車が、走っていた。 「八造、大丈夫かなぁ」 助手席の春子が呟いた。 「ったく、春ちゃん、あまり八造ばかり構ってたら、七寛が益々 拗ねるだろうが。あの二人は、何かある事に喧嘩するだろうが」 「七寛が焼き餅やいてるんだもんなぁ。七寛も甘えん坊だから」 「八造ほどじゃないだろが。…それにしても八造の手の早さは、 あれは、子供の手を出す…じゃないよな…」 「そうなの?」 「まぁな。……それにしても、大丈夫なのかな…慶造は…」 「今日一日家に居るって、言ってたから安心でしょ?」 「…じっとしていたらの話だな…」 「………。そうね…。ちさとちゃんと慶人くんが離さないでしょ」 「たまには、親子水入らずで過ごしておけって」 「そうだね! じゃぁ、今日は二人で……」 「…改めて、そうなると、照れるもんだな…」 「あら、照れてるの?」 「ん? ま、まぁな」 「珍しいぃ〜」 「剛一たちが生まれてから、ずっと動き回って、二人だけの時間が 少なかったもんな。…今日は、目一杯楽しむよ」 「私もぉ〜!!」 修司の車は、一体、どこに向かっているのか……。 剛一は、弟たちの宿題や勉強をみていた。解らないところを優しく教える剛一。ふと顔を上げて、部屋を出て行った。 「…八造が心配なんだなぁ、兄ちゃんは」 「そりゃぁ、一人で何をするか解らないからさ」 「兄ちゃんじゃないけど、あまり手は掛からないけどさぁ」 武史と修三が話していた。 剛一は、八造の居る部屋へとやって来る。そこは、父と母の部屋だった。 「八造」 呼ばれて振り返る八造は、目を潤ませていた。 「…ちゃんと夕方には帰ってくるって。泣くなよ」 「にいちゃぁ…」 「兄ちゃんが遊んでやるから。何がしたい?」 剛一が優しく尋ねる。 「とくみあい」 「……と…取っ組み合い…? …またぁ〜?」 「うん!」 『とくみあい』とは、取っ組み合いのことで、剛一が修司に付けてもらっている稽古のこと。柔道や空手など、格闘技関係の稽古。母の春子と道場に足を運んでいた時に、目にして気に入ったらしい。 「たけしにいちゃんたちは?」 「勉強してるから、駄目」 「まさにぃとななろくは?」 「二人は、好きじゃないから、しないよ。行くよ」 「うん」 八造の目がランランと輝いたのは言うまでもない……。 小島家。 庭に二人の子供が居た。大きい子が小さな子を抱きかかえ走り回っている。 「ジェットコースターぁ〜っ!!!!」 そう言いながら、大きい子は、小さな子をぶんぶんと振り回している。 「兄ちゃん、兄ちゃん!!」 「ん? なんだよ、健」 呼ばれて行動を止め、小さな子・健を地面に降ろしたのは、兄の栄三だった。 「家に入る」 「えぇ〜、さっき出てきたばっかりだろうが。何するんだよ」 「桂守と遊ぶ」 「……健、桂守さんは、仕事だから、駄目だって」 「じゃぁ、和輝さん」 「駄目」 「恵悟さん」 「駄目」 「光治くん」 「帰ってくるのは、来週」 「吉川さん…」 「…も、来週に帰ってくる」 「……霧原……」 「……どうだろ…聞いてみようか。確か、今日の食事担当…」 「うん!」 そう言って、小島兄弟は、家へと入っていった。 キッチンでは、小島家の地下で働く霧原が昼食の用意を始めていた。 「あれ、もう戻られたんですか? 栄三ちゃん」 「健が遊ぼうって言ってるけど、霧原さん、時間あるの?」 「私の仕事は本日お休みですから、時間はたっぷりありますよ」 「ほんと? じゃぁ、遊ぼう!!」 健は、嬉しそうに言う。 「あっ、でも…お昼の用意…」 「僕がしますよ」 栄三が言った。 「栄三ちゃん〜、そうやって、健ちゃんを押しつけるんですかぁ?」 「健と遊ぶの、疲れるもん」 「健ちゃん、疲れ知らずだからなぁ〜」 ちょっぴり困ったような表情で健を見つめる霧原。健は、期待の眼を向けていた。 「しゃぁないかぁ。健ちゃん、地下に行く?」 「うん!」 「…って、霧原さん、よろしいんですか?」 「大丈夫っしょ。桂守さん、心が広いですから。それに健ちゃんのことも すごく好きですからね」 「じゃぁ、僕は、昼食作ってますから。お願いします。健、散らかすなよ」 「はぁい。霧原、行こう!」 「はい」 霧原は、健を抱きかかえて、秘密扉へと向かい、地下へと降りていった。 「しっかし、なんで、霧原さんだけ、呼び捨てなんだろな…」 健の言葉遣いを気にしながら、栄三は桂守たちの昼食を作り始めた。 地下へ降りてきた健は、桂守達がくつろぐ場所へ向かって走り出す。ソファに桂守が座って、くつろいでいた。 「桂守さぁん」 「ん? …おっ、健ちゃん。どうした? 栄三ちゃんに突き放されたか?」 「兄ちゃんの遊び、こわいもん…」 「そうだよなぁ、栄三ちゃん、あぁ見えても怪力だもんな。 で、…ジェットコースターか?」 「…うん」 「………霧原、お前が悪い」 「どうしてですかぁ〜」 「お前が、栄三ちゃんに、教えたんだろうが。遊園地に行けない代わりと言って 滅茶苦茶なジェットコースターを体でやるから」 「えっ? 楽しくないんですか? 栄三ちゃん、喜んでましたよ」 驚いたように尋ねる霧原。 「栄三ちゃんは、こわい物知らずだからって、隆栄さん言ってただろうが」 「はぁ…健ちゃんは?」 「怖がってる」 桂守の言葉に、霧原は何かに気が付いた。 「あっ、それで、俺だけ呼び捨てですか?」 納得する霧原に、健は微笑んでいた。 少しして、栄三が昼食を持ってやって来た。 ガツッ!!! 「…って、霧原ぁ、お前なぁ、栄三ちゃんに作らせるなっ!!」 「いやぁ、その…俺が作ると言ったんで…」 「………健ちゃんを押しつけたな?」 「さぁ…。…どうぞ」 「流石、違うなぁ、栄三ちゃんが作ると。おぉい、お前ら、昼飯っ」 『はぁい』 奥にある資料室から声がして、和輝達が出てくる。 「栄三ちゃんのご飯ですか?」 和輝が尋ねる。 「はい」 「こりゃぁ、徹夜しないと駄目だなぁ」 恵悟が言った。 「あっ、いや、そういう訳じゃないんですが…」 「では、いただきます! 健ちゃん、こっち」 和輝が言うと、健は近づいていく。 「和輝さん、あそぼ」 「ご飯の後な」 「うん」 「…何して遊ぶ?」 「ゲーム。新しいのん作った?」 「作ってるよぉ。じゃぁ、やろうか」 「和輝、お前、仕事は?」 「だからぁ、徹夜しますから」 「もう三日も徹夜してるだろうが」 「いや、それは、隆栄さんが張り切るから…」 「すみません…親父…やり出すと停まらないんで…」 「私たちの仕事をほとんど取られるんですから。今も…」 「そうですね。関西の情報を調べに同行するって…。まぁ、向こうで 暮らし始めた松本さんの事も頼まれたみたいですから」 「いよいよ関西進出ですか…」 桂守が心配そうな口調で言う。 「心配なんですか?」 「まぁ…ね。向こうは一筋縄ではいかないでしょうから…」 桂守の頭の中にあることは、共に働いていた優雅の事。関西で情報を収集しているときに行方不明となり、そして、今、生きている事が解っている。しかし、自分が暮らしていたこの場所の事は記憶がない様子。 それほどまで激しい抗争に巻き込まれたのだろう…。 「桂守さん?」 時々深く考える桂守。それを気にして声を掛ける栄三。 「あっ、すみません」 「…優雅さんって方のことですか?」 「えぇ。何事もなく過ごしておればいいんですが…。私たちは表に出る事が できないじゃありませんか。だから、もしものことを考えると…」 「大丈夫ですよ。優雅さん、そういう方面にも詳しい方なんですよね?」 「そうですけど…」 「それなら、大丈夫でしょう? 信じてあげないと」 「栄三ちゃん…。…そうですね。いつもありがとうございます」 桂守の目は少し潤んでいた。 「はい」 健がハンカチを差し出した。 「ん? …ありがとうなぁ、健ちゃん」 桂守は、ハンカチで目を覆っていた。 ほのぼのとした雰囲気の中、健と和輝、そして、霧原が遊んでいた。栄三は、二人の代わりに仕事をしている。幼いながらも、自分たちの仕事を手伝える栄三を見つめて、桂守は、将来を期待していた。 隆栄さんより、凄腕かもしれない…と。 阿山組本部・ちさとの部屋。 慶人が慶造の周りを走り回っていた。 「ほぉら、捕まえたっ!」 慶造が慶人を抱き上げ、高い高いをする。 「きゃっきゃ!!」 嬉しそうにはしゃぐ慶人。 「パパぁ、もっと!!」 「…もっと? …しょうがないなぁ〜!!」 慶造は、慶人の期待に応えて、再び高い高いをする。そんな二人を優しい眼差しで見つめているちさと。 「あなたぁ〜、それ以上すると、疲れますよぉ」 「大丈夫だって。これくらいは、序の口……」 得体の知れない音が、小さく響き、慶造の動きが停まる。 「あなた?」 「パパ??」 「ん……腰が……」 「……あなたぁ〜っ!!!」 ちさとのベッドに俯せに寝ころぶ慶造。その慶造の腰を優しくさするちさとは、苦笑いしていた。 「まったくぅ〜、まだ若いんですよぉ。日頃の生活が悪いのかなぁ」 「そんなことないって」 「いいえ。あれだけで、腰を痛めるとは…。猪熊さんにもっと 鍛えてもらわないとねぇ、慶人」 「けいともぉ」 「…慶人は、まだ早いよ」 慶造と同じようにベッドに寝ころぶ慶人に、優しく言う慶造。 「パパ、だいじょうぶ?」 「大丈夫だよ。ママの魔法の手が痛みを和らげてくれるからね」 「うん。けいともする」 そう言って、慶人は、ちさとと同じように、慶造の腰を優しくさすり始める。 心地いい……。 「慶人、ありがとう…」 あまりの心地よさに慶造は眠り始めた。 「パパ、ねちゃった?」 「そうみたいね」 「おしごと、いそがしいから?」 「そうね。しずかにね」 「うん。…けいともねる」 「ぱぱのよこで、ねんねしてね」 「うん。おやすみ、ママ」 「お休み、慶人」 ちさとは、慶造と慶人に、そっと布団を掛け、慶人の頬に優しく唇を寄せた。慶人は目を瞑り、眠り始める。優しい眼差しで、眠る二人を見つめ、そして、ソファに腰を掛ける。 ふと目をやる棚には、慶造と慶人、そして、ちさとの三人が笑顔が輝く写真がある。ちさとは、それを手に取り、写真を撮った時の日を思い出していた。 「直前まで泣いていたっけ…」 慶人は、写真を撮るということで、嬉しさのあまり走り回り、そして、転んでしまったのだった。思いっきり泣いてしまった慶人を、慶造が一生懸命あやしていた。 慶造が寝返りを打つ。隣に寝ている慶人に気が付いたのか、そっと抱き寄せ、再び寝入ってしまった。 「本当に子供が好きなんですね、あなたも」 ドアがノックされた。 『山中です』 その声に、ちさとは、ドアを開ける。そこには、勝司が立ち、一礼する姿があった。 「お昼ですか?」 ちさとが優しく声を掛ける。 「はい。こちらにお持ち致しましょうか? 四代目もこちらとお聞きしましたが…」 「今、二人とも寝てるんだけど…。もう少し待つ事できますか?」 「温めるものなので、大丈夫です」 「一時間後にお願いしてよろしいですか?」 「かしこまりました。では、一時間後にお伺い致します」 「よろしくね」 「はっ」 ちさとは、部屋へ戻ってくる。 「ちさと、昼飯か?」 寝ぼけ眼で慶造が体を起こして言った。 「一時間後にしてもらったけど…。慶人が、寝たばっかりだし」 「そっか…………………」 慶造は、体を起こして、思い出す。 自分が腰を痛めたことを…。 無言になった慶造を見て、ちさとは、苦笑いしながら、かわいらしく言った。 「…馬鹿」 「はは…は……」 乾いた笑いをする慶造だった。 阿山組本部隣にある高級料亭・笹川。 勝司が厨房に顔を出す。 「すみません、一時間後にして欲しいとのことです」 奥から顔を出す笹崎。 「慶造さんと慶人くんが寝てるんだろ?」 「は、はい。その通りです」 勝司が伝える前に笹崎が応える。それには、勝司は驚いていた。 「なんとなく想像出来ただけだよ。勝司くん、先に頂くか?」 「いいえ、それは…」 「大丈夫だよ。その方が、動きやすいと思うよ」 「そうですか…。それでは、そのように致します」 「入っておいで。俺と一緒に食べようか」 「ありがとうございます。では、失礼します」 勝司は、笹崎に言われて、厨房の隅へと足を運ぶ。そして、そこで、笹崎と一緒に昼食を取り始めた。 「その……、ご子息は、その後…」 「ん? ゆっくりだが歩けるようになったよ。達也、勝司君に感謝してるよ」 「私にですか? 私は、何も…」 「歩くコツを教えてくれたんだろう? ちさと姐さんと一緒に見舞いに行った時に」 「は、はぁ…。その…亡くなった母のリハビリを看ておりましたので、 少しはお手伝いできるかと思いまして…」 「ありがとうな」 「はっ」 沈黙が続く。 「その後、慶造さんの下で働くという考えは、どうなった?」 笹崎は、静かに尋ねる。 「まだ、考えております。私には難しい感じがします」 「勝司くんの力量なら、安心だと思うけどなぁ」 「自分に自信はありません。ちさとさんのお側で働くのに精一杯です」 「子供に慣れないんだなぁ」 「はい…すみません…」 「慶人君も自分で何でもしたがる歳になったもんなぁ」 「そのようですね」 「修司くんは、春子さんと出かけたのかな」 「行き先から電話がありました。目一杯楽しんでいると」 「慶造さん、嬉しそうな表情をしていたろ?」 「はい。…その…どうして、そこまでお解りになるのですか?」 「これでも、慶造さんのお世話係だったと言っただろうが」 「そうでした。すみません…」 恐縮そうに首をすくめる勝司。その仕草が初々しく感じる笹崎は、微笑んでいた。 これが、あいつらみたいに、かなり変わるんだろうなぁ。 あいつら。 それは、笹崎が組長として生きていた頃に育て上げた若い衆たちのこと。そして、今、慶造の下で働くようになり、慶造に見込まれた組員たち…川原、飛鳥、松本のことだった。 笹崎組に居た頃は、初々しかった三人。 今ではすっかり、幹部としての貫禄が付き、川原と飛鳥は、若い組員たちを指導する立場となり、松本は関西へ進出し、得意分野の建設関係を主に仕事をし始めている。その先で知り合った女性と良い仲になっているとの噂も耳に入っていた。川原の親戚に当たる関西の川原組の組長にお世話になりながらも、一生懸命働いているらしい。 その情報は、川原から逐一伝えてもらっている。 すっかり、若い年齢で占められている阿山組。笹崎が現役だった頃の親分たちは、慶造によって足を洗わされ、一般市民として過ごしている。 慶造さんの夢…叶う日も近いかな…。 慶造の事を考える笹崎の表情は、とても和らいでいる。 「ごちそうさまでした」 勝司の声で現実に戻る笹崎。 「おかわりはいいのか?」 「はい。その…近くで待機しておきます」 「あまり親子水入らずを壊すなよ。慶造さんに怒られるぞ」 「そ、そうですね…」 「時間が余ってるのか?」 「はい」 「それなら、少しくらい料理を覚えるか?」 「そ、それは、その…お邪魔になるかと…」 「大丈夫だって。教えるのも私の仕事ですからね」 「しかし…」 「…ほっほぉ〜。そぉんなに、料理が嫌いか?」 笹崎が醸し出す雰囲気が一変する。 怒りのオーラが見える……。 「そ、それでは、少しだけ…お願いします…」 「ようし」 張り切る笹崎に、喜栄の声が掛かる。 「あんたぁ、そうやって、若い子を脅すのやめなさい」 「ん? 脅してないぞ」 「そう見えないんだから…あんたの仕草とオーラは…ねぇ、勝司さん」 「は、はぁ〜」 「ん〜??」 「あっ、いえ、なにも…お世話になります!!!」 笹崎の目つきにおののく勝司は、慌てて深々と頭を下げていた。 春樹は、大学の授業を終え、弟が通う幼稚園へと足を向ける。少し時間より早かった。それでも、弟の幼稚園での過ごし方を見たい春樹は、早足になる。 幼稚園の門番と挨拶を交わし、門をくぐり、教室へと向かっていく。廊下の窓から、中を覗く。 園児達は、仲良くお絵かきをしていた。 芯は…どこだぁ? あっ。……あらら…。 芯は、別の園児が持つクレヨンで顔を落書きされていた。嫌がる芯に、その園児は、悪戯っ子の雰囲気ありありと落書きを停めない。そこへ、芯の友達・航がやって来る。そして、園児のクレヨンを取り上げ、園児を叩いていた。 園児と航の喧嘩が始まった。 先生が慌てて駆け寄り、二人を引き離す。航が先生に叩いた原因を話している。園児は、プイッとそっぽを向いた。その仕草に航が怒ったのか、園児を蹴っていた。 園児は泣く。 それにつられて、芯も泣き出した。 ったく、泣き虫だなぁ、芯はぁ。 園児達のやり取りを見ていた春樹は微笑んでいた。 「あら、芯くんのお兄さん。こんにちは」 「園長先生。こんにちは。芯がお世話になってます」 「時間早いんじゃないの?」 「ちょっと様子を…」 「芯くんって、何をされても怒らないのよねぇ。だから、悪戯されるのよ。 だけどね、航くんが、いっつもあのように芯くんを助けてるの」 「そのようですね。見ていて楽しかったですよ」 「こちらで、何か飲みますか? まだまだ時間掛かりますよ」 「よろしいんですか?」 「えぇ。どうぞ」 「お世話になります」 春樹は園長先生と応接室へと歩いていった。 ソファに腰を掛ける春樹の前にお茶が差し出された。 「そうなの。お父さんの意志を継ぐのね」 「はい。新たに覚える事が多くて大変ですが、楽しいですね」 「立派な刑事さんになってね」 「まだ先ですよ。でも、親父には負けません」 親父より……奴らを抑えてやる…。 「それでかしら」 「はい?」 「芯くんがね、お兄ちゃんが刑事になるって、嬉しそうに話してるのは」 「いや、まだ、先なんですけど…」 芯のやつぅ〜。 「それでね、芯くんに将来の夢を聞いたのよ」 「はい」 「お兄ちゃんの意志を継ぐって。幼いながらも驚いたわぁ」 「私の意志?」 「先生になるって、芯くんに話していたでしょう?」 「えぇ。父が亡くなる前までは…」 「そのことを覚えているんでしょうね。先生になるって」 「…先生に…ですか…。それは、難しいでしょうね。だって、芯は泣き虫だから」 「園児の中では一番泣き虫ですね。でも、それは、弱いからじゃなくて、 優しいからですよ」 「優しい…ですか…」 「人の痛みが解るんでしょうね。大人の私たちでも難しいことなのに」 「先生に…向いてるのかな…」 「あらぁ、兄馬鹿ぁ」 「………園長先生ぃ〜」 園長先生の言い方に、少しムッとする春樹だった。 園児達が帰る用意を始める時間となった。春樹は、園長先生にお礼を言って、芯の居る教室へと向かっていった。 廊下の窓に見えた春樹の姿に、芯は大喜びをして、叫ぶ。 「にいちゃぁん!!」 呼ばれた春樹は、窓越しに手を振った。教室から飛び出すように駆けてくる芯を、春樹は軽々と受け止め抱き上げる。 「良い子にしてたか?」 そう言いながら、芯の頬にチュウをする春樹。 「うん!」 「泣かなかったか?」 芯は首を横に振る。 「何かされたのか?」 「わたるくんがけんかしたの…」 言いにくそうに芯が言った。 さっきのあれか…。 「それで、どうなったの?」 「せんせいにおこられた…。しんがわるいの…」 「芯が悪いことしたのか?」 芯は首を横に振り、春樹の肩に顔を埋めた。 「ごめんなさい」 ……芯は悪くないんだけどなぁ〜。何か間違ってるぞぉ。 「よしよし。良い子だったんだろう?」 春樹の肩で芯は頷く。 「それなら、芯は悪くないと思うけどなぁ」 「ほんと?」 「本当だよ」 春樹の言葉で芯は嬉しそうに微笑む。 輝く笑顔…。 春樹は、思わず芯を抱きしめる。 「かわいいぃなぁ、芯はぁ〜〜………あっ…」 春樹と芯のやり取りを、迎えに来た他の園児の家族、そして、先生、園長先生が見ていた。 「ど、どうも…こんにちは…」 「こんにちは」 「では、お先に失礼します」 春樹は、芯を抱きかかえたまま、先生たちに一礼して、幼稚園を出て行った。 「流石、兄馬鹿と言われる程ですね、園長先生」 芯の担任の先生が、しみじみと言った。 「不思議よねぇ。芯くんの側に居る時の雰囲気と、一人で街の中を 歩いているときの雰囲気は、まるで正反対なんだからぁ。 一体、どっちがお兄さんなんでしょうね」 「どちらも芯くんのお兄さんですよ」 「芯くんの前の姿のままで居て欲しいわね」 園長先生は、春樹の何かに気が付いていた。 春樹の心に秘めたものを悟ったのだろうか……。 春樹と芯は、手を繋いで歩いていた。 向かう先は、母の入院先。 「ねぇ、おにいちゃん」 「ん?」 「ママにおみやげ」 「お土産ねぇ。じゃぁ、店で芯が選ぶか?」 「うん!!」 芯の張り切りように、春樹の心は、和んでいた。 幼い子の無邪気な表情。 それが、あの事件と共に失われてしまうとは、この時、春樹は思いもしなかった。 (2004.3.16 第二部 第十四話 UP) Next story (第二部 第十五話) |